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盛大に福田記念館開館祝賀会
全国から300人平和の推進者輩出の砦 2004年7月6日付 |

福田正義記念館開館祝賀会が4日、山口県下関市田中町の同記念館2階、3階を会場にして開催された。祝賀会には福田正義主幹の親族をはじめ、ゆかりの人人、長周新聞の読者支持者、福田主幹の戦前、戦後の活動地域である田中町、唐戸地域のご近所の人人、下関原爆被害者の会の被爆者たちや戦争体験者、下関の経済界、文化界をはじめ各界の人人、小・中・高校生などの若い世代、在日朝鮮人、また広島の50年8・6斗争のかかわりの人人や、労働、教育、文化など各戦線、分野の活動者など約300人が参加した。山口県内はもとより神奈川県、愛知県、富山県、大阪府、京都府、兵庫県、岡山県、広島県、福岡県、沖縄県など遠方からはるばる足を運びともに祝賀した。 はじめに呼びかけ人を代表して頴原俊一氏(武久病院)があいさつにたった。頴原氏は「福田さんとお会いして以後ずっといろいろとご指導いただいた。われわれは福田さんの意志をついでおおいにがんばっていかなければならない。この会館をいかに活用していくかということが、福田さんにたいする大きな恩返しではないかと思う。できるかぎりのことを微力ながらいたしたい」とのべた。
つづいて主催者あいさつにたった福田正義顕彰会会長の黒川謙治氏は、「福田さんを顕彰することは、幾千万大衆のたたかいの歴史を顕彰することだ。福田さんの事業全体を継承して、平和で豊かな日本を建設していく推進力が結集されていくようにしなければならないと考える。顕彰会活動をさらに大衆的基盤を持ったものとして発展させていきたい」と抱負をのべた。
福田正義記念館館長の福田槐治氏は、「“人民に奉仕する”を信条とした福田正義の思想と路線を継承して、日本社会の進歩と人民解放に役立つものにすること、つぎの世代が新しい社会の展望を見出すことに役立つことだ」と建設の意義を強調。記念館を担当するものとして奮斗する決意を語った。
長周新聞社を代表して報告にたった森谷浩章編集長は、福田主幹の逝去から2年半のあいだに福田主幹著作集13冊の出版と全国1000図書館への寄贈がおこなわれ、つづいて記念館開館まできた運動を報告。ゆかりの人人や、読者、支持者の人人の力によることをのべ深く敬意を表した。また長周新聞社が記念館1階に本社を置いたことを明らかにした。
「幾千万大衆とともに戦争にたちむかい、独立、民主、平和、繁栄の日本を実現する福田主幹の路線の継承者を送り出していくこと、そのような大衆的な運動にするために事業主体として長周新聞社が責任を負うことになる。主幹がやってきた過去の事業を現在から未来に生かすことが生命であり、現在の人民大衆の役に立つことがもっとも重要な課題だ」と来年の創刊50周年を期して新聞活動の大飛躍の決意をのべた。
北九州市の会社役員吉村慶元氏が乾杯の音頭をとったのち、和やかな雰囲気で食事と団らんがつづき、各界からの発言に移った。喜びに満ちた参加者と発言者の自由な意見によって会場は熱気にあふれた。
メイン会場となった2階ではテレビモニターをつうじて3階会場の様子が映し出され、3階会場には大型スクリーンで2階会場の発言者の表情や参加者の様子が画像によって伝えられた。さらに2階の礒永コーナー、ゆかりの人人のコーナーにもモニターテレビが映された。
熱がこもるゆかりの人 各界から自由に発言
福田主幹と古くから交友のある大新館会長の高田美智子氏は、「いま一番問われているのは日本国民の家族の崩壊ではないか。親が子どもを育てる“つとめ”を共同の場で相談し、輪を広げていきましょう。記念館は昔の映画も見られるし、ゆっくりと考えなおしてゆきましょう」と呼びかけた。
本行寺の藤井日正住職は、「軍国主義に育ったわたしたち青少年は、日本のためにいずれは特攻隊になって突っこんでいけという教育を受けて、敗戦のなんともいえない思いをした。一握りの資本家、軍部が戦争を起こすようなことが絶対にないように、長周新聞、福田記念館を拠点としてたたかっておられる。社会正義のためにたたかっている新聞は長周新聞しかない。いまから若い人ががんばってください」と熱情をこめてあいさつした。
唐戸商店会会長の浜田泰宣氏は「“人民に奉仕する”の言葉は、小売りを業とするものとしてまったく同感だ。地域社会貢献のためにこの会館が情報発信の源としてますます発展し、ご尽力されることをお願いします」と祝いの言葉をのべた。
その後、奥野三男氏から寄せられたメッセージが読み上げられた。「福田正義が昇天の世界からふたたび人間の世界に魂を復活させた記念の日に思える。福田正義の信念、不屈の魂は復活をはたし、この会館を訪れる人たちの魂に深い感銘をおよぼし、すばらしい結果になると確信する」と力強い言葉を送った。
戦前の下関で福田主幹らが発行した文芸雑誌『展望』に参加した故福池伊佐雄氏の夫人である原田タカエ氏は、「みなさまの力を借りて長周新聞の発展と、福田正義記念館がいつまでも発展すること、ご健斗をお祈りしたい」と語った。
金子みすゞと同郷・仙崎の出身で戦前から田中町に居住する田嶋ヨシ子氏は、「戦災にあってなにもなくなって、今日やっと田中町で米屋をやっています。みなさんどうぞお元気でお過ごしください」と満面の笑みであいさつした。
大連日日新聞で福田主幹とともに活動し戦後満日会の世話をしていた林利三郎氏の夫人、林敏氏は神戸市から参加。「第2の召集で暗い気持ちでいたとき、福田さんから“この戦争はもう長いことがないから、犬死にはするなよ”といわれたことを聞きました。これからの若い人に、戦争のない平和な時代をお送りするよう願っている」とのべた。
終戦後占領軍斗争当時、下関職安に勤めていた増田卓二氏は、「福田主幹を支えてこられた人はなんといっても光子夫人だと思う」とのべ、昭和二五年時期、進駐軍労働組合の執行委員長をやっていた福田主幹の指導のもとで大規模な斗争がくり広げられていたこと、「奥さんはどんな苦しいときも切りぬけ、福田さんを助けてきた」と語った。
広島から参加した原爆詩人峠三吉の親族である下田禮子氏は、「記念館で峠三吉の資料をたくさん出していただいたことに感謝している。広島では埋もれていたのを熱心にとり上げていただいて全国に持って回っていただいてありがたい。これで峠も報われます」と感謝をのべた。
劇団はぐるま座の林賀一氏は「人民大衆のための芸術実践と結びつけていきたい」と決意を表明した。
在日朝鮮人山口県教育会顧問の金正三氏は、朝鮮人学校の認可問題で福田主幹や頴原氏などに県庁や県知事のところへ連れて行ってもらい、ともに運動したことを紹介。「福田さんが一生懸命にやってこられて、長周新聞さんがどのぐらい働いてきたことか。ありがたいと思い尊敬している」と話した。
下関原爆被害者の会の伊東秀夫会長は、「つねに庶民の目線で筆をとられ、幾千万大衆とともに生涯をつくされたことに深い感銘を受けている。記念館は平和で明るく豊かな社会を築いていくためにはどうしたらよいか学ぶことができる場所です」といい、もっと多くの人人に見てもらう努力をしたいと語った。
