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熱こもる広島市民の取り組み
広島市民原爆展主催者会議
              賛同協力200人被爆資料提供相次ぐ 2004年6月22日付
 
 「原爆と峠三吉の詩」広島市民原爆展の主催者会議が18日午後2時から、広島市東区のふたば公民館で開催された。会議には原爆展を成功させる広島の会の被爆者を中心に、下関原爆被害者の会や下関原爆展事務局のメンバーなど25人が参加。昨年の福屋デパートでの市民原爆展とその後の呉や、廿日市、江波地区などでの1年をつうじた地域原爆展への市民の熱い共感と支持、被爆体験を語りつぐ活動がすすんだことへの深い確信に満ちた思いが語りあわれ、残されたものの使命として幾十万の犠牲者の声なき声をどう若い世代に語りつぐか、市民原爆展のとりくみをめぐりさまざまな角度から熱のこもった論議となり、全市民的なとりくみとして原爆展を成功させるためにさらに奮斗しあうことを確認した。

 「市民提供の資料コーナー」も準備
 はじめに広島の会の重力敬三代表世話人があいさつ。「戦後、平和で豊かな社会を建設するために8月を節目に平和の運動を展開してきたが、いっこうに核兵器はなくなっていない」と指摘。そのようななかで、「旧日銀原爆展、福屋での市民原爆展によって広島の面目を一新し、今年はさらに原爆展全国キャラバン隊が全国をかけめぐっていてたいへん喜んでいる」とのべ、メルパルクに一人でも多くの人に参観してもらいたいとのべた。
 共催する下関原爆被害者の会の伊東秀夫会長は、昨年の福屋市民原爆展に感動したことをのべ、今年は下関でも第五回原爆展を福田正義記念館で開催することを報告。「イラク戦争に自衛隊が参戦するなかで、被爆者のほんとうの思いを知ってもらい、平和で豊かな社会になってほしい」と訴えた。
 その後、実務面での準備を担当してきた下関原爆展事務局の杉山真一事務局長が、この間の経過を報告した。杉山氏は、今年の市民原爆展の賛同・協力者がすでに200人にのぼり、昨年に倍する勢いで広がっており、それも被爆者を中心に各界各層の多数の市民が協力していることを紹介。原爆展では「原爆と峠三吉の詩」(A1判パネル)と峠三吉関係資料とともに、「原子雲の下より」、原爆の子の像建造運動、原爆展全国キャラバン隊、小中高生平和の会、広島の子どもたちの感想文なども展示すること、さらに、被爆写真家・松重美人氏提供の写真展示や戦前の広島市内地図の展示コーナーをもうける構想を明らかにした。
 また、原爆展を成功させるためにチラシとポスターによる大量の宣伝をおこない、町内会、婦人会、学校、商工会、商店街、企業、農協、郵便局、旅館など広範囲に協力を訴えること、また「原子雲の下より」「原爆の子」の関係者、慰霊碑の関係者に働きかけ、資料提供の協力も訴えていく方向を提案した。
 広島の会の犬塚善五事務局長は賛同者の広がりの特徴について、「福屋デパートでの市民原爆展開催は圧倒的多数の市民に共感され、市内の様相はここ数年の状況とは一変している」こと、具体的には多くの被爆者をはじめ、町内会、老人会、商店街組合や峠三吉の親族・ゆかりの人人、その他各界の多数の市民が賛同していることを明らかにした。さらに、多くの被爆市民からの資料の提供があいついでいること、原爆被災現場撮影者の松重美人氏から写真が提供されることになり、戦前の広島、被爆後の広島の写真も展示できる予定であることを報告。また原爆慰霊碑を建立する広瀬学区の社会福祉協議会をつうじて、8月3日の除幕式でパネルを展示してほしいと依頼があったことも紹介した。
 また、展示構想では、松重氏からの写真の提供があることもふくめ、「広島被爆市民提供の資料コーナー」をつくる構想も明らかにされた。
 
