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「邦人の命」語る資格ない政府
東北現地取材
            いまだ棄民状態の福島   2015年3月4日付

 震災から4年がたちながら、被災地では22万9000人が避難生活を余儀なくされている。この間、民主党政府から自民党の安倍政府に切り替わったなかで、「福島は完全にコントロールされている」などといって為政者はオリンピック招致にうつつを抜かし、被災地から建設資材や作業員が東京に流出し始めるなど、いつまでたっても復興にたどりつけないデタラメな状況がもたらされてきた。福島第一原発の爆発事故によって甚大な被害を受けた福島では、事故後から国の指示によって「帰還困難区域」「居住制限区域」などの制限が加わり、住民は強制的に故郷を追われた。家族や集落の仲間はちりぢりになり、福島県内では2万4000人もの人人が仮設住宅で避難生活を送っている。最近になって国は警戒区域を解除し「帰還」させる動きを加速させているが、今度は帰ったところで病院も商店もなく、地域コミュニティーが崩壊して生活などできないことが問題になっている。「帰還」は被災者への助成打ち切りを意味しており、国としての責任を放り投げるものでしかない。「出ていけ」といって追い出し、住民を排除して復興を阻害しただけでなく、その生活基盤が復活しないうちから無慈悲な切り捨てをやろうというのである。
 
 ろくでもない国策の姿を暴露

 福島県内のある仮設住宅には飯舘村民が暮らす仮設住宅がある。全村避難となって以降、長引く仮設暮らしに嫌気がさして、子どもがいる若い夫婦は帰還をあきらめ、よそに生活を求めて出て行った。そのため、仮設で暮らす7割が70歳以上の高齢者だ。3世代で一緒に暮らしてきた家族がバラバラになり、親しかった集落でまとまることもできない。仮設住宅ごとに自治会がつくられ、集会所に集まって話したり、体操したり、全国から訪れるボランティアと交流したり、お互いの健康を気遣いながら励ましあって生活している。
 男性の1人は当時のことを振り返り、いかに突然故郷を追い立てられたかを語った。「地震で電気もこないからテレビもつかなかった。そんなに線量が上がっているとは知らずに、飯舘では避難してきた人を受け入れていた。体育館でコメを炊いて炊き出しもして、そんなことをしているうちに親戚から“もう飯舘は駄目だ! 逃げろ!”と電話がかかってきた」といった。みなが無我夢中で逃げ出し、県外まで逃げた人もいた。直後に飯舘村は「計画的避難区域」に指定され、戻ることができなくなり、親戚や公民館やホテルを転転として仮設住宅に入ったのだった。
 あれから四年の歳月が過ぎた。最初はみなが帰還を心待ちにしながら慣れない仮設生活に耐えてきたが、一時帰宅のさいに住民が目にする村や自宅は時間がたつほど荒廃して、帰還意欲も消えていきつつある。村民の衰弱が加速し、最近では1カ月に10人のペースで亡くなっている。うつやノイローゼのような症状になった高齢者も多い。先が見えない仮設暮らしという拷問のような状態から抜け出せたのはパワーがある現役世代くらいで、残されたのは行き場のない年寄りばかりだった。住み慣れた故郷に戻って細細と農業することを夢見たり、かつての生業をとり戻して地域のみんなで暮らせることを願ってきたが、棺桶に入るのが先か、故郷に戻るのが先かわからないような状態だ。
 いくら待っても「除染」は終わらない。農地汚染で農業収入も見込めないなかで村は1昨年、農地を発電に利用していく方向に舵を切り、花塚山にメガソーラーを建設中だ。また環境省は飯舘村の小宮地区で焼却施設を建設・稼働させ、今年の秋から蕨平に新たに焼却施設を建設する。飯舘村と福島市、相馬市、南相馬市、伊達市、国見町、川俣町の除染の廃棄物を処理し、焼却した灰を保管する仮設資材化施設の建設も進めている。これらの国の事業に対して、農業収入がない農家は農地提供を受け入れるしかなかった。その金額はコメを作るよりも高額な一反当たり18万円。住民によると、廃棄物は山に置く計画があったものの、広くて平らなまとまった土地の方が好都合であるため農地が選ばれたという。3年間の処理後は原状復旧させるといわれているものの、このまま放置し続けた場合、それが3年で終わる保証など何もない。
 村は当初から「帰還」を掲げ、そのための避難解除目標を平成28年3月としてきた。あと1年となった現在、飯舘村はどう考えても人人が戻って生活できる環境ではない。住民意向調査では「すぐにでも帰りたい」「しばらくしたら帰りたい」という人が五割に上っている。しかし農業もできないなかで、帰還した1年後には東電の補償も打ち切りとなる。
 昨年3月の大雪でつぶれかかった家も多くある。住居は人が住まないことで外気と触れる機会が限られ、湿気が充満してカビが生えるなど老朽化したり、動物に侵入されて荒らされたり、水道管が破裂したり痛んでいる。村内1200軒のうち500軒が解体の要望を出しているといい、住宅再建だけでも容易ではない。
 もともと岩盤が固く地震そのものの影響は小さかった。津波にも襲われていない。しかし原発事故からの避難で四年放置したことによって、戻ることすら困難な状態となった。「出ていけ」と指示した国は故郷を元に戻すような責任を負わず、人人を棄民状態において「帰還」などといっているのである。