福岡県宗像市から参加した画家の桑原嗣子氏は、「癒し」と称した商業主義文化ではなく、「福田正義記念館の門をたたき、福田さんの展望台に登ろうと思います」とのべた。
つづいて発言した下関原爆被害者の会顧問の吉本幸子氏は、開館以来役員会で何度も研修室を利用していることを語り、「福田さんの信条である、他人にたいする思いやり、優しさのこもった、そういうあたたかい風が流れているところだという感じを持ちました」と感想を語った。
北九州市で小学校教師をしている肥後容子氏は、平和教室で子どもといっしょに記念館に訪れて、チャップリン映画を見たり、被爆体験を聞く活動に利用したことを報告。
豊北町の小倉竹夫氏から寄せられたメッセージが代読されたのち、各地から参加した活動者の発言に移った。
福田顕彰で歴史つなぐ 若い世代も力こめ決意
山口市在住で自治体労働者の運動に長くかかわってきた池田義雄氏、岩国市から参加した森脇政保氏、宇部市から参加した新垣博氏、民主主義と生活を守る下関市民の会の兵頭典将氏らが連続して発言にたった。
池田氏はこの間記念館を訪れて長周新聞バックナンバーや展示を見て学んだことを発言。とりわけ全国の先頭に立ってたたかわれた60年「安保」斗争の新聞キャンペーンを学ぶなかで「福田主幹の路線でいくと勝てるという確信と展望がわいてくる」と語った。
富山県から参加した藤本収三氏は「記念館は現代の奇兵隊をきたえ、輩出する砦だ。スローガンは反米愛国だ。富山にもその出城を築く役目を担わなければと思う」と社会を変革していく意気ごみをのべた。
神奈川県川崎市の医師である柳田明氏は、「終戦の年に生まれた同世代は生まれてみたら焼け野原で、気づいたらこういう日本になっていた。親が戦斗機で死んだり、満州から引き揚げて死んだり、母子家庭だったり……。それはどうしてなのかを教える巻物を求めていた。記念館にはそれがつまっている。いまの若者もわたしたちと同じような経験をしているし求めている。そのような人人に伝えていけるかどうかだ」と語った。
劇団はぐるま座の青年団員である岡本太一氏は、原爆展全国キャラバン隊で街頭原爆展を展開してきたことを報告。「1950年8・6平和斗争や山口県でその伝統が生きていることに関心が集まっている。これから全国に影響が広がっていくなかで記念館はその原点が学べる場として大きな意味がある」とのべた。
日本共産党(左派)の森脇保氏は、「福田記念館は、独立、民主、平和、繁栄の日本をうち立てていくための学習の宝庫。実践と結びつけて学習をすすめていきたい。これからの日本を背負う若者たちが輩出していけるようがんばっていきたい」とのべ、祝いの言葉とした。
最後に福田正義主幹の家族を代表して、福田光子夫人と長女の高宗莉恵氏があいさつにたった。光子夫人は「福田のいろんな思い出を語ってもらったりして、ほんとうにありがとうございます。わたしも福田の意向をついで、いまからも長周新聞でがんばっていきたいと思います」と礼をのべた。高宗氏は「文化、歴史、平和の砦として多くの人人に利用されることは父もわたしたち家族も喜びとしている」と語った。
参加者300人の開館を祝賀する熱気につつまれ閉会した。その後、参加者は一階の長周新聞社社屋を見学したり、記念館をゆっくり見るなどした。
福田正義顕彰会会長挨拶 黒川謙治
福田記念館は、各界の多くの人人からの建設拠金と資料提供によって、完成し、5月16日に開館した。建設拠金は1000人以上の人人の協力で目標の3000万円を突破し、資料提供は、写真、地図、新聞、書籍など多岐にわたり、図書資料だけでも5000点におよび、いまも寄贈があいついでいる。記念館はまさに大衆自身の事業として建設され、大衆自身の事業として福田さんの事業を恒常的に顕彰する拠点となっている。
記念館は、福田さんの全生涯とその業績を紹介する展示・資料を中心に、ともに活動された各分野の人人の活動、事業について顕彰するものとなっており、その内容は文化・芸術、平和運動、労働運動、教育、国際連帯などの各分野、峠三吉と50年8・6平和斗争、朝鮮人運動や児童画教育、道岡香雲氏の書、下関の歴史、小津安二郎やチャップリンの映画などあらゆる分野にわたっている。
開館以後、記念館の近所の方をはじめ、全国からも多くの人人が足を運ばれ、福田さんの業績や多彩な展示にふれ、自分の人生と重ねあわせ、感動を新たにしている。参観者の方はこの記念館を、「人民に奉仕する」を信条とされた福田さんの遺志を受けつぎ顕彰する人民の貴重な財産・「心の古里」であり、ふたたび戦争にむかう今日の殺伐とした時代のなかで、「砂漠にあらわれたオアシス」だといっている。
福田さんを顕彰することは、ともに歩んだゆかりの人人をはじめ、幾千万人民大衆のたたかいの歴史を顕彰することだ。それは、福田さんのすべてを支持するものだけが集まるという狭いものではなく、各界の人人が気楽に訪れる間口の広いものにし、そこからさらにすすんで福田さんの事業全体を継承して、平和で豊かな日本を建設していく推進力が結集されていくようにしなければならないと考えている。
福田顕彰会は、こうした人民の歴史を顕彰する福田記念館と福田顕彰運動を大衆自身の運動としてすすめる大衆的な組織母体だ。
顕彰会は、記念館建設の目的にそった活動を展開できるようにするため、開館から1カ月半にわたって、できるだけ多くの人人に記念館を見ていただき、その反響、意見を聞きながら運動の方向を考えていくことにした。きょうの祝賀会は、みんなで福田記念館をどのように活用するのか論議をすすめ、意見を集約して福田記念館をさらに充実させ、顕彰運動を飛躍・発展させる出発点とするために開催した。
顕彰会は、今後みなさん方の意見にもとづいて、記念館を拠点とした顕彰会活動を実態のある運動として本格的に開始し、記念館事業をさらに大衆的基盤を持った運動にしていくこと、ひきつづき多くの人人に参観を呼びかけ、顕彰会への入会を呼びかけることに力を注ぎたい。
福田記念館館長挨拶 福田槐治
立派にできた福田正義記念館は、千数百人の方方の拠金、多くの方方の資料提供で完成させることができた。まさに、大衆が主人公の事業であるといえる。
「人民に奉仕する」を信条として、日本の社会進歩と人民解放に役立つという福田正義の思想と路線を継承して、人民運動を発展させる拠点とするにふさわしいものにすることである。
しかし、なによりも同じ時代を生きてたたかった人民の歴史を継承し、つぎの世代に継承することへ役立つことだと思っている。これまでに来館された多くの方方が、自分と自分の両親たちの歩んだ社会の変遷をダブらせている。その方方の個別の家庭の問題を社会的に理性的に認識することに役立っている。これが戦前、戦中、戦後を生きた方方の歴史を引きついで新しい社会の展望を見出すことに役立っている。ひじょうに重厚な歴史総括の運動となっている。
