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金利生活者のお粗末な哲学
新自由主義イデオロギーの正体
               社会に寄生し社会を攻撃     2010年7月16日付

 本紙では先週「新自由主義が意味するもの」をテーマに世界経済の概観図を描く論議をした。中曽根政府の国鉄などの民営化、橋本政府の金融自由化、小泉政府の構造改革とつづいてきたが、それは市場原理主義、新自由主義、規制緩和というものの強制としてやられた。そのもとで日本社会は全面的な崩壊に瀕してきた。それはいかなる論理立てでやられているか、いわゆる新自由主義の哲学はいかなるものであるか、そしてそれに対する方向性はどこにあるのか論議をすすめた。

 現実世界で破産する目先の損得至上主義 生産原理、社会性に展望

 司会 前回の論議では、とくに08年のリーマン・ショックを契機にした世界的な経済恐慌になったが、どうしてそうなったかを論議した。とくに戦後の資本主義世界の発展のなかで、1971年のニクソン・ショック、金ドル交換停止が大きな転換点になっており、世界の通貨が金に規制されるのではなく、ドルに規制されるという逆立ちした関係になった。そしてIT技術革新とともに金融技術革新に力を入れ、新しい金融技術を武器にして世界を略奪するという道をすすんだ。そのために、金融自由化を中心にして、社会構造の変革を強要してきた。
 この金融支配のもとで、農漁業はもちろん製造業も破壊され、その担い手である労働者の困窮度ははなはだしいものとなった。社会的に保障すべき教育や医療や介護、福祉の崩壊、学問分野やメディア、文化の分野もインチキがはびこってきた。それは新自由主義による改革といわれて実行された。その異常なるイデオロギーとはいかなるものか、対置する発展的なものはなにか、論議したい。
 A 一連の市場原理改革は、1980年代の中曽根内閣による国鉄の分割民営化あたりから始まる。96年には「日米安保共同宣言」をした橋本内閣が、行政、財政、経済、金融、社会保障、教育の六大構造改革を打ち出した。この間、公共企業体の民営化、金融自由化・金融規制の緩和、行政改革、労働規制緩和、流通再編、福祉・医療の切り捨て、教育改革、大学民営化、司法改革などが進行した。それらはみなアメリカの指図としてやられた。
  それ以前にあった常識の覆しだった。「まさかやるはずがない」ということをやってきた。とくに小泉構造改革以後は、「受益者負担」とか「自己責任」という考え方を浸透させ、行政でももうからないものは民営化するといって、大学も病院も独立行政法人、図書館は民間委託・指定管理者制にした。下関の満珠荘がいい例だが、これまで市民が税金を払って市が福祉ということで運営してきたのに、7000万円を市が出すことが「赤字」という扱いになる。病院もそうだ。地方自治体による公共の福祉ということで不採算部門でもやってきているわけだが、それをカットの対象にする。行政運営も市民の役に立つかどうかという基準が影を潜めて、効率的かどうか、もうかるか損するかが基準になってきた。地方公共団体でなくなった。
  80年代、それまで無料だった高齢者医療を切っていく段階で政府がいい出したのが、「枯れ木に水をやる必要はない」という論理だ。利潤追求第一、効率化一点張りだ。公立病院の医師は「不採算部門が全部赤字扱いになる。でもこれは赤字ではなく、公益のためにやっているんだ」という。それをどんどん切っていく。社会的に絶対に必要な小児科とか産婦人科も、少子化などの影響で不採算部門とされ、病院によっては廃止するところが出ている。
 B 保育園統廃合や学校統廃合もそういう流れで、角島のような地域から保育園をなくし、離れた滝部に通えというようなことをへっちゃらでやる。それは送り迎えだけでも大変だが、「働く親がいるから近くに保育園が必要」という現実を転倒させた考え方だ。学校の統廃合もそうで、子どもも少ないしまとめたら教師も効率化できるというものだ。
  小泉内閣が進めた市町村合併も、それによっていかに経費が削減されるか、しかいわない。どれだけ職員が減るからいいとか、行政効率をいって強行する。その結果は郡部の切り捨てで、役場も病院も郵便局もない、人が住めない町になっている。今度の水害でも役場は支所になって八人ほどで旧町内全部を担当する。口蹄疫対策もなってなかったが、水害対策も切り捨てる。町の崩壊だ。

