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教育守れの声沸騰する教育現場
「いじめ」報道巡る教師座談会
              いじめ社会に負けぬ強い子を    2006年11月6日付

 福岡県の中学2年生の男子生徒が、自宅で首をつって自殺するという痛ましい事件が起こった。この問題をテレビや新聞が大大的に取り上げ、「教師のいじめが原因」と大騒ぎをしていることが、教育現場で教育をできなくさせるものだと、激しい怒りを呼んでいる。このようなキャンペーンと安倍内閣がやろうという教育再生・教育基本法改悪ともからんで、現場の教師はどうみなしているか。この問題について山口県と福岡県の人民教       中学校の運動会での組体操
育同盟の教師に集まってもらい、論議してもらった。
 「騒ぎすぎ」と憤り 学校現場での論議・自殺連鎖を心配
 
 司会 今回の「いじめ自殺」の問題について、学校現場ではどのように語られているか、その実情から大いに出してもらいたい。
  マスコミの「いじめ」報道については、高校の履修単位不足問題とあわせて、強く反応している。まず「騒ぎすぎだ」という意見。マスコミの報道が、日ごろの教師の努力や、子どもたちの生育歴・家庭環境、教師と子どもの人間関係などを度外視して、「今の学校はメチャクチャだ。校長や担任が悪い。どう責任をとるのか」と振りまいている。これでは学校のことがわからない親や地域に「全然なっていない」と誤解を与える。
 また、子どもが死んだことは大変残念なことだが、そこまでに至る子どもの状況、教師とのかかわりなど把握する必要がある。それをせずに騒ぐので、連鎖的に全国の子どもが真似て、「困難なことがあったら死んだらいいんだ」「死んで訴えてやる」という風潮を増長させてしまうと心配する声が多い。親たちの多くも「先生方が一生懸命やっていることが見えない」「子どもたちもいろんなことを乗り越えて頑張っているのに」「ただ学校や教育委員会が悪いという報道には腹が立つ」と語っている。
  いじめをめぐっては、問題にぶつかると簡単に命を絶つような、我慢したり立ち向かっていくことができない子どもになっていることを心配する意見が出る。教師の側も「うかつな言葉を子どもにかけて死なれたら」という思いで、子どものために本気でかかわることができなくなるという声もある。
 今の社会はどこもいじめばっかりだという意見が多い。校区は農漁業の地域だが、農業も漁業も一生懸命やっている人たちがみな立ちゆかなくなっている。また合併後の市の人口の関係で、国からの地方交付税が5億円削減され、教育予算も年間10数%削減されることになり「夕張市になりかねない」「いじめ社会だ」と論議になっている。そういう社会のいじめに負けないようにしないといけないという意見、なんとかはね返したいという思い、子どもたちもそれに負けない子に育ってほしいという思いが強く出されている。
  安倍総理大臣のお膝元の山口県で、総理誕生前から「安倍になったら教育はもっとひどくなる」と職員室でみんなが話していたが、その通りになっている。安倍総理誕生と同時に、北朝鮮核実験で戦争を始めるような姿勢だし、いじめ問題、高校履修問題による学校たたきと、次次に新聞やテレビで騒いでいることを冷静に見たら、本当に意図してつくられたものだということがよくわかる。