福田正義は、「おれは必要なことはすべて書き残し、しゃべっている。あとは君たちの仕事だ」といってきたし、いまでもいうはずである。記念館の一階に長周新聞社が本拠を移し、記念館を福田正義の路線を顕彰する運動の拠点にすることになった。
記念館関係者を代表して、これまでのみなさんのご尽力に感謝するとともに、顕彰運動として発展させていただきたく願っている。また、みなさんの記念館としてより充実させ活用していただくために記念館を担当するものとして奮斗する決意である。 福田正義記念館の開館を祝賀するために、このように盛大な会を開いていただき、長周新聞社を代表して心から感謝します。
長周新聞社の報告 森谷浩章編集長
福田主幹が亡くなられてから2年半となります。福田記念館の建設は、追悼集会においてご提案し、わずか2年のあいだに、このような堂堂とした記念館の開館を迎えることができました。福田主幹の著作集13冊の発行と全国1000図書館に寄贈する事業につづき記念館が開館したことは、多くのゆかりの人人、読者、支持者、多くの人人の力によるもので、深く敬意を表するものです。 この間寄せられた拠金は1200人、3000万円超となりました。豊富に所蔵、展示されている図書資料、写真、地図、新聞、チラシ類、また美術作品などのほとんどは寄贈によるものです。また大型のスピーカーや机、イスなどの備品の多くも寄贈によるものです。福田記念館はさまざまな人人の協力によってできたものであり、まさに人民の財産、大衆の事業として完成しました。
開館後ひと月余りたちますが、その反響は大きいものがあります。福田主幹の古いゆかりの人人、長周新聞の読者支持者のみなさん、福田主幹の戦前、戦後の活動地域であるこの田中町、唐戸地域のご近所の人人、被爆者の会をはじめ戦争体験者、下関の経済界、文化界をはじめ各界の人人、そして小・中・高校生などの若い世代、また広島の50年8・6斗争のかかわりの人人、労働、教育、文化など各戦線分野の活動者のみなさんなどが、ひじょうに熱心に、くり返し参観しておられます。多くの人人が、自分自身の歴史と重ね、日本社会の進歩発展の方向について考え、新しいエネルギーの糧を得たと語られ、それを若い世代に広く伝えなければならないと語っておられます。
それは、あらためて福田主幹の業績が、人民に奉仕する思想を貫き、幾千万大衆とともにあったこと、それはたんに過去の歴史のことではなくて、いまから先の日本人民の進路とかかわってひじょうに生命力を持っており、今後はかりしれない力を発揮していくものであることを証明していると思います。
戦後60年がたって、日本社会はデタラメきわまるものとなりました。自民党政府は、憲法の平和条項も、主権在民条項も覆して、地方切り捨て、人民生活破壊と戦争動員に突っ走っています。また野党の腐敗も度はずれたものとなり、翼賛政治がまかりとおっています。この日本はなぜデタラメになったかとともに、どうすればよいかが、多くの人人の強い関心事になっています。とくに、戦後のいわゆる左翼と呼ばれる多くが、いろいろ調子のいいことはいってきたが結局のところ自分の利益のために大衆を利用するものであること、アメリカの支配を進歩とみなしており、インチキな「自由、民主、人権」をとなえて人民の敵を擁護するとともに大衆をべっ視し攻撃する側であることが、いまや広く暴露されています。そして50年8・6斗争から六〇年安保斗争に代表される日本人民の偉大な反米愛国斗争の伝統がよみがえりつつあります。このなかで、多くの人人が福田主幹の事業に新鮮な共感を覚えており、記念館はまさに日本を変える根拠地になると確信するものです。
また福田記念館の開館とあわせて、長周新聞社が1階に本社を置くことになりました。長周新聞は戦後10年目の1955年に創刊されて、来年創刊50周年を迎えます。福田記念館を、これからの本格的な資料などの収集・展示・さまざまな催しなどで不断に充実・更新して発展させ、若い世代が広く活用し継承するようにすること、下関に基盤をおきながら全県全国から参観者がやってくるようにすること、そして幾千万大衆とともに戦争にたちむかい、独立、民主、平和、繁栄の日本を実現する福田主幹の路線の継承者を送り出していくこと、そのような大衆的な運動にするために、事業主体として長周新聞社が責任を負うことになります。さらに福田顕彰は、福田主幹がやってきた過去の事業を現在から未来に生かすことが生命であり、長周新聞が、福田主幹がやってきたように現在の人民大衆の役に立つことをやることがもっとも重要な課題です。この交差点のどまんなかにできた堂堂たる社屋に負けない新聞活動の大飛躍を決意するものです。
ともあれ、福田主幹の戦前戦後の90年におよぶ事業について、早く忘れてほしいという力も働くなかで、いまや立派な記念館という形となって広く後世に伝えることができるようになったことはきわめて痛快なことです。多くの人人が、建設以上に維持発展させることははるかに困難であると指摘されています。福田記念館を発展させることは、日本社会の命運にかかわる事業で、長周新聞として全力を挙げて努力する決意です。多くの人人のいっそうのご支援、ご協お願いして報告とします。
魂の復活を祝う 下関・大和無線 奥野三男
本日の西暦2004年7月4日は、福田正義が昇天の世界から、再び人間の世界に魂を復活させた記念の日に思える。このかれが残した福田正義記念館は、かれと生前の仲間の生涯の魂がいまも生きて、若い人の原動力の源となる。
本人が存命なら、この施設は福田正義がもっとも嫌う新興宗教に似て懸念したことであると思うが、福田正義記念館は宗教以上の理念をもった、人類の平和共存を目的とした魂の啓蒙育成の施設であり、また、共感を呼ぶ旧同志には原点の魂の故郷(ふるさと)でもある。
本人のめざした、人類の平和共存の魂に感化され、それを継承する若者が育ち、新しい運動の展開の指針に役立つだろう。
人類の文化文明は進歩するが、魂の継承は困難で茨の道である。福田正義の信念、不屈の魂は復活をはたし、この会館を訪れる人たちの魂に深い感銘をおよぼし、すばらしい結果になると確信する。
本会館は、当初の予想をはるかにこえた協賛支持者があり、福田の運動の正当性が実証された結果であり、今後の運動の大きな自信につながったと思われる。
福田正義の記念と同志かれらの魂の宝庫の復活を契機に、大長周の完成にむかい、福田の魂の援護を受け、確実な前進を遂げることと思う。
本日の来会の後援者多くのご支援をたまわり、福田正義の魂は感謝をしているだろうし、今後の変わらないご協力をお願いもしている。福田正義記念館の建設実務にたずさわった関係各位の労苦で予想よりも立派に完成したことには賞賛を惜しみません。
人類の平和共存は人類の求める真理でありますが、これからもきびしい運動のたたかいはつづくでしょう。負けないで福田の魂を継承してください。
汚い歯抜け爺さんが、がらにもないことをいってみなさんの前で恥をかき迷惑をかけるので、祝賀会の出席は、あの世の先輩たちの与太呂の婆さん、重本さん、花井さんも、おまえの出る幕でないといっています。ご無礼をお許しください。 (メッセージ)
