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上関斗争勝利の記録 つぶせ原発 豊北から上関へ 

   ・山口県では、中国電力の原発計画を豊北町に続いて上関町でもう
   ち破っている。本書はこの人民勝利を跡づける長周新聞社の主要な記事
   を収録したものである。
                                       

       発行・長周新聞社  B6判 319頁 定価1500円(送料310円)

 (一部抜粋)  

漁民中心に全町民団結を 
 
過去、現在、将来も漁業が町発展の基礎 (1984年、11月17日付)
中国電力が、 山口県熊毛郡上関町に原子力発電所の建設計画を明らかにしてからすでに二年以上がすぎた。 本紙ではこの数カ月来、 全町の世論調査を繰り返してきた。 今日、 そこで無数に語られた事実を総合してみて、 上関町民はどのように生活してきたか、 その中で全町を発展させてきた中心的産業およびそれを担う勢力は誰か、 また中心的産業を軸にして町民各階級各階層はどのように依存しあい協力しあって生活しているのか、 さらにそれと対立する方向はどのようなものであり、 また中国電力の原発建設はどのように関連しているかなどについて、 現状を歴史的にもふり返りつつ考えてみたい。
 上関町は、 周防灘と伊予灘に深く突き出た半島の先端から、 さらに一〇キロほど突き出た長島と、 西方一二キロの海上に祝島、 南方一一キロの海上に八島、 その他の島島から成っている。 半島の先端部に室津、 長島に上関、 戸津、 蒲井、 白井田、 四代と、 祝島、 八島の八つのおもな集落がある。
 上関町の位置を知る上では、 山口県熊毛郡の平生町の奥まったところにあるという、 いわば行政区割発想だけでは計りがたいものがある。 上関、 室津港を出港した漁船は西方へ一時間足らず走れば祝島、 さらに二時間ほど走れば大分県国東半島の先端、 姫島に至る。 上関、 室津港を出て南へ走れば一時間足らずで八島、 さらに二時間も走れば、 愛媛県の佐田岬半島、 伊方に至る。 祝島からの距離ということとなれば、 姫島、 伊方の方が、 山口県防府以西より近いのである。 そしてこの海域は、 上関、 室津漁協のふぐはえ縄漁船、 底曵漁船などが毎日出漁するところである。 古来上関町はこの海との関係において、 秀でた自然条件を生かして発展してきた。 上関町は、 山口県の果てにある悪条件ばかりで何の役にも立ちようのない 「過疎」 の町  という評価は、 海と海に働く人人をあなどる人種、 たとえば広島の中電本社や山口県庁あたりからながめたものの言い草にすぎない。
 上関町における人人の生活の歴史は古い。 長島の先端、 ちょうど中電が原発立地点に狙いをつけた四代田の浦には縄文遺跡が残されており、 祝島、 八島には弥生遺跡が残されている。 そして石でつくった矢じりをはじめ、 当時の漁撈用具などが出土している。 すなわち二〇〇〇年以上も昔まだ自然の支配力は強く、 人人が日日餓死の脅威にさらされ、 生きていくために必死のたたかいをしている時代、 当地は人人が生活していくのにきわめて恵まれたところであったのである。 海からはすぐに山がそそり立つという条件は、 農耕の困難さを示しているが、 それにも増して魚の豊富さが人人の生活の支えたに違いない。 以来、 上関町周辺の漁場の豊かさは、 今日に到るまで定評のあるところである。
 上関町は、 古来より、 九州と畿内を結ぶ海上交通の拠点として栄えた。 室町・戦国時代には貿易船も営んでいた村上水軍の拠点となった。 徳川幕府時代には、 北前船や参勤交代の寄港地となった。 魚をとるために船を操っていた住民が、 これら海運業のための帆船に乗り組んでいき、 やがて自ら船を仕立てて海運業に乗り出していった。
