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 核戦争阻止の力確信
2006年原水爆禁止広島集会
              「米国は核持ち去れ」が多数派    2006年8月7日付

 2006年原水爆禁止広島集会(原水爆禁止全国実行委員会)が6日午後1時から、広島市中区のアステールプラザでおこなわれた。広島市内ではメルパルクでの原爆展とともに、1カ月にわたる原水禁全国実行委員会による署名・宣伝行動や平和公園での原爆展がとりくまれ、また1日からは宣伝カーによる「アメリカは核を持って帰れ」の訴えが響き渡り、広島市民の圧倒的な共感を広げてきた。集会には、広島や長崎、下関など全国の被爆者をはじめ、米軍再編とのたたかいをくり広げてきた岩国や広島県西部の住民、沖縄や全国で原水禁運動を担ってきた人人、小中高生平和の旅の子どもたち、飛び入りの市民、アメリカ、イラン、オーストラリアなど世界五カ国から600人が参加。「北朝鮮制裁」といって原水爆戦争にすすむたくらみをうち破る、日本人民の力を確信させるものとなった。
 集会のはじめに、原爆投下で亡くなった人人に黙祷をささげ、劇団はぐるま座団員が原爆詩人・峠三吉の『墓標』を朗読した。その後挨拶に立った倉崎繁実行委員長は「日本と世界を焼け野原にするたくらみを絶対に許してはならない。広島、長崎の悲劇を2度とくり返させてはならない」と力強く訴えた。
 つづいて、平野照美事務局長から集会の基調報告【要旨別掲】が提案された。原爆投下を正当化しつづけてきたアメリカが現在、日本全土を核攻撃基地にしてアジアと日本を原水爆の火の海に投げこもうとしていること、北朝鮮のミサイル問題を大騒ぎして日本政府やメディアが「先制攻撃」すら公言しているなかで、「アメリカは核を持って帰れ」の力を広島から、全国へ強めることが重要な課題になっているとした。

 被爆者が力こめて発言広島・長崎・下関から
 その後、広島、長崎、下関の被爆者が意見発表をおこなった。原爆展を成功させる広島の会の高橋匡氏は、憲法改正論議や自衛隊海外派遣、米軍再編などをあげ、平和が脅かされていることへの危機感を発言。「米軍岩国基地の強化で、聖地・広島の上空を米軍機が飛び回るなど耐えられない。アメリカは今でも、世界で一方的な戦争をくり広げている。核廃絶は、原爆投下への謝罪とともに、アメリカが率先しておこなうべき。残された被爆者は、広島でほんとうに起きたことを伝えるのが務めであり、次世代の人人が1人でも多く引き継いでくれることを願って、遠くない終点まで私は走ります」とのべた。
 原爆展を成功させる長崎の会の被爆者・永田良幸氏は、「長崎では“祈りの長崎”といわれ、私も60年間原爆のことを話したことはなかった」とのべ、大切な家族を失った体験、思いを語り「どうか平和な日本をアメリカの1つの州にされないように、みなさんで幸せを守り、核戦争のないように協力していきましょう」と呼びかけた。
 原爆展運動を全国の発信拠点としてとりくんできた下関からは、原爆被害者の会を代表して、升本勝子氏が発言。15歳のとき、島根から学徒動員できた広島での被爆経験を語るとともに、1999年から旺盛に原爆展をとりくんできた下関では、昨年以降原爆と空襲展を開催し、「原爆と空襲は1つのものであることがわかった」と語った。そして「体験者みずからが語ることによって真相を明らかにし、若い世代に伝える新しい運動が始まった。語り継ぐことが私たちの使命です」と決意を表明した。
 つづいて、前日から平和公園などで被爆体験を学んできた、小中高生平和の旅の子どもたちが元気よく登壇。この日のために、山口県の各地で街頭カンパや署名をとりくみ、126人の大旅団を結成して広島にやってきた。峠三吉の詩『序』や礒永秀雄の詩『虎』の群読や日本の歌を披露し、旅の成果を報告した。被爆者の思いに触れ、仲間とともに成長してきた姿を、会場全体が喜んだ。
 その後、原爆展全国キャラバン隊の岡本太一氏が、広島市内でおこなってきた原水禁全国実行委員会の宣伝活動について報告した。8月1日からは平和公園で街頭原爆展をとりくみ、市内には宣伝カー3台がくり出して「アメリカは核を持って帰れ!」と訴えてきた。共感は強く、宣伝カーに手を振る老婦人、沿道からの拍手があったこと、8月2日からは総勢40人の宣伝隊が八丁堀や紙屋町、各駅などの街頭に立ち、「アメリカ政府に謝罪を求める署名」を呼びかけ、市民の共感は日増しに激しさを増していったことを語った。

 日本の核基地化許さぬ 沖縄・岩国・宮島
 沖縄から家族ぐるみで参加した被爆2世の金城辰也氏は、4年前に肺ガンで亡くなった父が、沖縄原爆展を成功させる会の初代会長として並並ならぬ情熱を注ぎ、使命感をもって死の直前までがんばっていた姿に誇りを感じたこと、その死後、講演記録などを読み返すなかで、あらゆる屈辱や米軍の圧政、悔しさに耐え、沖縄で原水禁運動に身を投じた思いを知った。「平和の旅と原水禁広島集会へ参加して、私は人生の目標をつかんだ。それは亡き父の遺志を受け継ぎ、原水爆を禁止し、真の世界平和を実現するために、幾千万大衆とともに生涯奮闘することだ。“原爆と峠三吉の詩”“沖縄戦の真実”の原爆展運動が全国、全世界の人人の良心に訴える重要な役割を果たす活動だと確信している」と決意をのべ、会場は大きな拍手で包まれた。
 原水禁岩国地区実行委員会の森脇政保氏は、米軍再編とたたかってきた岩国市民の歴史的な苦難と屈辱の経験にふれながら発言。「岩国市民は広島湾一帯の住民とスクラムを組み、全国の人人と団結することによって勝利の展望を切り開こうとしている。愛国正義のために立ち上がった人民を何人といえどもおしとどめることはできない」とのべた。
 米軍岩国基地の強化反対運動にとりくんできた宮島町から、元宮島総代会会長の正木文雄氏が発言。宮島では米軍空母艦載機の移転案が浮上して以後、全島民あげての署名活動がおこなわれ、人口の98%にあたる反対署名が集まったこと、古い歴史と豊かな自然を守ってきた宮島で、官民一体の運動になってきたことを発表した。