祝賀会参加者の発言(要旨)
下関武久病院 頴原俊一
わたしは25年に下関に引き揚げてきた。それから約4〜5年たって福田さんとお会いして、歳もだいたい同じぐらいの年代なので、以後ずっといろいろとご指導いただいた。ほんとうに思い出のいっぱいある方で、もう少し長命であって、まだわれわれを指導していただければと思うことがしばしばある。ともあれ、残されたわれわれは、福田さんの意志をついでおおいにがんばっていかなければならないと思う。このような立派な会館ができたということだから、やはりこの会館をいかに活用していくかということが、福田さんにたいする大きな恩返しではないかと思う。できるかぎりのことを、微力ながらいたしたいと思いますので、よろしくお願いします。
下関・大新館会長 高田美智子
いま一番問われているのは、日本国民の家族の崩壊ではないか。佐世保の事件に見られるような、低学年の子どもたちと親との心のかようコミュニケーションが、あまりにもなさすぎるような気がしてならない。父母ともに職場、パートと生活に追われ、子どもは学校から帰ってけいこごと、塾がよい、以前は夜の食事時がもっとも楽しい場であったのに、テレビに乗っとられてすれ違いでだれかがいないか、家庭の源泉になる大事な場が失われつつある。
親が子どもを育てる“つとめ”を、共同の場でも相談し、輪を広げてゆかねばならない。さいわいに昔の映画が見られ、ゆっくりとみなさんといっしょに考えなおしていこうと思う。
下関・本行寺住職 藤井日正
砂漠にできたオアシスというが、わたし自身が仏につかえる身でありながら、砂漠のようになる。そのときは荒れて、一晩中飲んでいる。この日本、世界は砂漠と化しているのではないか。
とくにわたしたち日本国民の青少年として、軍国主義のもとに育った。「おまえたちは、いずれは日本のために特攻隊となって、ワシントン、ニューヨークに突っこんでいけ」という教育を受けてきた。
わたしたちはなんのために戦争が起こったのか、侵略したのかは知らない。ただ、日本のためと教育を受けてきた。それがなんと昭和20年の8月15日、敗戦になった。「あー、日本は負けたのか」と、なんともいえなかった。しかし、いろいろ勉強させていただくうちに、人民の国・日本は負けていないのだ、大和魂を持った数千万大衆は負けていない、負けたのは軍国日本だと、ハッキリした。
軍国主義は侵略主義につうじる、一握りの資本家、一握りの軍部が戦争を起こす。これからは絶対にそういうことがないように、断固として長周新聞、福田記念館を拠点として、たたかっていくことだ。ほとんどの新聞は商業新聞で、とくに○○新聞は、何億何十億も使って野球をしている。そんな金があるのなら、いまから育つ日本人民の子どもさんたちのために使えと、わたしは声を大にしていいたい。
社会正義のためにたたかっている新聞は、長周新聞しかない。わたしは法華宗本行寺というが、日蓮大上人はあの鎌倉時代に、圧政の北条時宗にたいして、幕府、権力にたいして1人でたたかった人だ。だから法華の坊主というのは大概変わっていて、一口多い。檀家さんも熱心な方がいる。
昭和6年に赤旗葬がされたのは、本行寺でおこなわれた。そのとき福田正義先生が、お棺をかつがれた。労働葬も法華宗では、本行寺がはじめてではないか。いま本行寺はフクの供養で有名だが、いろんな方が本行寺においでになっている。先鋒隊が教法寺に駐屯していて、奇兵隊が本行寺におられた。だから高杉晋作先生も本行寺におられたのではないか。そこから教法寺に行かれたのではないかと推測している。さらに国司信濃という三家老の1人がいたが、徳川幕府の犠牲になって首を切られた。そういう方もおられた。
とにかくいまから、若い人ががんばってください。
下関・『展望』同人福池伊佐雄氏夫人 原田タカエ
福田記念館ができるということで、どういうものができるのかと思っていたが、こういう盛大なものができ、唐戸にも近く交通にも便利がいいところにできたことは、たいへん喜ばしいことだと思う。みなさま方のおかげだと思う。
亡くなった福池と福田主幹とは、昭和3年くらいからのおつきあいだということだ。『展望前後』にも出てくるが、そのころのわたしは、下関にはいなかった。福田さんと知りあいになったのは、長周新聞ができて3年目くらいのことだったか、借馬町にバラック建ての社屋があった。福田さんが「手伝ってください」といわれて、わたしはそこで地方発送の仕事と、月末になると官公庁への集金、彦島は三菱重工、林兼産業に行っていた。
福田さんとおつきあいして45年以上たつ。その当時、長周新聞で働いていた長岡さん、三井さん、奥田さん、平井さん、もう亡くなった人も多いが、この世に残っているわたしもまだ使命が残っているのだろうと思っている。みなさまのお力を借りて、長周新聞の発展と、福田正義記念館がいつまでも発展すること、ますますのご健斗をお祈りしたい。
下関・元職安職員 増田卓二
福田主幹を支えてこられた人といえば、なんといっても光子夫人だと思う。この方のことは案外知られていないので、当時のことを少し話す。
昭和25年ごろは、一番斗争が激しい時期だ。長府の占領軍は労働組合ができ、執行委員長を福田正義主幹がやっていた。下関の方では、失業対策事業があり自由労働組合ができた。そこに奥さんも入っていた。25年といえば、日雇いが2000人以上も押しかけるというような状態だったが、実際の失業対策事業に入られる人は最高800人だった。いままで入っていた人にも輪番制をひき、就労を少なくした。これを打破する斗争がものすごくひどかった。
ちょうど25年7月11日に、市役所の座りこみもあり、もうすぐ検束という夜の10時半ごろ解散するという格好だった。13日は、わたしたちと交渉したが決裂し1400人程で職安を囲むという全国でまれなことが起きた。そのとき、公開すべき職安が、全国ではじめて退去命令を出した。退去命令を出したが、何度も押し寄せて交渉を迫ったため、検束21人、自分で自首した幹部が7人、結局28人が検束された。2人ほど訴えられたという状態になった。
斗争のとき、奥さんはひじょうに地味に動いていた。ご存じのように、小柄なきれいな人だが、当時は、日雇いで真黒だった。その年の暮れには斗争で、市役所前でハンガーストライキをやり、わたしもびっくりした。わたしも、カゼを引かないように、むりをしないようにと、内緒でお見舞いに行き、炭代を置いて帰った。
そういう時代を切りぬけて、ほんとうに一人の親として苦労をされてこられた。どんな苦しいときも切りぬけた女性の鏡だと思う。失対をやめたのちも、苦しいときに本屋をやったり、ファイトがひじょうにあった。満州を踏んできたことも、時代の流れもあり、福田さんを助けてきた。
話は変わるが、わたしの随筆が昭和37年の3月18日ごろに長周新聞の市内版に出た。福田さんは、これは少し弱弱しいが、いいかといい掲載された。記事として載ったのはそれだけだった。
実はわたし、この7月31日で満90歳になる。福田さんよりもだいぶ多いので、奥さんを励ましていきたい。