 明治以後では、 政府の石炭振興業とも結んで、 明治末、 大正期、 そして戦後の 「石炭から石油へ」 のエネルギー転換に到るまでの、 白井田、 戸津を中心とした石炭運搬の帆船、 のち機帆船業が有名である。 最盛期には、 それぞれ八〇隻から一〇〇隻が仕立てられた。 これらの上関海運業は漁業とともに、 漁業を基礎にして発展したのである。 今日でも漁民とともに船員が大きな比重を占めている。
 上関町の繁栄の歴史を語る時、 北前船の時代をさけることはできない。 当時瀬戸内海沿岸地域は、 塩や紙、 ろうなどの特産品、 マニュファクチャー経済が発達、 上関はその中心地で、 それら特産品の集積地となり、 多くの問屋が発達した。
 そのような条件は政治的には倒幕と近代資本主義制度を要求する先進地となり、 高杉晋作の奇兵隊創設に続いて上関義勇隊、 農兵隊を組織して倒幕戦にのぞんだ。 幕府との四境戦争において、 幕府が大島口で戦争をしかけたのも、 この上関の重要性をみてのことであった。 新しい生産関係を代表する商家や農漁民が、 封建的抑圧に対して決然として立ち上がり、 強大な権力をもつ徳川幕府を打ち倒し、 近代日本をつくり出した原動力となった。 その父祖たちの無私かつ進取の精神こそが時代をこえて誇るべき、 したがって受けつぐべきおもな歴史の教訓であろう。

漁業依存の町経済
−農業も商工業も共存関係
 続いて、 近代からつづく現在の上関町についてみてみたい。
 人口でみれば、 一九八四 (昭和五九) 年四月の調査で六六八八人、 戸数二四六五戸となっている。 敗戦後、 都市に職はなく、 戦争に狩り出された人人が帰った一九五〇 (昭和二五) 年、 人口は一万三二二〇人、 戸数は二七九一。 当時と比べ現在では人口で五〇%減、 戸数でみれば一二%減となっている。 一八三五 (昭和一〇) 年には一万五三八人、 戸数は二四〇三戸。 その当時と現在を比較するならば、 人口で三六%減、 戸数では二・六%増となっている。 人口の中身をみるならば、 戦前は居住地を上関町内におき出稼ぎに出るというのが普通であり、 現在は親たちを残して居住地ごと都市に勤めているのが普通という違いをみれば、 数字に見るほど減ったとは言えない。
 事実、 住民の郷土に対する愛着は強く、 上関本町でも、 また 「廃村の危機」 と町当局がいう四代でも、 土地を得ることはむつかしく、 買うとしても坪二〇〜三〇万円するのが現状である。
漁業
 漁協組合員数をみれば、 上関一九四人 (正組合員)、 五七人 (準組合員)、 四代六五人、 三人、 祝島一三八人、 九五人、 室津六七人、 一二人、 総計で正組合員四六四人、 準組合員一六七人、 計六三一人となっている。
 漁種は、 小型底曵網が約一〇〇、 ふぐはえ縄五九、 タチなどその他のはえ縄二〇、 刺し網七九、 たこつぼ四〇、 船びき網五九、 小型定置網五、 一本釣二七〇、 その他八八となっている。
 水揚高 (公称) は、 底曵二億九〇〇〇万円、 一本釣・はえ縄三億四〇〇〇万円、 刺し網一億円、 船曵網七五〇〇万円、 遊漁などその他一億円、 漁協別には上関三億八〇〇〇万円、 四代七三〇〇万円、 祝島二億四〇〇〇万円、 室津二億二〇〇〇万円、 総計九億一〇〇〇万円となっている。 実際の力は、 それをはるかに上回っているというのが常識である。 上関漁協では二〇〜三〇代の若い漁師が二〇人近くおり、 漁業の発展性を物語っている。
 上関町の漁業の歴史をみると、 ふぐはえ縄漁は、 徳山市すくも島が発祥の地といわれるが上関でも大正期から始められ、 今日も大きな比重を占めている。 フグ漁は一日で二五万円も水揚げすることがあるという。
 昭和のはじめと戦後の一〇年余りの間、 町内各地でいわし網が盛んであった。 船には二〇〜三〇人が乗り込み、 浜は女や子どもたちがいりこの製造に走り回り、 活況を呈した。 かつて上関町は日本有数のいりこの生産地といわれた。 このいわし網は、 工業製品である化学調味料の発達に押されまた一方では、 多数の労働力を都市の工業にとられる中でほとんど消滅してしまった。