 現役世代が熱込め決意・外国人も意見発表
 その後、原水禁運動を受け継ぐ現役世代の意見発表に移った。
 原爆展を成功させる広島の会の宇田浩規氏は、昨年の広島市民原爆展を参観し、原爆投下の実態、投下者の狙い、沖縄戦の真実などを知り愕然としたこと、戦後日本はアメリカ従属下にあり、関係を断ち切らない限り永久に問題が解決しないことを知ったとのべた。広島各地の原爆展や被爆体験を語る交流会に参加するなかで、真剣勝負でとりくむ会の姿勢や、パネルを見る人人の反応の真剣さに触れ、被爆体験を受け継ぐ1人として確信を深めてきた。「“アメリカは核を持って帰れ”は原爆展参観者や世界中の平和愛好者とも共通の要求です。若い者たちが先頭に立って、最後まであきらめずに元気にがんばっていきましょう!」と迫力をもって訴えた。
 山口県萩市の教師・阿部喜久恵氏は、広島修学旅行をとりくんだ子どもたちの成長を喜びをもって報告。2度と戦争を起こさせないという強い思いを受け継ぎ、保護者や学校のみんなに報告会をおこなってきたこと、クラスがこれまでになく勢いをもって成長をとげ、体育面や知育面でも力を発揮していることをのべた。
 アメリカ・シカゴ大学のジョー・ハンキンズ氏は、「2年前の広島市民原爆展を参観してすごく感動した。広島・長崎についてほとんど知らず、自分の国がどのような悲劇を起こしたのか、はっきりわかった。自分の目で見て、聞いて、ほんとうに許せないと思った。何かしなければならないと決心した」と語った。シカゴ大学に戻って、3カ月間中央図書館で原爆展を開催し、今年6月にはテキサス州で暮らす家族と日本に来て被爆体験を一緒に聞いた。「アメリカ南部にいる私の保守的な家族も泣き、何かしなければならないと決心した」といった。「核のことをアメリカ国民の記憶に残すことが私の責任。2日間原爆展に行ってあらためて決心した」と表明した。
 会場からは岩国の被爆者が思わず挙手をして発言。あふれる思いを語った。
 その後、集会アピールが読み上げられ、基調報告、スローガンが満場の拍手で採択された。会場には、飛び入り参加する市民が目立った。
 デモ行進では、灼熱の太陽が照りつけるなか、小中高生平和の旅の子どもたちを先頭に、峠三吉の詩を群読しながら、道行く市民に訴えた。沿道の市民からは「政治団体が年年姿を消していくが、このデモはすごく元気がいい。若い人も多い」などの声が聞かれた。

                「実行委員長挨拶」        倉崎 繁
 61年前の今日、アメリカが広島に原子爆弾を投下した。この空の上にせん光がひらめいて、一瞬にして20数万人が亡くなった。こんなにむごい、悲しいことがあろうか。私はまだ小学生だったが、だんだん真実を知るにつれて怒りがこみあげてきた。
 みなさん、よく聞いてほしい。原子爆弾が落とされて30年間は草木も生えないといわれてきたが、なんとか草木も生え人人はよみがえった。そして現在の地を見ることができる。しかし考えてみれば、この広島を再び焼け野が原にするだけではなく、世界を焼け野が原にしようというたくらみが、アメリカで着着とすすんでいる。絶対に許すことはできない。
 原爆を2度と使わせてはならない、このことだけは訴えたい。広島、長崎の悲劇を2度とくり返さない、くり返させないことをみなさんと誓って、あいさつにかえたい。

                    基調報告 (要旨)
 61年前の8月6日と、9日、アメリカはもっとも凶悪な兵器・原爆を、広島と長崎の、一般市民をめがけて投げつけました。それによって幾10万もの人人が、瞬時に、地上から姿をかき消され、もだえ苦しみ、つぎつぎに命を失っていきました。すべての原水爆の製造、貯蔵、使用の禁止は、唯一原爆の被害を受けた日本民族の悲願です。
 許せぬことに現在、日本全土をアメリカの核攻撃基地にし、再び日本とアジアを原水爆の火の海に投じようとしています。「アメリカは核を持って帰れ」の力を広島から、全国へ轟かせることが重要な課題になっています。
                       一
 現在、日本政府とマスメディアは、北朝鮮のミサイル問題を大騒ぎして、「先制攻撃」すら公言しています。それは、かつて「横暴なシナを懲らしめる」といって、中国への全面的な侵略戦争に突っ走り、320万もの日本人を死地に追いやり、日本を破滅に落とし込んだ同じあやまちの道です。
 広島、長崎への原爆投下はすでに日本の敗戦は決まっており、戦争終結のためにはまったく必要のないものでした。アメリカは、ソ連の参戦に焦って、単独で日本を占領するという目的のためだけに、なんの罪もない人人を無差別に焼き殺したのです。
 北朝鮮のミサイル問題は、もともとアメリカと北朝鮮の関係であり、アメリカが攻撃をするなら、報復されるのは日本であり、アメリカ本土は無傷という無謀な企みです。岩国や沖縄の米軍基地は、米兵のシェルターへの避難、米兵家族の国外避難訓練などが頻繁におこなわれ、アメリカが日本を守っているのでなく、日本をアメリカの盾にしていることが暴露されています。米軍基地の再編は、岩国基地に米空母艦載機を移転し、広島湾岸一帯を核攻撃基地として増強するもので、被爆地を冒涜するものです。日本とアジアを原水爆の戦場にさせないためには、なによりもその原因をつくりだしているアメリカに核を持ち帰らせることです。
                       二
 原爆の惨状を伝える「原爆と峠三吉の詩」パネル展示は、下関からはじまって広島と長崎の被爆市民の激しい共感を呼び、東京、沖縄をはじめ日本全国で原爆投下と都市空襲、戦地の真実が明らかにされるなかで、日本の平和運動に大きな力を与えています。原爆投下も沖縄戦、東京、大阪をはじめ各都市への空襲による大量虐殺も、丸腰で戦地にかりだされ病気と飢え、空爆でアメリカのなすがままにされた体験も、すべてがアメリカが天皇を従えて戦後支配する野望に貫かれたものであったことが事実をもって明らかにされ、原水爆反対の深い思いが湧き起こっています。
 米軍岩国基地への厚木基地機能の移転をめぐる住民投票や市長選に示された岩国市民の憤激と基地撤去の固い意志は、米軍が日本を守るためのものではないという歴史的な体験に根ざしたものです。それは、江田島や宮島などをふくむ広島湾岸の怒りと気持ちをひとつにし、全国の人人を励ましています。
                        三
 日本全国からアメリカの核基地をなくし、原爆の使用を許さない力のある原水爆禁止運動を起こすことは国民的な課題です。そのような運動を起こすには、1950年の8・6平和斗争の原点に立ち返ることです。私心なく献身的にたたかわれたこの運動は、たちまちにして燎原の火のように全国に広がり、5年後には世界大会を広島で開催し、アメリカの手足を縛り、朝鮮戦争でもその後のベトナム戦争でも原爆を使わせない力へと発展していきました。
 その第1の教訓は、広島、長崎の新鮮な怒りを共有し、広島、長崎の本当の声を、若い世代に、世界に語り伝えていくことです。
 第2に、アメリカの原爆投下が、戦争を終結させるためではなく、日本を単独占領するためであったという目的をはっきりと暴露することです。
 第3に、現在進行しているアジアと日本を原水爆戦争の戦場にするアメリカの戦略を打ち破る力を結集することです。
 第4に、この運動を発展させるためには、平和運動の側からアメリカを擁護してきた欺瞞的な潮流と一線を画すことです。北朝鮮やイランなどの核拡散にだけ反対し、世界最大の核保有国であるアメリカにはいっさい口をつぐんで擁護しています。
 第5に、この社会を動かす力をもつ生産人民、労働者が運動の中心に立ち、政党政派、思想信条をこえて、青年、婦人、農漁民、勤労人民、文化・知識人、教師などすべての階層が団結することです。
 第6に、中国、朝鮮、イラクをはじめ、アジア、世界の人人と友好、団結を強め、世界的に連帯した力を結集することです。
 本集会を契機に、アメリカに核を持ち帰らせる日本民族の決意と力を結集した原水爆禁止運動を全国各地でまき起こしていく決意を固めあい、アジアと日本を原水爆の戦場にする企みを打ち破りましょう。
 スローガン
◎ 広島、長崎の新鮮な怒りを全国、世界に伝えよう!
◎ アメリカは原爆投下の謝罪をせよ!
◎ 原水爆の製造、貯蔵、使用の禁止!
◎ アジアと日本を原水爆の戦場にするな!
◎ アメリカは核を持って帰れ!
◎ 中国、朝鮮、アジア近隣諸国と敵対でなく友好を!
◎ 峠三吉の時期の私心のない運動の原点にかえり、力ある原水禁運動を再建しよう!

