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加納派「反対派」の総破産
上関町長選・本紙記者座談会
               劇的な政治構造の転換点    2007年9月12日付

 中国電力の上関原発計画が25年続く上関町の町長選挙が告示日まで2週間に迫ったところで、「反対派」組織の議員・幹部は候補擁立断念を決めた。支持基盤が崩壊している推進派の柏原町長を無投票で支えようというもので、「反対派」の看板を捨てて推進派として行動するということである。この事態をどう見るか。この問題があらわす上関原発をめぐる情勢の本質と、町長選を間近にして、町民の本当の声を形にし勝利する方向はどういうものか、記者座談会をもって論議してみた。

 本性を現した”隠れ推進派”
 司会 町長選をめぐる動きのところから見てみよう。
  「反対派の会」は候補者を「盆前には決める」といっていたのが、どんどんのびて8日の土曜日に最終会議を開いて、結局候補を出さないことを決めた。共同代表である岩木町議は、町民からは「出る順番」といわれていたが、「子どもが大学にいるから議員をやめられない」といって逃げた。組合長を解任されている山戸議員は会議自体にほとんど参加しないで、最終会議には息子が来ただけで、これも逃げた。退職町議の「日共」小柳氏は断念を決める会合に参加、上杉氏は顔を見せなかった。最終的には、議員を落選している村田喜代子氏という声があったが、本人が嫌がって会議を欠席。近いうちに「候補は立てないが、反対は続ける」という声明を発表するといわれている。
  推進派の方は6月議会で現職の柏原重海町長が出馬表明をした。推進派議員全員の「出馬要請」を受けたという格好だった。8月の終わりに、上関と室津に後援会事務所を開いて、シオリを配ったりしていたが、熱は入っていない。議員のなかには、「祝島も室津も反対は崩れているから、選挙になっても楽勝」というものもいたが、選挙応援で動く町民はあまりいないという状況がある。
  町民のなかでは、原発離れがすごく進んでいる。選挙をやるといっても、昔のように推進で一生懸命に動く人がいない。25年の原発騒ぎで町は寂れるばかりだったということや、良いことをしたのは推進派も反対派も幹部ばかりで、町民はケンカをさせられて苦労しただけだったということとかが、どこでも話になっている。
 それと、山戸氏や岩木氏など「反対派」の幹部はインチキで、推進派とケンカしているような振りをしながら、裏では一緒だったということをみなが話すようになった。以前からそういわれていたが、柏原町政となったこの4年の間に、外村氏が公然と推進へ鞍替えするし、祝島は県漁協に合併して乗っ取られるしで、裏切っているのが誰の目にも明らかになった。「町民は隠れ反対派といわれてきたが、あれらは“隠れ推進派”だった」とか「コインの表と裏」とか色んな表現がされている。それが町長選に候補も出さないというので「やっぱりか」となっている。
  祝島でも、みんなが「やるな!」といっている県漁協への合併を強行したり、環境影響調査の時の「迷惑料」(補償金)2200万円を受け取ろうとしたりが明らかになって、「おかしい」という話が広がった。「祝島は崩れた」といわれたが、崩れたのは幹部で住民は崩れていないことが知られてきた。「25年がんばってきて、今さら負けられない」という思いが強くなっている。島の中では、「反対運動の始めからがおかしかった。豊北では下から大衆が主人公になって幹部を動かしたというが、祝島はそうではなかった」などが論議になっている。

