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鹿児島市や知覧でも原爆展
全国キャラバン隊第2班
               元特攻隊員や遺族が参観し憤り    2004年5月8日付

 原爆展キャラバン隊第2班は、3日に、2日にひきつづいて「知覧特攻平和会館」で、4日に鹿児島市の天文館通り(商店街)で街頭原爆展をおこない、鹿児島県内での4日間の日程を終えた。5日には、宮崎市の山形屋前でパネル展示をおこなった。1日からの5日間で、原爆展パネル冊子193冊、原爆詩集44冊などの書籍が普及され、8万8077円のカンパが寄せられた。
 3日に展示をおこなった知覧では、おりから「知覧特攻基地戦没者慰霊祭」が1200人の参列で営まれており、特攻隊員だった人や特攻隊として出撃した若者の遺族が多数参観した。また、今年で50回目となった慰霊祭にあわせ、「特攻平和会館」には、地元や全国から見学に訪れた人など1日で8000人近くが入場。会館を見学後、雨の降るなかおこなわれた原爆展を参観した。
 「慰霊祭」へ自衛隊員が参加し、上空を自衛隊機が飛ぶなかでおこなわれた原爆展では、特攻隊の「生き残り」として戦後60年を生き抜いてきた人達や、残された家族の思い、全国から知覧へ見学へきた人達の思いなどが、日本の現実と重ねあわされながら激しく交錯した。参観者は、原爆の真実を伝えたパネルとともに、「きけわだつみのこえ」や、礒永秀雄の詩で構成されたパネルの前でじっと足を止め、原爆展への共感が語られながら「アメリカに謝罪を求める広島アピール」の署名がされていった。
 特攻隊員だった80代の男性は、「国のために本気で命を捧げようと思っていた。終戦になってからも、すぐに家に帰らず、戦争で死んだ友達の家にしばらくいた。友達の母親から、“家に帰らないのか”と聞かれ、“命を捨てたのだから帰らない”と答えると、“お母さんが心配しているから早く帰れ”としかられた」と当時の心境を語った。
 その後もなにをしても気が入らずつづかなかったが、知り合いから新聞社の仕事をすすめられいままで必死にやってきたことを話し、「自衛隊をイラクから撤退させることはいいことだ」とのべ署名をした。
 海軍の特攻隊だったという男性は、原爆展を参観した後、「知覧には、わたしと同期の特攻兵がたくさんまつられている。当時は、20歳で徴兵検査だったが、特攻隊員となったわたし達は中学から志願して飛行兵になったんだ。最近はいやな世になってきた。原爆もあるが、戦争が終わり、生き延びたわたし達の気持ちが、今の人たちにわかるだろうか」とやりきれない思いを語っていった。
 四国から3人で訪れた遺族の70代の婦人は、「原爆も酷かったのですね」と話し出した。「連れの2人は、知覧にまつられているわたしの兄の子どもです。兄は、昭和20年の4月6日に特攻に出ました。攻撃にいく前日に、家のまわりや、母校へ飛行機に乗ってあいさつに来たんです。ぐるぐる回って別れをつげそれきりでした」と涙ながらに話した。
 当時兄は、特攻にいく18歳、19歳の若者へ飛行機の操縦を教えていたため、「自分もかならず後をおわなければ」といっていた。日本の敗戦が近くなり、特攻へいく飛行機が足りなくなってはいけないと、4月に出撃していったという。
 「自衛隊もイラクにいっていますが、“お国のため”といわれていることが当時と同じように見え不安でなりません。遺族としては、いてもたってもいられない。しっかりがんばってくれ」といいパネル冊子を3冊買い求めていった。特攻隊員の遺族のなかには、パネルを参観したのちなにも語らずに立ち去る人も多かった。
 大阪からきた70代の婦人は、「わたしの苦労は、被爆をした人と比べればたいしたことではなかった。戦争中百姓をしていたわたしの父親は、バカ正直な人間で、“お国のため”と、11人家族の食料も残さず供出した。母親はいつも苦労していた。天皇の警護をしていた兄は、皇居には爆弾一つ落ちず無事に帰ってきた。特攻隊の展示も見ましたが、日本の若者は、特攻隊で、広島と長崎の人は原爆にあった。戦争では、いつも下の者が苦しんでいる」と語った。
 「一度知覧にいこうと思っていた」という20代の男性は、「平和会館や隊員の食堂も胸にジーンときた。アメリカはイラクにいるが、石油の利権。日本は、自由といって人殺しになっている。戦争は二度と起こしてはいけない」といい、別の大学生は、「被爆者はモルモットかというパネルを何度も読み返した。実験のように扱われたのか。当時生きていれば、ぼくたちも特攻隊に志願したのだろうか。戦争というのは、政治家がやるものだと思った」といった。
 夫婦で訪れた北九州の50代の男性は、パネルを1枚1枚丁寧に読んだ後、「最近の日本を見て知覧にきた。日本は平和だ、自由だと思ってきましたが、原爆を落とされた、これが現実だったのですね。詩と写真にはっとさせられた」と話し、パネルを買い求めていった。
 知覧町の60代の男性は、「被爆写真をはじめて見たが、アメリカは、よくこんなものをつくった。なぜ、日本人がこんな目にあわないといけないのか。イラクで虐待をしているといわれているが、原爆ほどの虐待はない。日本は、なぜアメリカのいいなりになっているのだろか。憲法がなし崩しにされていっている」と激しく語った。
 4日の天文館通りでは、はじめて見る原爆展に衝撃を受け言葉にならない若者が、署名カンパやパネル冊子を買い求めていく姿が圧倒的だった。
 また、「広島で救援に入り、被爆をした。救援と簡単にいうが生半可なものではなかった。“アメリカに謝罪を求める”あなたたちの行動は、いまの日本で勇気あること。がんばってほしい」(80代男性)、「長崎で被爆しました。勉強はしていませんでしたが、手と頭にケロイドがある。全国で展示をやられると聞きました。わたしたちにできないことをやってくれ」と語り、1万円をカンパする男性など、キャラバン隊に期待する戦争体験者が多く見られた。
  
 宮崎でも展示
 5日の宮崎での展示では、「原爆展を見れば70代、80代は空襲や疎開先を転転とした戦争を思い起こす。アメリカは原爆でこれだけ酷いことをしながら、平和と自由を持ってきたといえるわけがない。今のイラクと同じ。日本人が、唯一の被爆国として世界にアピールすることが、世界から孤立しないことだ。戦争反対は、どこかの党や宗教ではなく国民が、行動することだ」(69歳、男性)、「アメリカにこれだけやられたのに、日本はなぜついていくのか。アメリカの戦争の手伝いをすることはない。また戦争がしたいのか。ケンカしてでもアメリカと分かれるべきだ」(70代、男性)など、戦争体験者が、パネルを見ながらかつての戦争体験をきのうのことのように思い浮かべ、自衛隊をイラクに派遣し、憲法改正をすすめようとしていることへ危機感を語っていった。

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