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会則を決め行動体制強める
長崎「原爆と戦争展」主催者会議
               原爆展を地域・学校に広げる    2009年7月15日付

 長崎市中央公民館で12日、6月に長崎西洋館で開催された第五回長崎「原爆と戦争展」の主催者会議がおこなわれた。被爆者、戦地体験者、自治会長、主婦、学生など17人が参加し今年の原爆と戦争展の成果と教訓を確認しあい、長崎で運動を継続させていく方向について活発に論議された。さらに、原爆展を成功させる長崎の会(永田良幸会長)の会則を決定し、新しく役員を選出し、長崎市民を代表する運動母体として会の体制を強化。今後は会員を拡大し、学校や地域で原爆と戦争展を広げていくことを一致した。
 初めに、副会長の山下諫男氏が、「今年の原爆展には2000人の参観者があり、下関、広島をはじめ、長崎市民のご協力のもとで大成功をおさめることができた」と謝辞をのべ、今後の運動の発展のために遠慮なく思いを語りあうことを呼びかけた。
 続いて、事務局からこれまでの経過と概況について報告を受け、参加者の討議に移った。
 そのなかで、今年は宣伝の段階から市民の意欲が強く、市民自身の展示会としてとりくまれていったことや、被爆から1年後に市民によって収集された2万体の遺骨が東本願寺長崎教務所(筑後町)に眠っていることを取り上げた本紙号外が配布されると、衝撃的な反響とともに「長崎では意図的に被爆遺構が壊されていった」「平和公園にキリストのような平和祈念像をはじめ意味不明なものが多いが、真実が塗り替えられていった」という歴史的な総括をともなって論議が広がったことも明らかにされた。
 また、北朝鮮騒動をめぐって「先制攻撃」「核武装」などが煽られるなかで、戦争をくり返させぬために体験者が立ち上がって体験を語り継ぐことや、それを教育のなかに徹底させることが重要な課題として語りあわれた。
 戦地体験者の男性は、「運動を広げていくためには教育から基礎を固めていかなければいけない。学校の先生をはじめ、教育者としっかりと話をして、現在の平和がどうしてあるのか、先の戦争で亡くなった何百万人もの犠牲のうえにたってこれからの教育を考えなければ日本は悲劇をくり返すことになる。体験者が立ち上がって指導しなければいけない」と提起した。
 被爆男性は、「長崎では、本島市長のときにつくられた“学校教育に原爆を持ち込むな”という流れが陰湿に今も続いている。表向きやっているように見えるが、実際には形だけで浸透していない。市長も国連のような場所にはヘコヘコと出て行くのに、地元では“原爆”といっても素知らぬ顔をしているが、そういう長崎市の体質から変えなければいけない」と問題意識を語った。
 初めて参加した被爆婦人は、「長崎での被爆団体に不信感があったので、店にポスター貼りに来たスタッフに“こんなものは意味がない”と断ったが、原爆展に行ってみてこれなら参加しようと思った。ほんとうに申し訳なかった」と語り始め、油木にあった長崎商業高校で被爆し、銭座地区で被爆した母親を戸板に乗せて大村まで避難した経験を語った。
 「母は右手の手のひらだけを残して全身焼けただれ、最後は上空を偵察に来たB29を睨みながら“このアメリカめ! 仇をとってやる”とかみ殺すように語って息を引き取った。その思いは私も同じだ。子どもたちには国際結婚がいくら流行っていても、アメリカ人との結婚は絶対に許さないといってきた」とのべた。
 また、銭座地区にある墓を改装したときに、納骨堂から両手で抱えきれないほどの無縁仏が出てきたことを語り、「終戦後、この地域にいた捕虜やアメリカ兵が進駐してきたため、たくさんの市民が逃げるときに骨を墓に入れて行ったことがわかった。銭座では、ビルを建てるときに必ず地下から遺骨が何体も出てくる。今もたくさん眠っていると思う」と語った。
 葉山に住む被爆婦人は、「兄弟は橋口町の実家で白骨で見つかったが、両親の遺骨はどこに行ったかわからない。今年はぜひ筑後町の教務所に行ってお参りをしたいと思っている。爆風で試験管のように目玉が飛び出したり、骨がむき出しになってウジが沸いている姿も見た。あの惨状を見た者はアメリカの残虐さをいやというほど感じている。被爆者はなんでもかんでも補償されてうらやましいといわれて黙ってきたが、腹の底は怒りで一杯だ」と語った。

 オバマの欺瞞にも怒り
 また、「オバマ大統領が核廃絶といっているが、口先だけだ」(被爆婦人)「アメリカは日本をカモにしようとしているからこそ口先でいいことをいう。日米安保といってもアメリカが自国を犠牲にして日本を守るわけがない。日本は盾にされる関係だ」(戦地体験者)など、オバマ・キャンペーンの欺瞞にも意見が集中した。
 坂本町自治会役員の男性は、町内では730人のうち700人が被爆で死亡し、自治会では山王神社の倒壊した鳥居の足をもらい受けて「坂本山王地区原爆殉難者の碑」を昭和27年に建立したことを語り、「先輩たちが物のない時代に自分たちの手で慰霊碑を建てた思いを受け継いで25年間慰霊行事に携わってきた。今年も8月5日から10日まで神社境内で原爆写真展を開催することになっている」と語った。
 鎮西中学校(当時)卒業生の男性は、今年の8月8八日に同校で犠牲になった生徒たちの慰霊碑を諫早市内に建立することになったと明かした。
 続いて、多くの市民の期待に応えて活動を広げていくため「長崎の会」の会則が提案され、全会一致で採択された。
 会則では、会の事務局を長崎市内に置き、@2度と再び原爆や戦争がくり返されることがない平和な社会の実現と、平和な未来の担い手として子どもたちが成長することを願い、純粋に被爆、戦争体験を継承することで平和の力を大きくする、A特定の利害を優先するものではなく、政党、政派、思想、信条、職業をこえて戦争反対、原水爆の廃絶を願う市民が自由に発言し、行動することを援助し、促すという目的を鮮明にした。
 さらに、「原爆と峠三吉の詩」パネルを使った原爆展を地域、職場、学校に広げていくことや、会の目的に添って「会が市民の役に立つことができるように奉仕する」という立場で会員が一致団結していくことを定めた。
 参加者からは、「既存の団体は、上部の人が年会費を徴集するだけで活動はまったくない。こういう会則の会なら私たちも力になれる」「自分の利害ではなく、みんなのために奉仕する精神が大切だ」「一部の人間が片隅でやっているという運動ではなく、大胆に会員を増やしていきたい」と意欲が語られ、役員として副会長2名、会計1名、会計監査1名、事務局が全員の拍手で選出された。
 最後に、この長崎での成果を持って8月5、6日に広島に赴き、全国被爆者交流会、原水爆禁止広島集会で全国、世界の人人と交流することが提案され、代表して数名が参加することを決定。参加者全員が会員となり、全長崎を代表する会として活動を広げていく意気込みを高めて会を閉じた。

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