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インチキな山口県の「35人学級」
ゆとり装い現場は多忙
               市町負担のパート教師配置    2004年3月27日付

 進級・進学と子どもの明るい顔を見ようと思えば、その出費の多さに親の心が暗くなるきょうこのごろである。学校では教職員が新年度の学級編成に、新しい校務分掌にとおおわらわであるが、なかでも頭を悩ませているのが、山口県が全国ではじめて公立中学校の全学年を「35人学級」にするとともに、学級増にともなって当然必要な本採用の教師を配置せず、非常勤講師を配置することでまかなうと決めたことである。「生徒一人一人に応じたきめ細かな指導」というたてまえはおおいに結構であるが、子どもの全精神生活とかかわる中学校の教育現場で、「安上がり」のために授業時間しか子どもにかかわれないパート教師をふやすのは、子どもと日本の未来にとって大きなマイナスであると全県的な論議が起こっている。
  
 全県で87学級増やすが、教員定数増やさず
 「学級の少人数化は、ゆとりのある教育を実現するものとして親も教師も望むことだが、それによる学級増に教員定数をふやすのでなく、非常勤講師をつけて対応するというのは、あたかも親や教師の願いにこたえたようにしてだますことで、教師は子どもとかかわる時間がますます少なくなる」。これが現場の教師の共通した意見である。
 山口県では、今春からの中学2・3年の35人学級化(1年はすでに施行ずみ)により、87学級がふえることになる。県教委の説明では「1クラスふえると週で28時間の授業がふえるため、その分非常勤講師(週14時間まで勤務できる)を2名配置して対応すればよい」「今後本採用にするかどうかは、義務教育費国庫負担の削減の動きもあり、予定はたてられない」ということであった。
 非常勤講師というのは、半年ないし1年雇用の臨採(臨時採用)の教師とも違い、原則として担当する授業時間しか学校におれない時間給のパート教師で、放課後子どもを残して教えることも、学校行事や生徒指導にたずさわることもできないし、子どものことについて担任の教師と相談しつつかかわること、学年の教師集団が集団として補いあって子どもたちにかかわることもできにくくなる。
 非常勤の経験を持つある教師は「(非常勤では)子どもが見えないと感じた。いくら授業でがんばっても、そこだけでは子どもたちとの信頼関係はつくれず、やはり運動会や文化祭、部活など日ごろの生活全般にかかわってこそ授業も生きると実感した」と語る。校長や教頭は善意であるが「早く帰れ」「勤務時間外なのでひきとめるな」といい、非常勤講師の側も遠慮してしまい、両方が気まずい思いをせざるをえない。教師にとって子どもとかかわれないことほど悲しいことはない。「現場でがんばっている臨採や非常勤の先生を優先的に採用できないのか」「テストの成績がよくても子どもにかかわれない人では困る」という現場の声は多いのである。
 ある中学校ではつぎのように語られていた。「いまの定数法でいくと、3学年六学級の場合、教員は10名(教頭をふくめ)となる。これが35人学級で2クラスふえたとすると、9名で8クラスを持つことになり(非常勤は担任を持てない)、担任8人・副担任は全校で1人となる。2人以上が出張や病休で欠けると、だれがホームルームに行くのか」「突然の変化に対応できず、だれも空きがないので自習、という場合がふえるのではないか」。「ゆとり」のたてまえで、実際にはさらなる多忙化であり子どものためにならないものだというのが現場の教師の声である。