 町民の原発反対強まる
  推進派で踊るものがいなくなり、町民の原発反対が強くなっているなかで、「反対派」幹部が候補を出さないことは、柏原推進町政を助けたということだ。しかも、自分たちが出さないだけではなく、告示2週間前まで引き延ばして、やめたことを公表もせずに、他の者が動くことも押さえる。お手上げならもっと早く発表するのが当然だ。町民に対する責任などなく、推進派・中電に対する責任感しかない。悪質な裏切りであり、町民が怒るのは当然だ。
  祝島の中でも、候補を出さないということは、「中電に自分から負けるという意味だ」と話になっている。ある婦人は、「25年のあいだ反対でがんばってきておいて、選挙をやらないのは、推進になることだ」と怒っていた。室津でも、「これまで、なにがあっても4割の反対票を出してきた。今度は柏崎の地震などもあって逆転する力だってあったのに、町民の意志を示す場所もなくす」といわれていた。
  表面上で見れば、反対派が瓦解してみんな暗い気持ちになるというパターンだが、町民は暗くなっていない。初めは、「室津も祝島も反対は全部崩れた」という宣伝もあり、大丈夫だろうかと不安な感じもあった。しかし町民の反対は全然崩れていないというのが話になって、みんな元気になっている。
  反対派が崩れたというのは、数人の幹部が崩れたわけで、町民の反対が崩れたわけではない。推進派の方は、幹部は残っているが、足下の町民の推進が崩れている。どちらの方の崩れが深刻かといえば、推進派の崩れの方が深刻だ。幹部だけが残っても、町民がいなければ動かない。いままであまり表面に出ていなかったような人でも、表に出てきて公然とやりはじめているし、室津の反対派の人たちのトーンも上がってきた。

 暴き出された秘密 結局推進派も反対派も実権は加納派
  原発計画の浮上から25年がたち、ここまできて、町内では政治的に相当大きな激変が起こり始めたということだ。「反対派」の幹部が、候補を出さず推進派を助けるということはなにを物語っているかだ。
  20数年の間に、色色顔ぶれの変化はあったが、結局推進派も反対派も実権派は加納派だったということが町民のなかで話になっている。町内とくに祝島と上関本町では「化け物」がとりついたような様相があった。その辺の秘密はなにかということがいよいよ暴露されるところへきたと思う。
  今の上関町の体制は、町政も議会も加納派が主な勢力となっている。議会構成で、推進派は加納ミスカ氏を中心に、岩木和美氏、西氏が直接の親戚一族関係となる。右田氏も加納氏とは「トライアングル」といわれた関係で、加納派中心だ。「反対派」では、岩木氏、山戸氏の主要メンバー2人が加納一族で清水氏はその子分という関係。町長の柏原氏は加納一族だ。