 意図的な報道に怒りが噴出・教育改革重ね
 
 教師も「いじめ」報道について「なにもいえないね」といいながら、割と冷静だと思う。うちのクラスでも男の子が「死ねといわれた」といって泣いていた。それで「これまでに死ねといったことがある人」というと、たくさんの子が手をあげた。「いわれた子は死ぬまで覚えているが、いった子はすぐ忘れる。そんなことをいうんじゃない」というが、他方の子にも「そんなことですぐに泣くんじゃない」という指導をしている。こういうと、一部の人が「それじゃあ、いじめはあってもいいのか」「子どもの人権はどうなんだ」と騒ぐが、教師としてそうでなければ子どもは育たない。いじめというのが子どもたちを指導していく上で、今マスコミがいうような一方的なものではないということを、教師は子どもたちの日常の様子から知っている。いかに子どもが死なないような教育をしていくかを痛切に考えている。
  いじめについては、「死んだら親がどれだけ悲しむかということに思いが至らない。ある意味自分勝手だ。そういう子どもしか今の教育は育てていないというのが悲しいし、問題だ」という意見を、小学生の子どもを持つ教師がいっていた。「マスコミが教師と学校をたたき回す。あの学校はどうなるのだろうか。教育ができなくなる」といっている。「こうなると、あの先生個人がいい先生だったか、悪い先生だったかはまったくの別の問題だ。マスコミが学校をつぶしている」という意見。
 「教師としては、いじめられた子も、いじめた子も同じクラスの子だから、この子どもたちを今からどんな人間に育てていくのかを考えていく。遺書にいじめた子の名前を残して死ぬというやり方が、死んだ子には申し訳ないが、非常に問題だ」という意見が職場でどんどん出た。
 「子どもを怒ったら教師はいじめたとなるのか。マスコミにあれだけ騒がれたら教師は子どもを怒れなくなり、教育ができなくなって、子どもはますます変になる」「私たちは教育がしたくて先生になったのに。子どもを育てるのは、苦労は多いけど育っていく喜びも大きいと思って頑張っている」という教師もいた。
 マスコミがその場だけを切り取って報道していくことにみんな怒っている。「以前長崎などで少年犯罪が起こったときに、“どこのクラスでも起こりうる”といわれたが、この度の“先生がいじめた”という報道は“どこの学校でも先生がいじめをしている”ということになる。こうした報道が教育をできなくさせる」と、普段おとなしい教師がそういっていた。
 安倍内閣が教員免許更新制を出したとき、ある教師が「全部がつながった」といった。「騎馬戦は男女混合でしてはいけない」という通達から、「飲酒運転をしない」と誓約書を書かせる問題から、今は「教師のいじめ」と騒いでいるが、それもこれもお上に従順な教師以外は首を切る免許制を導入するためにやってきたのか、と。「自分たちのいうことばかり聞く教師だけを残そうとしても、そんな人間はちょっとしかいない。麻生が現場に来て教師をやるのか。そんなことはできはしないのに」「それを無理矢理させるということは、今度は教師が苦しんで死なないといけなくなる。子どもの教育に責任を持って頑張ろうという教師でなくなったら、どうなるのか」と憤りを持って語る教師もいた。
 高校の必須科目の履修単位不足問題でも、「全国であれだけ出てくるということは、個個の校長や学校や教育委員会だけの問題ではなく、日本の教育全体の問題だ。学校5日制にして薄っぺらな教科書にし、小・中学校でしっかり授業をさせないで高校生にしておいて、一方で受験競争をあおり有名大学入学○○人と数値目標で学校を競争させ、そのように追い込んできた」という。
 バウチャー制度や学校選択制についても、「安倍内閣は学校現場に1つも意見を聞かずにこんなことを出してきて」「政府が現場に顔を出して説明して回ったらいい」「2度と立ち上がれないくらいみんなで意見をいってやる」という意見もあった。とにかく今政府が上からおろしてくることに対して、理屈でなく感情面も含めた強い怒りになっているのが特徴だ。

 教師と親の対立と分断煽る・教師も親も憤り

  教師と親を対立させるマスコミに強い怒りが出ている。北九州市では、2日付の商業新聞で「各担任が、市内の小・中学生約7万9000人全員の家庭を訪問し、子ども・保護者と面談して“いじめ調査”をおこなう」と発表し、「全国的にも珍しく積極的なとりくみ」と持ち上げた。うちの学校では校長が提案すると、このときばかりは教師から矢継ぎ早に意見が出され、みんなが反対した。
 教師のなかでは「計画性のないその場しのぎのもの。いじめ問題に対してなにかやっていると見せたいだけではないのか」「“いじめはありませんか?”といって、御用聞きのように聞いてくるのはおかしい。私たちはデパートの店員ではない」「1日30分から1時間余り時間をとり、6日間家庭訪問するというが、これくらいの時間で本当に突っ込んだ話ができるのか」「ますます教師と親との溝が深くなってしまう」という意見が出されている。最近の学年懇談会では、親との間で「親と教師が団結しないといじめは解決しない。今のマスコミの報道はおかしい」という話になった。教師も親もそう思っている。

