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住民追出し核処分場に分捕る
震災5年目の福島県双葉郡
                 原発事故「復興」の現実      2016年2月24日付

 東日本大震災からもうじき五年が経過する。東北沿岸を襲った未曾有の地震・津波災害に加えて、東京電力の福島第1原発では史上最悪の原発災害を引き起こした。この5年間で政府は「復興」に25・5兆円もの予算を投じてきたが、被災地の住民たちの多くはまともな生活をとり戻せず、引き続き棄民状態に置かれている。被災3県では現在も18万2000人が避難生活を送っており、とりわけ原発事故に見舞われた福島県では9万9000人(1月現在・福島県)が故郷を追われたままである。本紙は震災から5年を迎えた東北に記者を派遣し、5年に及ぶ「復興」とは何だったのか、被災地の人人はどのような状態に置かれ、何を求めているのか、福島から現地取材を始めた。
 
 町乗っ取りの別目的が進行 共同体崩れ帰還困難 作業員の町へと変貌

 いわき市の沿岸部を北上し、国道六号線を通って双葉郡に入ると街の景色が一変する。住民の姿はほとんど見られず、原発の廃炉作業、放射能除染作業、災害復旧工事に携わる大型ダンプやトラック、マイクロバスや業務用車が行き交い、静かな町を砂埃が覆っている。双葉郡各町村の魅力をアピールしてきた道の駅「ならは」は、双葉警察署の臨時庁舎となり、住民のいない町の警備にあたる警察官が常駐している。
 営業しているのは、作業員の需要を見込めるコンビニ各社、プレハブの食堂、自動車整備会社、ガソリンスタンド、作業を請け負う大手建設会社の事務所、パチンコ店ぐらいだ。広大な農地のあちこちにフレコンバッグに詰め込まれた除染廃棄物が大量に敷き詰められている。
 原発から30`圏内の旧緊急時避難区域の広野町は5年前の3月11日、地震と津波により甚大な被害を受けたが、死者・行方不明者は3人と最小限の犠牲しかなかった。しかし無事を喜びあったのも束の間、原発災害が町を襲った。広野町は双葉郡のなかで唯一、福島第1原発の20`圏外であったために、他町村以上に情報が入らなかった。役場は必死に情報をかき集めて状況を把握し、13日には町長が避難指示を出して全町避難が始まった。役場機能は小野町に移し、埼玉県三郷市や福島県内のあちこちの自治体の体育館などに一次避難した。そして二次避難では県内のホテルや旅館に移り、三次避難で仮設住宅や借り上げ住宅に入ることができて現在に至る。
 避難指示は2012年4月に解除された。しかしインフラをはじめ生活環境が手つかずですぐには戻ることができず、帰還を決意した人から徐徐に戻っている状態だ。役場や学校、診療所が順次戻ってきた今でも、帰還者は人口5490人(2011年3月)のうち5割の2408人にとどまっている。その大半は高齢者で、子どもを持つ若い家庭は子どもの成長を心配し、また馴染んでしまった避難先から転校させることへの抵抗から、新天地での生活を決意して出ていったところも多い。避難者は県内に2336人、県外に316人いる。

