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上関から逃げ始めた中電
電力自由化で情勢変化
              町民の主導権で終結・正常化を    2007年10月17日付

 中国電力の上関原発計画を最大の争点としておこなわれた上関町長選から3週間余りがたち、町民のなかでは実際の力関係は拮抗状態だったとの勝利感が強まっている。一方で、柏原町長など推進派幹部の側は、厳しい顔つきとなり元気のなさがめだった。計画公表から25年がたち、原発を進めてきた電力会社をめぐる全国の情勢も大きく変わってきた。電力をめぐる最大の変化は規制緩和の流れによって電力自由化が始まったことである。そして原発を揺るがす大地震の頻発、さらに日本本土を戦場とする戦争準備がやられる情勢となった。中電の上関原発計画は、表面上では詳細調査をやっていかにも原発はすぐできるようなことを叫んできたが、この町長選であらわれた中電の姿勢はそれとはうらはらにすっかり後ろに引き下がり、意欲性をなくした姿であった。なぜそうなっているのか、中電をめぐる全国的な情勢の変化を見てみたい。

 町長選は現地任せで統率せず
 今回の町長選挙は町民の目を開かせることがたくさん起きた。町長選挙にあらわれた際だった特徴は、推進派組織もインチキな「反対派」組織も分解してしまったことである。推進派組織は柏原一族による定員制となり、これまで推進派できた部分を排除するものとなった。推進派組織の分解である。そして、反対派の顔をして推進をしてきた「反対派」議員・幹部の影響力もすっかり崩壊した。
 この背景として中電が、これまでと違って飲み食いだけでも1000万円は出していたというカネも配らなければ、オール推進派を統合することもせず、また中電の個人情報コンピューターを駆使した全国ネットワークを通じた町民への脅しもなかった。中電が後ろに下がって、選挙を統率しなかったのである。選挙は「現地おまかせ」「柏原一族の自己責任」選挙になった。中電は詳細調査を実施しているが、実際には上関原発計画を建設する姿勢をなくしているという姿であった。
 選挙終盤まで、「圧勝」「7割から8割の獲得」と叫んでいた推進派幹部衆は、結果が出るとそろって元気をなくした。柏原町長は、祝勝会で「万歳」をするのを嫌がり、マスコミにせかされてやった「万歳」は、「お手上げ」か「降参」という顔つきであった。その後も「見たことがないほどきつい表情をしている」とみんなが驚いている。他の幹部衆も、「原発は簡単ではない」「選挙に勝っても意味がない」などと不景気な様子は変わらない。なかには、「圧勝などとは1度もいった覚えがない」といい出す幹部もおり、形勢の悪さをにじませている。
 町民のなかでは、祝島も室津も反対票が大崩れした形勢はまるでなく、逆に今度は原発の終結を願って推進派から反対票に投じたという人が多かったことが語られている。推進67%対反対33%という選挙結果は、「おかしい」との声が圧倒するのと同時に、「原発はできる見込みがなく、中電もやる気がない」「原発は終わりにして、町を正常化しよう」との世論が大きな流れとなって広がっている。

 苦しい中電の事情 電力自由化が直撃・経営的に原発困難
 中電が上関の町長選挙にたいして、表面上は動いたふりをしながら、実際には見物人のような態度をとったのはなぜなのか。そこには原発どころではない中電側の事情が作用している。
 上関原発計画も浮上から25年がたったが、電力会社や原発を取り巻く全国の事情は大きく変化している。現在、電力会社にとって最大の問題は、1995年から始まった電力自由化の動きである。日本の電力会社は戦後、九つの電力会社による地域独占できた。1990年代に入ると、アメリカの新自由主義、市場原理主義改革の要求として、規制緩和が進んだ。「世界的に高い電力価格を下げろ」といって、九五年から電力自由化の1次の動きが本格化した。これまで、競争相手がおらず独占体制をとってきた電力業界は大慌てとなった。電力への新規参入を自由化し、自由競争をやるというものである。
 新規参入する企業はカネのかかる原発などやるところはなく、既存の電力会社がズルズルとカネを食う原発をやるのは経営的にむずかしくなるという事情である。
 上関では、平井知事が躍り出て、信漁連問題などで全県の漁協が抵抗できないようにしながら、山戸貞夫氏らを通じて祝島漁協に田ノ浦地先の共同漁業権を放棄させ、環境調査に乗り出したのが、1990年代初めから94、95年の時期であった。上関がやっと動き始めたと思った時期、電力会社の経営の根幹を揺るがす電力自由化が始まっていた。
 2000年からは第2次の大規模な規制緩和として、電力小売りの自由化などが段階を画して開始された。電力業界では、95年の規制緩和を受け「今後10年は同様の動きはない」という空気が流れていたが、アメリカや財界全体の要求はそうではなかった。第2次自由化のかけ声をかけたのが、2000年の衆院選で「私がいなければ原発は立たない」と叫んで落選した佐藤信二代議士であった。
 第2次自由化のなかで電力会社を震撼させたのは、電気料金を決定する仕組みの大幅な「規制緩和」であった。地域独占に対応した電気料金は、「総括原価方式」と呼ばれるものであった。これは、原価としてかかる経費をすべて計上して、その上に一定の利益を上乗せして電気料金を決めるという制度であった。電力会社としてはいくら金を使っても損することはなく、必ずもうけるという親方日の丸経営を保証された料金制度であった。
 総括原価方式では、原発建設などでかかる、表に出た寄付金や裏の買収金なども「将来の電力供給に対する投資」としていくらでも電気料金に上乗せして元を取ることができた。電力会社の使命は「電力の安定供給」であるとして、原発のようなものを国策として推進できるような電気料金の決め方を保証されていた。しかし、国は「経営の自由」「自己責任」といってその特権を没収した。莫大な投資を必要とする原発建設については大矛盾をきたすようになった。