 教育理念巡り論議 喧嘩もし成長するのが学校・反撃機運の現場
 
 編集部 教育現場は相当に怒りが沸騰していると感じる。父母や地域の年寄りのなかでもマスコミの報道に大変怒っている。マスコミは子どもに「キモイ」とか「バカ」とかいったらいじめだというが、そんなことはいってはならない学校というのは、一体どんな学校になるのか。子どもも先生も死人みたいになるんじゃないか。ケンカもし仲良くもし大騒ぎしているのが子どもたちの生命力だし学校ではないか。矛盾があり、葛藤があり、しかられたり、ほめられたり、叩かれたりしながら、成長していきつつあるのではないか。それをやってはならない、やったらいじめと認定してマスコミが社会的な制裁を加えるというのでは、教育は死滅だろう。そしてこんなおかしなことを政府もマスコミも力を振り回してやっている。管理職や教育委員会の教育にかかわってきた部分のほとんどが怒る状況になっている。この間の教育改革を推進したのはオリックスの宮内らだったが、教育再生会議も教育と関係のない企業家などが主体だ。そういう支配側の権威が崩壊し、現場教師がある意味開き直ってきているのではないか。
  「現場を知らないものがなにをいっているか」「そんならおまえ達が学校に来て教育をやってみろ」という意見が相当出ている。「職場放棄するか」という意見もある。
  マスコミは「自殺の原因はいじめだった」「生徒だけでなく教師がいじめた」といって大騒ぎして、日本中の学校の教師をいじめている。その論理でいけば、マスコミからいじめられた校長が自殺しているし、自殺した子どもの遺書を公表して名指しされた子どもなどが自殺をすることにもなれば、マスコミや政府が「いじめ殺人」として罰せられなければならない。
  今度のことで変わったなと思うのは、教師のなかで、「学校というのは、集団生活のなかで知育・徳育・体育の全面から子どもを成長させていくものだ。子どもをバラバラにしていったのでは、なにか問題が起こっても対処できない。子どもたちは集団のなかで切磋琢磨して鍛えられていくものだ」というように、教育はこういうものだという教育理念にかかわる論議が起こってきていることだ。
  怒られもせず、叩かれもせずに子どもは育つわけがない。「子どもの権利」ばかりいって、生まれてこの方子どもの好き放題にさせていくというのでは人間として成長できるわけがない。今起こっている問題も、なにか起こったときに、子ども同士で問題を解決しきる力が育っていない。すべてそこに親や教師が介入していかないと解決できないことに、親も教師も危惧(ぐ)している。

 教師を批判する異様な報道・教育の視点とは無縁

  教育では子どもの様子をよく見ていて、自分たちで解決するまで待とうということもある。それを「いじめを知っていて見逃した」と騒ぐのは見当違いだ。
  「先生がいじめの言葉を発したのが原因」とマスコミがやっているが、子どもたちがそれに乗っかって「先生がやっているからいいではないか」というような、「いつでも人に責任を転嫁するような子どもに育てては絶対にいけない」と、みんないっている。
 編集部 年寄りのなかでは「いじめられた子どもの親がいじめた相手が悪いというばかりで、自分がどういう育て方をしたのかを、まったく顧みないのが問題だ」という意見をいう。子どもが育っていくうえで、社会の影響、学校生活、家庭生活の影響を受けるが、子どもが生きていくうえでの人生観なり社会観なりおよそ「観」と名のつくものはおもに親の影響だ。学校の先生に似た子どもというのはあまりいない。そういうことも含めて考えないと子どもをどう育てるかということにならないのは明らかだ。教師はそれぞれの親の生活や考え方などを理解しなければ、それぞれの子どもたちを正しく理解して教育できるはずがない。
  子どもたちのなかで、人のせいにするというのが蔓延している。親にも教師にも怒られずに大きくなっているなかで、子どもは自分が間違うことが気に入らない。ペケをつけられると頭にくる。そして失敗したら人のせい。怒ろうと思ったらまず「○○ちゃんもやっていた」と人の名前をいう。一部の親もそれと同じで、子ども同士で解決できることでも、夕方になったら介入してくる。1度解決したと思っても、その親は納得せずに、「うちがしたことより、相手がしたことの方が大きい」「同じように怒られるのはなぜか」といったりする。