                 
                  <意見発表>

 【広島・長崎・下関の被爆者】
 謝罪せず核で脅す米国 聖地広島に入れさせぬ
                         原爆展を成功させる会  高橋 匡

 2005年の8月は「戦後60年、被爆から60年の節目の年」という活字が、言葉が大きく動き回った暑い夏だった。
 修羅場をくぐり抜け生きながらえたものの、職場で幾人の先輩、同僚を見殺しにしたことか、助け出す手立てが見出せぬまま、業火に焼かれる人を見捨て、連れ出したものの、火事嵐に逃げ道をふさがれ、わずかな水を分かち合いながら力尽きたもの、かろうじて生き残ったものも続く放射能障害という当時は訳のわからない障害で、脱毛、高熱、斑点、出血で苦悶の末、数日で旅立った。そのいずれにも向き合った自分としては、人人の無念、怨念を背負い、生き残ったことへの「負」を抱えて60年、そしてさらに1年、今年も慰霊碑に納められる過去帳には5000人を超える被爆者の名前があげられている。確実に被爆者は少なくなっている。
 不戦の誓いのもとに寝食を忘れ、復興に汗水流し、今日の平和と豊かな日本を築いたといわれるなかで、戦争のこと、原爆被害のことが風化するのではといわれて久しい。その平和も最近になって怪しいものとなっている。
 憲法改正論議、日米安保、米軍基地再編の問題、犠牲者がなく帰還したとはいえ自衛隊の海外派遣、出発する隊員を旗を振って見送る情景は、まえの戦争でたった1人の働き手を取られ、泣くに泣けず、気丈に振舞って送り出した情景を思い出して背筋が寒くなるのを覚えた。
 2005年8月5日、テレビで「ヒロシマ原爆投下は止められた」とのタイトルで、特別番組の放送があった。その中に、原爆の開発、製造にかかわり、広島に投下し、その効果を写真に記録した科学者が、60年目に広島に来た。「原爆資料館には興味がある」と発言。展示物に影響を受けたかどうか画面ではうかがえなかったが、日本人被爆者との対談で「無辜の幼児、女性、老人を無差別に殺した」ことへの謝罪を求めたことに対し、「当時の国民で戦争に加担していないものはいない。謝罪はしない」の発言には、言葉が出なかった。そして最後に、「パールハーバーを忘れるな」で結ばれている。
 もちろん、恨みの応酬、暴力の応酬では平和はないが、大量虐殺の兵器―原子爆弾を開発した科学者は、悪魔に魂を売ったものだと私は思う。広島、長崎以後、世界の情勢は一変して核抑止力と称して、核競争にあけくれていることからも考えられる。
 強大な武器を手にすると使ってみたくなるのが人間の悲しい性(さが)である。その危険がないとは言い切れないものを感じている。
 米軍再編で、昨年の暮れから岩国基地の問題が出はじめたころ、ある議会議員にたずねたが、「まだ情報が入っておらず、回答できない」ということだった。私が、「この問題で危険性や騒音の問題だけが取り上げられているが、この原爆で叩き潰された広島市の上を米軍機が自由に飛び回るとやりきれないんだ」といったところ、「飛行ルートが違う」と応えた。
 「冗談ではない。いったん飛び立てば空には壁もなく、境目もなく、その考えは甘いのではないか。それが証拠に中国山地では低空飛行をやめろとあれほど要求し、そうしましょうと決めておきながら、いまなお低空飛行で飛び回っている。そういう約束を守る相手であるか」と申し上げた。
 その後、岩国では市長をはじめ、あれだけの反対勢力によって基地がくるのを断ることになったが、国としては認めないという形になっている。
 原爆で潰されたわれわれ被爆者は、この聖地である広島の上をそのような軍用機が飛び回ることには耐えられない屈辱を覚えている。そのようなことから基地設置には大いに反対していきたい。
 アメリカは今でも一方的な戦争をしているが、世界に本当の平穏がやってくるのだろうか。核廃絶はまずアメリカからやりなさい。そして謝罪とともに実行してほしいと思う。原爆によってもたらされた被害は昔のことではない。今でも起こりうる可能性はもう目の前に見えている気がしてならない。何万発持っていようが、まずは使わせてはならない。その上にたってなくすのだ。
 私たち被爆者はその日の事実を素直に、次の時代の人に引き継いで、受け継ぐ若い人が1人でも多く現れることを切に願っている。私たちは遠くないところに終点があるが、そのことを願って走っている。