広島・峠三吉親族 下田禮子
福田正義記念館で、峠三吉の資料をたくさん出していただいたことに、すごく感謝している。全国キャラバンでかれの詩を持って回り、みなさんに感動していただき、喜んでいる。かれは峠“みつよし”というのだが、“さんきち”とみんないっている。
わたしの母が長女で、その下が叔母になる。峠三吉さんの白樺書房というのが、西蟹屋の方にあった。一軒ぐらいの小さな家を借りて、古本屋をやっていた。当時は本屋などなかった。そこで本の貸し出しや売ったりしていた。
わたしの叔母はロマンチストで、お金持ちにお嫁に行っていたが、その主人が原爆で亡くなった。叔母も家賃の集金などで、よく西蟹屋の前をとおっていた。立ち読みなどをしていて、峠と親しくなったようだ。
憲法が改正されて、女性も財産がもらえるようになったのだが、峠三吉さんと仲がよくなったということが、姑に知られた。結局、裁判をしたのだが、白紙委任でなにもなくなった。子どもが1人いたが、財産授与がなかった。
叔母もぜんぜん、働いたことがなかった。ずっとわがままに育ったものだから、収入もなかったが、栄養士の免状をとり、電鉄の食堂に勤めて峠を支えるようになった。かれは最初は、カール・ブッセのような詩を書いていたのだが、1951年ごろ朝鮮戦争になり、それではいけないというので、反戦の詩をどんどん書き出した。
でも売れない。それに肺壊疽という病気になった。書いたり休んだり、出たりということで、わたしが中学4年生のころには、そんなに悪い体を押しながら、少年文化連盟をつくったり、ムシカという喫茶店を荒神町のバラック建てではじめた。そこで若い人を集めて、ショパンのレコードコンサートをやったりした。
叔母も収入があるようになって、平野町の第4アパートに引っ越した。そこでわれら詩の会をやっていたから、わたしたちもそこで1週間に1回ほど集会を持っていた。そのころは朝鮮戦争があり、尾行がついていた。
そのころから、父を返せ、母を返せ、年寄りを返せ、子どもを返せ、という詩を書いていったのではないかと思う。広島では埋もれていたのだが、50年ということでとりあげていただいて、全国に持って回っていただき、ありがたいと思う。これで峠も報われると思う。
みなさんとともに反戦をたたかい、憲法改悪に反対してみなさんとがんばっていきたい。
下関原爆被害者の会 伊東秀夫
わたしたち被爆者はこの福田正義記念館の3階で原爆パネルが常設展示され、またこの6日から第5回下関原爆展が開催できるようになったことに、たいへん感謝している。また、いつも役員会などに研修室を利用させていただいていることへお礼を申し上げたい。
わたしたち被爆者は福田さんたちが被爆者のほんとうの気持ち、願いを代表して占領軍の弾圧をものともせずアメリカの原爆投下を糾弾する、50年8・6平和斗争をたたかわれ、その後の原水爆禁止運動の端緒を切り開かれたこと、また今日では福田さんの指導でつくられた「原爆と峠三吉の詩・原子雲の下よりすべての声は訴える」のパネルを中心にした原爆展が、全国各地で大きな反響を呼んでいることを知っていたが、展示会場を拝見して福田さんが戦前のきびしい弾圧のなかで侵略のための戦争に反対してたたかってこられたこと、またあらゆる分野でつねに庶民の目線で筆をとられ、また運動を指導されるなど文字どおり幾千万大衆とともにされたことに深い感銘を受けた。
わたしも開館以来、何回か展示物を拝見したが、平和戦線や民族の星などの50年当時の新聞記事を読み、8・6平和斗争がたたかわれた当時の状況について学び、いまわたしたちがすすめている運動の正しさに改めて確信を持つことができた。
また、福田さんが戦後、今日までアメリカの日本支配に反対し、日本人民の誇りと利益を守る反米愛国の道を一貫して貫いてこられたことを学ぶことができ、今日の情勢のもとでこの路線こそすべての運動の原点でありこの路線で運動を発展させなければならないとの思いを強くしている。
記念館には今日わたしたちが物事を考え行動を起こしていくうえで参考になる資料がたくさんある。
まさに荒廃しきった今日の社会を変え、平和で明るく豊かな社会を築いていくためにはどうしたらよいか、学ぶことができる貴重な記念館だと思う。わたしたちは今後もこの記念館を積極的に活用させていただき、学びあっていきたいと思っている。
また、もっともっと多くの人たちに記念館を見てもらうために努力したいと思う。
下関・在日朝鮮人県教育会 金 正 三
わたしは金正三と申しますが、日本学校に行っていないので日本語が下手だ。
わたしは朝鮮学校が1948年に解散されてから、1949年に豊浦郡から、下関に来た。1951年から学校を建てるための運動がはじまった。朝鮮学校は認可が問題だった。いかに朝鮮学校が重要なのか、自分の先祖、自分の国の歴史をわからんものは、よその国のありがたさ、よその国民がわかるはずがない。一番この世で恐ろしいことは、わからないことだ。
われわれの学校のために、山口県内の県会議員さん五四人、私学審議委員一八人と学校の校長さんも出てくれた。みんな一生懸命同情してくれた。そのときはここの社長さん・福田さんがわたしを乗せて山口県庁に橋本知事さんに認可をくれという要請に行った。橋本知事は、金さんの言葉は「舶来言葉」だといった。ここにおられる武久病院の頴原院長さんもわたしを弟みたいにかわいがってくれて、3年間県庁に行った。
われわれの同胞の子どもは、親から日本に住みながら自分の先祖もなにもわからない状態だったから、日本の方にも迷惑をかけるばかりだというので、学校を建てた。
66年に私学審議委員会で決定した。山口県内で2000人が出て証人になった。県のみなさん、県会議員のみなさん、学校の校長先生、市民のみなさん、そして福田さん。みなさんのおかげでわれわれの同胞の子どもが日本人か朝鮮人かわからなくならないように、立派な学校を建てることができた。
考えたら人間が一番わからない。自分の先祖をわからないものはダメ。自分の親を尊敬できないものは、人を尊敬できない。人間を育てるうえで歴史はどのくらい重要か、わたしは日本の若い30歳、20歳を見るときは、わが子、自分の子どもと同じに見ている。終戦になってから、なにより、歴史を教えていない。日本の先祖の方もなんのためにどんなに苦労したか、なにもわからない。
いま子が親を殺し、親が子を殺し、人間を尊敬することがわからない。日本にいながら、わたしら朝鮮人の子も、あれが一番恐ろしい。教育というものが、どのくらい重要か。歴史がどれだけ重要か。いろんなことを比べてみたら世界の平和と人間を尊敬するのが、ほんとうの人間の道、生きる道だ。山口県にいる日本人も朝鮮人もみんないっしょに、世界の平和と日本の平和のためにやることだ。
わたしは、みなさんのおかげでここに立っていると思っている。福田さんのほんとうに立派な会館ができた。福田さんが一生懸命になってやってきて、長周新聞さんがどのぐらい働いてきたことか、ありがたいと思う。わたしはそういう意志を持っており、尊敬している。