  戦前教育の反省だった 「機会均等」も崩す
 最近では親が首切りや倒産に直面し、自己破産や離婚がふえており、子どもたちの家庭生活は激変している。給食費や校納金、修学旅行の費用が払えない子、まともな食事ができず給食でしのいでいる子がふえている。そのなかで教師が年間何十回も家庭訪問に行くのは、生徒指導にしろ進路指導にしろ、「あのとき行っていたら間にあっていたのに」という苦い経験がしばしばあるからである。しかし非常勤がふえ現場にゆとりがなくなれば、それすらできにくくなると話されている。
 さらに、財政面から見ても「35人学級」の導入は大きな問題をはらんでいる。これまで義務教育である小・中学校の教師の給与は県費(その半額を国が出す)であった。しかし「35人学級」にともなう非常勤講師雇用の予算は、「山口県の独自事業」といいつつ、市町村がその半額を負担することになっている。たとえば下関市の場合、「35人学級」によって15クラスがふえ、30人の非常勤講師を雇うようになるため、6700万円余の予算の半額を、下関市が持たなければならない。そしていまの行革による教育費切り捨ての流れのなかでは、この新規事業がふえた分は他の教育予算の削減となり、結局、父母負担がいっそうふえることにつながる。「県は情報を外に出すなといっていたが、突然『朝日新聞』がスクープして、35人学級はあとに引けなくなった。文部科学大臣になった河村建夫氏側からの動きではないか」「県の独自事業というなら、予算も100%県が持つべきだ」と、県内の市町村教育委員会も大迷惑している。
 それだけにとどまらない。戦前の教育の反省から、戦後は義務教育を無償とし、貧富の差に関係なく保障する「教育の機会均等」が原則とされたが、いまそれが崩されている。これまでもさんざんに削られてきた義務教育費国庫負担金を、小泉内閣は今年度から「総額裁量制」にし、各都道府県が国庫負担金の総額の範囲内であれば、非常勤や臨採を自由にふやせるようにした。そして将来的には、教員の定数法や義務教育費国庫負担制度そのものを廃止して一般財源化することが狙われている。ちなみに義務教育費を廃止し全額税源移譲した場合、大都市の数都府県をのぞいてほとんどの自治体が現在と比べて大幅なマイナスになる。つまりは義務教育無償どころか教育費の大幅削減となり、現場はパート教師ばかりとなりかねない。
 小泉首相は、これからの日本の教育は「米100俵の精神(窮乏のなかにあった長岡藩が救援のために寄せられた米100俵をたくわえ、学校設立のために使った)でいく」といった。この意味は米100俵を教育から巻きあげるというものであった。「憲法9条」を語って自衛隊をイラクに派兵したこともそうであるが、いうこととやることが逆の人間が首相についていることが、現在の日本社会の荒廃といえる。
 日本の次代を担う子どもの教育は、親のつとめであるばかりでなく、民族のつとめである。アメリカのための軍事費をへらし、教育予算をふやし、教員の本採用をふやし、父母の教育費負担を軽くすべきだとの声は充満している。


       市場原理で教育破壊 戦争の肉弾つくる
 
 子どもの教育をめぐって父母や祖父母の願いは切実である。戦後も60年近くたち、日本は「金がもうかればよい」「自分さえよければよい」という殺伐とした弱肉強食社会となった、親が子を殺し子が親を殺す背筋も凍る事件も特殊とはいえなくなった、このままでは民族滅亡の道である――ということを痛切に感じざるをえないし、日本の未来を託す子どもたちには、思い出すのもつらい戦争の体験や、戦後の苦労を受けつがせ、人の気持ちのわかる、みんなのために行動できる、社会にたいする批判力や判断力を持った人間に育ってほしいとだれもが願っている。それが下関で、教科教室型中学校や2学期制を延期させた力であり、長崎の幼児を殺害した中学生のように「五教科はトップクラスだが人とまじわれず、平気で人殺しをする」ような子どもをつくってはならないと考えているからである。そして、それにつけてもいまの日本の教育はどうなっているのかと憂えざるをえないのである。
 現場の教師の実感は、「この10年余り、教育荒廃がひどくなり、教師が対応できなくなった」というものであり、「2000年ごろから政治の力で、能率化、効率化が強調され教育現場がどんどん変わってきた」というものである。
 文部省が「個性重視」「興味・関心第一」の新学力観と指導要領をうち出したのは、1989年のことであり、92年から実施された。この時期、文部省のパートナーとなった日教組中央が「子どもの人権」という叫びを強め、こうした「自由・民主・人権」のイデオロギーで学校が子どもの勝手気ままの“子ども天国”となり、教師の本来の指導性が奪われてきたことは、痛恨の経験であった。
 しかしそれは改められず、その指導要領を強化するかたちで1996年の中央教育審議会(中教審)第一次答申が出され、それにもとづいて1998年には教育課程が改訂され、新しい学習指導要領が発表された。この新指導要領は学校週5日制や薄っぺらになった教科書として記憶に新しいが、教育内容・制度・財政の戦後最大の改悪であり、移行措置をへて2002年度から全面実施となった。それは「知育偏重教育からの転換」「ゆとりのなかで生きる力を育てる」ことをうたったが、中心は教育に市場原理を持ちこむことであり、戦後の「教育の機会均等」を破壊してアメリカ型の徹底した弱肉強食の能力主義教育に転換するものであった。
 それは教育内容の面では、教える内容を3割削減し、たとえば国語で文学教材がへってスピーチの仕方、報告書の書き方など実用主義的な知識習得に重点が移されるなどする一方で、「足りない部分は塾でやる」(公文教育研究会広報部長)というように、金のあるものだけが塾で能力を伸ばすことができるようになった。さらに「総合的な学習」の時間や「選択」の時間が新設され、小学校の早い段階から少人数指導・習熟度別(能力別)学級編成が可能になった。
 その結果、子どもの「学力低下」が社会問題となり、それを受けて2003年に文科省が指導要領の一部見直しをおこなったが、その内容は指導要領の“歯止め規定”を見直し、「指導要領は下限を示したもので、できる子にはどんどん高水準の教育を与える」と、子ども間の格差をいっそう拡大するものであった。