 外資企業参入も可能に 電力の小売自由化
 また小売り自由化への新規参入は、製鉄会社や石油会社など国内企業だけではなく、外資も参入できるようにするものであった。宇部興産の用地にアメリカ資本のエンロンが進出計画をもったが、イカサマ経理が暴露されて倒産したいきさつがある。小売りでは、2000年から大規模工場や百貨店など電力需要が2000`hを超える枠の規制を解除。04年には500`h以上、05年には、少し大きなガソリンスタンド、小規模工場、家電量販店などにあたる50`h以上の範囲にまで枠を拡大した。現在では、電力会社が占めてきた販売電力の約63%が自由化の対象となっている。
 これによって、全国で20以上の事業者が新規に電力事業に参入し政府機関や各都道府県、1部の都市などで購入電力の入札制度が実施されるようになった。中国電力の管内でも、中電は大手商社の丸紅から、広島県庁や市役所、市民球場や市民病院、総合体育館などの電力供給権を奪われている。自由化によって、電力各社はあいついで電気料金の値下げラッシュとなり、20%から30%下がったところもある。

 市町村合併を強行 国や県も切り捨て・特別扱いを拒否
 原発推進を掲げながら、電力自由化の進展のなかで、「電力会社の自己責任」という態度を取ってきた国側と、「経営的にリスクを抱える原発への投資には国が責任を負うべきだ」とする電力会社の対立が続いてきた。電力各社側は、自由化によって法的供給独占や総括原価主義の保証がなくなれば、原発投資に影響があると主張してきた。
 02年には、電気事業連合会が、使用済み核燃料再処理や耐用年数の過ぎた原発の解体撤去、再処理工場の解体撤去などの費用として、2045年までに30兆円を要するとの試算を発表。電力会社にとって原発がいかに重荷になるかを主張してきた。
 日本より早く電力自由化がおこなわれた欧州では、国境を越えた電力会社の買収、再編が進んでいる。世界第2位の原発をもつフランスの企業が、ドイツ企業の経営権を握るなど熾烈な争いが激化している。電力会社にとっては、電力自由化で企業買収が現実問題になろうとしている。中電のような地方会社の場合、関西電力に企業買収されるとか、外資に乗っ取られるとの話も飛び交う状態である。
 昨年6におこなわれた総合資源エネルギー調査会電気事業分科会原子力部は、「国は原発を推進する立場をとるが、電気事業者の自主的な判断で投資がおこなわれるよう環境整備につとめる」「電気事業者の投資判断の結果が万一政策目標(原発建設目標)を達成しない場合については、事業者の決意を尊重して見守る」とした。原発は電力会社としては気が進まないものであるが、国策として国がいうから推進してきた。しかし電力会社が断念したら国も認めるというものであった。
 上関原発をめぐって、1999年末に突然、漁業補償金を出し、2000年以後二井知事が躍り出て公開ヒアリングを引き込み、知事同意まで強行した。中電側は「登山道の入り口に入った」とさめた態度がめだったが、前面に立って突っ走ったのは県、国の側であった。2001年になると国、県の側も態度の変化があらわれた。構造改革・規制緩和を至上命令とする小泉政府の登場とともに、市町村合併を強行するが、国は原発という国策を抱える上関町にたいして特別扱いすることを拒否した。片山町長はそれにはぶてて合併を拒否するが、切り捨てられる結果となった。
 その後に上関町内であらわれたのは推進派の分裂である。2003年の町長選へ向けて、右田、浅海氏が名乗りを上げ、片山氏との3者乱立抗争となった。反片山の推進派分断を仕掛けたのは中電側であった。電力自由化で電力会社が原発建設を嫌がり、小泉政府が市町村合併を強行するなかで、上関ではそのような現象があらわれていた。