 戦後の昭和二六〜二七年ごろ上関町内ではごち網ブームがまき起こった。 ごち網とは三〜五人が乗り組んで、 タイをとる網である。 これは、 好、 不漁の差がひどく、 おおかたは失敗し借金だけが残ったといわれる。 しかしこの時期、 タイの水揚げ高は内海一といわれ、 県漁連への出資金は最高額といわれ、 組合長などは全県的にも羽振りをきかせた。
 小型底曵網は昭和三〇年代からはじまった。 はじめは夏場だけエビをとっていたが、 のち“まんがい”と称する独特な底曵網を開発することで冬場も操業できるようになり安定した収入を得るようになった。
 しかし、 漁師としてもっとも多いのは、 堅実に資源を守りながら生活の糧を得る一本釣の漁師である。
 上関の地域が漁場としてすぐれているのは、 大正、 昭和の時期から、 広島県の漁村から多くの漁民が当地に移り住んで漁業を営んでいることにも表れている。 かれらは進んだ漁法を上関町の漁師に伝える役目も果たした。 室津では、 大部分が広島から移住してきた漁師であり、 室津の経済の大きな部分を支えているといってもよい。 知らない土地への出稼ぎに慣れた上関町民は他所から生活のために来た漁師たちを共通の気持ちで迎え入れたのである。
 漁場の優秀さは、 広島、 岩国などからの遊漁客の多さにも表れている。 また上関は老人をはじめ人人の生活のしやすいところである。 各港には、 いわしやサバなどが群れをなして泳いでおり、 釣糸をたらせばすぐに毎日のおかずを得ることができる。 磯にはヒジキやワカメなどが豊富で、 老人の楽しみにはこと欠かない。
 漁師いわく、 「上関は、 働く気があればいくらでも生活できるところ。 働く気のない者にはせんないところ」 なのだ。
 漁民が中心勢力であるということは、 加納前町長が上関漁協組合長の出であり、 片山氏も漁業とは何の関係もないにもかかわらず、 上関漁協の組合員の株を持ち、 白井田支部長にもぐり込んでいることにも表れている。 峯石特別委員長も室津漁民の推薦を受けて議員になった。 上関町を支配するには漁民をおさえねばならぬというわけである。 このことは、 かれら支配層の命脈を保ち町の運命を決める決定的力をもっているのは漁民であることを物語っている。
農業
 農家数は一九八〇 (昭和五五) 年で七三六戸。 耕地面積は同年二四一ヘクタール、 うち田が六八ヘクタール、 畑七四ヘクタール、 樹園一二六ヘクタール。 ちなみに一九六五 (昭和四〇) 年には、 総面積四八一ヘクタール、 田一七七ヘクタール、 畑一九六ヘクタール、 樹園一〇八ヘクタール、 この一五年間に田が六二%減。 畑が七六%減となっている。 一戸当たりの平均耕作面積は三二アール (三反二畝)。 一〜一・五ヘクタールの農家が二四戸、 一・五〜二ヘクタールが四戸、 二・五〜三ヘクタールが一戸で、 一ヘクタール以上の農家は二九戸となっている。
 果樹はミカンが一一五ヘクタール、 畜産では一九六五 (昭和四〇) 年と一九八一 (昭和五六) 年を比較して、 乳牛九六頭から五九頭へ、 肉牛が四九〇頭から七九頭へ、 鶏が三一一七羽から三〇羽となっている。
 農産物販売額 (一九八〇年・県統計課) をみるならば販売なしが二三七戸、 一〇万円未満が二四四戸、 一〇万〜五〇万円が一七四戸、 五〇万〜一〇〇万円が五八戸、 一〇〇万〜二〇〇万円が一七戸、 二〇〇万〜五〇〇万円が四戸、 五〇〇万円以上が二戸となっている。 つまり、 限られた例外を除き全体として、 農業で生活を維持する農家はまずないというのが現状である。 専業農家は二一三戸となっているが、 老人がほとんどであり、 年金とあわせて農業をしているのがほとんど。 大部分が、 漁業や商業または働きに出つつ、 おもに自家消費用に作っているというのが実状である。
