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「生き地獄繰返さぬ」と被爆県民
広島・廿日市原爆と戦争展
              岩国増強へ歴史的怒り   2012年2月20日付
 
 廿日市市のはつかいち美術ギャラリー(廿日市市役所併設)で15日から19日まで、第7回廿日市「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会)がおこなわれた。年配者から親子連れまで5日間で約800人が訪れ、パネルや被爆者の体験談を通じて第二次大戦と原爆投下の真実に触れるなかで、戦後六七年たった今日の日本社会の現状や「戦争を二度と繰り返させぬ」との思いを世代の壁をこえて交流し合う場となった。とりわけ、隣接する米軍岩国基地への空母艦載機や海兵隊移転問題への関心は高く、身近に迫る戦争の策動に対して「広島湾岸を核戦争の戦場にさせるな」という被爆県民の歴史的な怒りを反映するとりくみとなった。
 
 “朝鮮戦争前と似ている” 被爆婦人

 会場には、原爆展を成功させる広島の会(重力敬三会長)の被爆者や戦争体験者をはじめ、主婦、公務員や保育士などの現役世代、学生スタッフなどが廿日市や広島市内から集まって常駐し、受付や案内などの運営を支えた。
 土日に入ると参観者は1日200人をこえ、「こんな時期だからこそ家族で戦争の経験に向き合ってみたい」「これまで体験を語ってこなかったが、語らなければいけない。力になりたい」と家族で誘い合って来たり、知人と連れだって2度、3度と訪れる市民も多く見られた。被爆者たちも若い人たちに体験を語り伝え、新たに50人が賛同者となって今後の協力を申し出た。
 94歳の母親を連れて参観した男性は、「父親はサイパン島玉砕の日に召集され、みんな涙を飲みながら万歳をして送り出したと聞いている。若い世代のなかには日米戦争があったことさえ知らない者もいる。岩国や沖縄の基地問題で“日米同盟”といわれるが、アメリカは決して“トモダチ”などではなく占領国だ。占領するために原爆まで落とし、戦争を続けるために沖縄も岩国も絶対に手放さない。日本人がその現実を忘れて、目先のことで浮かれていたら大変な目にあうことになる」と語り、賛同者として協力を申し出た。
 同伴した母親は、会場に掲示された「アメリカは核も基地も持って帰れ!」のスローガンを指さし、「この通りだ。アメリカは日本を利用しようとしているだけで守るつもりはない。あの戦争は今も終わっていない」と語気を強めた。
 知人と連れだって参観した婦人被爆者は、「今は朝鮮戦争前の空気とよく似ている。あのころも働いても食べていけず、労働組合は待遇改善に熱を上げていたが、その一方で警察予備隊が増やされたり、再軍備がやられて朝鮮戦争が始まった。戦後、みんなが努力して苦労を乗り越えてきたのになぜ日本がこんな状態になったのか」「戦後、一番の苦しみは食料がないことだった。私たちは雑草でも摘んで食べてきたので、どんな苦しみにも耐えられるが、若い人は目先の“平和”に浸ってその強さがなくなっている。目先の金もうけではなく、戦後の原点に立ち返って農漁業など国の根本を立て直していかないと日本の将来は先細りするばかりだ」と知人同士で思いを語りあった。
 一緒に来た婦人も、「次兄が予科練に志願し、沖縄付近で輸送船ごと沈没した。私たちは台湾から引き揚げたが、全財産を失って無一文からの戦後出発だった。父が戦病死したので母親が慣れない農業をやって六人家族を育ててくれたが、私も中卒で岩国の紡績工場に働きに出た。今の教育は“個人の自由”ばかりいうが、自分のことばかり考えて楽な方ばかり選んでいたらいけない。戦中、戦後の経験に立ち返って骨のある人間を育てないといけない」と激しく思いを語った。
 岩国市から来た年配男性は、「川下地区の旭町でも防空壕が米軍機の機銃掃射を受けて150人くらい殺され、内臓が飛び出してすごい死臭だったのを覚えている。終戦前日には、駅に列車が合流する時間を狙って250`爆弾が落とされて800人以上が殺された。陸軍燃料廠の爆撃でも200人以上が死んでいる。私たちはこういう現実を見てきたから米軍がなんのために駐留しているのか知っているし、米軍は今でも夜間に2機ずつ編隊を組んで東シナ海の監視をやっている。米軍に日本を守るつもりはないし、ミサイルが飛んでくれば市民は逃げ場もない。海兵隊1500人が来れば、広島も含めて米兵がわが物顔で歩き回ることになるし、広島も岩国も同じ境遇だと思う」とのべた。
 展示を見た後、「絶対に繰り返してはいけない」と語りかけてきた市議会議員は、岩国基地問題に触れ、「広島が米軍から格好の訓練場にされている。沖合移設をしてから、米軍機が宮島の上空を飛ぶようになり最近は厳島神社での祝詞の最中に低空飛行されて大騒動になった。山側では、朝鮮半島の地形に似ているということで山間を縫うようにして飛ぶので近隣の集落は大迷惑している。アメリカは国連による平和的解決をめざすといいながら、自分がやっていることは戦争ばかり。時代錯誤もはなはだしい」と思いをぶつけた。県内では廿日市市を中心に広島県西部の三市の首長と議長による米軍機移転計画反対期成同盟を結成していることを語り、今後も「反対の声を強めていく」とのべた。

