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「戦争二度と許すな」の世論
              上関 原発をやめ海と山を残せ  2006年9月25日付

 【上関】 中国電力の原発計画によって24年の長きにわたり、「内戦」のような状態が続いてきた上関町内では、「原発はいい加減に終わり」との声が強まっている。なかでも、悲惨な戦争を体験した年寄りたちは、「世の中、原発どころではなくなった」「岩国基地が増強されれば、ミサイルの標的にされる」「国が町民を守るわけがない」と、みずからの経験と思いを強く語りはじめた。320万人もが殺されたかつての戦争はなんだったのか、戦後61年たち今度はアメリカのために戦争をしようとしている日本の現状に、いいようのない憤りが、今日の上関の姿と重ね合わせて語られている。

 空襲や徴兵で町民555人が犠牲
 長島に住む老人の1人は、「“国策とは、人をだますものなり”とは、よくいったものだ。第2次大戦では、兵士の供給と食糧生産で利用され、戦後は農業や漁業では生活できず若者は都会に出ていった。しまいには、原発という国策で、町がつぶれるほどに振り回された。国は、上関に人がいなくなっても、ミサイルの標的にされ廃虚になってもちっとも心は痛まない。世の乱れはひどくなって、原発騒ぎを続けている時代ではない」と語る。
 70代の婦人は、「世の中、あちこちで戦争ばかりになって不安でしかたがない。仲のよかった兄は南方で戦死したけど、骨壺の中には石ころが1つ。骨さえも帰ってこなかった」と話す。
 通っていた学校では、教科書もなく、畑づくりや坑木運びばかりで勉強どころではなかった。終戦が近づくと、グラマンが飛んできて、1人で遊んでいた子どもまで狙って撃ってきた。室津と平生の間を走っていたバスも、機銃掃射で穴だらけだったという。
 「戦後、同窓会をしたとき子どもたちは、“天皇陛下は神様ではないじゃないか!”“鬼畜米英はどこへいったのか”“俺たちをだました”とすごい剣幕で先生を追及した。平生には占領軍がいて、時時学校にお菓子を持ってきたが、偉い人たちをはじめペコペコするばかり。アメリカがきて、自由で豊かになったというけど平気で人殺しをする世の中になって、国は植民地にされた。中電に占領された上関とそっくり同じ。国民だけが惨めな思いをする戦争は2度とくり返してはいけない」といった。
 かつての戦争で上関のような農漁村は兵士の供給源として、二男三男を筆頭に多くの若者が戦地へかり出されていった。人口が約1万人の上関では、1銭5厘の赤紙で徴兵された兵隊や軍属、広島への原爆投下、光海軍工廠への空襲など、氏名のわかる人だけで555人もの命が奪われた。戦没者名簿にのせられている内訳は、室津が168人、上関が100人、祝島が116人、白井田が61人、四代が44人、戸津が29人、八島が22人、蒲井が13人。行方不明になった人、戦後転居した人などを含めれば相当数にのぼる。
 明治以後発展していた白井田の優秀な機帆船は、軍部の徴用によって船主ごと南方へ持っていかれ多くが米軍によって沈められた。全盛期には80隻あったものが、終戦後は老朽船や小型船の20隻ばかりだったという。
 さらに、上関の戦没者555人のうちの423人、実に8割近くの人が、1944(昭和19)〜45(昭和20)年までの、1年半のあいだに亡くなっている。圧倒的に多い、兵隊や軍属は、中国やニューギニア、レイテ沖、ビルマ、比島ルソン島、東シナ海、沖縄戦などで。

 終戦直前に米軍が爆撃・上関でも光でも
 戦地にいった老人たちのなかでは、補充兵は、鉄砲も担げず、行軍することもままらないような年寄りや体の悪い人ばかりだったことや、軍隊にいるのに、武器も弾薬もカラだったり船舶部には油もなかった話、戦争ではなく飢えとマラリアで餓死したことや、アメリカにやられるのが分かり切っているのに、次次と輸送船を送り出した話などが、「なぜ負け戦を突っ走ったのか」と、無念の思いとともに語られている。
 また国内に残された人たちは、自分たちが生きていくための生産のほかに戦地への強制供出もあり、限界まで耕地を開いて麦や芋、カボチャなどをつくり続けた。
 終戦が近づいてからは、上関のような田舎も米軍機に狙われた。島影に隠れていた日本軍艦が爆撃を受けたり、白井田では畑仕事をしていた婦人が、まさか一般人を狙うとは思っていなかったところを機銃掃射で殺された。終戦前日の14日には、光海軍工廠が米軍機150機による爆撃を受け廃虚となった。戦死した学徒や従業員は788人にのぼり、上関出身者は46人が亡くなった。そのなかには、学徒動員でかり出された19人の少年少女も含まれていたことが忘れてはならない事実として多く語られている。第2次世界大戦は、上関に住む人人にとっても筆舌に尽くしがたい経験であった。
 老婦人の1人は、「なぜ、戦争を早くにやめなかったのか。私たちの疑問は、それだけにつきる。男4人、女2人の兄弟のうち、戦地で兄3人が死に、姉も戦時中に病気になり死んだ。勤労奉仕で、軍需工場に出ていたが、材料もなく、道具さえ満足になかった。どこそこで軍艦何隻を沈めたと自慢していた軍人も、最後はなにもいわなくなって、これは負けていると思った。国家や天皇など、偉い人の体裁や安泰のためにあれだけ死んだのかと思うと、情けなくなる。今では、アメリカ一辺倒になってまた戦争になりそうだ。上関だけが平和ということは、ありえないこと」と話した。
 大阪の防空部隊におり広島で被爆した経験を持つ老人は、「大きな大砲工場にいっても、15a高射砲がたった1門あるのみ。自動車部に配属されたが肝心の自動車はなし。兵隊なのに、銃すら持たせてもらえなかった。軍部の関係で共同通信社などマスコミにもいったが、これは負けると話しながら、紙面では最後まで戦争を煽っていた。それで国も、新聞も大企業も信用ならんと思ってきた。昭和天皇は平和主義者どころではないですよ。これまで、とくに自慢できる話でもなく生きてきたが、アメリカと一緒になって戦争をさせるわけにはいかない」と語った。