 原爆で命を奪われた母 再び使わせぬ為に語る
                  原爆展を成功させる長崎の会  永田 良幸

 長崎ではなかなか語ることがなかったが、昨年、長崎市内の浜町のアーケード街で、広島の原爆展、峠三吉さんとの出会いがあった。長崎では「祈りの長崎」といわれ、私も60年間全然原爆のことを話したことはなかった。いつまでも黙っていては、亡くなった両親、兄弟にも申し訳ないと思い、昨年広島でお子さんたちの前で本当のことをしゃべらせていただいた。
 広島も空襲警報ではなかったそうだ。警戒警報も解除で普通の状況だ。空襲警報のときは大人も子どもも防空壕に入っているからヤケドもけがもしない。8月9日、警戒警報も解除だから友だちが早く学校に行こうと私を誘いに来た。当時の家は2階建てで、私はおふくろが病気で預かっていた3歳の女の子をおんぶしていて、「学校に行くので子どもを取ってくれ」とおふくろと会話をしていた。おふくろは外で洗濯をしていて、「もう2、3枚で終わるからしばらく待ってくれ」という会話をしていたときに、B29の音がガンガンきた。なにかな? と窓際にいこうとしたとたんに、グヮーンときた。
 私は脇に爆弾を落とされたかなと思った。赤ちゃんをおんぶしたままつぶされていた。はい出し口を一生懸命に探し、小さな窓が見えた。火事場の馬鹿力が出て、女の子をおんぶしたままその窓からはい出し、屋根を駆け上がって裏の土手を登っていった。
 防空壕に行って、また驚いた。私も預かった子どもも傷はなかったが、おふくろが抱っこしていた5歳の妹は即死状態。おふくろは生きたバーベキューだった。皮膚は10a、30a、ダラッと下がって、おっぱいもつぶれて赤身が出ている。それでも妹をしっかり抱っこしていた。3歳児の弟におっぱいを飲ませようとしたが、もう顔が溶けて鬼みたいになっているので弟も怖がって泣き出して乳を飲まない。
 13日に城山小学校に救護班が来るということで、おふくろと弟を連れていかないといけない。子どもの私には力がないから、叔父さんと2人で長い紐のついたかごにおふくろを乗せて連れて行った。弟は頭はつぶれてブヨブヨでウジがわき、もう夢みたいなことばかりをいうので、私が「うるさい!」といって頭をたたいたら痛いと泣いた。それが今でもかわいそうで、いつも原爆の日にごめんなさいといっている。弟は13日に亡くなった。
 14日、救護班が来ておふくろを大村の軍病院に連れて行けということで、浦上駅の線路端に戸板に乗せて連れて行った。汽車に乗せて行けといっても、私には何もできない。みんな他人の世話どころではなかった。それなら軍医がいるからというので長崎大学病院の焼け跡につれていくと、そこではチンク油をベタベタと塗り、おふくろは痛がる。それくらいしかなかった。
 次の日の朝、おふくろが洗面器を持ってきてくれというので、なにするのかと聞くと便だというので、探して持っていって糞尿の始末をしてあげた。12歳の男の子に母親が自分の下の始末をさせるというのは本当に苦しかったと思う。おふくろの気持ちを思うと今でも胸が痛む。
 昼過ぎごろ、親戚を呼んで来てくれというのでしばらくして連れてくると、脇に寝ていた人が、この人は一生懸命なにかぶつぶつ話されていましたよということだった。おふくろは、泡を噴いて息絶えていた。私が子どもだから遺言をいえなかったのだろうが、どうして私に1言でもなにかいってくれなかったのか、それがいまでも残念だ。ヤケドをしたとき水を飲むと早く死ぬらしく、それでおふくろは死ぬまで水をくれと1言もいわなかった。それも、今になってどうせ死ぬなら腹いっぱいお水を飲ませてやりたかったと、悔やまれる思いはたくさんある。話せば話すほど涙する。
 15日に大学病院の原っぱに、油をひっかけて燃やすため死体が50体ほど並べてあった。私はお別れをしたいという気持ちで、兄弟でただ1人お母さんに会いに行った。1人1人何10体という死体の髪をひっぱって顔を確かめて、とうとうおふくろに会えた。それがせめてもの親孝行だったと思う。
 だから、今のこの平和な日本がどうしてあるのか。食べ物も自由でわがままな子どもも多いと聞くが、みなさんにはこの平和を大事にしてほしい。そして、どうか平和な日本を、どうぞアメリカの1つの州にされないように、みなさんで幸せを守り、核戦争のないように、協力していきましょう。核、核といってもこれは体験者でなければわからない。雨合羽を着て、傘をさせばいいようなことをうわさで聞くが、鉄筋コンクリートが吹っ飛ぶものだ。人間が生身でどうなるのか考えてほしい。