 耳に残る助けての声 被爆体験聞く会

 土日には、会場内で被爆体験を聞く会がおこなわれ、当時16歳で広島電鉄で勤務中に被爆した山崎政雄氏、同じく当時21歳で広電に勤務し、横川駅で被爆した平岡アキノ氏が約30人の聴衆を前に体験を語った。
 己斐駅(現・西広島駅)に勤めていた山崎氏は、その日は当直明けで午前8時の空襲警報で一度は防空壕に避難したが、その後解除され、帰宅する準備をしているときに閃光をあびた。「突然、西の空がピカッと光り、駅舎の階段が崩れ落ち、辺りは煤煙でなにも見えなくなった。その後、ホームに下りると血だらけの人たちが大勢右往左往しており、なにが起こったのかさえわからなかった」と当時の心境を語った。
 その後、千田町の広電本社へ被害状況の報告に出向いた。その道中では皮膚の垂れ下がった人や倒れた人たちに足をつかまれ「助けてくれ」「水をくれ」とせがまれたが、道ばたの畑からトマトやきゅうりをもいで数人に食べさせるのが関の山。「あの声は今も耳に焼きついている。もう少し助けることができたのではないか…」と今も胸が苦しくなるという。激しく降ってきた黒い雨で体中泥まみれになりながら懸命に避難所へ急いだ。
 駅長とともに行方不明になった家族を捜しに各地の救護所を回ったが見つからず、その後市内電車の復旧作業に従事。被爆から3日後に走った一番電車の試運転のハンドルを握った。
 「生き残った者にとっての戦後は、食料もなく、体力もないので病気も絶えず、生きることがたたかいで懸命に働いてきた。だが、人間が人間として死ぬこともできないあの生き地獄の有様は生涯忘れる事はない。あんなものを落としたアメリカが憎い。“日本は勝つ”と信じ込まされてきたが、原爆で戦争の現実を嫌というほど味わった。今福島の原発事故では、○○シーベルトといって立ち入り禁止になっているが、広島では復興する以外に選択肢はなかった。核兵器は原発事故どころではないし、人も土地も空気も水も瞬時に奪われる。だが、今もアメリカは自国につくればいいはずの軍事基地を日本に置き、アメリカが戦争をやって攻撃される前に日本が攻撃される仕組みをつくっている。戦争さえやらなければ、着る物も食べる物もあったし、家族も死なずに済んだ。戦争はすべてを奪うということを忘れず、平和のために世界中が力をあわせなければいけない」と強調した。
 横川駅に勤務中だった平岡氏は、「駅長と助役をのぞいて男性勤務員は全員出征し、ほとんどを女性がやっていた。その日は徹夜明けで、操車場を歩いているときに光を浴び、手の甲と顔の右側、足を大ヤケドした」と語り、その後、「13人の同僚とともに古市の知人宅に避難したが、みんなヤケドでだれがだれかもわからない。山口県の柳井の女子商の生徒が30人ほど学徒動員で横川駅に来ていたが、その後にバタバタと亡くなっていった。若い人ほど早く亡くなった。私もヤケドと40度近い高熱で苦しんだ。戦争だけは絶対にやってはいけない」と力を込めて語った。
 参加した70代の婦人は、原爆の熱線で住友銀行の石段に焼き付いた「影」に触れて、「住友銀行の最上階にあった造幣局の事務所に母親が勤めていたので、よく手を引かれていっていた。あの影は、玄関に立哨していた宇田さんという監視員の人ではないかと生前母がいっていた。私にも大豆を煎って食べさせてくれた人だが、戦後、奥さんが必死に夫を捜していることを知り、あの石段の影になってしまったことなど口にも出せなかった。母もガンで苦しんで亡くなったが、幼かった私たちが代わって伝えていかなければいけない」とのべた。
 被爆二世や母親など現役世代からも「これからも真実を伝えるとりくみを続けて欲しい」「広島で育った者として避けて通れない問題。それぞれの地域や持ち場でこの運動を広げていかないといけない」と行動意欲が語られ、閉会まで被爆者と熱を帯びた交流がおこなわれた。
 
