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勤労父母代表する教育理念を
教育運動巡る教師座談会
             競争原理破産し蘇る生産原理    2011年7月6日付

 リーマン・ショックに続く東日本大震災と福島原発の大事故をへて、戦後史は大転換の様相を見せている。政府や官僚、メディアや御用学者など、戦後支配の権威がガタガタに崩壊し、日本社会の抜本的な立て直しを求める世論が沸騰している。このなかで日本の次代を担う世代を育てる教育の立て直しへの関心が強まっている。本紙は、山口県と福岡県の人民教育同盟の教師たちに集まってもらい、今の子どもの教育をめぐる実情と教育運動の方向性について論議してもらった。
 
 生活からかけ離れた教科書

 司会 1年前の教育座談会以後の動きとして、下関の中学校での子どもの荒れと、警察を入れて彼らを排除する対応のもとで、中卒で行き場のない子が多数出るということがあった。それは大きく見ると、この20年あまり政府・文科省が進めてきた「個性重視」「興味関心」の自由主義教育改革の大破産として論議になった。今年に入ると、テストによる個人競争をもう一段徹底しようという流れがあらわれているように見える。教育現場にあらわれている実情から出しあって論議したい。
 A 今年は全国一斉学力テストが東北大震災で中止になったが、防府市ではその代わりに、去年のテスト問題を市内のすべての小学六年生と中学3年生に配って学力調査をやり、学校で採点をした。来年の学力テストは、国語と算数だけでなく、社会や理科もやるという話も出ている。また山口県教委が学力テストの問題集としてつくっている山口学力支援プログラムのテストを、昨年から小学校三年生以上に各学期末にやらせ、その結果をウェブサイトに入力しなさいと押しつけている。全県的にそういう動きになっている。
 現場の教師のなかでは、「今ごろの教育委員会は自慢のしあいっこで、競争ばかりしている。現場の教師のケツを叩くことしかしない」と怒りがわき起こっている。また学力向上プランを立てさせるが、それは国語でいえば「90%以上の子どもが漢字テストに合格する」などの数値目標だ。それに対し「なぜ100%にしないのか」と学校で話題になったのだが「数値目標では100%というのは求めない。書いてはいけないと上からいわれている」という。教師としては100%の子どもができるように力をつけさせたいと思っているが、数値目標による「学力向上」という流れはそうではなく、最初からできる者とできない者を分けていく。そのために教師を駆り立てることに怒りがある。
 一方で新学習指導要領の本格実施で今年から算数、理科の教科書が厚くなり、学期末でも教科書が終わらない。教科書に載っている問題も、学習を定着させる問題にもう一つ難しい要素を加えた問題を載せており、「それをやったら子どもは余計混乱して、それまでの勉強までわからなくなる」という仕組みになっている。それで賢い子はどんどんできるが、頑張らないといけない子は混乱していると話になる。

