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学校崩壊が根本の問題
下関・川中中の自殺事件
               教師が体張ってたたかう時    2005年4月21日付

 先週13日に起きた下関市川中中学校の女子生徒が学校で自殺するという痛ましい事件に、市内の父母や教師は心を痛め、大きな衝撃をもって受けとめている。このような痛ましい事件が二度と起きないようにするにはどうすればよいのか、子どもたちがいきいきと明るく過ごせる学校に立てなおしていくためにはどうすればいいのか、激しい苦悶のなかで、正しい解決を求めている。
 そのためには、「きわめて例外的な事件」「ある生徒や教師の自己責任」などと、問題をすりかえ、何事もなかったかのようにして沈静化を待つような役人的やり方では、事態はさらに悪化することは疑いない。教育の重大な問題として正面から明らかにし、学校教育を立てなおすという気迫のある対応が求められている。
 この事件の直接的なきっかけについては、「いじめがあった」とか「なかった」とかさまざまに語られている。しかし、川中中を知る人人のなかでは、昨年あたりから「いずれ大きな問題が起こる」とみなされていた。
 というのは、川中中は昨年、3年生を中心にひじょうに荒れた状態になっていた。教師たちは、その荒れた生徒に手をとられ、生徒全体に目がいかなかったと語られている。学校では、その生徒たちを校長室に囲いこみ、校長がなだめすかして、事を起こさないように面倒をみている状態であった。校長というより、子どもにおもねたただの「おっちゃん」という状態で、校長の権威も教師の権威もないといわれていた。学校側は、ひたすら3年生が卒業して、学校からいなくなるのを待つ状態であった。学校崩壊になっていたのである。学校崩壊の結果が今回の事件になってあらわれたのである。
 川中中はほんの数年まえには、「市内ではしっかりした方だ」といわれていた。川中中学校はそれまで教師や地域の努力によって信頼関係を地道に築きながら、学校運営がおこなわれてきていたとみなされていた。それがこの1、2年でいっきに崩れていった。
 川中中では2年まえ、「教科教室」校舎計画がもちあがった。クラスを解体して、子どもが教科の時間ごとにあの教室この教室へと大移動するというものである。それは、「子どもの自主性を尊重する」「子どもの自己責任」というもので、川中中のような大規模校では例がなく、荒れることは疑いないと強く危惧(ぐ)されていたものであった。
 しかし河村建夫代議士が文科大臣になるなかで、山口県内で教科教室をあっちこっちつくらせ、江島市政が音頭をとって、むりやり押しつけたものであった。政治家が、自分の手柄と出世や利権のため、要するに汚れた荒廃政治が教育を荒らしたのである。この年、川中中の教師は強い危惧を持ちながら、生徒の指導にあたる時間を奪われ、ひんぱんにくり返される研修に総動員される状態となった。
 だが用地問題が未解決ということで、計画はとん挫することとなった。ところが昨年の人事異動では、これまで長年地域や親との関係を積みあげてきた生徒指導のベテラン教師を、教育委員会は「教科教室に反対した」というふくみで、一度に異動させてしまい、若い臨時採用の教師を多く入れ、関係者に心配されていた。地域の父母と結びついて比較的信頼を得、生徒指導の中心になっていた教師たちがいなくなったのである。

 「体罰」問題で教師の指導性破壊 悪質なマスコミの騒動
 そして新学期早早の、「毎日」「朝日」新聞による、教師の「体罰」問題騒動である。クラブ指導の熱心な教師で、生徒たちや父母たちの信頼のうえできびしく指導していたといわれていた。しかしこの報道が教師をいちじるしく萎(い)縮させ指導性をなえさせる結果となった。そして、教師の権威は崩壊し、学校崩壊状態となった。
 今年の異動では、事情がさっぱりわからない郡部からの教師を「思い切って」多くした人事といわれた。そして今回の事件となった。
 教科教室型校舎の建設はとん挫しているが、その考え方での研修はつづいている。子どもたちの団結の基盤であるクラスを解体し、子どもの生活や喜怒哀楽の感情ともかかわった生徒指導を切り捨て、教科の勉強さえ教えればよい、生徒がどうなるか、それは「子どもの自主性、自己責任」であって、「自由放任」を称揚し、地域の父母、住民との関係を疎遠なものにし、教師の指導性を否定するという、考え方に従わせるという教育行政は継続している。
 この教科教室は、近年の「個性重視」「自由と人権」という文科省の方向を、いちだんと推進するもので、川中中の事情はひじょうに象徴的であるが、全国の学校に共通する問題である。今回の事件は、学校崩壊の結果であり、学校を崩壊させた下関市教育委員会、山口県教育委員会、文科省のデタラメな教育行政に根本の問題がある。安倍代議士のカイライである江島市長のハコモノ利権優先の教育荒廃政治と、それにヒラメのように従う教育委員会行政が、学校現場で子どもの生命を奪ったのである。
 市内の親たちが注目しているのが教師の姿勢である。「ヒラメ教育長」に「ヒラメ校長」、そして「ヒラメ教師」をつくろうという、国、県、市、それにマスコミまで加わった、教育破壊の攻撃にたいして、教育の現場の主人公である教師集団が、あきらめを克服して、子どもたちが未来に希望を持って生きるために、父母と心をかよわせて、体をはってたたかうときではないかという願いである。
 このようななかでは、教職員組合というものが役割をはたすはずであるが、この集団のなかの大きな顔をしている部分ほど、子どもたちの家庭生活の過酷さなど無縁の世界で、子どもをほったらかすのを「民主主義」と誤解して自由放任の旗手になり、「自分の権利」「自分のメシのため」だけにしか関心がないというものがあまりにもめだっている。子どもたちに愛情を持つまじめな教師集団が、子どもたちの未来のために、勇気を持ってこのような状況をうち破ることが切望されている。

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