 教育の機会均等を覆す 学校はサービス業化

  教育改革も80年代の中曽根臨教審に始まっているが、「画一化反対」「個性重視」といって、子どもの自由勝手をはびこらせた。当時の教育課程審議会会長が「エリートは100人に1人でいい。バカはバカのままでいい」といったが、それまで建前上は「教育は機会均等」といっていたものを覆すものだった。そしていわれたのが「お客様のニーズに応える」という市場原理で、学校もサービス業のようにして、子どもも教師も学校もバラバラにして競争にかりたててきた。九九も分数もできずに中学校を卒業する子どもたちが生まれ、かれらが反乱をはじめて、その教育破壊の教育改革が破産してきた。
  大学では、これまでの学問研究・真理探究の場とか、教授会の自治、大学の自治というものがまったく古臭いものとされてきた。04年の国立大学の独立法人化以降、運営費交付金は毎年1%ずつ削減、私立大学でも補助金のカットがやられ、それぞれの大学で独自に金を稼げるようにしろというので、「顧客のニーズに応じる」といって、企業や国・自治体から金をもらって相手が求める研究をするようになった。そこで成果をあげる研究には金をつぎ込み、それ以外の基礎科学や将来につながる地道な学問は切り捨てる。大学発ベンチャー企業などもつくっている。真理探究の場ではなく、金もうけの学問だ。

 金儲けで社会統率 全て数値評価

  世の中に市場原理主義を蔓延させたわけだが、「消費者のニーズ」というのが、大規模ショッピングセンターがふえて地元商店をなぎ倒し、農漁業や中小企業の生産者を買いたたく、そういうイデオロギー的武器になっている。「消費者に奉仕しているんだ」「小さい商店や生産者がなにを文句いうか」といってそれを進めている。働く生産者がいて、賃金や収入があるから消費購買力となっているのに、生産破壊、労働力破壊で実際は、消費購買力の破壊をやっている。
 市場というときのもう一つは投資家という意味だ。年金基金とか金融機関とか、みんなが預けている金のハイリターンのために、株や証券の売買をやるヘッジファンドがいるのだとなる。そしてサブプライムローン証券などのイカサマ詐欺金融を大規模にやって破綻した。製造業企業に対しては、株価をあげろと迫る。それも四半期ごとの決算で、目先の株価上昇に追いまくる。それで各企業はリストラに励む。労働者は奴隷か家畜のような状態が強いられ、消費需要もなくなる。
 F 教育でも、「消費者ニーズ」で「父母や子どもが自由に選べる」といって、学校選択制を進め、顧客ニーズに合わない学校はつぶれて当然という。
  医療でもそうだ。儲からない病院はつぶれてよいと。人間の病気を治して社会でまた元気に働いて、社会に貢献できるようにしていくという医療の社会的役割はどうでもよくて、患者の命や健康が商品にされている。臓器移植法が必要といって解禁したが、東大病院で一年以内に死んだ者が50%もいたことが隠されていたと大問題になっている。とにかく一般の医療は切り捨てて、先端医療をやることでもうけることが最大の基準となっている。
 A 世の中を全部金もうけの基準で統率する。だから社会はぶっつぶれていく。市場原理というとき、もう一つの特徴は数値評価だ。
 E 大学の教員は論文を何本書いたか、学会誌などに何本紹介されたかが問題にされ、内容は問題にされない。授業の受講者数でも評価される。大学は入学者数や学生の就職率で評価され、それで教員が学問どころではなくなっている。
  小・中学校でも、子どもは学力テストで数値評価され、「関心・意欲・態度」で何回手を挙げたか、本を何冊読んだかなどで数値評価される。教師もどの学校にどれだけ生徒を入学させたか、また学級通信を何回出したかなどの数値評価。生徒も教師も校長も数値評価されている。でも、子どもが手を挙げていたからといって、賢いかどうかはわからない。
  病院の評価でも、例えば心臓手術を何年間で何件やったのか、多くやっているところほど数値評価が高い。手術の結果、何人生き残ったかは関係ない。件数が評価になる。それがロビーに貼り出されたりしている。メチャクチャな論理だ。
  数値で評価できるのは、同じ質の場合だけだ。重さと長さを一つの数値で表すことはできない。数値評価というのは多様な質を取り去ったもので、現実離れしたまことにバカげたイデオロギーだ。こんな世間離れしたことを考えているのは、金融投機集団だ。モノづくりはどうでもよい、問題は金だ、金の多い少ないだけが世の中の真理だというイデオロギーだ。世の中はそのようにはできていない。かれらが金融投機で奪い合っている金も、源泉は生産活動によってつくり出された富だ。労働でつくり出された商品は、かれらに利潤の分け前を与えるが、その商品は人人にとって有用でなければ買ってはもらえない。それは、千差万別の質による有用性であり、それをつくる労働は千差万別の具体的有用労働だ。この質の多様性を無視した強欲金利生活者が世の中を支配するなら、社会が崩壊するのは当たり前だ。世の中を単純化し、無味乾燥にしてしまうイデオロギーだ。
  図書館の民営化を進めたら図書館でなくなる。民営化は金もうけのためであり、それはその地域の文化を高めるためという性質を破壊する。教育でも、民族の子どもとして育てる、社会のために社会の責任で育てるというものを否定する。それぞれの家庭が教育に投資していいところに就職して利益を回収するといったあんばいだ。そしてそれぞれの自己責任だといってバラバラにする。「個性重視」といって目前の利益のためにバラバラにして競争させる。社会性を否定した結果、学力はどんどん低下し、エリートといっても社会に出たら役に立たない人間が増えている。この教育改革に今、子どもたちが反乱を起こしている。
 