 飛行機もないレイテ戦ー長崎市在住の酒井富吉氏の戦争体験ー
         マニラでは米軍が無差別爆撃・南方で大半が餓死、病死

 私は昭和17年、佐世保相浦海兵団で2カ月間の新兵教育を受け、佐世保海軍病院看護術練習生をへて、昭和19年の10月、看護兵としてレイテ沖の海戦に送られた。
 このとき日本軍は、栗田中将率いる連合艦隊をレイテ湾に乗り込ませるため、航空母艦四隻と護衛艦で敵を邀撃し、米軍機動部隊を引きつける作戦をとり私はそのおとり部隊(小沢部隊)の空母「千歳」に乗っていた。だが、このとき日本の空母には1機も飛行機がなかった。当然にも米軍の集中爆撃を受け、「千歳」「瑞鶴」「千代田」「瑞鳳」の空母4隻すべてが沈没。乗組員は海に投げ出され、ほとんどがまともな反撃もできぬまま海底に沈んだ。不思議なことにレイテに乗り込むはずだった栗田艦隊は途中でUターンし、この犠牲はまったくのやられ損に終わった。無謀の極みとしかいいようがない。司令部からの指示なのか、本人が怖気づいたのか、栗田中将は戦後亡くなるまでそのことは口にすることなく、真相は今も闇のままだ。
 漂流した私は住民の漁船に拾われ、日本軍が使っていたキャビテ軍港に引き揚げられたが、本隊からは「帰国しなくてよい。現地の飛行場へ赴任せよ」と命じられた。飛行場といっても飛行兵はレイテ海戦の特攻で1人もおらず、配属された第955海軍航空隊も残っているのは整備員ばかりだった。
 昭和20年の1月、マニラ防衛海軍陸戦隊が組織されたが、私をはじめまともな戦斗教育を受けたことのないものばかりだった。約200名で米軍が突入する4日前に荷物を載せた大八車を押しながらマニラ入りした。