 最初から反対潰す役割
  原発問題のはじめから見ると、「反対派」として代表的なのは祝島で、金田敏夫氏が愛郷一心会の親分となった。この反対運動というものが大問題で反対といわなければ村八分だし、デモをかけて石を投げたり、戸を蹴破るとか、推進派と話をしたといえばつるしあげる、親兄弟や親戚の葬式にもいかさないとか、無茶苦茶だった。
  その様子を見た全町が、「この反対はなんだ」ということになり、原発には反対だがあれたちと一緒にはやれないとさせるものだった。それが全町の推進を勢いづけるような運動で、祝島のあおりを食ってひどい目にあったのが、四代のおばちゃんたちだった。間さんをはじめとして、「お前ら祝島と一緒に反対するのか」と、今度は推進の側が表の道も歩けないような攻撃をやった。この反対派攻撃を筆頭になってやった松田町議は、夫人が祝島金田氏の妹という関係だ。
  「金田らはもともと推進なんだ」というのは、祝島の中でもよく話されている。本人自身も、2001年の右翼新聞のインタビューで「自分に対抗意識を持つ者(島中町議)の方に、先に話(原発の)がいった。メンツをつぶされたことに反発して、反対運動を始めた。ワシの方にきていたら推進をやっていた」と話している。推進のための反対、推進の実権を握るための反対なのだ。
  当時の重要な動きは、原発は加納新(あらた)町長が持ち込んだわけだが、いざ話が始まったら、加納氏が町長からおろされて片山氏との交代になったことだ。これは加納氏では逆らえないいわば上の方の原発の「推進本部」が決めたことだった。それに県商工会連合会長の有福県議が関わっていたことは知られているが、この「推進本部」は中電本社や自民党吹田代議士、平井県知事などのレベルだ。そして加納体制を更迭して、商工会長田中正己、町長片山秀行の推進派体制をつくった。加納氏とすれば無念の退陣となった。加納氏からは、片山、田中にいいところをさらわれ、憎たらしくてしようがないという出発点となった。
  当時を知る人は、「上からの指令でいっきに加納から片山に動いた」といっていた。それはものすごく早かったと。
  「推進本部」が加納派に割り当てた役割は、反対派の実権を握って反対運動をつぶして推進の目的を達成するということだった。上関町で反対派のリーダー的な位置につきやすい部分がいるのは加納派だった。祝島は加納選挙の歴史があり、加納派が漁民のなかをはじめ力を持っていたところだった。典型的なのが上関、白浜などだ。「日共」小柳議員は加納氏の子分の関係だったし、白浜の反対はリーダー的な部分にも「日共」系の加納配下部分がいた。
 加納氏はシベリア帰りの共産党員で、上関漁協の組合長になり自民党に変わって町長になるという経歴の人物だ。自民党と共産党の二刀流使いの政治をしていた。それが推進派の親分をやるというのでは、加納派「反対派」はインチキというのは誰が見ても明らかで、推進本部から見たら具合が悪い。推進派片山、田中型の純粋推進でなければまずく、反対派の実権は加納派が握って、反片山をやらせ、反対運動を装わせておくのがよかったのだと思う。
  両方が完全に呼応した反対つぶしだ。上関でも加納派には、歴史的に痛い目にあっており、どんなものかをみんな知っている。また、反対の旗を振っているのが加納派だから警戒して人は寄りつかない、そういう仕掛けだった。
  だから、祝島が長島にデモをかけよその家の軒先に行って「銭ボイト(乞食)」といって悪口をいっていたが、加納の家には行かなかった。東京空襲で米軍が皇居を攻撃しなかったのと同じようなミステリーだ。役場の職員は、「祝島からデモがくるときは、金田から電話がかかってきて加納が逃げていた。毎回助役が大変だった」「デモられるときには、いつも加納はいなかった」といっていた。
  金田氏については、失脚後も片山町長が世話をしている。スコップ1本しかないのに落札させて、丸投げでリベートを抜かせていた。「予定価格を教えていた」といわれる。役場はみなそれを知っているのだと。金田氏の推進への「功労」に報いていたわけだ。初めから推進派としての配置だったわけだ。

 失脚すると山戸氏配置
  そして山戸氏の配置の意味合いだ。島根の負けるばかりの反対派で、くすぶっていたわけだが、祝島に鳴り物入りで迎えられ、漁協の参事から組合長に取り立てられた。そして金田氏一派を粛正したりした。この配置は、中電や県など上の推進本部の配置だ。しかしいくら大学を出ているからといって、家は百姓だし、親戚も少ない。それで祝島漁協の組合長になれるわけがない。島の中で、バックがいたということだ。それが祝島の加納派だ。金田氏や山戸氏を切ったり、取り立てたりする力を持った部分がいるわけだ。
  金田氏から山戸氏に交代する要因というのは、長周新聞が84年から上関に本格的に関わりはじめ、町民を助けて87年の町長選挙では拮抗状態まで押し戻すところまでいき、当初の中電側のプログラムがパンクしたからだ。金田氏だけでは人をだますことはできない。それをまことしやかなものにしたのが、「外部革命勢力」の一心会応援だった。「九大出の職業革命家」などという連中が、金田氏ら加納派「反対派」に飲ませ食わせの接待を受けながら、「祝島のデモは世界一」などともてはやした。それが「豊北原発を撤回させた勢力」と装って祝島の人人をだました。長周新聞が上関に乗り込んだということは、このような連中を上関から追い出したということだった。
  そして山戸氏が現れるわけだが、祝島内部で呼んだのは島内の加納派だ。これに「反対派の権威」のハク付けをしたのが、外部反原発勢力だった。「豊北原発反対のストを電力の内部からやった」とか「中国地方の反原発の最大権威」とされていた電産労組をはじめ、自治労県本、中国地方、全国の反原発勢力などが「大指導者」としてもてはやし、住民を混乱させた。
  金田氏とは違って左翼的な言辞で人をだますことのできる人材が必要だったわけだ。そして金田一派とは違うという格好をした。そして「長周新聞は推進派だ」といって、島から排除することをやった。そしてやったことは、平井知事との癒着関係だった。島内では「平井知事は味方だ」とふれまわり、4度の平井知事訪問を歓迎させ、湯田商工労働部長や永岡水産部長などを呼んで1杯振る舞ったりして、九四年の漁業権変更で田ノ浦地先にあった共同漁業権を放棄して、終わっていた原発問題を蒸し返させたことだった。そして、県のいいなりで漁協合併を推進し、漁業権の放棄に進んだことだった。
  そして漁協合併で組合長を解任された。反対派としての信頼は崩壊したわけだが、その背景に漁民のなかから、反対をやめて推進派になる動きがあらわれた。これも中心は加納派漁民だ。「原発反対はもうダメだ、補償金をもらわなければ」というものだ。上関でも補償金の話になったら、岩木氏ら加納派「反対派」がもっとも配分でもませ、もっとも高額をとり、しかもハンコを持って1番先に並んだと語りぐさになっている。