 人殺し作る「人権」 他人理解せず攻撃・開戦の論理と酷似
 
 編集部 考えなければならないのは、学校のいじめで自殺していたら、社会は基本的な構造がいじめ社会なのだから、いくつ命があっても足りないと思う。自殺は子どもより、大人の方がたくさんしている。年間3万人以上が死んでいる。社会はいじめ社会であることを正面から承認し、それに負けていくのではなく、仲間を信頼し、仲間と団結して社会の不正や不正義と立ち向かって正しいことを勝利させていく、そういう強い子どもをいかに育てるかだ。戦争という最大のいじめを体験しそれに立ち向かって生きてきた世代が非常に強調しているのがそういう点だ。親も教師も一致してかかわらないと、「かわいい。かわいい」で「好き放題にさせなければならない」というのでは、厳しい現実に投げ込まれるのがはっきりしている子どもが不幸になる。
  ある親が、「昔は子どもがいじめられて帰ってきたら、“もう1回行って来い。いじめられて泣いて帰る子はうちの子じゃない”といって教育していた」といっていた。「先生から殴られたといったら、親からも“それはお前が悪い”といわれていた」と。
  今では「子どものケンカに親が出るな」というのは死語に近い。子ども同士では解決しているのに、親が出てきて、親同士のケンカに子どもがびっくりする。
  運動会の練習でひもを配って、「あんたはちょっと太っているから足りるかね?」と心配していったら、あとにその子の親から「みんなの前で太っていることを叱責された。教師にあるまじきこと」と手紙が来たのには驚いた。
  「人権問題」ということになる。
  だから教師が子どもに対して、言葉を選んで遠慮していうようになっている。ワンクッションもツークッションもおいて回りくどくいうから、聞いている子どもは全然わからない。
  文科省が「個性重視」の指導要領を出してから、教師の「指導」といわないで「支援」というようになった。また、「子どもの人権」がいわれ始めて、子どもと教師、子どもと子どもとの関係でも、ある子どもが「いじめ」と思えば「いじめ」と認定されるというようになった。そういうところから今いわれているようなことが起こっている。「虐待本」というのがあって、「メシを食わない」「家出をする」などのマニュアルを示し、虐待を受けていることをアピールする手引き書まである。そうして子どもを大人に対抗させていく。
  子どもが教師に向かって「いじめだ」「体罰だ」と騒ぐ。そういうことに子どもが敏感だ。子どもに教師や親へのたたかいを挑ませている。若い教師のなかでは、1部の親から詰め寄られ、電話が鳴ったらピクッとしたり、親が訪ねて来るとため息をついたりと、このままいけば体調を崩すのではないかと思うような状況もある。そういうことに毎日ギリギリしている。
 編集部 自己中心思想が、他人の思いを理解し団結するのではなく、自己中心の攻撃的な排外主義になっている。テロ事件に関与していると決めつけて「関係ない」といっているアフガンやイラクに戦争を仕かけたり、北朝鮮が何十人かを拉致する事件をやったから何万人何10万人が死ぬかも知れない戦争をやって懲らしめようという論理と似ている。