 テスト拒否する学年も 「子供の為にならぬ」

 B 宇部市でも、学力支援プログラムの期末テストを、小学3年生以上は全部やれとなっている。昨年の2学期末に突然市教委から「テストをやってすぐに入力しろ」といってきた。直後に市の教育委員会に対し「子どもに何の力がつくのか。撤回しろ」と申し入れをし、かなりの数の教師がテストを拒否した。ある学校では一学年の全クラスの教師がテストを拒否したので、市教委が焦って「とにかく一クラスでもいいから出してくれ」といってきた。現場では、学期末の忙しいときに「だれのためにテストをやるのか。子どものためにならない」という空気になっている。
 宇部市では今の教育長のもとで、3年前から「学び合い」の研修を取り入れている。今年4月の家庭訪問の時期に東大教授を呼んで講演させたが、すべて中身のない形式だけ。例えば教室の机の配置をコの字型にし、男女2人ずつ4人1組の班をつくって話し合いをさせれば、居場所ができ不登校もなくなるという。現場では実情にあわないと非難ごうごうだ。また山陽小野田市が陰山英男の「陰山メソッド」をとり入れたが、点数で競争させた結果、破産して小学校がめちゃくちゃになっている。教育長は自分の実績のために突っ走っているが、現場の教師は全然冷ややかだ。そんな予算があるならボロボロになっている学校の施設のために予算を出すべきだと怒りが出ている。
 C 北九州市では全学校の全学年が国語と算数のCRTテストをやっている。それで全国平均と比較するのだが、北九州はいつも全国平均より下だ。今年、これまでと違うと思ったのは、市内七つの区があって区ごとに主任会があるが、今年は「学力向上」のために一つの学校に北九州市の主任全員が集められて公開授業をしている。
 また授業時数は増えていないのに、算数と理科で教える内容がとくに増えている。算数は中学校から下りてきているのでとくに難しい。分数の問題でも帯分数×帯分数が3つ入り、約分が苦手な子どもたちにとってものすごいプレッシャーだ。理科では天体も入ってきて、授業をどんどん進めないと終わらない。どんどん勉強を詰め込み、子どもたちにとってはわからないまま進んでいく。1日2時間算数をしたり、朝の自習の時間に復習させたりしないと、できない子がたくさん出てしまう状況だ。
  新指導要領は08年から先行実施でやられてきたが、今年からの本格実施で、教師への抑圧や子ども間の格差がグッと強まっている。同僚の教師たちは、テストをしてみて「できない子がこんなにいて、どうしたらいいだろうか」「問題をやればやるほど差がつく」「はるかに違いが出てくる」と子どものことを心配している。でもできない子にしっかり教える時間もなく、カリキュラムに沿って授業を進めることに追われている。
  小学1年生の算数の教科書を見て驚いた。数を数えるのに時間をかけず、足し算、引き算を勉強する前に数字の合成と分解の勉強が入っている。「7=1と6」という内容を1年生がやる。かなり高度なものだ。その一方で教科書にキャラクターが多く出てきて、「絵を見てお話をつくりなさい」とあり、足し算と関係ないお話をつくることに時間がとられて、肝心の足し算や引き算の練習ができない。宿題もできない子はしないし、共働きの親はそれを見てやれる余裕もなく、ここでも差がつく。
 ある教師が「1年生の担任は初めてで、国語ではまず50音をきちんと教えようと思ってやっていたら、1学期はほとんどそれで終わりになりそうで、説明文とか物語文とかが残っている」という。時間数は1年生も毎日が5時間授業になっているが、それ以上に教科書を教える時間が足りない。
  長門市では、市内の全校が「希望する」という形で、9月に小学6年生と中学3年生がテストをおこなうという連絡があった。話し合いは一切なかった。学力向上プログラムについては、3、4年が市教委のテストをし、5年生が県教委のつくった来年度のテストに向けてのテストをしている。5、6年生の学級便りに「さぁ、いよいよ期末テストの時期です」と書いてあり、まるで中学校のようだ。そして「国語で80%以上理解できた人数を書いて出せ」という数値評価が去年から始まった。
 1年生を担任しているが、学期末にあたふたして教科書が終わらない。しかしそれ以上に教科書自体が問題だ。1年生でいったいどんな力をつけるのか、教師が本腰を入れて考えないといけない。1年生ではなにを習得させておかないといけないかを決めて、教科書のなかの順番を変えるとか捨てるとかしなければ、本当に大事なものがなくなってしまう。昨年度の荒れた中学校の問題で「九九ができない」というのがあったが、それどころではなく足し算や引き算ができない子どもが生まれてくるのではないかと心配している。
 
