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勤労父母の願う当たり前の教育
教師魂呼び覚ます上宇部実践の質
                未来建設する側で子供発動      2012年12月10日付

 日本の社会を立て直すのは教育からである。戦後教育が「個性重視」「鍛えてはいけない」という新自由主義教育改革をへて、学校が見るも無惨な崩壊をしているなかで、それを突き破って、逆上がり学年全員達成を通じて子どもたちを成長させる宇部市上宇部小の教師集団が切り開いた体育実践が、めざましい勢いで各地に波及している。「教育から世の中を立て直そう」をテーマに8月に下関市で開催された人民教育全国集会で、鉄棒逆上がりと7分間持久飛び全員達成をやりとげた上宇部実践が生き生きと報告されて感動を呼んだが、2学期になってこの実践が、各地で教師魂を奮い立たせ、大きな運動になってきている。本紙は山口県内と北九州市の人民教育同盟の教師たちに集まってもらい、この間の実践の発展を出しあってもらうとともに、この教育が持つ生命力について理論化し、今後の方向性を導き出す論議をおこなった。
 
 各地へ波及し子供達が変化

 司会 まず、8月の教育集会以降の教育実践の発展について出しあってほしい。
  北九州市の小学校1年生を担任している。8月の教育集会では、2人の同僚の教師に上宇部鉄棒実践の劇に登場してもらい、上宇部実践への感動をさらに深めた。そのなかで子ども同士の励まし合いや、教師の最後まであきらめない姿に学んで、1学期から同学年でとりくんできた鉄棒実践を2学期からもっと発展させようと話になった。
 11月8日の上宇部小の教師との交流会では、私たちが「全員達成」の意味をとらえ違いしていたことに気付いた。逆上がりができたかどうかが目的となっていて、できた子の数を追い求めクラスごとに人数をいいあって、「先生のクラスは残りあと○人になっていいね」とか、逆に「うちのクラスはあと○人よ」と自慢したりして、みんなで落ちこんでいる状況があった。それが交流会の集団論議を通じて、次の一歩を見つけて元気が出た。
 教師が子どもの見方を変え、学校の側からでなく子どもの側から見ることで、逆上がりにしても他の場面でも子どもの小さな変化を見逃さず、そこを励まして次へ次へと進めていくことを学んだ。それを翌日に実践すると、逆上がりが1度に3人できた。
  私は教育集会の劇に参加して、上宇部小で実践されたことを味わいながら役をしたが、自分たちがやってきた実践はまだまだ違うとあらためて感じた。先生方が学年で一丸となって実践された力のすごさに、頭をガーンとなぐられたような感じだった。声かけ一つでも私たちが思っていた以上に熱い。それに気付いて、学校に戻ってから同学年の3人の教師が一致して声かけをすることを毎日くり返すなかで、教師と子ども、子ども同士が結びついていき、そこから子どもたちも鉄棒に向かっていく姿勢がちょっとずつ変わってきたかなと思った。
 2学期になって「人権学習」でなにを教材にするか悩んだが、今やっている鉄棒のとりくみを教材で使えばいいんじゃないか、鉄棒での応援の仕方を振り返ろうと、担任3人で意気投合した。するとこれまでの道徳の時間と違い、その1時間は子どももとても生き生きして、最後の終わり方もとても温かい雰囲気で終わった。「自分は絶対できないと思っていたけど、みんなに応援してもらって変わった」とか、これまで口を開かなかった子が「実は僕はこんなのが苦手なんよね」と本音で話した。
 これまでの道徳の時間の「やさしくしようね」と違って、みんなが体験しているので言葉に深みがあるし、みんなが納得する。最後に「心を一つにしていこう」という言葉が出て板書したとき、いつも応援に来ないで叱った子が「その言葉は消さないで」といった。
 これまで平和教育だ、算数の勉強だ、道徳だ、体育だとそれぞれを個別にそのときそのときでやるんじゃなくて、鉄棒をやったことですべてのことが一つに結びついた。自分自身もそうだし子どももそうで、納得してみんなが一つの方向に向かって進み出した。
 しかし学校全体を見ると、こうした教師集団のつながりや子どもとのつながりはまだほんの一部のことであり、自分たちが経験している喜びを学校全体に広げていきたい。鉄棒の実践をとりくんで、今年人生が変わった。上宇部の先生たちとは、学校は違い場所も違うけれども、子どもを思う気持ちはどこにいてもつながる仲間として、これからも実践を共有していきたい。
 