 腐敗が甚だしい学問 御用学者がかりに

  市場原理主義によって、学問分野は腐敗がはなはだしい。国立大学の法人化以降、論文のねつ造や研究資金の不正使用がものすごく増えた。とくにエリート大学の東大、京大、阪大などがひどい。06年に早大理工学部の教授の事件が発覚したが、研究費2億円を投資信託などに不正流用し、論文ねつ造もしていた。国の補助金が競争的資金になって、成果があがるところに注ぎこむので、億をこえる巨額な資金が一つの研究室に行く。そしてこの教授は、競争的資金を選定する国の総合科学技術会議の議員だった。こうした論文のねつ造というのは、自然科学分野で多い。
 05年に韓国の大学教授が「ヒトクローン胚を使ってES細胞をつくった」「臓器移植や再生医療にとって画期的」と騒がれ国家の英雄となったが、これがねつ造だった。しかしそれは氷山の一角だ。最大のねつ造事件は、ノーベル賞候補にもなった、ITバブル崩壊後のアメリカのベル研究所だといわれる。アメリカではバイオ研究者の3分の1が不正行為に手を染めているという調査もある。
 E 地球温暖化問題でも、「CO2が原因」というデータはウソばかりだ。中部大学教授の武田邦彦氏は「北極の氷が溶けて海面が上昇するというのは、アルキメデスの原理からしてあり得ない。コップのなかの水に氷を浮かべて、溶けたらあふれるか」といっている。また、「南極の氷が溶けて海面が上がり、ツバルという島が沈みつつある」といわれる。しかしツバルというのはもともと海面下だ。ツバルは珊瑚礁の島で、サンゴは海水中の植物プランクトンを食べて生きているので、満潮時には海面下にならないとサンゴは死んでしまうからだ。そこを第二次大戦中にアメリカが埋め立てて滑走路をつくった。その後撤退し、そのときの木の杭が今朽ちてボロボロになっている。それを写真にとって「温暖化でなった」と宣伝する。それもIPCC(国連の温暖化に関する政府間パネル)などの国連の権威を使ってやる。「温暖化」といったらなんでも許されるような、科学とは縁もゆかりもない世界になってしまった。そのインチキに今、世界の科学者が一斉に異議を唱え始めた。「CO2主因説はねつ造」ということで、ヨーロッパではだいたいけりがついた。
 A 要するにアメリカが環境ビジネスをやりたがっているわけだ。それに認められることをやったら出世できる、金が入るというものだ。金融資本の願望にあわせる、もうけたいという願望から現実をねじ曲げウソがはびこる。真理、真実なんてどうでもいいんだ。自然科学までがそうなっている。自然があって自然界の法則をそのなかから見出してくるのが自然科学なのに、金もうけという願望のための超観念論だ。学問ではない。金融投機主義の市場原理で御用学者ばやりになった。
 社会科学になるともっとひどい。東行庵問題などを見ても、「薩長史観の見直し」「敗者の側から」などというが、それは明治維新のようなものの真実を認めたらアメリカが日本を占領するのに困るというものであり、アメリカの機嫌をとって地位と金を得よう、そのためには歴史の真実なんてどうでもよいというイデオロギーだ。
 E 歴史学はかなりの崩壊だ。社会の発展に法則はないとか、進歩や社会の発展そのものを否定する。最近「グローバル・ヒストリー」というのがはやっている。それは「民族の垣根をこえる」といって、「環境」「疫病」「人口」などテーマにあわせて、歴史の断片をつなぎあわせてよしとするものだ。
  考古学でも、社会の発展に法則があるということが否定され、基準がなくなって、遺跡の評価も100人が100通りの主張をする不可知論がまかり通っているという。10年前には、「日本の旧石器の歴史を大きく変えた」と評価され教科書にも載った、宮城県の遺跡の発掘そのものがねつ造だということがわかって問題になった。