 一斉に推進の旗振り 上関でも祝島でも・補償金欲しさに
  加納派「反対派」が、2000年の補償金が出たところから「もう我慢できない」となっていった。カネを取るための反対だったのだ。何の不思議もなかった。上関でもそうだったし、祝島でもそうなっていった。推進派の表舞台には立てず、ひっそりと反対派崩しで裏から推進に貢献するというのでは我慢できなくなったということだろう。
  加納夫人の鼻息が荒くなってきたのも補償金ごろから以後だ。推進の旗振りを積極的にやり始めた。「花の会」の婦人たちを引き連れて山口市などに行って、推進のビラまきの音頭をとったりした。なかでも知事同意問題などをめぐって、林春彦宮司のたたかいに対して、祝島の当初と同じ残酷な攻撃があらわれた。議員では一族の西議員が暴れたが、加納グループである花の会の婦人たちが、「お初を出すな」とかでひどかったといわれている。この旗振りには加納夫人がいた。
  加納対片山のバトルが激しくなっていったのもこのころだ。議会で加納氏が片山批判をやる。それを傍聴の祝島が応援するという光景もあらわれた。加納・右田・西議員の反片山「トライアングル」があらわれた。そして2003年の町長選へ向けての右田、浅海、片山の「3バカ戦争」だ。右田氏は「祝島がつく」といっていた。加納派ということだったわけだ。そして選挙直前になって片山裁定で、加納夫人が飛びつく結果となった。
  そこで加納家の悲劇を思い知ることになったわけだ。神崎氏が選挙違反であげられ、たちまち辞職する羽目となった。県警は上関推進派の選挙違反はあげないという20年来の常識を覆してしまった。上の方の「推進本部」が「加納は切れ」という判断に立ったわけだ。加納氏の役割は、推進の町長というような表の推進の権力は与えないし、反対派を崩して推進に貢献することがおもな役目なのだ。推進派も反対派も上は加納の配下だというのでは、仕掛けがバレバレで推進なんてできなくなる。

 加納氏は使捨ての運命
 ところが加納夫人も我慢できなくなっていた。亭主が持ってきた原発なのに、うまい汁は片山や田中にとられてしまい、辛抱に辛抱を重ねて、とうとう片山が引き下ろされて、悲願の出番になった。「今こそ到来」と飛び出したが、上の「推進本部」はやはり認めてくれなかった。上からは加納氏は使い捨ての運命だったわけだ。そして加納派「反対派」が「反対派の格好なんぞしてはおれない」というのはナダレ現象となっていた。上関の推進派と反対派の2つの実権派を操作し、片山氏も田中氏も恐れる「ゴッドマザー」のような姿は人が強く印象を残すこととなったが、それがまた命取りとなることになった。
  欲はあるけど表の権力は持たしてもらえない。これが加納家の悲劇だ。このバトルは一応加納一族である、柏原町長で落ち着く。片山をやっつけて加納態勢をめざした加納派「反対派」は、反対の格好をする理由がなくなった。だから、加納派「反対派」はいっせいに飛び出して、「俺たちも乗り遅れたら損だ!」という格好。裏切ったというより、推進の馬脚をあらわしたわけだ。
  「室津が裏切った!」といって「反対運動はダメにされたからあきらめなければやむをえない」ように騒いだのは加納派「反対派」だった。上関でもそうだったし祝島でもそうだった。そして「祝島が崩れたから町民は反対派をあきらめろ」といってきた。しかし室津も祝島も全町も、崩れたのは加納派「反対派」らで住民は全然崩れてなどいなかった。
  室津の反対派リーダーの河本広正氏が亡くなったのは、その転機にあたる。政治的には大変意味深な時期だった。河本氏が亡くなって、その息子(河本氏の兄の子)が寝返り、外村勉議員が裏切り、「室津が裏切った!」といって加納派「反対派」が怒濤の流れをなして崩れていった。町内では、「風呂でおぼれ死んだというが、河本さんは本当は殺されたのではないのか?」という疑問を語る人も多い。