 代表的な作物はコメ、 ミカンそれに牛であった。 ミカンは、 祝島を中心に古くから作られていたが、 「産業改善事業」 として大宣伝が行われ、 「ミカンを作らねば農家にあらず」 という空気であったが、 他地と同じく実がなるころには価格が大暴落し、 今では荒れ果てたままになっているところが多い。 牛は八島の放牧が有名であった。 これも濃厚飼料を食わせた方が高く売れるという県の指導の結果、 引き合わなくなって壊滅。
 各集落をみた場合平地はほとんどなく、 山の頂上へ向けて切り開いた段段畑がほとんど。 したがって同じものを作るにしても平地の二〜三倍は労働を要し、 とても売って引き合うような条件ではない。 最近荒地が増えているのは、 食い手が減っているから必要がないのだ、 というのが四代に住む人の説明であった。
 このように上関町の農業は、 半農半漁として、 白井田や戸津などでは男が船員をしつつ婦人がやるとか、 おもに漁業とともに、 それを助け合う関係として発展してきた。
商工業
 上関町の産業として海運とそれを担う船員が多いのも特徴である。 上関町における海運会社は、 最近運搬船として戦後、 復興期から朝鮮戦争時に最も隆盛をみたが、 炭鉱閉山と石油へのエネルギーベースの転換にともなって壊滅状態となった。 その後数軒が共同して会社を設立し大型の鋼船タンカー船へと転換したが、 かなりが行き詰まり、 現在では、 白井田、 戸津、 上関、 蒲井などに一〇社余りがある。 船員は、 白井田で約五〇人など各地に多い。 船員は、 退職後、 漁船を買って漁業で生きていく人が普通である。 おもに漁業、 以前にはかなり海運業と結びついて、 造船、 鉄工などが伝統をもっている。 いわゆる運送用機械、 器具製造業としては七社四一人が働いている。 四代は特に船大工の出稼ぎが有名で、 昭和の初めには一〇〇人以上がいた。 現在では地区内に一人であるが、 今でも他所に出ている人、 家大工に転じた人などを含めれば二〇〜三〇人はいるという。 町内でも、 柳井や平生、 下松の造船関連会社に通っている人も目立つ。
 商工業者は全町で四七四人。 うち商工会に加入している人が三〇一人。 上関と室津で三分の二を占め、 その他の地域であと三分の一となっている。 商工業の町内における中心地は上関、 室津であるが、 室津の業種をみてみたい。 魚の仲買い四、 つり具五、 漁具一、 干魚二、 水産加工三、 鉄工所四、 油屋二、 旅館六、 文具二、 酒店四、 食料六、 衣料六、 理容四、 パーマ一、 食料品製造三、 精肉二、 食堂五、 土建六、 石材五、 建材一となっている。
 上関の原発推進の旗頭である田中正己商工会長の田中旅館や上関区長のきはらし旅館にしても、 売りものはフグ、 タイなどの活魚料理を食わせることで成り立っている。
 このように、 商工業、 とりわけ流通部門は、 漁業への依存が決定的であり、 漁業が栄えればともに栄え、 漁業がさびれれば否応なくさびれるという関係になっている。
 以上のような上関町における現状と歴史は、 産業的にみれば漁業がもっとも生産的で発展性も活力ももっており、 全産業の中心となっていること、 そして農業や商工業は、 漁業に大きく依存して、 ともに繁栄するという関係になっていることを示している。 それは上関地域の人人の生活の歴史がそうであり、 現状がそうであり、 さらに将来においても、 漁業を発展させることが全町の繁栄につながり、 漁業を破壊することは農業、 商工業など全町民の生活を成り立たせなくすることを示している。
 町の発展、 ひいては社会の発展の原動力は、 天から降ってくるようなアブク銭にあるのではなく、 汗して働く生産活動それを担う勤労人民の側にある。 それは、 上関町民の祖父がなしとげた維新革命が何よりも雄弁に物語っている。

投機主義が支配
軽んじられる漁業と農民
