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福屋デパートで広島市民原爆展
7000人が全国から参観
          抑圧突き破り広島の本当の心前面に   2003年8月9日付
 
 広島市中区の福屋八丁堀本店で7月31日からおこなわれてきた「原爆詩人・峠三吉没五〇周年記念 広島市民原爆展」が最終日の6日、参観者数1400人という会期最高の盛り上がりとなった。一週間の参観者は7000人となり、一昨年の旧日銀原爆展をさらに大きく上回った。「原爆と峠三吉の詩―原子雲の下よりすべての声は訴える」パネルは、広島市民のなかに犠牲者への追悼とともに渦巻いている「原爆を二度と使わせぬ」頑強な意志と響きあい、アメリカの原爆投下を正当化するさまざまな抑圧を突き破る力を持って被爆市民の心底の思いを語る行動が広がった。それは現代を憂慮し平和を願う全国、世界の人人に大きな展望を与えた。

   原爆正当化の抑圧突き破る
 58年目の原爆記念日にあたる6日、前日の5日には、慰霊碑や肉親の墓に花を供えてきた正装や喪服姿の市民がめだち、厳粛な気持ちであの日の痛烈な思いをよみがえらせていた。
 呉市から平和公園の慰霊塔に参りお茶と水を供えてから原爆展に訪れた76歳の婦人は、「わたしは家族みんなピカで死んだ。父も母も兄も妹もみんな。天涯孤独の身で生きてきた」と静かに話した。「妹は安芸高等女学校の生徒で土橋で死んだというが遺骨も慰霊碑もなくお参りもできない」と悔しさをにじませた。
 父母は崩壊した家の下で燃え、警察官だった兄は家族の救援に入り数年後白血病になった。2回の結婚の話も、被爆したことと両親がいないことで流れた。「原爆がにくい! 戦争がにくい! と思ってきました。ほんとうに父を返してほしい、母を返してほしい」と強く語った。「一生懸命働いて生きてきたものにとっていまの世相は腹立たしい。峠さんもわたしたちと同じ目にあわれて苦労されたのでしょう。きょうは心新たにさせてもらいました」とお礼をのべていった。
 弟の名が刻まれた二中の慰霊碑に参ってきたという婦人は涙が止まらなかった。「戦争がなぜ起こったのかそのわけさえ知らないのにかならず神風が吹いて日本は勝つと信じていた。あの日は頭痛がして母のすすめで欠席したが、県庁前に集合した市立高等女学校の同級生300人のうち277人が死んだ。生き残った自分が3日後学校にむかう途中に見た江波線では黒こげの死体の列。そのなかに女の人が全裸で転がっていた。なぜそのとき布きれ一枚かけてあげれなかったのか……頭がおかしくなっていたんです」と唇を震わせた。
 慰霊祭に参列しても遺族の母親の羨(せん)望の視線に耐えきれなかったこと、同級生の苦しみを知らないといけないと思い市民原爆展はかならず行こうと心に決めていたと話した。「生き残ったものにはいつも背負っているものがある。しかし、近ごろは戦争反対といっても他人事になって、“やらないよりマシ”という程度で平和の運動がみな空振りに終わることにいらだちを感じる。国の教育から考え直さないと世界の人の戦争の苦しみは理解できない。年をとっていますがなにかできることを協力したい」と、涙をふきながらかすかな笑顔を見せた。
 喪服姿の年配婦人はイスに座りハンカチで顔をおおって体を震わせていた。「悔しい……」と一言いうたびに嗚咽で言葉にならない。「わたしは船舶司令部の暁部隊の一員で市中で看病したんですが、治療してもつぎからつぎに死んでいく。どんなにか悔しかっただろう……なにもいえずにうなだれたまま死んでいく。わたしたちも悔しかった」と語った。
 パネルを指さしては、「峠さんはわたしたちとまったく同じ気持ちを書いているので涙が止まらなかった。きょうの慰霊式典では、いつも吠えている小泉さんは口先だけでなにをいっているのかわからなかった。なぜあんな人を連れてきたのか。イラク戦争でむこうの人は苦しんでいるのに、自衛隊を出すのなら政治家の息子から連れていけといいたい。死んだ人はいくら悔んでも帰ってこない」と話した。
 
