トップページへ戻る

クラスなくす「教科教室型」中学
自主性さけび指導性を否定 
                                                    2003年5月22日付

 下関市・川中中など県下5中学で準備
 文科省の「教育改革」の具体化として、山口県の5つの中学校を新しい「教科教室型」の学校として新設する方向が、該当する市や町の教育委員会をつうじて上から強引にすすめられており、教師や父母のなかで大きな問題になっている。

  国が予算で規制
 実施予定の学校は、2005年度開校予定の豊浦町と田万川町の統合中学校、2006年度の豊北町の統合中学校と下関市立川中中学校など。すすんでいるところではすでに新設校の青写真ができ、地域への説明会ももたれている。
 教科教室型学校とは、これまでの「○年○組」という教室を廃止し、そのかわりにすべての教科の専用の教室をおくもので、生徒は各学級ごとに荷物を置くロッカーのある「ホームベース」を拠点に、自分の受ける授業の教室を求めて一日移動をくり返すというものである。朝の会や終わりの会、道徳・学級活動はいずれかの教科教室でおこなうとしている。
 この教科教室型学校は、「これまでの画一型教育、生徒を管理・束縛するという考え方を転換し、生徒の主体性を尊重し、個性をのばす」という理念に立って、「授業に受け身でなく、主体的にむかう姿勢をつくる」「教科の特質をいかした教室にすることで、学習意欲や関心をひき出す」「クラスの固定的人間関係のもとで息がつまり、不登校も生んでいる状態を変え、すべての生徒の居場所をつくる」「それも自由放任でなく、自分の判断でつぎの教室に行かねばならないという自己責任がともなう」などのよい点があるとしている。
 しかしこの教科教室型学校は、実際に子どもたちの成長にとってどういう効果を生んでいるのか。豊浦町で全国の「先進校」に視察に行った教師や父母に聞いた話をまとめると、つぎのような実態が浮き彫りになった。
lこれまでは学級集団を母体にして、勉強も生徒指導の面も見ていたし、生徒からいえば友だちづくりも学級集団を基礎にしていた。しかし教科教室型では、ホームベースがあるとはいえ、学級集団への所属感は確実に薄れる。
l生徒はどの学年・クラスもその教室を利用するので、自分の教室という意識がなく、少少ゴミが落ちていても無関心、教室の汚さがめだった。
lこれまではこのクラスのこの席はAくんの席というのがすぐわかっていた。しかし教科教室型では、同じ教室に1年から3年までつぎつぎに生徒がやってきて、好き好きに座る。だれが欠席か、だれかエスケープしていないか、よっぽどの手段を講じないと把握できない。
l教科教室型学校は、「生徒の自主性を尊重する」ということで、制服なし、校則なし、チャイムなしの学校が多い。行ってみると、これが中学生だろうかと目をおおいたくなるような赤や黄色の身なりをしていて、全校集会でも私語が多く、その学校の校長は「申しわけない」「申しわけない」と謝りつつ案内してくれ、身につまされた。
l教師も、なにがあっても「生徒の自主性」「自主性」といわれ、無力感を感じているのではないか。教師であるかぎり、いいとは思っていないと思う。
l毎時間ホームベースに教科書などをとりに帰らないといけないため、忘れ物やトイレで遅刻する生徒が出ている。
l大学の講義を聞くのと同じで、平均以上の一定の規律を身につけた学年でないと、荒れた学年であれば収拾がつかなくなると思う。それを小学校の六年間をへただけの子どもたちに要求するにはむりがある。
l教科教室型の建物を建てたが、生徒の実情にあわないのでやめた学校もある。

  教師や父母も危惧−視察校も深刻な荒廃−
 この問題について、下関市でも豊浦町でも教師や父母のなかでは、「建物の場合、予算の多くは国から出るので、どういう学校をつくるかは国の方針に逆らえないようになっている。市町村合併と同じだ」と、教師や父母にじゅうぶん説明のないまま予算がつき青写真ができて進行していること、また教育委員会から「教師の意識改革が必要。これからの時代はいかに生徒の自主性を尊重するかで、あなたがたの意識は古い」とたたみこまれるため、ものがいいにくくされている。しかしこの10年余り、「個性重視」や「子どもの人権」をかかげてすすめられた教育の結果、学校は「子ども天国」となり子どもたちが自己中心のひ弱な人間に育っている事実に心を痛めないものはいない。「いくらハコモノをつくろうと、“仏つくって魂入れず”ではいけない」「どんな子どもに育てるのか、教師も父母も腹を割って話すべきときだ」という意見が、教師や父母のなかで渦巻いている。
 小・中学校の教師のなかではつぎのように語られている。
 「学校は勉強だけできればいいというものではない。クラスの担任が、朝来たとき声をかけ、給食をいっしょに食べ、生徒との信頼関係を築く過程がある。どの先生も教室には生徒の成長を掲示するなど工夫している。また一人一人の家庭環境、悩みをつかむなど人間的なかかわりをふくめてクラスがある。教科教室型は、生徒指導面を無視しており、生徒の全生活をみる母体がなくなるし、家庭との関係も薄くなる」
 「学力も、学級集団づくりが基礎だ。授業はもちろん、体育祭やクラスマッチ、合唱コンクールなどのさまざまなとりくみではぐくまれる仲間意識のなかで、落ち着いて勉強できる環境も、勉強にたちむかう意欲も、勉強に必要な集中力や観察力も育つ。こうした学習態度が身につかないと、できる子とできない子の格差がすごく広がる」
 「社会の状況を見ると、あまりにも合理主義で、忘れてはならないものを忘れてきたと思う。それが子どもにも反映して、自分第一で、“みんなのため”という言葉が死語になっている。“体罰反対”といわれるなかで、人の痛みのわからない子が育っている。それを集団のなかで学ばせていくことが大事と、いま見直しがはじまっているのが現状だ。教科教室型学校は、これにこたえる理念でないところに問題がある」
 父母のなかでも「10年まえに保育園で自由保育がはじまり、保母が口出ししない“見守り保育”がはやったが、その結果小学校にあがってもチャイムがなるまでに必要なことができない、規律のない子になってこまった」「大学生になっても社会的なルールを守れないため、最近では学級担任をもうけたという」などの経験を出しながら、「“自由な選択”というが、出会った先生と最後までがんばっていくようなたくましい子どもに育ってほしい」と話されている。
 教科教室型学校は「個性」や「自主性」といって子どもたちが所属する学級集団を崩すことで、学級集団のなかでこそ知育・徳育・体育の全面で成長できることを否定し、また教師の指導性を否定して、「授業についてこれないものは自己責任」というような殺伐とした学校生活にし、自己中心の、ものごとを深く考えることのできない人間を生み出すことは、視察校の例を見ても明らかである。とくに全国にもまだあまり例のない、下関市・川中中のような大規模校でそれを実施するとどうなるかと、心配されている。しかもこの動きは、子どもたちを真実の見えない愚民にしてアメリカの戦争の肉弾にしようとする、有事法や教育基本法改悪などの一環である。
 県教委や市・町教委は、新設校の建設をすすめるまえに、関係する学校の広範な教師や父母、地域の参加のもとに、視察先の「いい面」ばかりでなく正反両面の事実を明らかにし、「どんな子どもに育てるか」を中心にどんな学校にするかの意見をあおいで再検討すべきである。

トップページへ戻る