 兵隊は降伏しても銃殺・死に場所探す逃避行
 米軍のマニラ攻撃は、空からの爆撃、迫撃砲、榴弾砲、戦車砲などあらゆる火砲をもってマニラを焼け野原にした。とくに日本軍が潜んでいるとみられるめぼしいビルなどは片っ端から破壊した。こちらには旧式野砲が3砲があるだけで、日露戦争で使った村田銃が7人に1丁。あとは竹ヤリだった。米軍は30発連射の自動小銃だ。たたかうというより、逃げ惑うのが精一杯だった。地下から出れず、地上に出れば蜂の巣にされる状態だった。陸戦隊隊長の岩淵少将は2月26日に自決し、800〜1000人いた1、2大隊は全滅した。マニラ市街を焼き払ったり、住民を虐殺したのは日本軍といわれているが、日本軍にその余力はなかった。住民を虐殺したのは無差別爆撃をした米軍の側だ。
 私はマニラ近郊のマッキンレーという町にいたが2月17日に脱出し、川づたいに東側のラモン湾のインファンターという部落に向かった。それから4月から9月までの6カ月間、米軍の執拗な攻撃を逃れ、食料を探しながら山の奥へ死に場所を探す逃避行が続いた。すでに武器、弾薬、食料などの物資補給はなく、敵に1発でも撃てば数10発が返ってくるので戦斗ができる状態ではなかった。
 はじめのうちはバナナなどを食べたが、それもなくなりバナナの木の芯や野草を水で煮て食べた。軍医に聞いて毒草でない草という草はすべて食べた。しかし、草と水だけではなんの栄養もない。そのうち、アメーバ赤痢、てんぐ熱、マラリアなどの病気がはやりだし、毎日毎日バタバタと死者が出た。撤退する道の両脇に死体が折り重なるようにして列をなしていった。その間も、米軍の観測機が上空を飛び、動くものを見つければ低空飛行で機銃掃射や迫撃砲を撃ってきた。こちらが反撃できないのを知っているので完全に見下しており、女の米兵が乗っているのが見えた。
 6月に入ると貴重な塩もなくなった。南方特有の病気と栄養失調で脚気になったり、発狂して崖を見つけると飛び降りるものもいた。そういう兵隊をせめて埋葬して、小指の1本でも形見に持って帰ろうとも考えたが、どうせあと数日すれば自分たちもこうなると誰もが思っていた。倒れた兵隊たちは、はじめは「メシが食いたい」といっていたが、そのうち「水をくれ…水、水」といい出し、最後に「お母さん…」といって死んだ。敵弾でやられたのは4分の1に過ぎず、あとは餓死と病死。とても華華しい戦死などとはいえなかった。海軍陸戦隊の約1万8000人のうち、終戦時に生き残ったのは1300人程度だったという。
 陸軍はすでに6月に解散していた。戦地のジャングルの中で、しかも敵に包囲された状態で解散して「自由にしろ」といわれてもどうすることもできない。なかにはあまりに飢えて気が触れたのか、死体の太ももの肉を切って食べていた兵隊もいた。疑心暗鬼が生まれ、味方でも油断のならない地獄のような世界だった。なぜ、このような無謀なことをやらせたのか。1銭5厘の赤紙で家族から引き離されて連れてこられ、このような目にあわされた兵隊たちの心情を思うときとてもやりきれないものがある。
 9月14日、捕虜にとられた私たちはマニラのカンルバーン捕虜収容所に入れられた。だが、兵隊の捕虜は少なかった。兵隊は白旗をあげて降伏しても撃ち殺されていたからだ。収容所から脱走した兵隊は銃殺され、見せしめのためか目玉をえぐりとられ、鼻や耳をそがれた無残な姿で転がっていた。私は看護下士官だったのでMPに連れられて米軍のテント張りの医療施設で4カ月間働かされた。
 21年1月、米軍の貨物船に乗せられて浦賀の久里浜港に着いた。てっきりアメリカに送られ奴隷にされると思っていた私たちは、相模湾のむこうにくっきりと富士山が見えたときのうれしさを今も忘れることができない。
 復員して立ち寄った東京はところどころに鉄骨の建物が残るだけの砂漠のようになっていた。長崎は原爆で廃虚だった。

 戦後はGHQの監視下・「反米ふりまくな」と
 島原の実家に帰って青年団活動をしたが、どんな田舎でもGHQの事務所があり、会合をするたびに時間や場所、出席者や内容まで報告しなければいけなかった。私は事務所に呼ばれ、「マニラから帰ったらしいが、反米思想をふりまくな」と釘をさされた。その後、家の農業の手伝いをして過ごしたが、長い戦場生活で草ばかり食べていたので胃ガンになり、体重は40`にまで落ちていた。兵隊であったこと、まして戦没者の慰霊など口にもできる状況ではなかった。
 戦争は2度とくり返してはいけない。自民党政府は憲法改正で自衛隊を海外に派兵できるようにしようとしている。これは絶対にさせてはいけない。また、自国の利益しか考えないアメリカにとって、日本は盾でしかなく、守る気などないのにいいなりになっている。小泉政府がなぜ5年ももったのか。自分の思いを押し通すものに対して、周りの議員もみんなへつらって同調するだけなのはなぜか。完全にアメリカに手なずけられてアメリカ防衛のために日本が使われるのではないかと感じる。
 私は、戦争は悪いことだが、国のことを思ってたたかい海底に眠っている兵隊たちを絶対に忘れてはならないと思う。だから南方の洋上慰霊に五回ほど参加し、慰霊を続けてきた。政治に利用されるのがいやだったので他人に体験を語ったことはない。また、当時の戦友たちはほとんど連絡がとれなかったが、知り合いから芋づる式に連絡をとって戦友会も立ち上げた。佐世保のハウステンボスの裏手にある釜墓地には、フィリピンの墓地から運ばれた6000体の戦没者の遺体が荼毘に付され、いまも眠っており、そこで毎年慰霊祭も行っている。
 孫たちには、もしまた徴兵がはじまり、海外に出兵するようなことになれば、逃げろといっている。戦時中なら逃げれば軍法会議にかけられて刑務所行きだ。だが、戦地では必ず死ぬ。刑務所では麦飯を食ってでも生き残れる。そうしてでも生きのびろといい聞かせている。若い人たちは、目先の利益だけを見がちだが、過去の話に耳を傾けて、この悲惨な戦争を2度とくり返させぬようにしてほしい。この体験を忘れたら、昔よりももっとひどい目にあうことになるだろう。これが戦中派のゆずれない思いだ。

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