 客観的真理の否定蔓延 日本社会は後進国化

 A 学問分野が崩壊したら社会の発展性はないということだ。あらわれているのは現実を基準にした客観的真理性の否定だ。つまるところ金融資本が認めてくれるかどうかが基準になっている。大変な腐敗、堕落だ。御用学者の存立の根拠だが、金融資本主義のもとでの金余りのおこぼれで養われているからだ。働く者は金がないが、あるところには有り余っていて、マネーゲームのバクチで荒稼ぎをしている。これは資本輸出による超過利潤が元だ。その金で御用学者を買収し、メディアも文化人も労働貴族も買収して、強欲金融資本を喜ばせることを競っている関係だ。
 B 今回の参議院選でも国民に足を置く政党がない、みな親米だ。全政党が得票数激減だ。民主・自民はもちろん、「日共」集団、社民も全部がその超過利潤で養われた部分で、大企業に奉仕するために役割分担をしてやっている。だから国民から見ると、自分たちを代表する政党がない。空中遊泳だし大衆の現実からの遊離が特徴だ。民主主義ではないということだ。そして安倍晋三にしても菅直人にしても、KY=空気が読めない者が多くなった。アメリカにいわれるだけで、それが国民にどう受け止められるかというのがわからない。そして現実のなかでパンクする。政治の劣化だ。
  社会があるから個人がいる。ある個人が生まれるずっと前から社会はあり、その社会の歴史があって個人がいる。社会をよくすることによって個人もよくなる。個人が社会より上だという独裁者は勘違いもいいところだ。新自由主義は、目前の個別利害だけで人民をバラバラにして競争させ、社会的な視野を破壊する特徴だ。
 E 学問の規制緩和だ。自分の思い、興味・関心でこうなっていますと現象を個個バラバラに羅列したらいいとなる。今の社会が直面している問題に具体的に分け入って、なにが本質的な問題でどうしたら変革できるのかという考え方を破壊している。
 A 体系的・歴史的なもののとらえ方でないから破産する。ヘッジファンドの金融工学がそうで、最高の頭のいい計算をしているというが、バブルが永遠に続くという前提で計算している。目前の限られた条件のなかだけの計算だ。証券化でも部分でやっているうちは計算が成り立つが、投資銀行がやるし大銀行もやるというふうに全体がやり始めたらパンクするわけだ。俺がどうやってもうけるかというだけで開発して、その結果パンクする。目前の自分の利害だけで突き進んで大損をする。
  アメリカでは80年代から、「ポジティブ思考」を一つの産業にして、各企業が社員教育に使っている。「サブプライムローンが失敗する」などという悲観的な考え方はいけない、常に前向きにといってやみくもに目前にかりたてる、宗教みたいなものだ。「幸せです」と叫んだら幸せになるという中尾市長の「明言素」が同じだ。ダサイ田舎市長だと思ったら、アメリカ式の最新の市場原理イデオロギーなのだ。
 A アメリカがダサイということだ。本当にお粗末限りない。社会をコントロールできないというのが市場原理主義であり、今度のリーマン・ショックだ。敗戦後から60年代の「高度成長」期にかけては、日本は製造業が中心だ。銀行が支配してはいるが、物づくりを発展させることでもうけるし、そのためには労働力を発揮させなければならないし、福祉政策もある程度やっている。それがニクソン・ショック以後は慢性的な過剰生産危機で製造業ではもうからない。金融資本が後ろにいて「もっと競争力をつけろ」「もっと株価を上げろ」といって、日本の製造業は切り捨てられ、賃金も土地も安い中国、アジアに出ていく。これがリーマン・ショック以降加速している。それが根拠で、農業も漁業もいらない、製造業もいらない、労働力も切り捨てだ。
 資本主義の大きな発展から見ると、産業革命はイギリスから始まる。ここで製造業が発展するが、第一次大戦以後はアメリカに移る。第二次大戦後、60年代になると、ドイツ、日本などが発展してきた。アメリカはそこから新しい金融技術の開発へとすすむ。そしてアメリカの産業の空洞化がすすみ、貧困がひどくなった。文盲は4400万人だ。
 B 日本の現状に対して、最近「棄民政策ではないか」という声はよく出る。農漁業も破壊、労働者も子どもを生み育てることができない。「多民族国家」といって、外国人労働者を入れればいいという。パナソニックなど、新規採用で1390人とるが、そのうちの1100人が中国、韓国などアジア人だ。もう日本はつぶすんだということだ。日本はアメリカの新自由主義、グローバリゼーションに追随してきたが、結局「医療は金がなかったら受けられません」「教育も受けられません」となり、「新興衰退国」といわれるように、後進国に逆戻りしている。規制緩和・構造改革というものがものすごく残酷な、本当に日本社会をつぶしてしまうものとしてあらわれている。
 