 戦後の上関を支配 岩木県議ー加納町政
  加納氏には権力が与えられないというのは、戦後の上関の歴史のなかで、町民の恨みが強すぎるという面もある。岩木氏の祖父は県議だった。この地域の権力者だった。そこにシベリア帰りの加納氏が現れ、共産党でならす。漁協の参事から組合長へと取り立てられた。岩木県議から見たら「使える男」というわけだ。そして娘のミスカ氏が加納氏と結婚する。
  戦後の上関の政治支配の中心は、岩木氏であるし、それを受け継いだ加納町政だ。上関は貧乏なところで戦後、共産党支持者が多かった。室津では共産党村長が生まれた。河本周次氏だ。これは加納氏とは違って、「本物の共産党だった」といわれ尊敬されている。敗戦後は「共産党であらずんば人にあらず」という空気があって、共産党を出世の道具にする、いわば投機主義者が共産党を利用するという者が多くいた。加納氏はこっちのタイプだった。この町政というのは、自分の身内や側近には手厚く、自分に逆らう者は排斥するというきわめてセクト的で唯我独尊の偏狭なもので、町政としては町民のためにというのは弱く、周辺町村と比べても非常に立ち遅れたものであった。そのようにして衰退させたうえで、「廃村になる」といって持ち込んだのが原発だった。
  よく語られるのが養殖事業だ。失敗するのだが、「魚が陸を泳いでいた」といわれる。養殖の魚を持って帰っていたといわれていた。加納派支配の上関漁協で不正が発覚して信用破綻になった。これも加納派「共産党」系が関わっていたといわれていた。漁業の再建のために砂を売ろうとなって、砂船を始めたのが岩木家ら加納派だ。漁師たちは、こんな信用できない連中が反対するなら推進に行くかともなっていた。加納夫人の選挙をやったら、このような戦後のうっ積した怒りが吹き出していた。これじゃ「推進派本部」も困るわけだ。

 人道外れた残酷さ 祝島推進派や林宮司攻撃・続く安い魚価
  加納派のやり方は残酷だ。男どもも愚痴はいうがみんな恐れている。ほんとゴッドマザーのようだ。
  祝島での推進派攻撃にしても、四代での反対派への攻撃、林宮司への攻撃にしても人の道を外れている。普通の感覚の住民ではできないことだ。
  柏原町政の4年も魚価問題を見ても、人が住めないようにする、漁民がやっていけないようにする、人がやっていけないようにして原発を認めさせるというわけだ。これは県や中電の仕業だが、それを現地で実行する勢力というのも非常に残酷だ。
  上関や四代などの魚価の方が、祝島よりも安いといっていた。上関などでは、県漁協扱いを断るというが、通常ありえない。県漁協は、年貢奴隷が欲しくて、ピンハネの荷が欲しくてたまらないはずだ。ここには相当に漁民を制裁するという意図が働いている。祝島では、山戸体制が崩れたのに安い魚価が続いている。安くしていた背後勢力が変わっていないということを物語っている。
  四代の推進派代表山谷氏を見ても、ひどいことだらけだ。環境調査のさいの借地料は行方不明だし、神社地の売買代金1億5000万円もどこに消えたのかわからない。無茶だ。
  ここまできて祝島では、推進派といわれてさんざんな攻撃を受けてきた人人のなかで、「反対でがんばってきたおばちゃんたちが泣く目を受けるようなことをさせてはならない」という、正義を回復する声が上がっている。自分たちを攻撃させた「反対派」は加納派推進派であり、おばちゃんたちを裏切ったのも同じ者じゃないかということがはっきりしたわけだ。意図的にいがみ合わされてきた住民同士が、共通の障害を暴露することで、人情と団結を回復できる局面がやってきたと思う。それは全町でも同じだ。