 福島県飯舘村 除染で儲かるゼネコン

 飯舘村の除染について、住宅除染は九割が終わったとされている。しかし農地の除染となると進捗率は2割に満たない。除染どころか廃棄物を農地に並べている。「あれ(廃棄物)をはかるとけっこう高いんだ」と農家は指摘していた。住宅除染が終わったとしても、広大な土地や山の除染が終わらず、「住宅や敷地だけ除染しても意味がない」と語られている。民家の裏山の除染は下から10bと決められている。しかし、木の葉も雨水も上から下に落ちてくるもので、「下から10b」の意味が不明である。みながその意味のなさを指摘しているにもかかわらず、1軒あたり何千万円もかけた除染が延延とおこなわれ、それが「終わらない」のでいつまでも帰れない。何千万円もかけるなら新築をつくった方が早いのに、ゼネコンに手っ取り早い利潤を与えることが優先して、効果的な措置が講じられない。除染ビジネスで大手ゼネコンがつかみ取り大会を楽しんだだけだった。誰のための除染作業なのか。住民は4年間なにを待って四畳半の仮設住宅に押し込められ、故郷に帰れない状態が続いているのか、考えないわけにはいかない。
 避難した直後は村民のなかには故郷に再び戻ってきた人もいた。放射能の恐ろしさはあるものの、避難した先先で気を使い、くたびれ果てて「帰るところはここしかない…」という心境だった。震災の年に、飯舘村の人人は「愛するふるさとを還せ」と東電に怒りをぶつけた。しかし帰ることが許されないまま4年がたち、帰りたくても「帰れない」地域になってしまった。ある男性は、「戦争があっても田舎には年寄りと子どもが残った。地震だけならものをつくって食っていくことができたのに、福島のものは要らないといわれる。村そのものが爆発させられたようなもので、一人残らずいなくなった。戦争当時より今のほうがずっとひどい」と語った。国策が住民生活を破壊し尽くした結果が、今の飯舘村だ。

