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経済の破綻と教育崩壊の現実
鎌倉孝夫氏招き講演会
               市場原理主義の人間破壊    2009年10月12日付

 経済学者の鎌倉孝夫氏(埼玉大学・東日本国際大学名誉教授)を招いた教育講演会が10日午前10時から、山口市立小郡南小学校で開催された。山口教職員組合が第59次教育研究集会の一環として主催したもので、山口県退職教職員協議会が共催、県下の教職員、退職教師ら約100人が参加した。鎌倉氏は「経済の破綻と教育崩壊の現実――それをどう克服するか〜働く者の社会実現に向けて」と題して2時間にわたって、教育現場が直面する子どもをめぐる教育の崩壊の原因と打開の展望について、新自由主義のもとでの経済破たんとの関連で、科学的にわかりやすく訴え、参加者に深い感銘と確信を与えた。鎌倉氏の講演の要旨(文責・編集部)を紹介する。
 教育崩壊の経済、社会的根拠、背景をとらえどう克服していったらいいのかを考えてみたい。

 はじめに
 経済の破綻と大失業・生活の破壊の下で教育破壊が起きている。なぜそうなっているのか。その根本原因になんらメスを入れないまま、対処療法的にいろいろな対策がおこなわれているが、それでは生活の破綻、教育の破綻を解消するどころか、むしろ悪くなる一方だ。現在の危機は従来の国の政策では乗り切れず、労働者の生活破綻を打開できない。その危機を克服するために私たち労働者、民衆が主体にならなければならない。
 株式、証券は富も価値もつくらない。それを売買するだけでものすごい利益をあっという間に獲得する、そういう経済のやり方が崩壊しつつある。だが、証券投資でボロ儲けする経済が破綻した結果、私たちの生活基盤、実体経済も影響を受けてガタガタになりつつある。
 しかもこの経済の崩壊、生活の崩壊を立てなおすべき決定的に重要な教育、人間社会の主体を形成する重大な任務を持つ教育も崩壊しつつあるということだ。これでは本当に社会全体の崩壊になってしまうのではないか。経済の基本を維持発展させる主体の形成が絶対必要不可欠だ。
 教育の崩壊をどうやって食い止め本当の人間社会の主人公としての子どもたちの育成を図っていくか、今決定的に迫られた課題になっている。人間社会の再生・実体の担い手を主人公とした社会の創造は、教育再生にかかっている。