 アンケートより
 
 ▼昭和16年12月、豊後水道に8000d級の輸送船五隻くらいが陸軍兵を満載し、これを援護して南に征く。アメリカとの戦争に入り、私たち軍艦の乗員一同上甲板で兵から士官まで万歳、万歳に湧き上がった、その後、アメリカの物量など全く悲惨な方向へ進んでいくことになる。勝つ、勝つと教育されてきた私たちは300万人もの死、その70%が飢餓であったことを知り、戦争は絶対にしてはならない。(87歳・男性)
 ▼義理の兄は戦争で死に、私の妹は広島で原爆にあい、当時、山中女学校に入り喜んでいたのに、今も死体さえ見つからず、かわいそうで声も出ません。(84歳・女性)
 ▼私も被爆者です。小学6年生の時、廿日市に縁故疎開しており、被爆当時は平良小学校校庭で広島市に落とされた原爆の火柱を見ました。廿日市小学校にも負傷者がたくさん搬送され死亡された人も見ております。8月11日入市して親戚を捜しましたが不明。後日、母、妹が亡くなったことを知りました。各地の原爆展を見ておりますが、今回は詳しく状況がわかりました。(78歳・男性)
 ▼戦争がいかに残酷なものかというのがわかった。現在、中東の方では独裁者が下ろされざるを得ない状況である。戦争が好きなアメリカやイスラエルなどがいる。この者どもはイラン、北朝鮮の核保有についてクレームをつけておるが、持っている者がクレームを付けるというのはおかしいことである。いつまでもアメリカの兵隊を養うのはやめて、帰らせることを考えて主体性を持つことが大事である。日本の国会議員はサラリーマン化しており、仕事をしないので給料は今の半分でよいし、日当制にするとよい。(71歳・男性)
 ▼戦争、原爆の悲惨さを改めて痛感した。戦争は為政者(軍隊)をマスコミが煽って起きる。現在の風潮は、その危険性をはらんでいる。要対応!(71歳・男性)
 ▼アメリカと日本の上層部が「天皇は100万の軍隊に値する」の言葉で、また統治しやすくするために原爆と無差別攻撃をしたことが納得できた。福島の原発を見ても、神の領域を侵す原爆と原発はしっぺ返しを受けるバベルの塔と同様です。人類の歴史が、破壊と殺戮の繰り返しではうんざりします。(71歳・男性)
 ▼真珠湾から原爆まで日本国民の悲しい出来事を知らない若人がいると聞くが、決して忘れてはいけない日本の歴史である。日本の国土を背負う政治家や指導者にその観念があるだろうかと最近思う。私たちは国民のレベルを上げて百年先には信頼できる指導者に国土を預けなければならない。それができないと再び原爆の悲しみに遭うことになる。最近の世界の動きを全く気にすることなく明け暮れる国会の様子を見ていると、災いは忘れた頃に必ず来るような気がする。決してアメリカは“友達”ではなく、頼っていては将来の日本はない。日本はどう生きるのか考えなければならない。(67歳・男性)
 ▼広島出身ではないが、私が初めて原爆資料館を訪れたのは大学生のとき。それから教員になり、平和教育を進めるときにいろんな本を読んだ。ここにある展示の写真などにも見覚えがある。しかし、現在、忙しさにかまけて原点を忘れがちになって老化現象と笑っているが、この原爆の体験だけは老化(風化)させてはならないものであろう。原爆資料館は、体裁は整っていても生々しいリアリティから遠ざかっているような気がする。このような催しを頻繁に見て、記憶に留めておきたい。(55歳・教員・女性)
 ▼広島の原点、日本の立ち返るべきところだと思いました。とくに今の時代またとても大切だと思います。今の若者もまた違う意味で苦しんでいると思います。(40代・男性)
 ▼広島で生まれ育った人間として、学校などでの平和教育で原爆についての知識もある程度はあり、身近なものとして関心も高いが、どうしても自分のこととして受け止めることができない。だが、この戦争や原爆の体験が社会にどのような影響を与え、歴史の流れの中でどのように移ろい、そして、今の社会のなかにどのように表れているのかを見つめていけば、自分のこととして考えられる。戦争や原爆による悲しみ、今の社会にある悲しみは繋がっているものだと思います。(37歳・男性)
 ▼戦争、原爆については、今まで学校の平和学習などで学んできましたが、子どもと一緒に学び、知ることは初めてだったので、今回、一緒に見学ができよかったと思います。又、看護を通して、被爆された方、戦争を体験した方のお話を聞かせていただくことも多く、戦争や原爆の悲惨さはもちろんのこと、天皇や政治について、学校では学ばなかった話など、今回の原爆と戦争展と比較してより深く考える事ができました。(36歳・看護師・女性)
 ▼今回、改めて戦争の残酷さを痛感した。私自身も両親も戦争を知らない世代ですが、後世に続く人達に語っていかなくてはならない義務があるということを忘れてはいけないと思った。(34歳・介護職・男性)
 ▼戦後のアメリカが民主主義を指導してよくなったように思っていましたが、すべてはアメリカの都合の良いように戦争をし、戦後処理されたように見えます。善人面して我々を懐柔しているアメリカが憎いです。(無記名)

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