山口・劇団はぐるま座 林 賀一
福田記念館が開館して1カ月半になるが、ほんとうに心の底から真に大衆の役に立つものができたという喜びが膨らんできている。
わたしは、開館まえの資料提供で訪れたのも入れて3回参観したが、参観するたびに課題が大きくなってきており、これから何十回となく訪れなければという気持ちが高まる一方だ。
1つ目には、ここにくるたびに、戦前、戦中、戦後の福田さんの活動と重ねあわさって、人民大衆の歴史、地方に根づいた生きた歴史があるからだ。わたしのような年輩のものでもそうした歴史にはうとく、人民の歴史が社会発展の原動力としてあり、それと福田さんの生涯が深くかかわっていたことをいまさらのように考えさせられる。
2つ目には、わたしたちが、文化芸術の仕事にたずさわっているということから、福田さんが切り開かれ、導いてこられた文化芸術の理論と実践が、平和運動、労働運動、教育運動、国際連帯運動などさまざまな分野のたたかいと深くかかわって、わたしたちをいまも確かに導いているということだ。詳しくのべる時間はないが、革命的リアリズム文化芸術の主人公は幾千万大衆なのだという思想が、大きく迫ってくる。さまざまな映画評や評論、文芸座談会などをふくめて学びとらねばならないものは数かぎりなくある。そのなかで、福田さんはまずなによりも人間として誠実に、真剣に人民大衆の立場に立って生きよと迫っている。
そのほかにも、ここに来て学ばなければならない課題は多いが省略する。
いま、心残りは、先日他界した劇団代表藤川夏子がこの記念館に参観できなかったことだ。藤川はどれだけこの記念館開設を楽しみにしていたことだろうか。わたしたちは、藤川のぶんまで学び、人民大衆のための芸術実践と結びつけていきたいと思っている。
北九州・小学校教師 肥後容子
福田記念館がつくられるというのを、追悼集会で聞き、いったいどんなものになるのだろうと思って、たいへん楽しみにしていた。やがて、明るい外観があらわれ、中も整えられ、はじめて見学したときは人人のたたかいの歴史の重みが伝わってきて、とても感動した。
その後、平和教室に子どもといっしょにここに来て、チャップリンの映画を見たり、被爆体験を聞く活動のなかで利用した。
子どもたちはチャップリンの痛快だけど悲しい気持ちに浸り、おなかをかかえて笑った。また、実際に被爆体験を聞いた母親は、「話したくないことを小・中・高校生のために語ってくださった。すさまじい体験に衝撃を受けた」と語っていた。また、ここの場所を説明すると、「福田記念館ですね、介護の仕事で下関にはいつも来ているので、なんとかわかると思います」「からと会館は覚えたけど、福田記念館はわかるかな」などと、まえからある建物のように受けとり、なんとか探してたどり着かれた。
教師にも広げたいと思い、開館の日に、同僚の先生といっしょに来た。
記念館に来ることで、毎日の子どもの教育とつながってきたことが、よかったと思う。
ほんとうのことを知りたいという疑問を、子どもや親たち、教師たちといっしょになにかをやりながら解いていくのに、この記念館を活用していくことがとても大事なことだと考えるようになった。なにかをやりながらというのは、子どもたちはチャップリンの映画をとても喜んだので、チャップリンの映画やそのほかここに集められているようなものを、学校でも見せられたらと思うし、よい絵や文学にひたらせたいと思っている。
また、先日は佐世保で小学生が同級生を殺すという衝撃的な事件が起きた。これについては、「身近で起きても不思議ではない。これからどうしていったらよいだろうか」とみんな真剣に考えている。わたし自身は、長周新聞にもあった子どもたちが異常な世界にとりこまれているという事実を、知らないことに気づいた。この論議になったとき、一つのことにぶつかった。表現の自由という問題だ。「表現の自由はあるのだから、それは守って、見る側が、考えたらいい」「内容をおかしいと決めつけるのはいけない」ということなどだ。「自由」の問題は大きいと思う。
教師にたいしてもこの自由という不自由が、抑えつけてきていることを感じる。学校で教えることにしても、絵についてもなんでも子どもの描きたいように描かせ、偶然にできたものがよい作品として、指導を抑えられる。その結果できた作品は「飾っておきたくない」「なにかわからない」というものになってきていることはたくさんの教師のあいだで批判されている。けれど、思い切って指導していくことは、決心や勇気がいることになってきている。
日常的に体罰はいけない、禁止など決めるのはとんでもない、などの規制にがんじがらめになって教師としての指導性を奪われている。あたりまえのことができなくなってきたのは、長周新聞に出されていた2極構造崩壊後、「自由」「人権」「子どもの人権」というものが社会全体、教育においてすさまじく覆ってきたことだと思う。
戦争にむかうというときに流されるこの「自由」ということにたいして、権力にたいして自由を求めていく運動を、平和教室や、よい映画を見る活動、また毎日の教育実践をやりながら、福田記念館を拠点として、多くの教師、父母、子どもたちとともにすすめていきたいと思う。
下関原爆被害者の会顧問 吉本幸子
開館以来、何度か3階の研修室を利用させていただいたが、いつもエレベーターですっと3階に上がっていた。ある日、1度は階段から上がりたいと思って、階段の両側の展示物を見ながら上がっていた。感心しながら上がっていると、一番上にパッと大きな福田さんの写真が笑っていらっしゃっていて、いかにも迎えてくださっている感じを受けた。
見た途端にびっくりして、「あらっ、福田さんこんにちわ」と申したら、なにか会うべき人にあったような、なつかしい感じを受けて会場へ入った。全国から集められたたくさんの資料や、本に囲まれてじっとしていると、やはりここは福田さんの信条である、他人にたいする思いやり、優しさのこもった、そういうあたたかい風が流れているところだなという感じを持った。
いつも3階で役員会を持つと、帰りにはかならずここの福田さんの部屋までおりて、コーヒーやお茶をいただいて、みんなでときを忘れて話して帰る。そういうときは、心の安らぎ、よりどころであるし、一番うれしい気兼ねのない集いの場所ができたと、感じている。これからも1人でも多くの人たちに、福田記念館ができたということ、存在と価値観を知って利用していただき、末長くみなさんの寄りあいの、いやしの場になるように祈っている。
山口・池田義雄
これまで、メイン展示パネルと、長周新聞のバックナンバーや、「安保・基地・原水禁」「豊北原発反対斗争」など、課題ごと分冊を読みながら、福田主幹の生き方と、その仕事について勉強している。
わたしは20代に、北九州で、工場労働者として、60年安保斗争に参加した。当時は、民主主義の危機ぐらいの意識で、敵をはっきりさせず、デモに明け暮れていた。だから安保斗争の波が引くと、がっくりきて、その総括もできていなかった。ただ、安保斗争の大波がまぶたに焼きついていて、勤労者が社会の主人公であり、かならず勤労者の大群がふたたび決起する日が来る、ということだけを意固地に思いこんで突っぱって生きてきた。