 「学力向上」の内実 テスト上手増やすだけで子に力つかず

 司会
 「学力向上」というが、それで子どもの学力が上がるのだろうか。
 F 「学力向上」は、去年まではコソコソという感じだったが、今年に入って大きな顔していわれ始めた。しかし同僚の教師たちの冷ややかな態度を見ても、現場ではそれで子どもに力がつくものだとは思っていない。
 E テストに触れさせてテストに慣れさせる、そのために学力支援プログラムを使って練習させて学力テストの点数を上げようというものだ。本当の学力をつけるものではない。テスト上手は増えていくが、わからない子はテストもしたがらないのが実際だ。
  テストを受ける技術を向上させるものだ。うちの学校では去年の6年生は学力テストがよかったらしいが、テストまでの1カ月間、6年の勉強はやらずテストの練習問題ばかりをやった。
  他方で授業時間が足りない分、国語と算数だけは終わらせないとという意識を持つ教師は多く、「明日の図工の時間は国語よ」「体育の時間は算数しようね」と、そのしわ寄せが体育や芸術科目にいく傾向がある。図工と音楽は週1・5時間で、図工では1学期で絵が1枚仕上がるかどうかというのが現状だ。
 D 小学校低学年で丁寧に絵を描いてきていないので、中学年でなにか描かせようとしてもすごく抵抗があって描けない。人の体がきちんと描けないし、1年生のような絵を描く子がたくさんいる。デッサン力、また物を観察する力がついていない。美術や音楽がおろそかになり、情操面から成長させることが弱い。子どもたちは求めているが、それに応えられないもどかしさがある。
 F 教師の側も、国語や算数ももちろん大事だが、体育も、図工や音楽も子どもにとって大事であり、知・徳・体の全面で子どもを成長させたいという思いは強い。
 編集部 教科書に追われているという話だが、教科書に大きな欠陥があるということではないか。教科書をつくっている官僚や学者のレベルが低いということではないか。今度の原発事故の対応を見ても、東大の原子力学者がいかにいい加減な連中かがはっきりした。教科書の監修で“東大○○教授”と書いてあるが、それが子どもの理解の法則性、段階性などまるでわかっていない低レベルなのではないか。
 B 修学旅行に行くときに、被爆者の体験を学んだ子どもたちに被爆者の人へ手紙を書かせた。子どもたちは真実にふれたときすごい力を出す。漢字も一生懸命調べて、きれいな色を塗って、被爆者の人にお礼や挨拶を書く。発表のときも大きな声で発表する。
 そこで教科書に戻ったとき、国語では「討論をしましょう」といって「動物園の動物は幸せか幸せでないか」という内容のディベートが載っている。模範解答では「檻の中に入れられてストレスがたまるから幸せではない」という側と「食料を確保されるから幸せ」という側とで討論させようとする。この内容を六年生が真面目にとりくもうとはならない。教師集団のなかで「こんな死んだ知識ではダメだ。修学旅行で学んだ生きた知識、真実に向かったときに子どもは成長するんだ」と話になり、教科書のこの部分は飛ばすことになった。そういう教師集団の意識が必要だ。
 教科書に決められた通りにやっていたら、時間は足りんわ、子どもらは混乱するわ、バカになるわで、本当にろくな教科書ではない。子どもにどんな力をつけさせるのかという観点をはっきりさせ、こちらが研究してそれに対置するものをうち立てていく必要がある。

 どんな力をつけさすか 重要な教師の立場

  かなりの教師がそう思っている。「○月から○月までに何をやりましょう」などとカリキュラムにがんじがらめになっている。昔は一つの物語で字を教え、言葉のつながりを教え、登場人物の気持ちを読み取らせて何時間という感じだったが、今は本当に小間切れになっている。教科書会社に振り回されていたらダメだ。
  私たち年配者は、教科書問題というのは本気でとりくんできた。社会科教科書の記述がどうかというのももちろんあったが、算数や国語の教科書についても、教師としてなにを子どもに教えないといけないのか、子どもの生活から見てどんな力をつけてやらなければならないかというところから教科書批判をずっとやってきた。子どもや勤労父母の生活から離れ、教師が教科書に振り回されていたらいけない。この間の教育改革によって、教師がそれに縛りつけられたという気がしてならない。やはり教師として子どもに責任を持ち、真実を教えるんだという立場があれば、教科書のカリキュラムに惑わされることはない。
 編集部 教科書自体が子どもたちの生活実感から離れ、生活の役に立つ、社会の役に立つということが教科書の基調としてないということではないか。現場で教育をやっている者からなにも集中せずに教科書がつくれるわけがない。子どもの現状と発展段階、認識の法則性があるのに、それを考慮に入れずに頭の中でクルクル回して教育ができるかということではないか。
 小学校では算数だったら足し算、引き算、かけ算、わり算ができるようになればよい。それを徹底的に教えれば親は満足する。国語でも「あいうえお」と漢字の基本的なことが覚えられるのが基本だろう。その目標に到達するように教師がやるんだと問題が立てば、ボロな教科書に縛られることはない。
 H 最近、30代になった教え子にあったとき、小学校の頃は本当に低学力の子だったが、社会に出て塗装業をやり始めると「いろんな人に教えてもらったら不思議と頭に入る」といっている。労働の実際と結びついてすごく力をつけている。
  教師がだんだん学校の小さな枠内に閉じ込められている。それが支配者側の一つの攻撃としてあると思う。教育を壮大な観点でとらえていかなくてはいけない。