 好評の「原爆と空襲展」 若者に語り継ぐ使命感
                      下関原爆被害者の会  升本 勝子

 私たちは昨年から「原爆と下関空襲展」を開催した。そのなかで原爆と空襲が1つながりのものであることがわかった。私自身、広島で入市被爆しているが、その前に何度も空襲にあい焼け出された。
 私は島根県の益田で育ち、戦争が厳しくなったころは、女学校の生徒だった。昭和19(1944)年の秋、学徒動員で広島県の呉にあった海軍工廠に行った。15歳の私ははじめて親元を離れて旅立ったので、寂しい悲しい思いをした。私が働くことになったのは、電気部の機械工場だった。初めて見る旋盤があった。初めのころは若い男性が指導してくれたが、その人たちも兵隊に行っていなくなり、後は私たちが引き継いで、仕事をした。1日3交代で、夜も寝ずに働いた。夜中を過ぎると眠気がさしてくる。眠ってけがをしてはいけないと、つらかった。
 昼も夜も毎日のようにB29が飛んで来て、爆弾を落とす。今日は死ぬか、明日は死ぬかといつも思っていた。とうとう地上の工場では仕事ができなくなり、山をくりぬいて防空壕をつくり、その中に機械を運び入れた。午前10時と午後3時に外に出て日光浴と体操をしてまた中に入って仕事をした。
 そのうちに焼夷弾で寮が焼かれた。男子寮が焼け、その焼け跡に空襲で死んだ人を運んで来て焼くときのにおいがくさくて、部屋中にたちこめて食事もできなかった。10日後には、私たちの寮も焼かれ、夜の火の海の中を防火用水をかぶりながら、何`も歩いて狩留賀の寮にかわった。家から持ってきた布団も衣類もみな焼けてしまった。狩留賀から汽車でかようことになったが、途中でアメリカのグラマン戦斗機の機銃掃射を受けたこともある。空が暗くなるほど来ていた。グラマンが急降下してきて機関銃でバリバリ撃つ。隣の貨車にプスプスと穴のあく音が聞こえる。私たちは、座席の下にもぐりこんで、今日こそ死ぬのかと思った。
 8月6日の原爆が落とされたのは、呉から見た。狩留賀に帰る汽車の窓から見ると、道には血みどろになった人が大勢うごめいていた。8月15日は正午に重大放送があるからというので、ラジオの前に集まったが、雑音がひどくてよくわからなかった。工場の上官から「日本が無条件降伏した」と聞き、頭がボーッとして歩けないくらい泣いた。勝つためにと夜も寝ずに働き、勝つか死ぬかのどちらかで、生き残って負けるなど思いもしなかった。
 戒厳令が敷かれた。敵がいつ上陸するかわからない。女や子どもは早く立ち退け、といわれて、広島県の学徒はその日のうちに、私たち島根学徒は翌日に寮を出た。呉線で広島駅に行ったが、そこから乗る汽車がない。広島駅は原爆で破壊され、鉄骨が折れ曲がって見る影もなかった。見渡すかぎり焼け野原だった。真夏の炎天下のホームで、壊れた水道管からしたたる水で、手ぬぐいを濡らし顔を覆って暑さをしのいだ。夕方6時ころやっと貨物列車に乗ることができた。貨物列車なので、便所がなくて困った。汽車を乗りついで2日がかりでやっと郷里へ帰りついた。
 原爆と下関空襲展は、1999年から下関原爆被害者の会が開催し、全国各地で衝撃的な反響を起こしている「原爆と峠三吉の詩」の原爆展を土台に、戦後60年をへて戦争の危機や社会の荒廃に多くの人人が心を痛め、どうすれば平和で豊かな社会の展望を切り開くことができるかが大きな問題意識となっているなかで、原爆と戦争の体験を若い世代に語り継ぐ運動をさらに広げようと下関空襲とあわせて企画され、画期的な催しとなり、大きな成功をおさめることができた。
 1945年、米軍は、6月29日と7月2日の2度にわたって、下関の市街地ばかりを狙って空襲し、B29が投下した焼夷弾で、市の中心部は焦土と化し、死傷者数は不明、被災者は5万人近く、焼失した建物は1万戸以上にのぼった。さらに、米軍が日本の沿岸に投下した機雷約10000発のうち、半数以上は関門海峡に集中しており、民間の輸送船や漁船が触雷して沈没し、犠牲者は数しれない。原爆と下関空襲展をつうじて、体験者みずからが語ることによって真相を明らかにし、若い世代に伝える新しい運動が始まった。
 今年になってからも、市内の4カ所で原爆展を開いた。アメリカがあれほどの残虐な殺りくと破壊をおこなったことへの怒り、あのような戦争を絶対にくり返してはならないという願いが、体験者からも若い世代からも共通して語られた。被爆者も戦争体験者も一緒になって、体験を後世に語り継ぐことが私たちの使命だと考えている。

 【広島市で宣伝活動】
 「米国は核持って帰れ」に広島市中が激しく共感
                     原爆展全国キャラバン隊  岡本 太一

 8月1日から6日間、原水禁全国実行委員会は原爆展キャラバン隊による平和公園での原爆展とともに、広島市内で宣伝カー3台をくり出し、「アメリカは核を持って帰れ!」の訴えを流しながら宣伝行動を展開した。そのなかでの市民からの反響を報告したい。
 車体にもスローガンを大きく貼りつけ、内容をチラシにして配布した。
 初日から市民の共感は強く、宣伝カーへ手を振ってくれるおばあちゃん、電停やバス停で待つ人や沿道からの拍手、また、中高生たちが喜ぶ姿が見られた。
 2日目からは総勢40人の宣伝隊が八丁堀や紙屋町、各駅などの街頭に立ち、「アメリカ政府に謝罪を求める」アピール署名を呼びかけると、じっと訴えを聞いていた市民から次次と共感の声が寄せられた。
 市内十日市で被爆した男性は、「最近は日米協力といわれるが、家族を殺された私たちは今でもアメリカが憎い。あれだけの市民を殺しておいて何の責任もとらないとは何事か」と言葉を荒げ、「アメリカを責めずに、北朝鮮で大騒ぎする小泉は本当に恥さらしだ」と語った。
 また、別の年配女性は、信号を待ちながら訴えを載せたチラシを丹念に読んでいた。感想を聞くと、原爆でひどい目にあい、いつか日本が独立することを願いながら復興に汗してきたことを語り、「マッカーサーが広島に来て、道路をつくったり、食料を配給したりして、アメリカは広島の憎しみを消そうとしてきたと思う。知らず知らずのうちに日本の金融機関までアメリカに征服されてしまい、広島の繁華街も外資系の企業や外国人がめだつようになってきた。暴走族はとり締まられるけど、岩国からやって来て好き放題をする米兵はとり締まられない。このままでは日本という民族は消えてなくなるのではないかと思ってきた。若い人たちが政治家の真似をするのではなく、この国を変えるために運動してほしい」と思いを託しながら、署名とカンパを寄せた。
 家族の眠る原爆慰霊碑に花を供えてきたおばあちゃんが、宣伝カーに乗るスタッフに、「ご苦労さま。こうして堂堂と街の真ん中でやってもらってありがたい。岩国基地のことも広島市民として関心がある。がんばってください」と声をかけ、カンパを手に握らせてくれたり、「日本はアジアのイスラエルにされようとしている。この宣伝のとおりだ」と声をかけてカンパを寄せる年配者もいた。
 また、若い人たちが積極的に署名をする姿がめだった。
 集団で署名に応じた市内の高校生たちは、「世界中で戦争が起きているけど、石油が欲しいからといって攻撃するアメリカが1番悪いと思うが、学校では1つも教えてくれない」「小泉首相はアメリカの戦争には真っ先に協力するのに、北朝鮮のことだけで大騒ぎするのはおかしいと思う」「被爆した祖母がいつも“原爆を落としたアメリカが憎い”と聞かされてきたけど、いままでそういう主張に出合わなかった。このスローガンは祖母の思いと同じだと思った」など、思いを語りながら署名のペンを回しあった。
 日を追うにつれ、市民からの共感は次第に表面にあらわれ、激しいものになっていき、反響は全国や世界から来た人たちにも広がっていった。
 マスコミや政府が北朝鮮問題を叫び、この機に乗じて日本をアメリカの指揮のもとふたたび原水爆戦争の火の中にたたきこむというたくらみに対して圧倒的な市民が怒っており、「アメリカは核をかついで帰れ!」という訴えは被爆市民の当然の主張となっている。それは同時に、中立を装って日米合作の「北朝鮮制裁」をあたかも国民的な世論であるかのように大騒ぎしたメディアの浮き草のような正体を鮮やかに示すものだった。
 3日足らずの街頭宣伝では、約1000人の署名と30000円を超えるカンパが寄せられた。
 被爆市民の歴史的な体験と願いを学び、その願いを代表して遠慮会釈なく堂堂と表面にあらわすなら、どんな大掛かりな欺瞞も木っ端みじんに打ち破り、市民の本当の願いが強力に表面化することを教えられるものだった。
 この経験を確信にし、みなさんとともにさらに奮斗することを誓い合い、報告とする。