 対テロ戦動く事態 NYテロ事件後・標的となる原発
 さらに進行していたのが、ニューヨークテロ事件をきっかけにしたアメリカの対テロ戦争であった。ブッシュのポチといわれた小泉政府はテロ対策特措法を慌てて成立させ、アメリカの戦争への応援態勢を決め、アフガン、イラクへ自衛隊を派遣した。さらに米軍再編に積極的に協力し、移転費用3兆円を出すとともに、岩国への空母艦載機移転を進め米軍の司令部を座間におき、そこに自衛隊の司令部もおいて、自衛隊を米軍の指揮下にさらに組み込むとともに、一連の有事法制化を進めて日本を戦争をやる国にするというものであった。
 国民保護計画と称して全国の自治体に、戦争時の避難体制をつくらせているが、そこでは核ミサイルによる本土攻撃まで想定する事態になっている。原発は真先に標的になる第1級の軍事施設として、沖には海上保安庁の巡視船が常時待機するようになり、原発敷地には自衛隊が常駐することになっている。
 アメリカの国益のための戦争にくっついていって、本土を戦場にする戦争を始めるというバカげたことを進める事態となっている。このようななかで原発を増やしていることは大矛盾となっている。

 地震直撃で壊れる原発 安全基準の不備露呈
 そして今年の柏崎刈羽原発の大地震による破壊である。建設時に想定した以上の地震があいついでおり、日本は地震の活性期に入っているといわれている。柏崎原発は、大爆発事故はかろうじて免れたものの、七基全部がぶっ壊れてしまった。炉心部を開いた調査などいまだにできない状態で、表面上目視はできなくても稼働したら危険になるような鉄材などの劣化があり、再開できるめどはない。古い地震基準で建てられた全国の既設原発も総点検と大補修をせざるを得ず、電力会社にとっては法外な資金負担となる。柏崎原発破壊で、日本最大の電力会社である東京電力の経営も見通しがないといわれるほどである。
 中電の島根原発ではかつて「付近に大地震を考慮すべき活断層はない」としていたものが、3号機建設に向けた98年の調査で初めて活断層を「発見」。中電側は、断層の長さは10`以内としているが、大学教授らでつくる共同チームは全長20`を超えるという結果を発表している。一般的に想定される地震の規模は、10`ならマグニチュード6・5、20`なら7クラスの大地震となる。現在、音波探査などの調査が開始されており、結果次第では稼働中の1、2号機の耐震補強、建設中である3号機の耐震性などの見直しに莫大な費用がかかることになる。
 電力自由化のなかで他の電力会社では設備投資などが93年をピークに低下傾向にあるが、中国電力は島根3号機の設備投資額などが急増する状態。今後、競争が激化するなかで他の電力会社が電気料金の値下げをおこなっても中電には対応能力がないといわれる。その上に上関原発1、2号機の建設はさらに困難になるのは明らかといわれている。
 電力需要を見ても、中国電力の電力需要の伸び率は北陸、四国、北海道についで低い117万`h(1%)であり、島根3号機、上関1、2号機(それぞれ137万`h)は設備過剰になる。

 原発終結で町民団結を 中電の悪事暴き
 今回の上関町長選挙で中電は今までのように、前面に出て選挙を統括しなかった。それは中電の事情として、上関原発を建設することを願っていないからである。中電と国、県が考えていることは、用地、漁業権などは利権として維持するが、ズルズルと放置して上関町を崩壊するに任せること、現地責任にして放り出すことである。
 県の側から進めているのは平生、田布施との町の合併である。すなわち、町の解体、身売りである。それを現地の町民側の判断という格好にして、「町の判断なら致し方ありません」とか「町が誘致したから出てきて莫大なカネも使ったのに」と、まるで被害者のような顔をして、町をさんざんに崩壊させたまま、なんの責任もとらずに逃げていくことが、現実の情勢として想定されるコースである。
 柏原町政と現議会が実際に果たす役目は、見込みのない原発にしがみついてズルズルと町を崩壊に任せること、さらに進んで町民の当然の要求をみな投げ捨てて、柏原町政の自己責任で、中電や国、県に責任もとらせず、首尾よく逃げさせることしかないと判断できる。
 したがって現在町民にとって必要なことは、中電とその使用人たちの主導による原発の終結・町の放り投げを許すのではなく、町民の主権を回復し町民主導による原発の終結・町の正常化である。町民のなかで、これまでの原発推進、反対の行きがかりを超えて、原発終結で町民の大団結を回復すること、その力で町長、町議会を町民の側に取り戻すこと、そしてさんざんに破壊してきた中電や国、県の悪事を大暴露し、その責任を正当にとらせるとともに、海と山を守り、漁業と農業を基本にして、町民が生活できる町を建設する展望を開くことである。

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