 1、経済の破綻−その原因
 日本だけでなく世界的規模で経済が破綻している。そのもとで働く労働者の失業が激増し、生活が破綻している。教育も崩壊し、医者にかかれない人人が激増している。それをもたらした根本原因を考えたい。
 1つは新自由主義、規制緩和、民営化のもとで大資本の自由、弱肉強食で力の強い者は弱い者を徹底的に収奪していいという方向が進んでいることだ。新自由主義といわれる政策のなかで、大資本の自由、巨大資本の自由が規制緩和をとおして保障され、発揮されるようになった。
 2つ目は、それ自体価値の根拠などない株式・証券が全世界で膨張し、拡大し、根拠がないことが暴露されて大崩壊している。それが今の金融恐慌、経済恐慌といわれる危機的事態を引き起こしている。この擬制資本が支配的である経済のもとでは人間が生きられなくなっている。
 株式というのは、経営を支配しながらその企業の経営のなかで労働者を搾取して利潤を形成するという根拠を持っている。株価そのものはフィクションだが、一定の根拠がある。ところが、サブプライムローンなど現在の証券は、人為的なバブルによってつくられた価格だ。その崩壊のもとで実体経済が、私たちの生活そのものまで破綻してしまいつつある。
 3つ目は、ドル過剰、ドル危機、ドル依存のなかでのマネーの過剰だ。1971年8月15日は戦後体制の大きな転機だった。アメリカのドルはそれまで金の裏付けがあり、一定の交換性があったが、ドルと金の交換性を絶った。アメリカがドルをどんどん垂れ流してドル価値は下落し続けた。アメリカはそこで、日本の政策に介入してドルをどんどん日本に買わせ、そのドルでアメリカから証券、国債を買わせる。ドルがアメリカに環流し、日本のお金がアメリカにどんどん吸い上げられていく。そういうメカニズムを通して、ドル体制の崩壊を回避し続け、過剰なマネーの運用先として、株式・証券に投機がおこなわれ、バブルが膨張しそれが崩壊した。
 新自由主義は、市場原理主義といわれるが、あらゆる人間関係を市場関係と同じようにとらえてしまう。労働という生産的な活動のなかで労働者は、仕事を分担しあいながら協同して労働している。そこでは労働を通した直接の人間関係がある。家庭の中の生活を考えてもそれは親がおたがいに支えあい、子どもたちを育てる場だ。直接の人間関係であって、交換関係ではない。
 ところが、労働の場においても、生活の場においてもみなモノとモノの交換、商品と貨幣の交換関係がおこなわれているようにとらえ、むりやりそのような関係にしてしまうのが新自由主義だ。
 新自由主義のもとで、巨大資本に一定程度加えてきた規制、たとえば中小零細企業や小農経営を保護するために、農産物輸入自由化や大型店が中小商店をぶっ潰すことを規制し、抑えていたのを、「資本の自由や経済の活性化を損なう」といって撤廃し資本の自由を放任した。巨大資本の自由はオオカミの自由(人狼)といえるが、それを保障したのが新自由主義だ。資本の自由を野放しにすれば、人間が生きられなくなる。
 教育や医療の事業というのは金儲けではできないし、利潤原理では絶対に維持できない。人間生活、生存の根本的な社会的な条件である教育、医療、保健、森林の問題などを資本に委ね、利潤原理に任せてしまった。アメリカでやられてきたことを「規制緩和」「自由化」といって、小泉経済改革のなかで実行し実現してきた。それが人間破壊の最も重要な原因だ。
 日本の財政危機をもたらした重要な原因は、アメリカの侵略戦争に協力させられて、危険な戦争の方向をめざして金を費やしてきたというところにある。グアム移転など、軍事力トランスフォーメーションに膨大な軍事費を出さねばならない。これが経済危機をさらに一層深刻化しつつある。ところが、「危険な外国の勢力がいるから、国民全体をあげて対処していかなければならない」と国民総動員の方向をうち出している。そのための「新教育基本法」に基づく教育を推進していこうとしている。
 こうしたことが人間の生存を破壊してきた重大な原因であるにもかかわらず、それを労働者・民衆のなかに、教育の現場にまで侵入させてきた。商品主体になりえない子どもたちに、市場の関係、お金の関係は空気や水の存在と同じように、当たり前の存在なんだ、交換関係というのは人間の基本的関係で変えることはできないんだという意識を与えるということだ。