 楢葉町 帰還した町民は約1割

 広野町に隣接する楢葉町は昨年9月に避難指示解除を迎え、4年半もの避難生活が終わった。しかしそれから5カ月経過した今、完全に帰町したのは人口約7300人の1割程度だと語られている。
 楢葉町の80代の男性は、昨年12月に妻と2人で自宅に戻ってきた。5年前の震災直後から着の身着のままで避難し、いわき市、埼玉県春日部、神奈川県横浜など6カ所を転転として、ようやく戻れたわが家だった。5年間人が住まなかった自宅はひどく痛んでおり、地震で瓦が落ちたところから雨漏りがしていた。床はシロアリにやられてボロボロだった。除染が終わった自宅の天井、床、畳、障子はすべて張り替え、ふすまの交換も依頼しているが、業者が足らずに順番待ち状態になっている。町には人が帰らず、生活できる環境が整備されていない。今も楢葉町の自宅といわき市の仮設住宅を行き来しながら生活している。
 「戻ってきている人の大半が避難先から通っていると思う。床屋も医者も、買い物の場所もない。元いた町民が半分帰ってくるのにあと5年はかかるのではないか…。みんながまず自宅を直して住めるようにしないといけないが、業者も足りない。これからはオリンピックに流れていくのではないか」と語った。男性宅の正面の家は解体中で、いわき市に新天地を求めて出ていった。横の敷地には廃炉作業員の宿舎が建ち、100人以上が暮らしている。「私たちはもう年だから放射線がどうこうなろうが関係ない。ただ今後の町のことを思うと、原発では放射能が溶け出して落ちているし、汚染水の問題もある。楢葉の第2原発も廃炉にしろとみんないっているが東電もなかなかうんといわない。こんなことになって…。原発なんていらない。大臣たちも“復興”と口だけは威勢が良いが、現地にいる私たちには先が見えない」と語っていた。

 富岡町・川内村 生活支援打切りに直面

 富岡町に入るとさらに空気はよどんでいる。富岡町はいまだに帰還困難区域を抱えており、居住制限区域と帰還困難区域の境界である双葉警察署前には警告灯が設置され、警察官が待機して物物しい雰囲気を醸し出している。安倍政府は昨年6月の福島復興指針で、避難指示解除準備区域と居住制限区域については来年3月で避難指示を解除する方向を打ち出している。さらに福島県は県内の仮設住宅(借り上げ住宅を含む)について、来年度いっぱいで契約を打ち切るという方針を出している。各自治体はこれによって帰還者も増えるのではないか、一人でも多くの住民に帰ってもらおうと住環境の整備に必死になっているが、「帰還」=生活支援打ち切りを意味しており、戻っても以前の暮らしをとり戻せるメドが立たないのが現状だ。
 国の補助金をとり入れた事業を各自治体それぞれが計画し、工業地帯をつくったり、コンパクトタウン、コンパクトビレッジといった集約化を含めた開発も動いている。しかし莫大な予算を投入して開発を進めたとしても、町や村の原動力である「人」が集まり、基幹産業の復興がなければどうにもならない。震災前の五〜六倍もの予算規模を与えられ、国が示した「復興」プランに即して膨大なカネは動いてきたが、いったん追い出してしまった住民の暮らしやコミュニティはとり戻すことが困難で、まさに町全体が別物へと変貌しようとしている。
 川内村では除染をおこなう前の2012年1月に帰村宣言を発表し、「戻りたい人からもどろう。心配な人は様子を見てから戻ろう」と町民に呼びかけ、役場職員が率先して帰村し、復興のために奔走してきた。今では63%の住民が戻ってきている。
 しかし農林業をなりわいとしてきた村は森林汚染、土壌汚染に見舞われ、酪農は酪農家が70軒から7軒に激減するなど、産業が受けたダメージは大きい。村は手探り状態で生き残る方法を模索してきた。そして野菜の水耕栽培施設や工業団地の導入などを計画し、すでに稼働が始まっている施設もある。役場関係者は、一自治体だけが復興しても意味がなく、双葉郡の8町村、さらに飯舘村や田村市、南相馬市など、福島全体の復興が大事なのだという。