 【米軍再編反対の意見】
 父の遺志継ぎ沖縄から原水爆禁止訴え続ける
                       沖縄県・被爆2世  金城 辰也

 沖縄から小学生3人、高校生2人、教師3人の計9人で、「第7回広島に学ぶ小中高生平和の旅」に参加するため広島に来た。私は昨年初めて平和の旅に参加し、広島・長崎の被爆者の話に感動した。
 私の父は16歳のとき、長崎三菱造船所で被爆した。その父が4年前、肺がんのため74歳で亡くなった。父は沖縄原爆展を成功させる会の初代会長として、平和な未来のために子どもたちに語り継ぐ、「原爆と峠三吉の詩」の沖縄原爆展運動に並並ならぬ情熱を注ぎ、被爆者としての使命感を持って死の直前までがんばっていた。
 2002年9月のある日、被爆者で現在代表の比嘉幸子さんに「あとはよろしく頼む」と電話をして数日後、昏睡状態になりそのまま一生を終えた。今思えば生前、もっと多くの被爆体験のことを聞いておけばよかったと残念でならない。私は父が健在のとき、父の話になかなか耳を傾けることができなかった。父の原水禁運動に疑問を抱いていたからだ。なぜかというと父は、アメリカ軍雇用員で軍用地料もあった。もし原水禁運動がアメリカ軍にばれて職場を解雇されたら、家族はどうやって飯を食っていくのか不安だったからだ。
 父の死後、私は父の講演記録を読んだ。それには父が長崎で被爆し、沖縄に帰ってからの思いを次のように語っている。「那覇に着いたら、米軍からDDTという殺虫剤を体が真っ白になるぐらい吹きつけられた。米軍は沖縄の人間をバカにしていた。しかし当時、米軍が絶対的な権力を持っていた。原爆というのは人間が生きることも死ぬこともできない状態にする。体に入った放射能がせき髄の中に黒いものとして残り、それが後遺症となって仕事もできない、ブラブラ病という状態が続いた。私は沖縄に帰って来たものの、当時の沖縄県には仕事はない。米軍に土地をとりあげられた沖縄には仕事といえば、米軍基地の作業だった」
 「私は長崎であのような、世界で類を見ない原爆や、被爆者を見た関係もあって、アメリカが憎くて憎くてならなかった。米軍に使われるのは嫌だと思ったが、背に腹は変えられず米軍作業にたずさわらざるをえなかった。敗戦後、アメリカ民政府は“沖縄に被爆者はいない”と圧力を加えたことから、被爆者は自分たちの被爆について語ることができなかった。米軍基地以外の勤め先でも、被爆者だというとクビになるという米軍占領下の状態であった」と語ったそうだ。本当に屈辱的で悔しかったと思う。
 生前、父が末期ガンと告げられて、車イスで生活しているときのこと。以前、私が勤めていた役場で開催した「原爆展」に父が参列した。そのとき父はつえ1本で立ち上がり、テープカットをおこなった。気丈にも声を震わせながらあいさつもした。末期ガンだと知る私としては、心配して見ていたが無事に終了したとき、私は父の原水禁運動に対する思いの強さを実感し、父を大変誇らしく思った。しかし父にとってはそれが最後の原爆展になった。
 これまで、私は戦争を早く終わらせるために、原爆が投下されたと思ってきた。また原爆は広島、長崎のこと、沖縄戦は沖縄のことと思っていた。しかし原爆投下の目的、沖縄戦の真実を知って、原爆と沖縄戦が1つのものであったことが分かった。
 今、沖縄では日米政府が普天間基地の移設といって、名護市辺野古に新たな基地の建設を計画し、さらには北朝鮮のミサイル発射問題を口実にして、嘉手納基地にパトリオットミサイル配備を早め強行しようとしている。これはまさに北朝鮮や中国にむけた、原水爆戦争の準備にほかならない。悲惨な沖縄戦を体験した沖縄県民は、沖縄をはじめ日本全土を原水爆の廃虚にすることを絶対に許すわけにはいかない。
 私は昨年、平和の旅と原水禁広島集会に参加してから、私の人生の目標をつかんだ。それは亡き父の遺志を受け継いで、原水爆を禁止し真の世界平和を実現するために、幾千万大衆とともに生涯奮斗することだ。私は「原爆と峠三吉の詩」「沖縄戦の真実」の原爆展運動が、全国、全世界の人人の良心に訴える重要な役割を果たす活動だと確信している。日本で唯一、地上戦があった沖縄から、原水爆禁止・世界平和を訴え続けていく決意を表明して発言を終わる。

    立ち上がった岩国市民
                    岩国地区実行委  森脇 政保

 戦争終結にまったく必要なかった広島、長崎への原爆投下、全国150都市への無差別空襲は、何の罪もない民を無惨にも焼き殺した。そして乗りこんできた米軍の支配・抑圧のもとで岩国市民は61年間、言葉でいい尽くせない苦難と屈辱を受け続けてきた。
 「カモと間違えた」と農夫を狙撃したり、通行中の女性を車に押しこんで城山で輪姦し、裸のまま山から突き落としたり、子どもには乞食にでも投げ与えるかのような「投げ銭事件」、老人をたびたび橋の上から川へ投げこんできた。
 田舎から岩国に来て高校を卒業し、就職・結婚した若い女性が米兵に強姦され、そのショックで気がふれ、離婚し家族の手でこっそり病院に送られたという話を最近友人から聞いた。農民からは土地を、漁民からは海を、企業からは空をとりあげ、街の発展を破壊してきた。こうした虫けら同然の扱いを岩国市民は受け続けてきた。そして今、米軍再編という名の岩国基地の大増強を押しつけようとしている。
 米軍再編は、アメリカが日本列島を盾にし自衛隊を下請部隊として、日本の人、物、金すべてを動員し、アジア再侵略のため、岩国、広島湾一帯を先制核攻撃基地にするものだ。これは愛する郷土と祖国日本をふたたび廃虚にするものだ。戦中、戦後、あの苦難の人生を生きぬいてきた岩国市民が、これをどうして許すことができるだろうか。
 被爆者、戦争体験者、戦争で父や夫、兄弟を失った遺族の方方をはじめ無数の団体、組織、個人が立ち上がり、創意工夫をこらした運動が展開され、3月の住民投票と4月の市長選を圧勝させた。自治会長は自筆のチラシをつくって家庭に届け、婦人は街頭で訴え、退職教師は教え子に手紙を書き、じいちゃんばあちゃんは電話で子や孫に思いを伝え、ありとあらゆる所で論議が起こり、戦中戦後の体験と日本の将来のことが語られた。
 今政府は権力と金を振りかざして目先の欲に目がくらむ売国的な首長や議員をたきつけ、陰険狡猾な手段を弄して、立ち上がった愛国正義の市民のたたかいを破壊しようと躍起になっている。
 しかし市民は、銃口が市民にむけられ、米兵とその家族の国外脱出訓練や避難訓練をまのあたりにして、また戦後の体験を通して、「アメリカが日本を守るわけがない」と正体を見ぬき、政府が「国防は国の専管事項」といえば「国は国民があってのこと、国民の声を聞かないのは独裁政治でかつての軍国政治と同じ」と反撃し、「地域振興」を持ち出せば「基地があって栄えるなら基地の多い沖縄がなぜ日本1の貧乏県なのか」とインチキを暴露し、粘り強いたたかいを進めている。岩国と広島湾一帯の住民がスクラムを組み、山口・広島両県と全国の人たちとしっかり団結することによって勝利の展望を切り開こうとしている。