 被爆者に学び成長 同僚の見方も変わる

 C 萩市で小学校1年生を教えている。鉄棒実践に学んで6月の中頃から、学年全体で登り棒と雲ていと逆上がりの全員達成をめざして実践を始めた。
 体育実践は日日感動がある。毎日できる子がいて、子どもを抱きしめ子どもと一緒に喜ぶ。そのことに教師たちはみんな喜んでいる。この実践を通して、子どもと一緒になって頑張れるということが同僚の教師たちの教師魂を沸き立たせている。みんな本当に子どもに愛情があるんだなとつくづく感じている。
 一方教師は、「全員できるようにさせたい」と強く思っているが、いくらやってもできない子や、はじめから諦めて遊んでいる子、なかなか鉄棒に寄ってこないという子どもがいる。それをどうにかしたいと悩んでいる時期に、萩市で上宇部実践に学ぶ交流会を開くことができた。
 そして北九州の交流会と同じように、教師が「できない」ことばかりに目が向いていてはだめで、足が1a上がったなどという子どもの努力、成長を見て励まし、声かけをすることが大事だと論議され、それが参加した教師にすごく響いた。翌日、子どもへの声かけを変えたら2人が逆上がりができた。教師が変われば子どもも変わる。
 もう一つは、体育実践を通じて、社会に出てから1人前に働けるように育てるという内容に非常に響いた先生がいて、「自分も常常思ってきたけど、そんなことを考えるのは自分1人だと思っていた。萩と宇部で同じ志を持つ者として頑張りましょう」という感想を寄せている。勤労人民の資質を身につけさせ、本当に社会に出て役に立つ人間にしたいという気持ちを持って子どもに当たっている教師が多いことに気付かされた。
 職場の同僚を見る目も、子どもを見る目と同じで、もっと発展的に、同僚がどんな努力をし、どのように前へ進もうとしているのか、しっかり見ないといけないと思っている。
  教育集会の劇を見たときに、上宇部実践がズシーンと心の中に入ってきた。とくに被爆者の方が語られる姿に、教師も子どもたちも涙して聞いていた。鉄棒実践もすばらしいが、子どもたちを育てていく土台になるものがここにある、これをやっていかないといけない、とあのとき実感した。
 教育集会が終わって、まずは被爆体験を聞くことからとりくんだ。それが子どもを育てる土台だということを確信したことで、すんなりとりくめた。学校で話を出すと、「それはいいことだ」ということですぐにやろうとなった。6年担任の教師は「被爆体験を聞いた年の子どもと聞かなかった年の子どもは育ちが違ったのよ。今年はそれができなかったので、6年も参加したい」といわれ、大変大きな示唆をもらった。それがまた確信になってとりくんでいった。
 学校で被爆体験を聞いた日は、被爆者の人の姿に体が震えるような感動の1日だった。目の前で本当に子どもの側に立った教育を、被爆者の方がして下さった。子どもと被爆者の方が出会った瞬間、あっという間に心の距離が近づくのが目に見えてわかった。子どもたちが「この被爆者のおじいさんは自分たちを信じてくれている」ということをあっというまに信じられるし、被爆者の方も子どものことを信じて本当のことを話される。その姿に被爆体験を聞くということがこんなに大切なことだったんだとあらためて感じた。
 そして子どもたちがその翌日から変わり、トイレのスリッパを女子も男子もまっすぐにそろえるようになった。それまではできなくてあたりまえという見方で「この子たちはこういうことができないんだ」と見ていたが、それは間違いだった。給食を食べることも、「昼休みに10人ぐらい残っていてもしょうがない」と思っていたが、その週は「えーっ、みんなそろってごちそうさま?」と本当にびっくりした。授業に臨む姿勢も真剣になって、本当に子どもを変えていく力が戦争体験者や被爆者の方のなかにある、学校の枠の中では育たないというのがこういうことなんだとわかった。
 