 町長立てる運動を 劇的政治再編の機運
  上関では、25年のたたかいを経て、劇的な政治再編の条件ができてきているということだ。25年の売町政治の決算であり、それは戦後62年の政治の決算でもある。大衆の中にそれが充満し、敵の支配は崩壊している。まずはこの選挙で候補を立てる運動を町民が起こさないといけない。その大衆の論議、運動をどこまで起こしていくかが注目だ。期日は迫っている。しかし長崎事件があった。投票3日前に市長が銃殺された。そこに市民代表が現れ見事に当選した。参議院選挙でも、全国の有権者が示し合わせたように同じ行動をとり、自民党を惨敗させた。「おごる平家は久しからず」なのだ。
  これは全国的な重要な響きを持つことになる。山戸氏のような加納派「反対派」を持ち上げてきた外部勢力の姿も暴露されることとなる。上関は戦後日本の政治の典型的な縮図だ。反対派が崩れているのは上関だけではない。参議院選挙が示すように、世の中は反自民が圧倒するほどに、「日共」集団や旧社会党などが消滅の過程にある。たたかう勢力ではなく、大衆の運動を破壊し、売り飛ばす連中と見なされている。人をだまし、人を蔑視して屁理屈をいって、実はさもしい根性で餌あさりをしている。そういう姿はかなり暴露されている。
  町民の中では、岩国の話が弾む。相手は上関の敵より強い米軍だし、武力、軍隊を向こうにまわしてがんばっている。岩国基地を増強して、近くの上関に原発とはなにかという世論が圧倒している。広島でも同じだ。柏崎原発事故が起こって、まだ作るのは気違い沙汰だというのが圧倒的になっている。推進派できた町民も、これだけ貧乏になってしまい、なぜ推進しないといけないのかとみんな思っている。それだけ反対世論が圧倒的になっている。だから加納派「反対派」幹部が候補を出さない。柏原推進派町政を守りたいのだ。かなり犯罪的だ。

 豊北で勝利した路線で
  ここで山口県で勝利した豊北路線を取り戻さないといけないということだ。敵と友の関係を誤ってはならない。原発を進めるのは、町内推進派だけではない。それは代理人であり、推進しているのは中電だけでもなく、県が前面に立った国策だ。自民党だし、警察、マスコミ、さまざまな政治勢力も動員されてきた。これらの権力が町内を破壊してきたわけで、平和で豊かな郷土をつくるには、これらの国策とたたかわなければならない。現地だけの問題とか経済生活だけの問題とするなら勝てない。
 問題は、上関の町民が住めなくなるだけではなく、日本本土を戦場にした核ミサイルから避難する訓練をさせるようななかで、また柏崎のように大地震が頻発するなかで、国土を廃虚にするようなバカなことをさせてはならないというのは日本全体の人民の共通要求だ。だから上関町だけではなく全県、全国の団結できるすべての人と団結しなければならない。また幹部まかせはダメで必ず裏切る、大衆主導でなければいけない、下から大衆運動を起こして幹部を縛り付けて引き連れていくというのでなければならない。そうしてはいけないというのがこれまでの上関の「反対派」幹部だ。
  表面では反対派にとって厳しいように見えるが、町民大衆と敵との真の力関係というところで見るなら、上関二五年の決着が近づいていると思う。町長選まで少ししかないが、長崎市長選とか参議院選挙のようになる気配はすごく感じる。

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