 冨の源泉は労働者 寄生虫の金利生活者

  だが金融資本も産業があり労働者がいなければ富の源泉はない。自分たちが富を生み出しているわけではないからだ。寄生的な存在なのだ。物づくりによって生まれた富を、かれらが奪いあいをしているだけだ。世の中はやはり物づくりの方が基本だ。連中もこの世の中から物づくりがなくなったら生息できない。現実の方が強いのだ。メキシコ湾の油田事故も、掘る技術しかなくて、修理技術のないまま突っ走って大事故をどうしようもない。自然をなめてかかったら失敗するのは当然だ。自然という現実に人間はあわせて歴史をつくってきたのだ。社会との関係もそうであり、社会的現実にあわせずに金利生活者の強欲さに社会を従わせようとするわけだから破産するほかはない。
  農漁業はもうからないから輸入すればいいという。だが、豪雨になれば土砂災害が深刻だ。これまで農民が農地や水路を整備したり山を手入れしたりすることで治山治水をたもち、都市部も守ってきた。今、段段畑のある中山間地は日本の耕地面積の四割を占めるが、それが限界集落となり、あと10年くらいすると大変なことになるといわれる。自然にはかなわないが、しかし自然を制御するのは労働力だ。農村部を荒廃させるとなったら大変な国土破壊になる。
  社会的利益を優先させないといけないという世論が大部広がってきた。個別利害の主張だけでは社会はメチャクチャになっていくし、「教育や医療などを社会的に保障しないといけない」とか、「学問は自由でなければいけない。御用学問ばかりでどうなるか」という要求も強くなってきた。そしてやはり生産活動が社会の一番の活力だ。
 A 新自由主義とその破産まできて、アメリカを中心とする金融資本主義では社会は運営できないということがはっきりしたということではないか。世界がぶっ壊れてしまうし、アメリカの植民地状態にある日本は悲惨なほどにぶっ壊される。
 B 金融資本というのは社会の寄生虫だ。人の金を集めて、それを使って株操作をやり荒稼ぎをする。このような金融詐欺時代になったのは、資本主義の最後的な腐朽と衰退をあらわしている。
  アメリカの金融機関の経営者はボーナスを50億円あまりとっていたというが、日本でも日産のゴーンが9億円あまり、1億円以上とっていた経営者は200人あまりいた。派遣労働者を路頭に迷わし、働く非正規雇用の年収は200万円から300万円で酷使する一方でだ。製造業企業も銀行から借金をして設備投資するという形から、新株や社債などを発行する直接金融方式に変わった。そして株価が上がるか下がるかが最大基準になってきた。株価が下がったらヘッジファンドなどに企業買収を仕掛けられる。株価が上がったから役員がたくさんの報酬をもらうのは当然というわけだ。競争力を上げ、株価を上げるのは労働者をリストラするのが最大の要因となる。