 漁業が上関町全体を支える中心的な産業であるにもかかわらず、 漁業と漁民生活は、 それにふさわしい地位を得たことがない。 むしろ常に軽んじられ、 とるに足りない勢力として取り扱われてきたといってよい。
 漁民の労働は、 現在なお最も過酷である。 底曵漁業で、 朝の三時頃出漁し、 夜七〜八時頃帰る。 わずかの時間寝てまた沖へ出る。 ふぐはえ縄漁業でも夜一二時頃出て、 昼二〜三時頃帰る。 魚を揚げた後、 針を一本一本ヤスリがけして明日の準備をする。 そのように身を粉にして働いても、 貧乏をきわめてきた。
 祝島の一本釣り漁師が少し楽になったのはこの十数年前からのことで、 石油コンビナートの出稼ぎに出たり、 遊漁客が増えたことによってやっと家の建てかえなどもした。 多くの漁師が、 漁業の重労働とともに、 段段畑を耕し食べる糧を得てきた。
 漁民が怒るのは、 漁価は上がらぬのに、 船や漁具、 油などの工業製品の値は上がるばかりであり、 漁師同士が競争を強いられ、 資源を枯渇させ、 ますます借金に追われて首を締めるばかりとなることである。 加えて、 瀬戸内海という世界有数の漁場が、 工業優先の政府の施策によって、 藻も場や干潟をつぶし、 汚水をたれ流して、 破壊されてきた。 上関町の漁民も一〇年ほど前、 徳山曹達の水銀汚染によって二週間もの休漁に追い込まれた。 魚価が上がらないのは、 大手が遠洋で乱獲し、 また冷凍魚として世界中の魚を買い占めて大企業の儲けを図っているからだと怒っている。
 船は木船からプラスチック船へ、 網は綿からナイロンへ、 機械は焼玉からディーゼルへ、 ディーゼルも低速から高速へ、 ローラーも、 自動操舵機も、 魚探も、 ロランもレーダーもといった調子で、 大企業は新商品を売り込む。 こうして漁民は果てしもなく借金に追われながら身をすり減らし、 ヤンマーや古野電機や繊維メーカー、 漁協、 銀行などを太らせてきた。

支配層利権手に抑圧
−漁民食いものの歴史
 漁業および漁民は、 過酷に搾取されてきただけではなく、 意識の面からも政治の面からも、 「舟方」 と侮蔑され、 とるに足りないものと見なされてきた。 漁業を中心に発展している上関町における戦後の町政は、 漁業を蔑視し、 すなわち全町の産業的、 文化的発展をないがしろにした典型といってよい。
 現在の片山町長は昨年からであるが、 それ以前二〇年間は加納新氏が町長であった。 加納氏は、 シベリア抑留から帰った後、 共産党に籍をおいた。 結果が示すことは同氏が共産党に入ったのは、 それを出世のために利用するためであった。 その後同氏は漁協に拾われ、 やがて組合長となり、 組合長を町長にということで漁民の漁止めによる応援の結果町長になった。
 上関町では、 中国縦貫道、 山陽新幹線建設の折に上関漁協の使い込み事件の補てん策として沿岸の砂をとらせた。 それは漁場の重大な損傷となったが、 実に加納町長は自ら砂船を買い入れ、 その商売の先頭に立った。
 内海一の水揚げを誇るごち網漁で一部の漁民が成功、 多数が失敗する中で、 組合長の加納氏は、 県の水産部や、 県漁連でも名をあげ県的規模の利権を獲得した。
 加納町政の二〇年、 そのかなりの部分の町議会議長は、 現町長の片山氏と商工会長の田中正己氏である。 彼らは現在町財政が乏しいので、 (町民の働きが悪いので) 町の振興等は何もできない。 原発を作れば膨大な固定資産税と特別交付金が出、 あらゆる事業ができるなどと言っている。 事実はそうではない。 彼らは漁業をとるに足りないものと見なしてないがしろにしたばかりでなく、 農業や商工業の振興にも熱はなく、 観光をいうが皇おう座ざ山は草ぼうぼうにしている。 また豊富な歴史遺産についても、 ないがしろにしている。 カネがないのでなくてその気がない、 気が向くのは自分の地位と利権だけ、 戦後の町政はろくでもなかったというのが町内の一致した評価である。