 2、教育崩壊とその原因
 市場原理、金儲けの原理が子どもたちに浸透したことで、どういう状況になっているのか。
 「切れる子ども、荒れる子ども」は「自己中心的、動物的」だといわれる。「猿も反省する」というCMがあったが、猿は反省しない。人間は、人から見て恥ずかしいと思う行動を感じるし、反省して正していくことができる。反省しないというのはまさに動物的になっているということだ。
 子どもたちは一人一人人間として存在している。だから1人1人の人格があり人格を尊重するのは当たり前で大前提だ。しかし、決定的に重要なのは、まだ子どもたちは社会的に自立していない、今から自立していこうとする存在だ。未成熟、未完成という性格を持っている。学校に行く前の子どもを見てもわかるが、すっぽんぽんの裸でも恥ずかしいなど感じない。だんだんと自己意識が出てくる。それは子どもたちの意識性の成長だ。だから人間として自立していくように育てていくことが、親や地方や社会の任務、責任だ。
 家庭のなかで親、保護者がいなければ、自分たちの生活は成り立たないという生活をしていながら、自分の生存、生活にとって絶対存在不可欠な人間関係、それについてのきちっとした意識がない。子どもたちはどういう環境のなかで支えられて生きているのかを自覚していない。教師の任務はそういう自覚を子どもたちに付与していくことだ。
 このように、知識も充分でなく自己意識もまだ確立していない子どもたちに、あたかも市場のなかでの商品主体であるかのような「エセ主体観」、主体としての感じを与えようとする市場競争原理が子どもたちのなかに浸透してきている。お金を持たなければ人間関係は結べないという市場関係を、子どもたちの人間関係のなかにまで持ちこもうとしている。
 これは大変なことだ。子どもたち同士の関係も、人間同士の関係というとらえ方がなくなり、相手はモノになる。嫌になったら消す。バーチャルな人間関係のなかで、「お前は死ね」とか、携帯に書き込まれたからといって平気で殺すということになる。相手が自分と同じ人間だととらえなければ、相手を苦しめることが自分を苦しめることになるという感覚がなくなる。自分の思うようにやってもいいということになり、結局自己反省ができない。
 反省から人間は成長するといってもいい。反省は自分の行動を自分で対象化するということだ。相手に対してよかったのか、悪かったのか、自己反省をして人間は発展していくし、本当の意味での人間関係が発展していく。それがなくなってしまう。子どもたちは現在の資本主義に毒され、人間らしい感情、感覚を潰されている。
 そのうえに、「関心・意欲・態度が重要だ」「子どもたちが感覚的にとらえたものが大切だ」と、教師に対して押しつけになるから指導するなとなった。教師の指導性を否定するまでになった。「臨教審」「教育改革」を通して、画一的教育ではダメだ、それが子どもたちのやる気、自主性をなくしてきた、ゆとりを持たせる必要がある、子どもたちが思うような考え方を助長していく必要があるということを持ち上げてきた。
 そういうことが「個性尊重」というような言葉を使って、意識的に政策的につくられてきたといえる。これからいろいろなことを学んでいかなければならない子どもたちに、あたかも自立した個人であってもとてもできそうもないことを、尊重しようという教育がおこなわれてきた。
 そこから出てくる関心とはどういう関心か。意欲を引き出すといってもどういう意欲なのか。人をけ落として自分だけをというのも考えて見れば意欲だ。そんな意欲でいいのか。「関心だ。意欲だ」といっていたら、なんでも入りこんでしまう。
 こうして、「俺のやることにイチャモンをつけるのは嫌だ」となったり、「頭のいい子」は、ほんとうは嫌だけれどもやる気の態度だけ見せればいいんだという方向に走る。そんなことは耐えられない子どもたちが「嫌だ」というと弾かれてしまう。そういうことが「新しい新教育観」ということで押し込まれてきた。
 90年代のはじめから「生活科」が出てくる。理科でもない社会でもない、しかしなにをやっていいかわからなくなる。「総合的な学習」も同じだ。それぞれの総合すべき事柄の本質がわかったうえで、はじめて総合ができる。1つ1つの事柄の本質がなにもわからなくては、「ごちゃまぜ」にしかならない。目指す方向性もないから、ただ遊んでいる。「動物園だ」といわれるように育ててきたといえるだろう。
 教師の指導性、それを通して子どもたちになにを学ばせるのか、どういう考え方、どういう意識を育てていくのかがなければ、ほんとうに子どもの自立を促す、育てることにならない。
 そのうえに、子どもたち自身を競争させ、まさに市場競争と同じような関係を持ち込み、評価する。全国学力テストをやらせて、学校の評価をするが、これはバウチャー制(学校選択の自由)につながる。子どもが集まらない学校は教育費も減らされ、校舎や設備、教材もどんどん削られ、さらに廃校になる。イギリスはその弊害はありありとあらわれている。それを市場原理、競争原理でやっていこうという。その出発点として位置づけたのが学力テスト、そして成績の評価と公表ということだった。
 テストの成績を上げるというのは教育でもなんでもない。それで人間能力を測られ、その成績が悪い学校は教師が悪いといわれる。子どもたちはテストの成績いかんによって差別され、エリートはエリートなりの教育を、落ちこぼれの連中はやらなくてもいいと放置される。荒れるのは当たり前だ。暴力、いじめという状況が出てくる。
 なぜ、こういう状況が生まれたのか、親も先生も子どもたちにきちんと認識させると同時に、どうすれば正していくことができるかを示さないといけない。子どもたちは資本主義的商品経済に侵入され支配され、そのなかでもがき苦しんでいる。なんとか脱出させ、救わなければどうしようもない。