ところが隣街の下関では、福田主幹と長周新聞が五八年から、安保改定阻止キャンペーンをはり、「かならず巨大な斗争になると確信し、断固として紙の弾丸を発行」して、「戦争と従属とファシズムを許すのか、平和と独立と民主主義を守るのか」「殺人者と化した岸売国政府打倒」と、愛国か売国か、民族の独立と平和をかけた反米愛国のたたかいだと、強烈に敵を暴露して、獅子奮迅の大活躍をしていた。
とくに、各界代表の安保問題座談会の記事を読むと、出席者から職場や学校や各界がかかえている問題点や、「安保は重い」という報告がなされている。司会者の福田主幹は、その報告を踏まえて、まず敵はだれか味方はだれか、敵の基本政策はなにかをはっきりさせ、職場や学校や各界がかかえている問題点が安保の具体化として現出していることを指摘し、安保体制から具体的に出ている問題点を結びつけ、それぞれの持ち場でたたかい、安保に矛先を集中しようと、くり返し指導され、労働者、人民の団結を促している。
福田主幹が指導したこのような山口県の安保斗争は全国の先頭に立つもので、労働者、人民の歴史的に蓄積された民族的で階級的な怒りを発動し、反米愛国の統一戦線の陣形が形成され、幾千万人民が決起した戦後最大の反米愛国、正義のたたかいへと爆発し、米日反動派を震撼せしめた。また、全人民的な反米愛国の統一戦線をはじめて勝ちとったことを勝利だと総括されていて、福田主幹の路線でいくと、勝てるという確信と、展望がわいてくる。
その確信を深めたのが、七七年からの豊北斗争だと思う。豊北斗争で決定的なことは、福田主幹と長周新聞の主張と現地と全県への指導、とくに原発の問題点の暴露が人民の統一戦線を形成するうえで、大きな力を発揮したと思う。
豊北斗争では、自治体労働運動の様相が一変した。たとえば山口市職労のたたかいのように、反原発、反合理化、反減反、春斗勝利の、ストをかけた地域住民のたたかいへの連帯行動がうち立てられた。このように、豊北斗争は頑強にたたかう、現地漁業者など勤労町民と県内各地の広範な県民の、それぞれの持ち場からのたたかいが一つに結びあい、人民の統一戦線の力で国策を完璧に粉砕して、鮮やかな勝利だったと思う。
今日、福田主幹の路線にもとづき、原爆展などの平和擁護運動を柱に、独立・民主・平和・繁栄の日本の実現をめざす、全人民的な反米愛国の統一戦線の陣形が、小から大へと発展してきている。わたしもその戦列のなかにしっかり立って、人人に役立つ生き方をしたいと思う。
岩国・森脇政保
わたしたちに欠けているものの一つに、戦前、戦中、戦後の日本人民の歴史が断ち切られ、改ざんされて正しく継承されていない問題があると思う。そこから日本民族、人民の誇りや正しい伝統が失わされ、アメリカの「自由、民主、人権」の撹乱、侵入とたたかいがあると思う。
福田記念館は、くめども尽きぬ日本民族・人民の誇り高いたたかいの歴史と日本の進路を明明と照らしている宝庫だ。少しでも日本をよくしたい、少しでも広範な人人のために自分を役立てたいと思う人なら、ひとたびこの館(やかた)に足を踏み入れるならば、学びたい、もっと学ばなくてはと、学習意欲を促す。
わたしは小林多喜二が虐殺された昭和8年生まれで、今年71歳になった。高校3年のころから平和運動、社会運動にかかわりを持ってきた。しかし、この館に来て、そして少し学ぶ機会を得ただけで、自分はこれまでいったいなにをしてきたのかと、自分がことの本質、真髄をしっかり学んでいなかったことを教えてくれた。
人生を比較的長く生きてきたので、あれこれの事実を断片的にしゃべることはできるかもしれないが、これでは「人民に奉仕する」と誓っても、人民大衆にほんとうの希望と勇気を与えることはできないし、社会進歩のために自分を役立てることはできない。
聞くところによると、先だって亡くなられた劇団はぐるま座の藤川夏子さんは、死をまえに病床にあって、ふたたび舞台に立ち、自己変革と新しい演劇創造の決意を語っていたと聞く。
わたしも小1になったつもりで、真摯(し)に学びなおしていきたいと思う。
宇部・新垣博
わたしたち働くものが、なんの気兼ねもなく、いつでも自由に、しかも無料で利用できるわたしたちのための記念館ができた。ひじょうに喜ばしいことだし、同時に最近にない痛快な出来事の一つでもある。
福田記念館を建設するということを耳にしたのは、福田さんの追悼集会のあとだったと記憶しているが、そのときは、本気か? という思いと、でもまあ、からと会館の1部屋を使って福田さんの遺稿や縁ものを展示することぐらいはできるかもしれないな、などと思っていた。しかし同時に、このことで危惧(ぐ)したこともあった。それは福田さん個人を崇拝しているのではないかとまわりから思われることだったが、それはまったく自分の認識不足からくる誤りだった。
福田顕彰会が長周新聞紙上で、その意義と目的を発表したが、それには人民の歴史を顕彰する場にするのだということがはっきり書かれていた。それを見てわたしが危惧していた問題は少し晴れた。
そして完成した福田記念館はまさに顕彰会がいわれたとおりのもので、人民の立場から歴史を顕彰し、社会を支え歴史を創造してきた主人公である人民大衆を顕彰する立派な記念館だった。このことでわたしの危惧した問題と、誤った認識は完全に払しょくされた。
いま一つ不安に思ったことは、ひじょうに現実的な問題である建設費用についてだ。わたしをふくめて福田さんのまわりの人たちはどう見ても裕福に見える人はいない。目標3000万円という金額は、わたしなどからするとちょっと想像がつかない。3000万円という金額に見合った記念館、このような規模の記念館がほんとうにできるのだろうかという思いは、正直いってあった。
しかし、それも自分の認識不足からくるものだった。福田さんのもとに集まった人たちや長周新聞社の人たちのまったく私心のない、けっして見返りを求めず、困難に負けない、ずばぬけた行動力と実行力を持った人たちの力と、結集された人民の力を信じる人たちの努力と協力でみごとな記念館がほんとうにできたのだ。
バブル崩壊後、個人を記念する会館は全国に乱立しているが、中央から切り捨てられどんどん疲弊していく地方が、抜本的な活性化を創造することができずに、安易な箱もの行政に頼っていく構図があり、それが徹底的な商業主義と結びついて一部のものだけが利益を得るということになっている。ここではいったん入ってしまえば財布の中身はむしりとられてしまう。そういうところとはまったく無縁な、ある面では異質ともいえる記念館が誕生したのだ。多くの人人が懐具合をまったく気にせず、時間にも気にせずにゆっくりと利用できるところ、安心して利用できる施設なのだ。
ここはまさに社会の主人公である人民のための会館であり、そのすべては人民の側から見た歴史であり、人民のたたかいの歴史そのものだ。展示してあるもののほとんどすべてが顕彰会の趣旨に賛同した人たちからの寄贈だし、歴史的な事件やできごともすべて人民の側から見たもので、それを顕彰するものばかりだ。ここにあるすべてのものは人民の力を結集して築かれたもので、すべて人民の財産だ。