 「子も親もお客様」の産物・集団的な教育を妨害
 
  「子どもや親はお客さま」「そのニーズにあわせていく」という方向が今の状況をつくっている。教師は子どもの「子守り」のようにされ、子どもを神様にし教師をサービスマンにしている。それは教育ではない。同僚の教師も「前は一生懸命頑張ったら頑張っただけ子どもも育つし、その子どもの姿を見たら教師としての生き甲斐を感じていた。最近は子どもが育たないから精がない。そういうのが1番つらい」といっていた。
 編集部 子どもの親たち、年寄りたちの「強い子に育ってくれ」、という人民的な育て方と、小泉・安倍内閣の教育改革が主張する「子どもや親はお客様」という方向、その両者が真向から対立している。親も年寄りも「なんで子どもをあんなにチヤホヤするのか。子どもがダメになる。世の中も厳しくなっているから、なおさらたくましく、仲間をつくれるような子どもを育てていかないと大事になる」とほとんどのものがそう思っているし、今の教育の方向をものすごく危惧(ぐ)している。
  多くの親は毎日必死で働いて、なんとか生活をやりくりしている。家庭科で「子どもと食事を一緒にしているか」という調査をしても、ほとんどバラバラに食事をとっていて、子どものハシの持ち方を見る余裕もないくらいに追い込まれている。親はそれでも子どもにちゃんと育ってほしいと思っている。教師はそういう親とかかわる時間が限られている。学校に文句をいってくるのは1部のどちらかというと余裕のある親の方だ。
 うちの学校は、2学期に学級懇談がない。ないというのはおかしいが、設定しても親が来れない。そうなると先生と親との個別対応、個人面談しかできない。学級の親たちが一堂に会して親同士が話しあうということがなくなり、親も学級の親として子どもたちを集団的に育てる方向に進まない。そうなるとますます子どもはどうなっているかと親の不安も募る。
  「1軒1軒訪ねていじめ調査をするよりも、学級懇談会をしていじめ問題を話しあったらどうか」というと、「個人情報保護の問題があるから。プライバシーにふれることはできない」という。いじめ問題にしろ、教師と子どもの1対1対応では解決できず、学級集団の子ども同士、また他のクラスの子どもとの関係、地域との関係もあり、みんなで話しあって初めて解決の方向に進むが、今はそれができなくされている。
  「個人情報保護」といって、学級名簿に親の年も職業も書かない。同じ学級になったら、親同士も心を割ってお互いの家庭のことも心配しながらやるものだし、以前ならあそこの家庭はこういうことで困っているからこういうふうにしてあげようと、理解しあいながら進めることができていた。それを知らせたらいけないというから、学級のまとまりはできずバラバラになる。学級集団で頑張っていこうということになかなかならない。
  学級名簿をつくらない学校もある。連絡網も自分の前の人と後の人だけ。だから、何回電話してもいないが、家に行こうと思ってもわからない、他の人に聞くこともできない。
  これは笑い話だが、子どもが家に帰って学校に電話してきて「今日遊ぶ約束したんだけど遊べなくなったので、○○ちゃんの電話番号を教えて下さい」という。親同士もつながろうと思っても、それができない。
  山口市で来春入学予定の子どものところに、小学校のお兄ちゃんお姉ちゃんが家庭の調査票を届けたところ、マスコミが「子どもに調査票を持って行かせるとは。のぞかれたとき個人情報がもれる」とたたいた。近所の上級生が小さい子のことを思って持っていくのが教育上すごくいいのに。
  教師と親との距離もつくられている。担任になって半年以上たっても、クラスのそれぞれの子どもの親の職業がわからない。
 「家庭訪問では親の職業などプライバシーにかかわることは聞いてはいけない」「あがってお茶を飲んではいけない」という指示がされており、それが効いている。5分ぐらいで「次がありますから」と帰っていく。そうやって親と教師が理解しあってやっていないから、親の側から見たら「この先生はうちの子のことをわかってくれていない」という思いが募るし、教師は教師で「この親はなんだろうか」という思いがあって、お互いわかりあえないまま、不満を残して1年が終わるね、という話になった。教師の側は手のかかる子ほど親の状況は聞きたいと思うし、親も子どものことはちゃんと理解してほしいと思っているが、それを教師の側からストップをかけているというのは、大きな力が働いているということだ。
 編集部 「個人情報保護」というが、国家機構の側は総背番号制などで個人情報を一手に握り、それを大企業がかき集めてダイレクトメールを送りつけたりしている。個人情報は、一般の勤労人民同士は交流しあってはならないという意味だ。昔は隣組とかがあって「非国民」と監視しあったりしていたが、いまはバラバラ分断でマスコミなどが袋だたきにし、力を結集させないという仕かけのようだ。なまじ何人かが集まって相談したら共謀罪という調子だ。戦前は天皇の命令だったが、戦後はアメリカ型民主主義の格好でものをいわせない仕かけだ。