 震災後激変する子供達 親の意識を反映

 編集部 今度の大震災で子どもたちを含めた認識の変化がある。自然と人間との関係について、自然界の法則に規制されて人間がおり、人間はその法則を握って自然を改造し社会を発展させてきた。子どもたちの姿勢が変わったといわれるなかには、やっぱり自然があり、社会があって自分たちがいる、自分たちの好き放題ではだめなんだというような実感があるのではないか。また東北の復興の現実のなかに、人間の生活はみんなが協力しあって成り立つんだというのを見ている。この間の新自由主義ではそこが転倒して、すべて自分の好き勝手、もうけ第1で突っ走ってきたが、今「世のため人のため」「社会のため」という世論の転換が起こっている。
 D 子どもたちの意識が3月11日をへて激変していると実感する。ほとんどの子どもが津波の流れていく映像を鮮明に覚えていて「大変なことが起きた」と書いている。親の生活も震災とも密接に関係して、仕事がないとか、逆にとても忙しくなったという話もあった。最近も節電で日産工場にも大きな変化があった。この親の意識と子どもたちが一緒だ。田植えの見学も、また原爆の写真を見るときも、昨年と比べて子どもたちの真剣さの度合いが違う。そして今からどう生きていくのかを真剣に考えている。震災後、日本はどうなっていくのか、親も家で話しているだろうし、日日の生活がそこと密接につながっている。社会を本当の意味で変えていく力をつけていくことが大事だと思う。
  親や地域の思いがすごく強くなっているのを感じる。クラスの母親が阪神大震災の被災者で、日曜参観日で話してもらった。その母親は「みんなで助けあってあの大震災を乗り切った。今回の東日本大震災もみんなで助けあえば絶対に乗り越えられる。そういう力を持った子どもたちに育ってほしい」ということ、また短期間でビルや橋を再建した日本の技術のすばらしさを受け継ぐ人間に育ってほしいという思いを語られた。他の親たちも感想文を寄せ、強く共感していた。デタラメな日本社会を立て直すし、その力を持った子どもを育てていくことへの親たちの強い期待を感じた。そこと結びついた学力をつけさせたいという要求だと思う。
  去年の「鉄棒実践」が全校に広がっている。今毎朝運動場のあちこちで5年生が130人、6年生が120人、昼休みは3年と4年が鉄棒をとりあい、逆上がりを練習している。教師のなかで話されているのは、子どもが革命的にイデオロギーを変えていったということだ。自分だけができたらいいのではなく、みんなが応援しあう。引っ込み思案で陰で文句をいって教室から出なかった子が、今では逆上がり練習機でくるくる回るようになった。そこから授業中に発言し始める、自信を持って修学旅行でも挨拶する。また昼夜逆転して授業中に寝ていた子が、今では起きて自分の意見をいえ始めた。その子が友だちが成功したらわがことのように喜ぶ。朝から身体を動かすというのは脳の活性化になるし、腐敗した風潮をうち倒していっている。学校全体がそういう雰囲気になって親も大歓迎だ。
 子どもたちは鉄棒ができたらその力は他の力に転化する。教科書で細切れの知識を詰め込むよりは、体育重視で知育も徳育も育てた方が賢くなるというのは自分たちの確信だ。教師集団がそこで一致すれば、学校全体を変える力になる。逆上がりがまだできない子もくじけていないし、みんなが「頑張れ」と応援している。困難なことをどう乗り越えるか、被爆者や東北地方の人の強さと共通したものがある。それは働く親たちの強さだし、そういう資質が子どもたちのなかに育っているのではないかと思う。
  教え子でもある教師が、「最近、子どもや親のなかで、思いやりとか助け合いとか、物を大切にするという考え方が勝ち始めた」という。以前は「俺のために」が勝っていたのに、と。
 編集部 自分が損か得かではなく、みんなが助けあって自然に働きかけて生産労働をし、それで社会を支えるという基本原理が蘇っていると思う。子どもたちのなかにも点数でバラバラの競争を強いられているが、そうではなくみんなが助けあって生きていくんだ、それが人間本来の姿じゃないかという実感が、口でいわなくてもあるのではないか。競争原理というのは資本主義の一時期の話であって、昔から人間社会の基本は、協力しあって物を生産する関係だった。この内容が今の教科書ではズタズタになって、子どもの頭に入らないのは当たり前だ。
 教師の側がこの社会をどうするかという時代意識を持たなければ教育は見えないという問題があるのではないか。60年安保斗争後日教組の路線で、平和とか独立とか全人民的な政治要求のために教師がどうたたかうかをなくし、また子どもをどう育てるかを抜きにして,教師の待遇を第一に問題にするというような改良主義、組合主義がはびこった。ケインズ主義への拝きだ。そのケインズ主義が破産して資本の強欲な本性丸出しの新自由主義になったら、体制内で改良を求める路線はすっかり敗北した。この間の自由主義の教育改革は新自由主義路線の具体化だが、そうなると日教組は「文部省のパートナー」を宣言した。
 この20年、30年吹き荒れた新自由主義が破産し、自由主義教育改革が破産している。そのなかで対置した鮮明な教育理念が求められている。勤労父母のなかにあるより発展した社会をつくる力を代表する教育理念が求められていると思う。
 F 今ハッと気がついたのだが、今年の1年生は助け合うということがスムーズにできる。これまでのように自分勝手な子が山ほどいたのと違っている。4月から、どうしてだろうかと思いながらきていた。友だちが物を落としたら何人もが拾いにいく。自分のことよりみんなのことを考え、助け合ってやっていくのが大事ということが、小さい1年生のなかにも育っているんだなと思う。子どもは親の姿や言動で考え方を変えている。そうしたなかで1学期間、教科書の枠内できゅうきゅうとしてきた自分に冷や汗が出る。
 C 親も、自分の子どもだけでなく他の子どもも叱っている。地域の歴史や戦争体験を聞く活動をしていきたいねと話していたら、親たちが3、4人集まってすぐ行動する。3年生の習字の時間に、母親が山のように新聞紙を持ってくる。親同士が結びついて子どもの教育を一緒にやっていくという空気がある。
 F 授業で段ボールが必要だといったら電気屋のお父さんがトラック一杯の段ボールを持ってきた。親たちの子どもの教育に対する姿勢にも驚くような現象が出ている。
  