 これら投機主義的な町内支配勢力は、 漁民のおかげで地位につきながら、 漁業をとるに足りないもの、 漁民の学のないおろかな者と侮蔑してきた。 漁民は学がないのではなしに、 寝る間もない過重な労働に追われているし、 彼らの労働によって、 これら支配層は養われているのである。
 上関町の漁業、 瀬戸内海の漁業はとるに足りないものだという風評は、 全県下、 全国的にもまき散らされているものである。 これは工業で巨大な儲けを図ってきた一握りの独占資本だけがこの社会に有益であるかのように、 政府やマスコミ、 教科書が宣伝してきた結果である。 片山、 加納、 田中氏らが、 漁業・漁民軽視で突っ走るのは、 この政府や独占資本と結びついているからである。
 一握りの独占資本の利益のために、 今日農業とともに漁業という、 人人の食料生産を破壊するということは、 きわめて反社会的である。 日本人のタンパク源は魚に頼ってきたが、 今日以西漁場を追われ、 北洋漁場を追われ、 捕鯨も追われるという国際情勢の変化の中で、 沿岸漁業の重要性は以前にも増して大きなものとなっている。 このような食料生産を破壊する政府の政策とたたかい、 沿岸漁業を発展させるための漁民のたたかいは、 すべての社会の進歩を願う勤労人民の共通の利益に立つものである。
 漁業を発展させ、 漁民生活を守るためには、 長年の各漁協間の対立、 漁協内部の底曵とはえ縄、 また一本釣など業種ごとの対立、 さらに底曵内の小派閥の対立、 広島など他から来た漁師と地元の漁師の対立などというものを総清算し、 全漁民の団結、 全町民の団結を実現することが迫られている。

全町の売渡し
−原発建設の根本問題
 投機主義的な町内支配層がやっていることは、 町の中心産業である漁業と漁民生活を破壊し、 そのことを通じて上関町の農業、 商工業の存立基盤を根こそぎ中電に売り渡してしまおうというものである。
 なお、 加納氏を引き継いだ現町長片山氏は、 ほとんどの石炭運搬船が、 石炭から石油への転換でつぶれ、 重化学工業への産業構造の転換、 そして工業 「高度成長」 により、 町内の漁業や農業が大きな打撃を受ける中で、 すなわちみんなが苦労している時に、 タンカー船会社を一番先に作り、 町長の地位まで得た。
 町内における原発誘致の勢力は、 決して額に汗して働く勤労町民ではなく、 彼らのような目先きのきく、 漁民や全町民を侮蔑してはばからぬ投機的な連中にほかならない。
 彼らは上関町が過疎であって大変なのだと騒いでいる。 しかしその意味するところは、 人人の生活を案じたふりをして、 実際には、 大企業にとって、 また税収をあげようとする県、 政府にとって、 それと結びつく町内の目先きのきく投機的な支配勢力にとって、 ゼニにならぬ、 役に立たぬということにほかならない。
 そのような上関原発の建設に反対して町の真の発展のためにたたかう力は、 町内では漁民を中心勢力として農民、 商工業者などすべての町民の地域をこえ職業をこえた団結にある。
 さらに、 四国電力は伊方に二、 三号機を増設し、 九州電力は豊後水道の入り口の大分県に原発の新規立地をもくろんでいることを発表した。 加えて中国電力が上関町に原発建設をもくろむ。 このような瀬戸内海を死の海にし、 漁業を破壊することに反対して全瀬戸内海の漁民の団結が切望されている。
 原発はさらに、 すべての労働者、 農漁民、 商工業者に加えられている首切り 「合理化」 など、 搾取の強化による一握りの独占資本の利潤拡大などの根源をなす産業構造転換政策のカナメをなすものであり、 さらに、 核武装化の直接の準備にほかならない。 したがって原発反対は、 独占資本と政府の搾取と抑圧、 戦争政策に反対する全国人民の共通の斗争課題にほかならず、 共通の敵に対する全人民の斗争と団結をいちだんと強めることが求められている。

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