    広島住民にも死活問題
                     元宮島総代会会長  正木 文雄

 宮島は古い歴史と自然に囲まれた島で、島の14%がユネスコの世界文化遺産の登録を受けた。われわれ住民は島全体が世界遺産だということで活動してきた。その宮島の南端から約8`の所に岩国基地がある。昨年3月に米軍厚木基地から空母艦載機部隊が移る話が浮上してきた。しかもNLP(夜間連続離発着訓練)がセットということだった。
 「これは大変だ」 と町の最重要課題として、署名活動を展開しようというと反対する人はだれもいなかった。広島県のトップを切って署名活動を開始し大きな反響を呼んだ。当時、人口2052人のうち1972人、98%にあたる署名が集まった。合併先が廿日市市に決まり山下市長が反対期成同盟を結成しその連絡会議があると聞き、そこへ提出した。
 なぜこれだけ反対署名が集まったかというと、戦斗機が宮島上空を飛ぶと、鳥がいなくなり、害虫が増える。害虫が増えると自然の木が食われ枯れる。はげ山になる。そのことを宮島の島民はよく知っている。1400年続いている島をわれわれの代でなくしてはならないと、島民あげてのとりくみとなった。
 宮島は観光の島で年間260万人のお客さんが来る。140万人は厳島神社を、あとの120万人は自然を満喫するために来る。宮島の上を戦斗機が飛ぶようになれば観光に影響し死活問題になる。「うるさい島」となりお客さんは来なくなる。国が「金で解決しましょう。防音装置をつけ2重扉にしましょう」といってもそんなわけにはいかない。江戸時代や明治時代の住居がたくさんある。それを2重扉にしたらどうなるか。自然の調和が崩れるわけだ。
 さらにいま重要伝統的建造物保存地区の指定を視野にいれてやっている問題もある。そういうなかで岩国基地に新滑走路をつくり、厚木から米軍艦載機が移ってくることは、岩国市だけの問題ではなく、われわれ広島住民の問題となってくる。
 米軍基地再編がなぜおこなわれるか考えたとき、ソビエト連邦が崩壊し、1991年ワルシャワ条約機構が解除になった。15年余り経過し、見直しがおこなわれたのが実態だ。キーワードは「中国」「テロ」「エネルギー」「東南アジア」。この点をアメリカは視野に入れている。
 井原岩国市長は全国で初めて住民投票の選択をし、50%以上が反対の結果を出した。これはアメリカに、たいへん効果があったのではないかと思う。
 私たちは岩国基地だけを考えて行動してはいけないと思っている。全国の基地周辺の騒音問題は、全国の住民と連携し、国に住民の声を聞くよう強く働きかけなければならないと考えている。「国の事情も分かるが、われわれの事情も聞いてほしい」とやるのが民主主義のやり方だと思う。

 【受け継ぐ現役世代の意見】
 被爆体験を繰り返し聞き受け継ぎ戦争阻止する
                 原爆展を成功させる広島の会  宇田 浩規

 私は昨年の8月5日に広島市民原爆展を参観したことがきっかけで、原爆展を成功させる広島の会に入会した。原爆被害のすさまじさ、今も続く、放射線被害の恐ろしさに気づかされたうえ、戦争終結のために原爆が使用されたということがウソであったこと、沖縄戦で日本軍が悪かったとの宣伝に、アメリカ軍がそれ以上に悪かった真実が隠されていたことを知り、愕然とした。日本とアメリカが仲良しで、いざというときはアメリカが日本を守ってくれると思わされていたことがインチキで、戦後日本がアメリカに従属させられたまま現在まできていること、情勢はますます危ない方向へ進んでいること、今の日本とアメリカの関係を断ち切らない限り、永久に問題が解決しないことがわかった。
 その後、江田島、五日市、宮島、廿日市における原爆展や被爆体験を語る交流会、岩国でのチラシ配布行動や平和公園での街頭原爆展にも参加した。
 原爆展でいつも目にするのは、広島の会の方方が真剣勝負でとりくまれる姿勢と、相手を気遣いながら自分の役割を果たす姿で、そのため参観者の方方もパネルや被爆体験談を真剣に受けとめている。平和公園での街頭原爆展では、涙を流しながら「パネルを見て自分は何か行動をしなければならないと思うのだが、どうすればいいのか」と悩む人、「前に修学旅行で来たときは観光気分だったが、今回はこういったパネルなどを求めて来た」といわれ、真剣にパネルを見る人に出会い、原爆展の意義を再確認した。
 被爆体験を語る交流会は、会の被爆者の方方が体験談や現在の思いなどを話された後、他の参加者が感想、意見、質問をしながら進められている。参加者には学生の方もいて、毎回被爆者が語る戦争の真実に触れ、さまざまな受けとめ方がされている。くり返し被爆体験談を聞くことで、被爆の実態に近づき、被爆体験の継承につなげていきたい。
 岩国でのチラシ配布行動は、米軍基地再編についての住民投票に強い危機感を持って参加した。参加して教わったことは、問題を解決するにあたっては、問題の根本の原因が何なのかをはっきりさせたうえで、当事者にもしっかりと考えてもらい解決をめざすことが必要だということだ。
 約1年間の活動を通しての実感は、自分の活動の方向は間違っていない、さらに活動の方向と内容を確かなものとするには、もっともっと勉強が必要だということだ。被爆体験を受け継いでいく者の1人として、被爆者の方方のお話をくり返し聞かせていただき、原爆や戦争がいかに悲惨なものかをしっかりと受け継ぎ、そのことを若い世代へ伝えていくことで、何としても戦争をくり返させないようにしなければならない。
 今回の広島市民原爆展のスローガン「アメリカは核を持って帰れ!」は私たちの怒りを力強く表現しているうえに、参観者や世界中の平和愛好者とも共通の要求だ。これからも「アメリカは核を持って帰れ!」の声が高まるように粘り強いたたかいが求められると思う。広島に学ぶ小中高生平和の旅では、被爆者の体験談を聞くことで、小中高生が戦争の真実に触れ、命の大切さに気づき、それを踏みにじる戦争を憎む心を育て、被爆者の困難に立ちむかう姿に学ぶことで、他者を尊重できる人間に成長していくことを教わった。
 今後も広島の会の皆さんや、本日お集まりの皆さんと力を合わせ、仲間を増やしながら行動していこう。若い者たちが先頭に立って、最後まであきらめずに元気にがんばっていこう!