 父母も地域も支持 全国に広がる確信

 E
 北九州の小学校で、1学期から逆上がりをとりくんできた。節目は教育集会の劇、それと北九州の交流会だった。どんな子どもを育てていくのか、どうして鉄棒をみんなでやっていくのか。足を垂直にあげてそれ以上いかない子に対して、教師の側が「なんでここまできてできんのか」と叱咤する。それが交流会で、まちがっている、目的と手段を取り違えていると指摘され、ハッと気づいた。
 同時に日頃の子どもたちに対してはどうだったか、子どもの生活をよく知るよう努力していたのかと反省した。生活面はどうか、学習面はどうか、友だちとの関係はどうか。日頃職員室でどんな会話をしているのか、子どもの成長についての会話をしているのか振り返ると、「あそこの親はどうだ」と文句をいうだけで終わっていた。家庭訪問などしてひと月学校に来なかった子どもを来させるようにするとか、あの子はああいう環境だから仕方がないというところを乗り越えて実際に子どもを変える。鉄棒実践はそういうことにつながってくる。
 交流会に参加して、学校の教師が普遍的に抱えている問題が見えてきて、上宇部小の実践は全国に広がっていくという確信が持てた。
  教育集会の前、「鉄棒逆上がり全員達成」のパンフを作成するとき、福田正義没10周年記念集会のなかで、福田路線を教育に貫けばかならず大きな勝利を確信できるというところから製本化に進んでいったと思う。
 実践パンフの普及のなかで、人民教育観を正された。人民教育とはみんなが望んでいる教育であり、「難しい屁理屈をいうのが人民教育」というものとは全然違う。子ども不在をうち破り、教師が自分の側から、つまり学校の枠内から子どもを見るのではなく、子どもの側から見ていく大事さが明確になった。
 実践パンフの反応として、子どもたちが自分の弱さやしんどさ、矛盾と葛藤を乗り越えて最後まで頑張っていく姿、また鉄棒ができるようになったら勉強にも意欲が出、生活も変化するというように、いろんな面に転化していく子どもの姿に、親が大変感動して支持している。
 そして教師集団が結束して一途に子どものために奮斗していくことへの反響が非常に強かった。教師も親も地域も、圧倒的な支持のなかでパンフが広がった。
 その観点から教育集会で劇化していった。劇のはじめに広島の被爆者に登場してもらったのは、子どもを育てる根っこがそこにあったからだ。今の学校の枠内、教科書のなかだけで子どもはけっして育たない。本質的に子どもの成長を願うのであれば、この腐った世の中を変える勤労人民の後継ぎを育てることであり、そのためには学校の枠を飛び出して、広い社会的視野のなかで教育していかなければならない。そこに平和の会、平和教室の重要性があり、その路線で学校のなかで実践していくことが重要だった。
 3回の交流会をやってみて、若い教師のなかに砂に水がしみ込むように上宇部実践の教訓が入っていくし、次の日からそこを実践している。それと経験のある年配の教師が情熱をかき立てられ、教師魂をとり戻している。交流会に来た先生が確信をもって、その人たちが核になってまた広げていく。今後、ものすごく大きな広がりをみせていくのではないか。