みんなで築きあげた福田記念館を有意義に活用しよう。そして人民の力を大きく結集してもっともっと力強いものにしていこう。
川崎市医師 柳田明
わたしはちょくちょく下関に来ているが、どちらかといえば、直行で夢沓舎の頴原学校の方に行き、いろいろお酒を教わって、少しは飲めるようになった。やっとグループホームをつくったり、経営の方もいろいろ教示いただいているが、まだまだ卒業できていない。前から長周新聞とはつきあっていただいているが「まだまだ小学校1年生かな」、最近読めば読むほど「いや2年ぐらいにはなったかな」という気持ちでいるところだ。
わたしが生まれた日本が敗戦になったのは昭和20年。生まれてみたらほんとうに焼け野原、物心ついたらなにもないというのが同級生だ。全国で何十万たぶんいただろう。生まれて気がついたら、こういう日本だった。
それで20歳になってみた。そしたら、ベトナム戦争があった。いったいこの世はどうなっているのかというのがわれわれ同級生のあいだの話だった。たいがい親はいない、戦斗機で死んだ、特攻隊で死んだ、満州から引き揚げて死んだ、母子家庭…。そういうふうななかで、いったいこの世の中どうなっているのか、それはなにかを教える巻物がほしいというのがわたしたちの願望だった。ところがこの記念館にはそれがつまっている。
そういう意味では今後の課題としては、いままさにわれわれと同じような経験をいまの若者はしているし、もっと直接的に海外につらなっている、長崎の事件もあったが、もっとシビアな状態になっている。だからもっとそんな巻物を求めているし、それがここにつまっている。あとはそれをそのような求めている人に伝えていけるかということだ。
先だって、待合室に原爆のことで「広島で大会をやる」という署名を出していると職員が名札をつくり、「また千羽鶴の季節がきました。千羽鶴を折ってください」と書いた。それが一つ論議になり「お年寄りからするとそういうふうな気持ちではいないだろう」と出された。
たとえば「8月6日」。これは「8月6日の8時15分に原爆が落ちました。それで数十万人がなくなりました」とそれしかない。だれが落として、だれがどんな目的でそんなことをしたのかというのが教えられていない。「8月6日、8時15分」というデーターしかかれらの頭にはない。だから逆に写真を見ると、目をそむけたくなる。そこには、そのなくなった人のストーリーがぜんぜんぬけている。
そういうものをもっと伝えられるマスコミは長周新聞しかないと思うが、そうした論議をしながら、8月6日にどうやっていこうかと話をしている最中だ。「広島に寄ったら、ついでに奮発して、じゃあバスのツアーで記念館まで行くか」という話をしようかと思っている。そのときはよろしくお願いします。
山口・劇団はぐるま座青年 岡本太一
このたび福田主幹の生涯の全貌が記念館という形で公開され、見学するたびにいつも新しい発見をし、力をもらっている。
わたしたちはこの記念館建設のさなか、長周新聞社の後援で、「原爆と峠三吉の詩」原爆展全国キャラバン隊第一班として、中国地方から北は北海道まで街頭原爆展を展開してきた。この原爆展は、全国どこへ行っても、やっているわたしたちの予想をこえて大きな反響を呼んでいる。
とくに北へ進路をすすめるほどに、「はじめて知った」「これほどとは思わなかった」という衝撃は強く、このキャラバン行動によって、戦後59年目にしてはじめて伝わる広島・長崎市民の体験は、普及されたパネル冊子や原爆詩集とともに強い影響として全国に広がっている。
お年寄りからは各地の空襲の体験、とくに大阪、東京をはじめとする関東全域、また仙台や青森などをはじめ全国のどの都市も、市街地のまわりから攻めて市民を中心部に集めて、焼夷弾で火の海にするというみな殺しの作戦がやられていたことが怒りをこめて語られていた。親兄弟を殺され、ガレキのなかから生きてきた戦中、戦後の体験を若い世代に語りつがなければならないという思いは全国的な関心事で、その先頭に立って山口県や広島の被爆者の方方が骨身を惜しんで若い世代のために原爆展を開かれ、体験を語りつぐ行動をしていることに全国の人人が励まされている。
また、広島の原水禁、原水協に代表されるような口先で理屈を並べるだけで、もっぱらわが身の安泰でなんの行動も起こさず、先細りになっている既成の平和運動にはついていけないという声も共通していた。1950年に広島でおこなわれた8・6平和斗争や山口県でその伝統が生きていることに関心が集まっている。
なんの大儀もなく人殺しの政策がやられ、国づくりの破壊がされているなかで、どうすればこの国を変えていけるのかという思いも渦巻いている。そんななかで、若い人たちも行動を求めて協力者となりその数は130人をこえている。これからさらに全国に影響が広がっていくなかで、この福田正義記念館は、その原点を学べる場として大きな意味があると思う。
わたしたち自身も記念館に学んで自分自身を見つめなおし、「日本の片隅でなく、どまんなかでやる」と、創意をこらした活動を展開できるように、この記念館で学んでいきたいと思う。自分のためではなく、徹底してより多くの人人のために尽くす姿勢、自分が正しいと信じたことは、たじろぐことなく断固やりぬくという強い精神力と行動力に学んでいくことを誓う。
日本共産党(左派) 森脇 保
第1は日本人民の生活とたたかいの歴史を真剣に学び、受けついでいこうと思う。
福田記念館は、下関・山口県、そして全国の心ある人人の熱烈な支持と協力によって建設された。福田記念館は、世上よくある「個人記念館」ではなく、福田さんとともに歩んできた幾千万の日本人民の歴史を顕彰する記念館である。
この記念館で、その時代の映画をふくめて、戦前・戦中・戦後の日本の歴史をしっかり学びたいと思う。日本人民の歴史の真実を学び、民族の誇りをとりもどし、最近の目にあまるアメリカナイズされ腐敗した社会風潮をうち破っていく力をつちかっていきたいと思う。そうしなければ、長崎・佐世保の小学六年生の殺人事件のような、痛ましい事件を根本から一掃することはできないと思う。
第2は、福田記念館は、独立・民主・平和・繁栄の日本をうち立てていくための学習の宝庫である。わたしも最近、ここでの1泊2日の学習に参加したが、原水禁・平和運動について「安保」斗争について、教育運動や婦人運動、青年運動などについて、その歴史的教訓について、さらに真の前衛党をどのように建設していくか、そこでの教訓と課題について、重い内容がぎっちりつまっている。実際と結びつけて学習をすすめていきたい。
どなたかいわれたが、福田記念館はまさに「平成の松下村塾」であります。ここから、これからの日本を背負う若者たちが輩出していけるよう、みなさんとともにがんばっていきたい。
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