 地域の立上りが確信に 活発に論議交わす
 出席者は、福屋原爆展につづく地域原爆展の様子や子どもたちに体験を語る活動をすすめるなかでの思いを出しあうなかで、活発に論議をかわした。
 昨年の福屋ではじめて語り、江波原爆展の中心を担ってきた真木淳治氏は、「江波では地元の被爆者が多数協力してくれた」と、地元の人人の立ち上がりを感動をこめて紹介、「江波に住んで50年になるのに、なにも役に立ってこなかったが、“地元で原爆展をやっていただきありがとうございました”と感謝され、またがんばらないといけないという気持ちになった。市民原爆展でも江波でやったように広くアピールし、意識を盛り上げていきたい」と語った。真木氏はまた、原爆展のとりくみのなかで、江波小学校で体験を語るようになったこと、子どもから出された要望として「原爆で江波はどうなったのか、具体的に話してほしい」といわれたことを明らかにし、「江波の具体的なことを話すことで原爆のこともわかってもらえるのではないか」とのべた。
 犬塚氏も、連続してとりくんできた地域原爆展の影響が広がるなかで、学校で被爆者が体験を語る行事がふえはじめたこと、「呉では原爆展の反響として、青山中学校に10人の被爆者が行って語るようになった」ことを報告。最近体験を語りはじめた婦人被爆者からも「2年連続で子どもたちに話しているが感想が来るのを楽しみにしている」(五日市在住)など、体験を子どもたちがまじめに受けとめていることへの喜びが語られた。
 修学旅行の子どもたちに体験を語った高橋栄子氏は、「子どもたちは1言ももらさず聞いているんです」と感動をこめて語り、子どもたちから届いた感想文をみんなに紹介して回した。
 府中町の田中武司氏は、広島では原爆が観光化し、「原爆が見せ物」になっている状況があることへの複雑な心境を語り、「現実にこの広島が60年まえに焼け野原になったことを“見せ物”としてでなく、どうやったらいまの人たちに理解してもらえるのかと、試行錯誤しながら語っている」とのべた。これを契機に、筆舌に尽くせぬ被爆者の体験をどのように次代に語りつぐのかという問題をめぐって、「雑魚場町で疎開作業中に被爆し、友だちはほとんど死んでいる。自分は貴重品になっている。友だちのためにも語りたい」(廿日市在住、男性)、「現実を見ると聞くでは大違いで、被爆者にとってはどんな写真でももの足らないという思いはあるが、それをどのように表現していくかだと思う」(仁保在住、男性)などの発言がつづいた。
 旭町在住の爆心地近くで被爆した70代の男性は、「自分の体験は最初から最後までビルの中の出来事でドラマはない。相手にどれほど伝わっているかわからないが、自分としてはうまい話より、実情を知ってもらうことだと思っている」とのべた。また、修学旅行生に体験を語っている被爆者からは「広島に来るのは観光もあるが、なかには平和教育として問題意識を持って来る学校もある。平和教育として熱心にとりくむかどうか、先生によって、子どもたちの態度も違ってくる」などの意見も出された。
 下関原爆被害者の会の吉本幸子氏は、下関で子どもたちに語ってきた体験、とくに最近の平和教室で子どもたち、その父兄が一生懸命聞いてくれた体験をふまえ、「被爆当時の状況をそのまま理解してもらうのはむりだが、わたしたちが戦後五九年間どんな思いで生きてきたか、また両親や肉親を亡くした孤児たちの思い、捨てることのできない傷をかかえ生きてきた話などを伝えていくことではないかと思う」と語った。
 また、下関の事務局から「平和教室で被爆者の方に語ってもらっているが、1人の人の被爆体験は同じだが、その語る思いは深いものになっている」とのべ、子どもたちもそのような思いを学びに200人で平和の旅を組織し、市民原爆展に参加することを紹介した。
 こうした討議をふまえて田中氏は、資料館のガイドの話を聞いたときに、「黒い雨の説明をしていたが、ただ黒い雨が降っただけを話していた。そこには放射能のことも、なんの感情も感動もない。観光だけになっている」と指摘、広島市民原爆展では、被爆したもののほんとうの思いを伝えていきたいことを明らかにした。

 展示内容や宣伝も工夫
 市民原爆展の展示内容や宣伝をどのようなものにするかをめぐっても、活発な論議となった。
 西区の主婦(60代)は、義兄の遺品を福屋原爆展の資料として提供したことからはじまり、1年をつうじて多くの被爆者の体験を聞くなかでこれまで学べなかった多くのことを学んだこと、「原爆にあっていないものにとっては、どこかのよその話を聞くよりも身近な広島の写真や話をしてもらった方がわかりやすい。広島のことをもっと知りたい」とのべ、チラシ・ポスターの図案もさらに工夫していくことが討議された。大野町の被爆者・竹村伸生氏は、「被爆資料を提供してくれた先輩が賛同者に入っていないので、さっそく訴えてみたい」と語った。
 昭和18年まで原爆ドーム側の郵便局で働いていたという大下ユキミ氏は、いま平和公園になっている中島町の町なみや繁華街をよく覚えており、そこでたくさんの同僚が亡くなったこと、同僚の手記を読んで涙が止まらなかったことをせつせつと語り、「あの爆心地近くがどのような町なみでそれが原爆によってどのように破壊されたか、戦前の写真などがあれば子どもたちにわかりやすいのではないか」とのべ、「受付などでがんばりたい」と意欲を語った。
 
    「原爆と峠三吉の詩」広島市民原爆展の開催日時、会場はつぎのとおり。
      日時 7月27日(火)から8月8日(日)午前10時から午後7時
           (5日、6日は午前9時から午後9時まで)
      会場 メルパルクHIROSHIMA3階ギャラリー(中区基町)

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