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人権主義による歴史認識の破壊
               一坂太郎氏に代表される歴史学会の潮流  2003年4月15日付

 下関にある東行記念館の高杉晋作史料が萩に持ち出されるという事態の展開のなかで、高杉晋作と明治維新を冒涜(とく)する潮流への批判とともに、父祖たちの維新革命の事業を正しく顕彰する方向での論議が発展している。
 こうしたなかで東行記念館の元学芸員・一坂太郎氏が、最近あらわした本や講演で、高杉晋作や明治維新についてこれまで科学的に研究され、山口県民のなかで誇りをもって語り伝えられてきた歴史を「勝者の栄光の物語」で「偽物の歴史」だといって侮べつし、「本物の歴史」は「改革の犠牲」「歴史の敗者」のなかにあると主張して、結局、維新革命に対抗して敗北した側に真実があるかのようにとなえていることが多くの人人の知るところとなり、ひんしゅくを買っている。
 
  敗者の人権主張し幕藩体制擁護
 一坂氏は歴史には「勝者」だけでなく、「敗者」もあり、「栄光」だけでなく「悲劇」もあるといっている。たとえば、明治維新への途上で幕府恭順の側に立って、人民諸隊によって一掃された長州藩内の「俗論派」が、「維新を阻止する“悪役”のイメージが強く被(かぶ)せられ」、今日まで招魂場にもまつられず、「顕彰する碑」もないというような「冷たい仕打ちを受けてきた」ことに憤慨し、その名誉回復をとなえるという具合である。
 一坂氏は「“俗論派”は敗れたから“俗論派”になっただけで、彼らにも彼らの“正義”があった」「“正義派”も“俗論派”も自分たちが志し、すすむ道こそが長州藩の、そして天下国家のためになるとひたすら信じた」といって、その「思い」を代弁してやまない。幕府や「俗論派」との妥協を主張して俗論派討伐への決起に反対して逃亡し、新撰組に長州藩の内情を話し、新撰組の手で送り返され、結局とらわれて処刑されるという運命をたどった元奇兵隊総管・赤根武人の名誉回復をとなえるのも、このような観点からである。
 この見方の特徴は自分の興味と関心がすべてであり、俗論派という敗者の人権を擁護するという志向である。東行庵という高杉を顕彰するところに身をおいて、高杉冒をやるという「僕の自由と民主主義」と「僕の人権」を実行した一坂氏であるが、明治維新の見方もまさにそれと同じである。
 一見ハイカラそうな「自由と人権」主義が、130年余りまえに滅亡した徳川幕藩体制を擁護するという時代遅れの反動側に立つのである。士農工商の身分制がつづき、交易・交通の自由もなく、「百姓と油は搾れば搾るほど出るものなり」の徳川時代のままがよかったというのである。それは実際には、欧米の植民地として清国と同じようになっていた方がよかったというものである。そのようなものを支持するのは、ペリーの黒船来航以来日本の植民地化を狙っていたアメリカのようなものであろうし、どうせ第2次大戦で敗戦しアメリカの植民地になったのなら、明治維新などしなくてもそのまま植民地になっていた方がよかったという連中のたぐいであろう。
 明治維新の史実についての一坂氏の主張は、「俗論派」の幕府恭順路線が当時では「常識的見解」であり、「まちがっていなかった」と公言し、高杉晋作らの武力倒幕路線が「過激な暴走」であったかのように描き、「功山寺挙兵」を冒していることに集中的にあらわれている。

 人民の支持で勝利した武力倒幕
 高杉や奇兵隊士の碑が多くあるのは、人人がそれを尊敬したからであり、俗論派の碑がないのは人人が尊敬しなかったからである。一方は日本社会の進歩発展のために当時の百姓・町民とともに命をかけてたたかったからであり、他方は徳川幕藩体制のもとで百姓・町民をしぼったうえでの武士階級としての自分の特権的な地位を守るために革命派にテロ攻撃をかけたからである。
 功山寺挙兵は80人の決起であった。それは長州藩内の領民全体の熱烈な支持を受けその決起を促したし、奇兵隊・諸隊の決起を呼び起こした。高杉はそれを確信しており、身を挺(てい)し、たたかって人人を激励し、局面を転換したことが偉大だとみながみなしているものである。
 高杉らの行動と俗論派の行動は、個人的な関係ではなく、徳川幕藩体制と農民、商人・町民とのあいだに形成されていた当時の階級的な矛盾関係と関係してあった。80人で決起した高杉らが勝利し、巨大な権力をもっていた俗論派の藩政府が敗北したのは、ほかでもなく領民がどちらを支持したかが決定的な分かれ目であった。それは4000余りの兵力で十数万の幕軍をうち負かした四境戦争で勝利したのも、新潟でも会津でも勝利したのも同じであった。
 幕末期には、徳川幕藩体制の矛盾は極点にまで達していた。幕藩体制と呼ばれる封建支配体制は、生産力を代表する農民と封建支配階級とのあいだの矛盾、さらに封建制のなかで発生し発展しつつあった大商人・手工業者・マニュファクチュアの経営者などと封建支配階級との矛盾が基本的な矛盾を形成していた。徳川後期になると、大飢饉(ききん)がひん発して数万の農民が餓死したりし、それはしばしば巨大な百姓一揆となってあらわれていた。そのうえに外圧として、欧米先進資本主義国の侵略の波がおし寄せ、それまで鎖国をしてきた幕府が欧米に従属することで地位を守ろうとするなかで、国内矛盾の対立と斗争はますます激化することとなった。維新革命の原動力となったのは農民、商人・町民であった。
 かれらを導いてそのブルジョア革命を指導したのは下級武士であった。日本ではブルジョアジーは政治的に指導するほど成長していなかった。その代表は高杉晋作であり、農民、商人、下層武士を奇兵隊その他人民諸隊という政治・軍事組織に結集し、徳川幕藩体制の打倒と近代的統一国家の形成をすることと結びつけて、欧米資本主義の植民地となることを拒否した。高杉が偉大なのは、客観的な矛盾関係を正しく把握し、それに適合した戦略戦術をもって、みずから先頭に立って正しく導いたからである。
 一坂氏が歴史研究の分野にもちこんでいる「人権擁護」史観は、「革命派も幕府恭順派も、どちらとも一生懸命やったのだから結果だけから判断してはいけない。努力を認めてやらなければいけない」という思想を根底にしており、今日社会的にはびこっているアメリカ型の「自由・民主・人権」思想と響きあっている。
 重要なことは、これが一坂氏1人の恣(し)意的な遊びごとといったものではなく、近年日本の歴史学界のなかに流れる傾向であり、歴史の進歩と反動の違いをごちゃまぜにして、わけがわからなくさせていることである。
 戦前、非科学的な皇国史観がとなえられ、歴史を正しく見ることができず、不幸な戦争にかりたてられた経験がある。戦後はその反省から、歴史研究にも発展が見られたが、いまではそれをまるで投げ捨て、「自由、人権」といって歴史を科学的に正しく見ることができなくさせている。歴史学の権威者といわれる部分までが臆面もなく「敗者の歴史」などといっている。それはかつての戦争の反省を忘れて、今度はアメリカの国益のための戦争に日本を総動員するたくらみがすすんでいることと結びついているといわなければならない。

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