 製造業企業も目先の利益ばかりで突っ走り、長期的展望に立った技術継承など切り捨ててきた。その結果、技術立国といわれてきた日本の大企業の凋落だ。トヨタのように、リコール対象車が世界販売台数を上回るということにもなる。そして、とうとう日本ではだめだというので、中国だ、タイだ、ベトナムだとなっている。そして日本にはなにもなくなってしまう。
 B ある年配者が「銀行というのは私らの世代ではとても人に威張る職業ではないといわれていたが、最近は銀行屋が威張り始めた」といっていた。銀行はもともと仲介業だ。製造業などに金を貸してそれが大きくなることでもうかる。人のおかげで食わしてもらうから、恥ずかしい仕事だという意識があった。それが今では主人の顔をしているといっていた。
  社会に寄生しているだけで、自分たちではなにも富はつくり出さない。しかし世の中は、金融投機屋など金利生活者で成り立っているのではない。誰が何といおうとも、モノをつくる働くものがいるから成り立っているのだ。
 生産を破壊する金利生活者のようなものがこの社会を運営できるわけがない。自然あっての社会、社会あっての個人だ。社会の寄生物たる金融投機資本、金利生活者が、自分たちを養う社会をつぶそうとする。権力を振りかざしてやっているが、働く人民から見たら笑わせるなという関係になる。

 労働者の原理の復権へ 社会立直しの為

 司会 この社会の立て直しのためには、新自由主義すなわち金利生活者のお粗末なイデオロギーを粉砕して、世の中を成り立たせている常識を復権させなければならない。新自由主義のイデオロギーの特徴の第一は、強欲な金融投機集団、金利生活者の利益を代表しているという点だ。かれらの願望に社会的な現実も自然界の現実も従わせようという逆立ちした超観念論だ。だから現実の前に破産する。自由市場主義、規制緩和というのは社会的な規制を取り払い、金利生活者が強欲にもうけることを要求するものだ。
 また自由主義、人権主義、自己責任、個性重視などといって、みんなをバラバラにし、社会的な結びつきを破壊した。バラバラにするのと結びついて、社会的な視野を奪い、目前の利益追求に埋没するのが特徴だ。物事を、その現象から、原因は何か、歴史的経過、社会的な関連のなかで、人人の背後で働いている根源、本質は何かとかいう科学的思考への敵対だ。また物事がある質から別の質に転化、発展することを認めない。頑迷な石頭だ。
 社会は市場原理ではなく生産原理で動いている。新自由主義の逆立ちしたイデオロギーに対して、みんなで協力しあって社会の役に立つものを生産するという生産者の原理、労働者の原理を勝利させることだ。生産活動が社会の活力の原動力であり、それと結びついて社会科学、自然科学、文学・芸術の復権が社会の発展を促す。何よりも生産を担う労働者、人民大衆の思想をこの社会で勝利させることから、この社会の展望が生まれるという関係だ。

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