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広島で五日市原爆展が開幕
            厚木基地移転や上関原発も論議に   2006年2月4日付

 「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる広島の会は1日、佐伯区民文化センターで「五日市原爆展」を開幕した。5日まで開催される。米軍岩国基地への厚木基地の移転や、上関原発、憲法改正などの動きのなかで、「なにかしなければ」と行動を求めて、被爆者や被爆二世をはじめ、センターへ子どもたちを習いごとに連れてきた母親たちなど各層の人人が参観している。

  米国の支配に憤り行動を求める参観者
 会場には各地で展示してきた「原爆と峠三吉の詩」パネルのほか、「沖縄戦の真実」「礒永秀雄の世界」に加え、今回新しく下関空襲のパネルなど全国の都市空襲のパネルが展示され、反響を呼んでいる。広島の会の会員も、今年最初のとりくみとなり、元の会社の同僚や知人、親せきなどに参観を呼びかけると同時に、参観者につぎの「被爆体験に学ぶ交流会」への参加や、協力の呼びかけを積極的におこなっている。
 比治山で被爆者を看護したという80代の婦人は、「なかなか市内まで見に行くことができなかったので、ゆっくり見せてもらおうと思ってきました」と初日に訪れパネルを1枚1枚見ていた。翌日、自分の書いた体験記を持ってふたたび会場に来て、「原爆が戦争を終わらせるのには必要なかったことや原爆のあとも終戦の前日まで日本中で空襲を受けていたことははじめて知りました。これほどのことをしてテレビでは“謝罪しない”といっていたのには腹が立ちます」と語った。そして「戦争中はあれだけ一生懸命に国民が“天皇陛下のため”“国のため”と信じて自分を犠牲にしていったのに、その天皇が“原爆は戦争だからしかたがない”といったのが忘れられない。裏切られた思いは消えることはありません」と語った。子どもの結婚が何度もとり消された経験もあり、これまで体験を語ってこなかったが「中国や朝鮮ともめたり、米軍基地を広げたり不安なことが多すぎますから、なにかしなければならないように思います」と協力者になった。
 母が被爆してガンで50代で亡くなり、妻の母もガンになって入院から2カ月で亡くなったという男性は、「あっという間だった。入院費が補償されるから助かったが、命にかえられることはないですよ。だからこういうものを見るのはつらい」と言葉をつまらせた。
 そして「腹が立つんです。いまの日本は、アメリカのポチになって国民のための政治をしない。アメリカの都合で米軍基地を移転させたり、狂牛病の肉を食わせてもかまわないという、無責任な政治ではないか。こんなことをされてなぜそんなに卑屈なのか」と語った。
 また「この戦争も天皇が決断してはじまり、国が焼け野原になることはわかっていても最後までたたかわせて、自分の命だけはしっかり守っている。小泉を見ていると、当時の政治とまったく同じだ。国民が苦しむことはわかっていても自分の生活さえ保障されればよいというものだ。中国とアメリカが戦争したら米軍を支援する以上真先に狙われるのは日本だ。日本はアジアの隣国と協力しあわなければますます先細りする」と語り「原爆展はいいことですね。がんばってください」と語っていった。
 「戦争終結に原爆投下は必要なかった」というパネルを熱心に見ていた50代の男性は「くやしくてしょうがないですよ」と語りはじめた。建設関係の仕事に従事し、さまざまなところで被爆者に出会い、体験を聞いてきたという。「平和のために原爆を落としたとかいって、いまも米軍基地が日本に居座っている。アメリカにずっとだまされてきたんですよ。中国人も韓国人もやられたことは忘れていない。日本人だけが忘れるようにしむけられてきたんだ」と怒りを語り、パネル冊子と『猿とインテリ』を買い求めていった。

 地元の保育園も集団で参観
 2日には、地元の千同保育園の年長組45人と保母4人が集団で参観。子どもたちは4つのグループに分かれて、パネルを見ながら話を聞いた。写真を指しながら「これはどうしたの?」と真剣な表情で被爆者の話に耳を傾けていた。引率の保母は、「毎年夏には原爆について子どもたちにわかるように話をしているが、こういうふうに写真で見ると子どもたちも感じるものがあると思う。家でも話になるようで“アメリカがやったん?”とか質問していた。すごく関心を持っている」「この子たちも広島県人だから、つぎの世代に伝えていけるように教えていかないといけない」と語っていた。
 会場では地元に住む被爆者が「わたしの体験を聞いてほしい」「話したいことがたくさんある」と、広島の会の会員と語りあう姿も多く見られた。
 また井口台小学校の母親が「憲法まで変えて戦争をしようとしている。自分の子どもが戦争に引っぱられるのではないか」と危機感を語り、「来年のPC(親と子と教師のつどい)でこのパネルを展示して被爆体験を聞きたい」と連絡先を記していったり、母親が被爆したという二世の婦人も「なにかできることはないか」と交流会に参加することを約束して帰るなど、つぎの活動へのつながりも広がっている。
 これまでとぎれていた50代、60代の人人の参加、協力もふえ、会の被爆者も、「つぎの世代へつながることがうれしい」と喜びを語っている。

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