 株式会社化で徳育も切捨て
 新指導要領は制度面では、中等教育学校(中高一貫校)の新設や飛び入学の導入、高校の通学区の廃止と高校の「多様化」、国公立大学の独立法人化、株式会社や非営利組織の学校経営参画などがすすめられた。
 たとえば全国はじめての株式会社中学校となる岡山県の朝日塾中学校は、平日は七時間授業で土曜日も授業。美術や体育、音楽などは外国人教師が教えて「英語を駆使する力をつける」ほか、道徳は廃止され、これで「トップクラスの高校合格をめざす」としている。入学時には75万円が必要で、高収入の親のみが対象となる。
 高校改革では東京都が先陣をきっているが、都教委の基本方針から「教育基本法の尊重」を削除。都立高校の統廃合をすすめ、中高一貫校など進学型高校を新設。通学区を全廃し、各高校に「東大などへの現役合格20人以上」などの数値目標を出させて競わせている。
 今春から実施される大学の独立法人化は、5年に1度の外部評価委員会による評価によって、産業界の目先のニーズにあった研究テーマに高い評価が与えられ、企業との共同研究が奨励される一方で、学問・研究の発展のうえで欠かすことのできない基礎研究や短期で成果のあがらない長期の研究は評価されず、「学問・研究の自由」は死語となり、将来の日本の知的地盤沈下は避けられないと語られている。
 財政面からは、義務教育費無償の原則を投げ捨て、教育費の切り捨てと義務教育費国庫負担制度の廃止をはかっている。その一方で、来年度予算要求では初等中等教育のトップに学力向上アクションプランをあげ、子どもを産業界の要請する“手軽な商品”にするための「スーパー英語高校」「スーパーサイエンスハイスクール」などの増設に予算をつぎこもうとしている。

 「教育基本法」の理念も否定
 さらに河村文科相は、最近、教育委員会制度について「教育の中立性確保のための、首長から独立した合議制の執行機関」という位置づけそのものを改め、その廃止も視野に入れた検討を中教審に指示している。それも学校の株式会社化などの改革をいっそう急ピッチですすめるためである。
 つまり小泉内閣のすすめる教育改革は、かつての戦争の反省から「教え子を再び戦場に送ってはならない」「教育が再び政治権力の不当な支配に服してはならない」という、戦後のたたかいのなかで生まれた教育基本法の理念を否定して、教育に金のあるなしによる露骨な差別・選別とランクづけを持ちこむことであり、子どもたちから人民的なモラルを奪い、社会にたいする批判力も判断力もない愚民にして、アメリカの下請戦争の肉弾にしようとするものである。そのなかで生まれるエリートというものは、下関の江島市長のように人人の生活も義理・人情もわからない冷酷なアメリカボーイであり、人人に忌み嫌われる存在でしかない。
 この教育改革は「安保」再定義、グローバル化、規制緩和の教育版である。したがって教育改革に反対するたたかいは、教職員だけのたたかいではなく、すべての子どもののびやかで創造的で心の豊かな成長を望む父母や、平和で繁栄した日本を望むすべての労働者・勤労人民の共同のたたかいとして発展させ、教育改革の強行を思いとどまらせねばならない。

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