 被爆者に学ぶ子供たち
                     萩市教師  阿部 喜久江

 今年度は、5年生から持ち上がった19人の子どもたちを担任している。この子たちは4年生のとき、いわゆる「学級崩壊」状態を経験した子どもたちだ。5年生のときから「みんなでやること」「つながり合うこと」をとても求めていた。
 6年生になると、すぐに広島修学旅行のとりくみに入る。とりくみ始めてすぐに、これまでにない子どもたちの勢いを感じた。
 修学旅行の目的を話し合ったときだ。「原爆を落とした国に怒りを持つためだと思う」という意見を皮切りに、「戦争を起こした人に対して被爆した人たちはどう思ったかを知り、自分はどう思ったかを考えるため」とか、「永久平和をどうつくるかを考えるため」「原爆のことを知らない人、忘れている人に知らせるため」「被爆者の願いを実行するため」「もう2度と原爆を投下させないように行動するため」と、次から次に意見が出された。この子たちのどこにこのような積極性があったのかと驚いていると、平和集会で朗読する詩を選ぶとき、「原爆と峠三吉の詩」パネル小冊子を真剣に読み、『ある婦人へ』『墓標』『8月6日』など次次と出され、結局『呼びかけ』を選んだ。
 子どもたちの意見をまとめて、修学旅行の目的を、@戦争・被爆体験者の体験と思いに学び、平和のために行動する、A学んだことを多くの人人に知らせる、Bクラスの友だちとの友情を深め、周囲の人人へ思いやりの心を広げる、に決めた。
 広島では被爆者の方方にお話を聞き、岩国では米軍基地を見学した。
 修学旅行を終え、学んだことを出し合った。「泣きながら話してくださったことから、今も原爆を憎んでいることがわかった」「被爆体験者の方は、戦争を起こさせないという気持ちが強いことがわかった」「1度に家族を失うことがどれほど悲しいことかを想像できた」「岩国市民は団結して基地の拡張に反対してがんばっているのですごい」など次から次へと出た。そして、これを紙芝居にして多くの人人に伝えようと決まった。
 その後の子どもたちの勢いは目を見張るものがあった。子どもたちは、3班に分かれて、力を合わせて紙芝居づくりをおこなった。とりくみの途中ではいろいろな事件もあったが、はじめに決めた目的を貫くことにより、軌道を修正してきた。そして、紙芝居が完成し、日曜参観日での保護者への報告を皮切りに、各学年への報告会、老人クラブを中心とした地域での報告会、萩市民の「原爆と空襲展」での紙芝居発表と、連続的に人人に伝える活動をしてきている。見てくれた人人から、感動の涙と自分たちへの期待の声をもらい、さらに意欲を高め成長してきている。
 今年は、平和の旅にむけて初めて商店街でのカンパ活動もした。平和の旅に参加できない子どもも地元では協力できると九人もの子どもたちが参加した。商店街の人たちは、子どもたちに大きな期待をこめて多額のカンパをしてくださった。
 子どもたちは、体育面や知育面でもすばらしい力を発揮している。5年生の最初は、25b泳げる者はたった1人だったが、今では100bが7人、50bが10人、25bが2人と、ものすごくよく泳ぐ学年に変身した。漢字の書きとりの平均点も全国平均を大きく上回っている。何にでも意欲的にとりくむ学級集団の力はすごいと思う。
 こうした子どもたちの成長、子どもを支える父母や地域の人人、そして教え子をふたたび戦場に送らない決意で子どもを育てる教師の集団、こうした力を大きくしていくことに全力をあげる。

 【外国からの参加者発言】
 シカゴ大で原爆展開催
                    米国  ジョー・ハンキンズ

 私は初めて原爆展を見たのは、2年前だった。そのとき広島市が開いた原爆と平和についての講演会に参加して、たまたまメルパルクに来た。そこに入って写真と詩を読んで、ものすごく感動した。私はアメリカの南のテキサス州で育てられたが、戦争のことについてはそんなに教えられなかった。いつも最後にだいたい15分ですまされてきた。広島と長崎のことについてほとんど知らなかった。それが原爆展を通じてわかった。自分の国が過去に何をやったかはっきりわかった。
 さらにあそこに集まっておられた被爆者の方方から体験を聞いて、さらに感激した。自分の国がこのような悲劇を起こしたことに、本当にびっくりした。もちろんあったことは知っていたが、実際に自分の目で見て自分の耳で聞いて、本当に許せないと思った。
 私自身、個人として何かしなければならないと決心した。アメリカのシカゴ大学に戻って、大学に原爆展パネルを買ってもらった。去年の1月から3月まで3カ月間、シカゴ大学の中央図書館で原爆展を開いた。
 シカゴ大学は原爆の開発をした大学の1つだった。シカゴ大学の学生は、そのことは知らないが、知るべきだと思って原爆展を開いた。今年の6月にアメリカのテキサス州の田舎に住む私の家族が、初めて日本に来た。その旅の1番中心になったのは、広島での交流会だった。被爆者の方方が、時間を割いて交流会をやってくださった。
 3時間にわたって体験談を聞かせて頂き、ものすごく保守的な私の家族も、その話を聞いて泣いて、何かしなければならないと決心した。この人たちは、アメリカの保守的な南部の人たちで、ブッシュ大統領のいるすぐそばの村から来た。すごいことだと思った。
 私はアメリカ人の個人として、被爆者の体験を聞いて、他の人に伝えることがつらくないか、責任を感じないかと聞かれる。責任はもちろん感じる。でも原爆を落としたという責任ではなく、核のことはきちんとアメリカ国民に記憶されているか、そのことに責任がある。その責任を果たすためがんばっていきたいと思う。この2日間、原爆展に行ったが、あらためて体験を聞かせて頂いて、あらためて決心した。みなさんと一緒にがんばっていきたい。

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