 陰山方式にも批判噴き出す 差別・選別の先端

   山陽小野田市が今春から採り入れた陰山方式が、市内の教師やPTAから「子どもを競争させるな」と猛烈な批判を浴びている。最初山陽小野田市にやってきたとき、陰山は「早寝早起き朝ごはん」と基本的生活習慣をつけるようなことを強調していたが、いまは豹変して、陰山式テストで基準点に達しない学校は校長を呼びつけて恫喝し、平均点をあげろと学校間の競争を煽っている。陰山方式に異議を唱えた校長がやり玉にあげられ、その学校の教師が呼ばれて「国語の授業のなかで陰山式の書き取りを何分やらせているか」「百マス計算を何分やらせているか」と調査されている。その陰山が安倍内閣の教育再生会議の中に入っているので、再生会議がどんなものかということが暴露された。最初は耳障りのいいことをいっていたけど、差別・選別の最先端でしかないと。
  最近、長崎は少年事件が連続したが、子どもの自殺も多い。広島でもそうだが、長崎では近年中学校の学校選択制を実施している。いまのキャンペーンは、いじめがある学校は転校して自由な学校選択制、バウチャー制度というメニューのようだが、それでは自殺が増える方向だ。
 編集部 国会では教育基本法の改定をやるといっている。それは、愛国心が争点のようにいわれているが、戦前の愛国主義教育による軍国主義というのとは、違いがあると思う。たしかに、「北朝鮮が拉致をして危害を加えるなど横暴だから懲罰せよ」「それは国を守るためだ」という「愛国心」は戦争動員のスローガンだ。その基本的なイデオロギーは、他人の痛みなど理解できず、自分の責任は考えず、他人の責任だけを攻撃するような、自己中心の攻撃的な排外主義イデオロギーだと思う。国内でさんざんに抑圧され締め上げられるなかで、海外に犠牲を転嫁する、弱いものの犠牲の上で生き残ろうとするという個人主義イデオロギーだと思う。
 教育基本法改悪は、公教育を解体し、学校を株式会社のようにし、学校同士が競争をやり、子どものニーズに合うようにというニセ民主主義の格好で、実際は子どもの自己責任で切って捨て、差別選別ランクづけの弱肉強食に投げ込むことは明らかだ。そして免許更新制で従わない教師は首を切り、それへの抵抗を、なくしていこうとしている。この10数年、幼稚園は自由保育、小・中学校も「個性重視」「興味関心第1」でさんざんに自己中心の個人主義を蔓延させ、教師の指導性を奪ってきたが、そのうえにもう1段学校の企業化を進めて日本の教育と子どもたちの将来をメチャクチャにしようとしている。

 職員室内でも活発な論議に・結束強める現場教師

  このまえうちの学校で運動会があった。マットや跳び箱を使った難易度の高い競技にも挑戦したが、今年の運動会は去年までと様変わりして、子どもたちがころんでも少少ケガをしても最後までやりきって、集団の規律を守りながら1年から6年まで奮斗した。それを見た親や地域のおじいちゃん、おばあちゃんはものすごく感動した。
 成功の大きな要因は、1年から6年までの全教師が集団を形成し、「自分だけができたらそれでいいのか。全員が運動会を通じて高まっていこう」「苦手なこと、嫌なことはこれからの人生でいろんな場面で出くわす。そのとき立ち向かわず逃げるのか、それとも失敗しても食らいついていくのか」と、「個人主義や子ども天下は認めない」というところで、女性教師も男性教師も、若い教師もベテランも一致して指導した。子どもたちも集団のなかで個人が力を伸ばしていく心地よさを感じたと、終わってから同僚と話している。今教育改革で教師も子どももバラバラにされているなかで、一致して目標に向かって努力するという方向が、親や地域からも信頼され支持を得たし、教師同士もかつてない連帯感でものすごく大きな力を発揮した。みんなで一緒にできたことをものすごく喜んでいる。
 ある教師は「去年まではそこに切り込めなかった。1人だけが奮斗しても、親は出てくるわ子どもに反発されるわで全部はね返された。しかし教師集団が一致してとりくんだときにはそれが解決されていった」と反省をこめていわれた。1つの重要な教訓だし、こうした内容を地域に発信していきたい。
  うちの学校では最近授業参観があり、子どもたちが長崎の修学旅行に行って学んだことを発表した。学年の初めには「自分さえよければ人はどうでもよい」という傾向の強かった子どもたちだが、「まだ12歳なのにお母さんや兄弟を亡くして、僕はかわいそうで泣きました。よく今まで頑張れたと思いました」「アメリカが原爆を落としたことを僕は許せません」「2度とくり返さないように平和な世界にしたいです」と次次に、被爆者に学んだことを発言した。それを聞いた親が「今の子どもは自分勝手だと思っていたけど、友だちのことを考えるし、平和のこと、世界のこと、日本のことをよく考えている。発表を聞いて安心しました」という。マスコミが、悪い面ばかり煽っているが、基本的には子どもたちのなかにはそういう力がある。
 子どもたちは学校だけで育っていないし、人民のなかで子どもを教育する力は強まっている。子どものなかの人民的な側面も強まっている。修学旅行の文集も、これまでは学級ごとだったが、今年は学年全体の分厚い文集にした。印刷も山のように積み上げ、体育館に広げて丁合もすごかったが、それで隣のクラスの友だちがどんな感想を書いたかを知りあうこともできるから良いということで、毎日遅くまで残ってやりきった。それを通して子どもを見るうえでこういうことが大事と、共通した問題意識を持って話しあうこともできている。
  今職員室では、論議を始めたらみんなが寄ってくる。職場の雰囲気が変わってきて、みんながうなずいてくれるのがわかる。これまで、いろんな経験をして、それでもじっと我慢してきたが、これではだめだとみんな開き直ってきた。子どもの教育に直接責任を持っているのは現場教師の方だ。代わりにやってみろといわれたら、政府の方がおたおたする。確信が持てる情勢になってきている。現場の教師は元気ですよ。
  職員室での声が大きくなった。以前は小さい声でしゃべっていたのに。
  9月の長周新聞号外で教師の反響が強かったのは、教師の怒りを束ねる組織がいるというところだ。そこをみんながものすごくいってきた。
  校長連中が腹を立てている。ある校長は「今は反対勢力がなくなっている。先生が組合にも入らないというのが間違っている。だいたい物事というのは反対がなければまっすぐに行かないものだ」という。