 教師自身が崩壊する事態に
 子どもたちの人間的成長を図るのは教師の任務だ。だが、工場で人間の営みである労働者が原料部品のように扱われているのと同じように、教育という人間としての営みをおこなう教師が教育現場で、財界や政府が意図した人材形成をおこなう道具であるかのように扱われようとしている。そこから、教師自身が崩壊する事態が生じつつある。
 超多忙状態におかれ、子どもたちの人格形成とは直接なにも関係のない無駄な競争に翻弄させられてしまう。教育の効果など量的基準で評価できるものではないが、それを量的基準、点数評価でやられてきた。そのうえ、教育内容、指導要領によって自主性を奪われて、社会・国家への奉仕を要求されてきた。
 教員の免許更新制は全然意味がない。どういう教育をしたらいいのかという中身は、教師自身が何年も経験しているから1番よくわかる。大学の先生も一般論をやっているだけだ。何を教えたらいいか分からないで困っている。なんの意味もないことに、大学も金をかけ、教師は自分の負担で、授業研究時間を削ったり、子どもとふれあう時間を削ったりで、ほとんど破綻している。
 資本が財界や教育現場に外部から介入するだけでなく、そっくり資本家的工場の原理、企業の原理で学校をのみ込み、支配するというところまできている。私学の大学は典型的にそうなっている。子どもは原料とみなされ、原料に付加価値を加えるのが教師の役割で、子どもたちを高く企業に売りつける。そういう人材形成が学校の仕事だ、大学の仕事だと平気でいうまでになっている。
 財界とか国家というのは、労働者国民が、労働する、生産的活動をおこなう、それによって価値や富をつくる、そういう根拠がなければ存立できない。ところが今の体制は、そういう生産活動における労働者を破壊し、学校現場における教職員の活動を崩壊させ、自分たち自身の根拠さえも失わせながら、逆にエセ主体化を通してこの体制を維持し、奉仕するような方向に向かわせようとしている。
 戦後教育は主体になりえない連中が、主体として維持存続するために、憲法や教育基本法の基本的な方針や理念をどんどん形骸化してきた。現在の教育の崩壊は、財界、国家による外部からの教育現場への介入、教育を彼らの目的に即した手段にしてきたことにある。

 3、教育再生・創造−労働者・民衆が社会の現実の主体となること
 人間生存に不可欠な物質的富の生産・再生産、このなかでの労働、自然に対して人間が働きかける主体としての力量、意識を持たなければならないと思う。
 われわれの教育の基本になっているのは、現場の人間関係だ。教員の関係、職員の関係、現場における必要な仕事を担いながら、協同しあって目的を遂行していくというそういう共同性だ。
 教育の領域は、実体の担い手である労働者として育てること、それが人間形成の基本だと思う。その主体になることが、子どもたちの自立、社会的自立ということだ。
 どういう状況のもとでも、1人で勝手に生きられるものではない。支えられ、支えるという関係のなかで生きていることを学ぶ、それを実証し、実現する場が労働の場であり、生活の領域だ。
 子どもたちの人格尊重ということと、教師の指導性は矛盾しない。むしろ教師の指導性を通して、一人前の自立できる子どもを育てていく。それが人格尊重だしその義務を負っているのが、社会、保護者、教職員だ。
 人格を育てていくための教育は、子どもたちの感性を大切にしながら、それを理論、理性にまで高めていく、これが基本だ。もう1つは個個バラバラな事象、バラバラな知識の連関、関連をつける。現象的な把握だけにとどまるのではなく、現象の底にある本質、根拠、この認識を確立する。子どもたちの認識を発展させ、成長させるとはこういうことだ。それが真理の教育だし、ここに教師の任務がある。
 生きた人間の直接的関係としての教育実践はつねに創造的で、マニュアルはない。教育者が教育されることを強調したい。
 教育活動は人間がおこなう活動だ。今、ビデオを見るとか映像を利用するとか、最近はスクールニューディールとかいって電子黒板など、いらない教育機器がどんどん入ってきている。教育の基本は、人間としての教師がやらないといけない。
 人間に対して、人間が関わるのが教育であり、日日が創造だ。子どもたちの状況は常に変わる。私たちの状況も変わる。しょっちゅう変化していく子どもたちに直接対応していく。今まで予想されなかったような事態が起きるが、それに対して即座に対応できるのは人間しかいない。
 これから何が起こるかわからない。そして現に起きていることに対応していかなければならない。それが創造性だ。

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