 福島県浪江町 大きすぎる原発の代償

 同じく計画的避難区域にあたる浪江町でも現在全町避難となっている。浪江町では、原発爆発後、大熊町民も双葉町民もとっくに全町避難したあとになって知らされ、みなが「自主避難」のようにばらばらになって逃げた。「一番下手な逃げ方をしたのが浪江だった」と語られている。県内の仮設住宅を訪ねると、子どもから現役世代、老人まで93戸が生活していた。
 仮設で暮らすある女性は、震災前は浪江町で夫婦と息子で漁師をしていたが、津波で船も道具も流され、原発事故で町を飛び出した。避難が続くなかで漁師だった息子は子どもの体を心配し、定住先を都会に決めてサラリーマンになった。女性も一緒に暮らそうと誘われたが断り、一大決心して浪江に帰ることを決めた。「家族と一緒に暮らせないことはさびしいね…」と涙をのんで、「でも私は生まれ育った浪江に帰る。浪江ではやっと三月中旬から除染が始まる。帰るというとみんな驚くけど、帰るところは浪江しかない。海では漁はできないが夫と細細と暮らしていこうと思っている。町からは線量計も配られており、一時期過敏になっていたがもうそんなものは見ない。地面の草とりをして、安全な福島の野菜を食べて生きていく。次に爆発が起きてももう逃げない」「モルモットになるのかどうかは知らないが、この世を引き継ぐためにも帰るしかない。帰っても前は見えないが、腰をおろしてみるつもりだ」と強く決意するように語っていた。
 帰還を決めた人、町から出ることを決めた人、いまだに仮設で暮らしながら先を見いだせない人人など、それぞれが厳しい状態に置かれ、その判断も分かれる。農家の婦人は、「こういう思いは私たちだけで充分。もうたくさんだ。全国の人人に同じ経験はしてほしくない。たしかに原発を職にしてきた人もいたが、あまりにも代償は大きかった」と語っていた。浪江の街中は津波の後のまま、人の手は入っていない。逃げ出した農家のブタが野生のイノシシと交配し産まれた「イノブタ」が町を闊歩している。

 若い世代は流出 復興遅らす作業員不足

 復興を遅らせているのが労働力の不足だ。「復興バブル」で地震・津波からの復旧作業だけでなく、1日6000人をこえる原発作業員に加えて、20`圏内だけで3000人の除染作業員がいる。南相馬市では毎日大型ダンプが何十台と行き交い、朝は大渋滞、昼時や夕方はコンビニや外食チェーンなどは全国から集まった作業員であふれる。アパートは建てた端から売れるので、住宅メーカーや車販売業者が色めき立っている。しかし一方で現地には労働力がなく、原発災害によって若い世代が流出して働き手がおらず、牛丼チェーン・すき家の夜間のバイトの時給が1500円まで上がっていることも話題になっている。
 「驚くだろうが、そうでもしないと働き手がないんだ」といわれていた。医療機関にも人手が集まらず、病棟も3分の1しかあけられない。福島県内の急性期総合病院では、一定の入院期間が過ぎて、患者の次の行き先を決めようにも療養型病院も介護老人保健施設も看護師、介護士が不足して入れず、在宅介護にしてもヘルパーがいない。医療機関同士の連携が確立できない実情が語られていた。
 南相馬では、「このバブルが過ぎれば南相馬はさらに悲惨な状態に陥る」と危機感が語られていた。高齢者ばかりの町になることで財政が逼迫し、「そのうち市町村合併に追い立てられるのではないか」と語られていた。また、今農地の除染にかかわっている作業員のなかには県外の農家もおり、農閑期を利用して除染に来ていること、3月が過ぎて農繁期になるといなくなってしまうことも指摘されていた。片手間の労働力しか確保できず、むしろ震災直後にあれほど押しかけていた全国の土木作業員は東京オリンピックの準備に奪われ、被災地は二の次、三の次に回されていることへの怒りも語られていた。
 「福島は完全にコントロールされている」どころか、被災地はみな完全に放置されている。そのもとで人人は棄民状態に晒されている。「邦人の命を守る」どころか、邦人である被災者は何人もが自殺に追い込まれたり、悲しい最後を遂げる人人が後を絶たないが、政治に国民を「守る」意志がまるでない。国策によって原発を建設し、事故後も国策によって追い出し、何ら故郷に戻れるような政策を講じない政府への怒りが極点に達している。

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