 50年ツ斗争のパネルで
 白熱した論議が広がる
 とりわけ、峠三吉、福田正義両氏の「原爆は戦争終結には必要なかった」という訴えをのせたパネルは参観者を釘付けにし、指をさして激しく語りあう姿も見られた。
 80代の男性は、「海軍に13年所属した少尉だったが、あまりにも事実を知らなかったことが恥ずかしい」と話した。戦艦日向に乗りシンガポール沖から死ぬ目にあいながら帰った呉港で、もう帰ることはないと実感しつつも戦艦大和に乗った友人や部下たちを送り出した。日本政府がアメリカと敗戦の準備をしながら国民には「玉砕」を命じていたこと、原爆を落とさずとも戦争は終わっていたという部分を何回も読み返したのだという。
 「峠さんはあの時代によく調べられた。あのときの日本は戦争のできる状態ではなかったが、われわれにはほんとうのことが知らされなかった。戦後、直接爆弾は落とされなくてもそれ以上のことをアメリカにされてきた。下山、松川事件などからアメリカの謀略にわたしたちはのせられてきた。小泉はアメリカのご機嫌をとっているが自衛隊の生死にさえ責任を持たない。守っているのは国民ではなく自分の地位だけ。経験してきたわたしたちは腹がたってやれない」と怒りをあらわにした。
 また、下関原爆被害者の会、「アメリカ政府は謝罪せよ」と訴えた広島アピール、山口県小中高生平和の旅などのパネルをうなずきながら見ていく人が多く、斬新で力強い平和運動の発展に期待を集めていた。
 熊本県から来た医療系労働組合の男性は、「有事法制の通過まできて労組のものすごい弱体化を感じる」と語り、「戦後の労働運動は平和の問題を中心に立ち上がった経緯があるのにいまはそれがない。戦後立ち上がった人がもう一度立ち上がっていく、それを若いものが受けつぐ時期に来ていると思う。医療現場は職場の問題を突きつめれば国家予算の使い方一つとっても戦争問題に突きあたる。そのことを職場でもっと論議したいと思う。医療従事者は自衛隊とセットで戦場に行かされるんだ」と切実な思いを語った。
 さらに、「党利党略を運動に持ちこむことがいちばんのマイナスになっている。一般市民のなかに入ればいろんな党派の人がいるのに、“この党以外はダメ”といっていては話にならない。上部組織や東京のマネではいつも行きづまる。地方から中央に迫っていける運動をやりたい」と語り、原水爆禁止運動の原点、それが分裂していった経緯を学びたいと1950年8・6斗争の経験を記した福田正義評論集を求めていった。
 鹿児島県から来た平和運動関係者の男性は、「これまでわたしたちの運動は国会や県議会に何人の革新議員を出すかに熱を上げてきたが、議員の数が最高点に達したあたりから、運動は急降下して下火になってきた。平和運動の原点についてもう一度勉強しなおしたい」と語った。「峠さんの詩を見て、広島市民の思いがこんなだったのかとわたし自身恥ずかしい思いがした。1950年にアメリカの占領下で平和大会がもたれたことはここではじめて知った。しっかり勉強してみます」といって、福田正義評論集の『原水禁・平和運動論』を買い求めた。
 東京から来た男性作家は、原爆投下とその後58年の広島・長崎を題材にした作品を書くため、取材をかねて被爆地に足を運んだ。広島駅におりたって市内を歩きはじめると、街のいたるところに福屋原爆展の開催を告げるポスターがはってあったのに驚いていた。戦後のアメリカ支配を決定づけた原爆投下と、58年たって有事法が国会を通過し、イラクへ自衛隊が派遣されるまでに戦争情勢が迫ってきたことについて「もう戦前だ」と問題意識を語った。「日米安全保障条約があるかぎり、日本人はアメリカの戦争にどこまででもつき合わないといけない関係にある。イラク派兵も有事法もそこが根本的な問題ではないか。今回の有事法をめぐっては平和運動の力がまったくおよばなかった。広島や長崎では“(原水)禁”とか“(原水)協”が力を持っているような素振りをしてきたけれど、実はまったく根がないことがバレてしまった。政治を見れば保守とか革新とかいっているが同じようなもので、実態は負けず劣らず腐っているのを東京でも見てきた。政党政治は実はとうの昔に崩壊していた」
 「これからの時代を考えると、大きくても弱い組織ではどうにもならず、小さくても強い組織が必要になってくる。強くなければ権力には負ける。広島の地で、そして山口という地方でこのような強烈な運動が存在することに励まされた。長周新聞という市民社会擁護の言論が存在することを知ったのも大きな収穫でした。商業メディアも社会の木鐸(たく)としての役割は放棄してしまってスポンサーと権力にすり寄って体をなしていない。わたしのような作家が文章を書こうと思っても、出版社やその背後の銀行などから圧力があれば、結局世の中の人人に読んでもらえない関係。書いても書いても独り言になるんです」と、作家として生活を優先させるのか、世の中の役に立つ文章を書くかをめぐって葛藤(かっとう)を語っていた。
 また、「平和教育をどのようにすすめていくか考えるために原爆展に訪れたが、資料館よりよっぽど強烈だった。この資料を持って帰ってみんなで考えたい」と涙ながらに語る長野県の小学校教師の集団、20人の高校生とともに訪れ地元での原爆展開催を申し出る高校教師などもおり、被爆者を囲んだ熱のこもった交流は閉会時間になっても絶えなかった。
   平和運動が前進
 6日午後5時からは、閉会式がおこなわれた。はじめに原爆展を成功させる広島の会代表世話人の重力敬三氏が、1週間にわたる原爆展の成功のために尽力した協力者への感謝をのべ、参加者が7000人をこえ「きょうでやめるのが惜しいような大盛況」であったこと、「この原爆展によって平和運動が2歩も3歩も前進し、日本全国ひいては全世界に平和運動がますます発展していくことを念じてやまない」とのべた。
 つづいて、下関原爆被害者の会副会長の佐野喜久江氏が、広島の会と共催した市民原爆展の大盛況を喜び、「これからも協力して下関でも原爆展をあちこちでおこない世界の人に平和を伝えていく」ことをのべたあと、会場を提供した福屋百貨店への感謝をのべた。さらに、原爆展の賛同協力者として5日間受付に立った佐伯区在住の兼森三男氏が、「この原爆展の輪がますます広がるように全国にこの賛同者を広めていけるようにと思っている。体験をされた方方から聞かせていただいた話やいろいろな人との交流の輪が広がったことを財産にさせていただきたい。これからも支援していきたい」と感動をこめて語った。
 最後に司会の竹村伸生氏が、「8月6日をお祭り的なものにせず、このような運動は機会をとらえてはやっていかないといけない。継続は力なりという。これからもつづけてきたい」としめくくり、全員の拍手で市民原爆展の成果が確認された。

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