 双葉郡内 町民よりも多い作業員

 福島第1原発では今も廃炉作業が続いている。そのようななか、廃炉作業員をはじめ、富岡町・双葉町・大熊町の除染作業員、災害復旧に携わる作業員が町民をはるかに上回る規模で双葉郡内に来ている。避難解除を迎えている広野町と楢葉町は作業員の町と化している。広野町には80社の事務所が置かれ、作業員4000人が滞在している(うち宿泊は3000人)。楢葉町には約1300人が滞在している。町としての機能が整わないところに町民をしのぐ勢いで全国から作業員が集まっており、わずかしかない医療機関もコンビニも作業員でいっぱいになってしまっている。様変わりしてしまった町の様子に驚き、帰町を見送る町民が多いという。
 そして一方で動いているのが、全国で拒否されてメドがなくなっている中間貯蔵施設建設である。原発立地町で住民が戻れない双葉町、大熊町にまたがる地域に建設しようと国や福島県が動き、用地取得を進めている。今年10月には施設の一部工事に着手する計画だ。福島第一原発が吐き出した核のゴミにとどまらず、全国の原発に蓄積され続ける核廃棄物の最終処分場のメドなどないなかで、「中間」というのは目くらましで、場合によっては永久にもなりかねない。もともと震災前から岩盤の強固な飯舘村などは地下処分場の候補として経産省が目をつけていた地域であった。原発事故をもっけの幸いにして住民を追い出し、「逃げろ! 逃げろ!」といって帰還できない状態をつくり出したうえで、人人が諦めた段になって「やむなし…」の格好をして事が動いている。作業員の街へと変貌し、住民にとってもはや自分たちの街だと思えない状態となり、最終処分場の街にしていくたくらみが動いているのである。住民のいない街、野生動物が闊歩する街はまさにゴーストタウンで、終いには「原発の墓場」にするというものだ。

 農業も漁業も 生産復興に奮斗する人

 そんななかで、「戻るところはここしかない」と早い段階で故郷に帰り、奮斗する人人もいる。広野町で震災翌年から農業を再開した花農家の男性は、事故直後、埼玉に1カ月間避難していた。「でも植えていた花が気になって気になって。とりあえずいわきに戻ってからは解除になるまで毎日通って、苗の面倒を見た。初めから放射線の線量は低く、土壌汚染もなかったので翌年から植え始めた。検出はゼロで、野菜もゼロだった。だけど野菜は福島産ということだけで風評被害にあう。野菜専門の農家のなかには辞めてしまった人もいる」といった。
 男性の住む集落には約50軒の民家があるが、そのほとんどが戻ってきており、残りは2、3軒ほど。みなで支えあって生活している。畑には秋の彼岸用の菊が芽を出し、ビニールハウスでは春彼岸用のストックが元気に育っている。「つくればみんなよろこんで買いに来てくれる」と嬉しそうに話した。しかし震災前の主な売り先は楢葉と富岡だったため、人が帰還していないことが影響して売上は震災前の10分の1まで落ち込んでいる。「広野は低線量などではなく、検出ゼロ、問題なしなんだ。福島のものは全部検査しているからどこよりも安全なんだ」と力を込めて語っていた。
 いわき市小名浜港では、サバの水揚げが最盛期を迎えている。汚染水が海に流れ、水揚げしたものから放射性セシウムが検出されたことで福島の漁業は壊滅的被害を受けた。それは今でも続いている。しかし、沿岸漁業や底曳きに関しては試験操業が続いているものの、巻き網やサンマ棒受網などは一時期下がった浜値も回復している。といっても、底曳き網漁は全漁獲の3分の1を占めていたため、いわき市の水揚数量は震災前(平成22年度)の2万123dから昨年度は5644dと4分の1まで落ち込んだ。
 記者が漁港を訪ねた日の水揚げは約200d。雨が降るなか、船底にぎっしり詰まったサバが水揚げされていった。多くは冷凍してマグロなどのエサや加工に使われるという。仲買の一人は、「5年たったのだから、もう“応援”はないと思う。消費者を見ていても、買う人は買う、買わない人は買わないとはっきり分かれてきた。きちんと検査しているからどこよりも安全だと伝えてほしい」と語っていた。
 福島では農産物も海産物も徹底的な検査を実施しているが、風評被害もあいまって買い叩きが続き、例えばコメにしてもコンビニや外食産業が安値に群がっている状態がある。「人の不幸は蜜の味」で大企業やゼネコンなど資本力のある者ほど被災地を食い物にしていく冷酷な社会構造も暴露している。
 福島県民は原発の仕打ちに腹の底から怒っている。そして、その後の「復興」が人間そのものに向いてこなかったことを多くの人人が実感してきた。原発は郷土を廃虚にした。しかしその廃虚のなかから、決して単純には前に進めないが、人人はみずからの手と足に頼って立ち上がろうとしている。その姿を引き続き取材していく。


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