 教職員組合を切望 子供の未来に責任おう側へ・体質転換が課題
 
 編集部 教職員組合が切望されている。そこの体質の転換がもう1つの課題ではないか。アメリカがひき起こす戦争は、イラクでも北朝鮮でも「独裁反対」「自由と民主主義」を掲げている。第2次大戦後「ファシズムに反対する民主主義勢力」という格好をして、あれだけ残酷なことをした。そして戦後の民主主義勢力のなかで、戦前型の日本軍国主義には反対だが、アメリカは「ファシズムから解放してくれた平和勢力」という流れがあった。日教組の指導路線は、このアメリカ民主主義の擁護という根本問題がある。だから「個性重視、興味と関心」また「子どもの(個人主義的な、他人のことは知ったことではないという)人権」の擁護者になってきた。このインチキ路線を転換して、ほんとうに日本の子どもの未来に責任を負おうとする教師集団を結集できる路線に転換させることが求められている。
  ここまで教育界に「自由・民主・人権」の路線が浸透するのを促進したのは日教組の指導路線だ。日教組の教育研究集会で「鍛える」「頑張る」「(教師が)指導する」がいけないといってきた。現場では、日教組といい「日共」系全教の活動家が「子どもの人権」を掲げた教育破産者になっている場合が多い。
  うちの学校では今回の「いじめ調査」の問題で、組合員であるかどうかは関係なしに、一斉に怒りの矛先が1つの方向にウワーッと向いている。また、もう1つの面として、家庭訪問をすれば親と話ができるから、いじめ問題の性質を教師がつかんで親のなかに入れば、「マスコミが教育をつぶしている」「社会のいじめに負けない子を育てていきましょう」と逆に団結が強まるし、教師の確信になる。
 編集部 今、戦後61年がたって、ブッシュ、小泉から5年がたって、広範な人民のなかで世論の大転換がはじまっている。もう黙ってはおれない、行動しないといけないという力が強まっている。教育界も同じ流れだと思う。管理職も日本の教育をつぶすようなそんなバカなことまで聞けるかと、開き直って、反撃の機運が拡大している。それを束ねていけば相当大きな力を発揮することは疑いない。日本の教育をどうするか、教師が中心になって世論に広く訴え、広範な勤労父母、戦争を体験した年配者たちなどと交流し、団結して社会的な運動として大結集していくことで、敵がマスコミを使い全権力を使ってやってくる重圧をはね返すことができる。大きな視野に立って、教師の教育者の使命に立った運動が爆発する様相になっているのではないか。
 司会 今の情勢に確信を持って行動に踏み出しましょう。きょうはこのへんで。

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