 教育の様相一変へ 学校の枠にこもれば見えず 社会発展の側で

  今の教科書がいかにボロか、これでは子どもは育たないということを、大きいところからはっきりさせたら、「ワッ」と教師たちも力がわいてくると思う。「あっ、そうか」と。
  学力テストでも、結果の数値を比べて、県教委や市教委が校長を呼び出して締め上げるということがやられている。一面ではファッショ的だが、勤労父母の力に確信を持って父母とともにこう教育するんだという姿勢がはっきりしていたら、恐いものはない。今度、校区で原爆展をやる。これまでは呼びかけ人・賛同人が20人ぐらいだったが、親が本気になってPTA関係者全員にあたり、教師も含めて75人が賛同人に名を連ねた。親たちのパワーが炸裂している。
  「鉄棒実践」を通じて、教科書云々の論議よりも子どもをどう育てるかという論議が圧倒している。教師集団が同じ観点で臨み、みんなで子どもの成長を喜び合うし、情熱を持っている。6年生は今、教科が遅れているのだが関係ない。それ以上のものを培っているという自信があるからびくともしない。親との結びつきも強まった。
  ある同僚は「独りよがりはいけない」といっていたが、本当にそうだ。毎朝子どもたちにねぎらいの言葉をいうが、「俺は自分のクラスができたからって全然うれしくない。6年全体ができないと。“6年組”だ」と。個人競争をやめて、みんなが助け合ってできるようになろうというイデオロギーが勝利している。
 編集部 実際に世の中の勤労人民は生産原理で協同して労働し、生活している。その生産活動をやるために自然に対する態度、科学的な理解も必要となる。そこを取っ払った競争主義や「興味・関心」だけで突っ走れば破産するしかない。文科省が今進めているテストの点数第一の競争主義徹底では、もっと深刻な学校崩壊は避けられないのではないか。
 教科書だけに縛られたり、学校の枠内にこもったら教育は見えるわけがない。子どもたちは勤労人民の子どもであり、社会の子だ。社会の矛盾を鋭く反映しながら生きているのだから、教師が勤労父母とともにこの社会をよりよい社会にどうするかという立場に立たなければ教育が見えるわけがないと思う。対米従属下の資本主義には展望が見えないが、生産を担う親たちの労働と生活のなかに新しい社会をつくる力があるんだという立場に立ったら、子どもたちの持つ本来のパワーが発揚されるのではないか。教育運動の典型ができていけば一気に影響を広げて、日本の教育の様相を変えていけると思う。
 司会 今日はこのへんで。


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