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きけわだつみのこえ  日本戦歿学生の手記 

日本戦没学生の手記『きけわだつみのこえ』は1949年、学徒出陣で戦場に引きずり出されていった学生たちの手紙、日記を編集・発行したものである。これを抜粋して冊子としてまとめたもの。戦争体験世代の思いを受けつぎ、戦争を阻止する力のある運動をつくるために活用されることを願う。
    
母へ最後の手紙(林市造)/情けある母の哀訴嘆願(平井聖
死んでいく戦友(林憲正)/鮮血にまみれた農夫(川島正)
全12編を収録

        発行・青年学生平和の会  B6判 30頁    


  母へ最後の手紙   林市造
     京大経済学部学生。昭和20年4月12日特別攻撃隊員として沖縄にて戦死。23歳

 お母さん、とうとう悲しい便りを出さねばならないときが来ました。
 親思う心にまさる親心今日のおとずれなんときくらん、この歌がしみじみと思われます。
 ほんとに私は幸福だったです。わがままばかりとおしましたね。
 けれども、あれも私の甘え心だと思って許してくださいね。
 晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。
 母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることができずに、安心させることもできずに死んでいくのがつらいです。
 私は至らぬものですが、私を母チャンに諦めてくれ、と言うことは、立派に死んだと喜んでください、と言うことは、とてもできません。けどあまりこんなことは言いますまい。
 母チャンは私の気持をよく知っておられるのですから。


  情けある母の哀訴嘆願   平井 聖
     東北大法学部学生。19年10月豊橋陸軍予備士官学校入校。20年7月9日仙台にて爆死。20歳。

  昭和一九年九月二五日
 福島氏の柴生田宅で優待になり、日曜朝帰宅ーー母より、理科方面への転向をすすめられる。いままで経験をつんできた学生としての最善の道をたどれ、とのありがたい親心ではあるが、そのすすめのごとく医科にまた農科へいくことも心に染まず、つい憤慨する。文科学生としての行き方を求めてせっかく苦労して飛び込んできた道である。

  
  一一月三〇日
 またしても母の転科をすすむるますます激しくなった。ただひとりの息子――その成長ばかりを願ってきた母は、わが子をみすみす戦場に死なせるのはけだし“願わざるのはなはだしき”ものであろう! この憂いその心配はまるで狂気のごとく、母としてはほとんど泣かんばかりの真剣な態度で自分に哀訴するのであった。説き去り説き来たりためつなだめつ一生懸命説得するのであった。最初理科方面への転向慫慂は、「将来大学を出よ」との打算的な考えにすぎなかったようであるが、今や母親の本能は敏感に 我が子の血の臭いを嗅いでいる! 的確に“死”の予想をしていたようであった。もちろん飛行機に乗れば当然生命はなく、「仙台青葉師団」の戦闘幹部にでもなれば、これまた当然生還の目算は立たぬのである。そぞろ母親は感慨深く、「お前の性格からしても猪突猛進してついには生命を失くすであろう」という。いかに我が性格はわざわいなるかな、自分もそう思っていたところをズバリ言い当てられたので愕然とした。しみじみ自分の一徹な性格をば嘆く!
 しかもこの若さにおいて散ることこそ、自分の最も本望とするところ――だが両親の考えは、一概に自由主義思想の残滓的感情とばかりはいい切れない。
 心中で泣いて合掌しながらも表面ではただただ微笑をたたえて、情けある母の哀訴嘆願に対さねばならない。この矛盾そしてこのジレンマ、自分は二つの相反した魂の葛藤に、心苦しくも泣き、果ては慟哭したのであった! ……お母さん、お気持ちはようくわかります。しかし時代とわれわれの教養がお言葉にそうのを許さないのです。どうぞ先立つ不幸はおゆるしください。……
  

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