 勤労父母代表する教育 子供の精神を解放

 編集部 みなさんの意見への感想として思うことは、あたりまえのことをやったということだ。これまで「普通」と思っていたことが当たり前でなく、こっちが普通だ。被爆者や戦争体験者が子どもに体験を語って聞かせるのと同じ土俵の教育になってきた。そうすればスッと入るし、子どもたちはそれを願っている。「普通」であると思っていた学校が、子どもたちから見たら抑圧物になっているし、子どもの精神の解放を抑えつけるものになっている。そうではなくて、勤労父母のモラルでいけば子どもの本質面を発動できる。
 社会に役立つ勤労人民の子どもになるんだ、そのためにどうしないといけないか。今や成績がよくなればいいという価値観は通用しなくなっており、大多数の親のなかでは、友だちがたくさんできた方がいいとか、みんなと仲良く団結してやれた方がいい、少少たたいてでもいいからそんな人間に育ててほしいという人民的な要求が強まっている。そこを代表していけば発展する。子どもたちの実際が、支配階級の子どもはおらず、みんな勤労者の子どもだ。成績がよくて競争にうち勝ってエリートになる、そういう現実的基盤のない子たちばかりだ。そこに差別選別のエリート教育を持ち込んでも通用しない。
 汗水流して働く勤労人民が、日本社会の一番の中心を担っているし、社会を発展させる原動力だという立場に、教師が確固として立つことだ。創造性を持ってできないことをできるようになるとか、そういう働く者の資質の方がうんと立派だし、すばらしいんだということが子どもたちの確信になったら、子どもは解放されると思う。やっとあたりまえの教育が始まったという感じだ。だからこの教育運動は大いに広がる。
  だから喜ばれるし、みんなが安心して参加する。そのようにやってみようと踏み出している。
 編集部 特別な理念を教えこむわけではない。現実に即して、そのなかの発展的なものを激励していくし、発展を押しとどめる影響を取り払って成長させていく。現実に即していこうという子どもたちの、その親たちは勤労父母だ。将来は子どもたちも勤労者になる。

 破綻した文科省教育 人間の成長を否定 知・徳・体を分離 

   そこへ進むときに、教師たちの頭を縛りつけているものがある。子ども観についても、子どもは本当に力を持っているし、そこを励ましていく立場に立つか、それとも点数で子どもを見ていくのか。鉄棒の全員達成も、「何%できたか」と数値で見ていく価値観が邪魔をする。そこが論議のなかで転換できたら、教師たちは確信を持って次にいける。本当は子どもは励まし合っていきたいのに、教師がそこにあまり気がつかない。「応援しようや」とひと声かけたら、子どもたちは知恵を働かせて相互に喜び合えるようになっていく。難しいことではない。今まで見えないようにさせられて、縛り付けられていたものを取っ払うことが、教師にとっても喜びになる。
 萩の交流会で年配の教師が「新学力観で“楽しい体育”を勉強し、体育で鍛えることをしなかった。だから勝った喜びや達成した喜びを知らずに十数年過ごしてきた。それはニセ物だった。本物を若い先生たちに教えたい。自分は教えられないから、この交流会に声をかけて学んでほしい」という。
  文科省の新学力観の体育をすればするほど、体育の指導がダメになるといわれていた。だからこのパンフが大事だと若い教師たちに進めている姿が印象的だった。パンフに付箋をつけて、赤線もいっぱい引っ張っていた。
 G ネックになっているのは、上宇部のような実践を自分もやりたいが、しかし算数があるから国語があるからと、問題がはっきりしない。体育実践で突破したところは、教科の勉強も本気でできるようになるという確信があるが、そこにいかない前の逡巡がある。
 編集部 人間の成長観ではないか。サルから人間に成長するのに、どのような過程をたどったのか。「楽しい体育」というのは「好きなようにやりなさい」といって、人間の成長を否定する。「個性重視」とか「自由保育」がそうだ。人間の成長を否定したら子どもたちは大矛盾をきたす。成長したがっているのが子どもだし、できないことをできるようになりたいと思うのが子どもだ。今まで経験したことないことを経験したいという思いは、子どもほど強い。
 そしてその成長は、知・徳・体が一体でないとできないというのは教育論ではっきりした話だ。頭だけよくて体育も徳育もダメということにはならない。身体を動かすから頭が動く。自然に働きかけて有用な物をつくる生産活動が、人間の脳を発達させた。
  「楽しい体育」は、勝っても喜ばないし、負けても悔しがらない。反省することがない。次にどう勝つかという作戦会議が成り立たないという。
 若い教師から「競争させるというのはどうなのか」という質問が出るが、「大いにやらせた方がいい」と答えると安心して、さっきの年配の教師が今までの教育について発言する。鉄棒でも、できた子はより高い目標に挑戦させると子どもは喜ぶ。
 
 教育力も格段の差 子供同士で教えあい親も協力 人間関係密に

 編集部 
教育力からしても、教師が教えるだけではなくて、子ども同士が教えるから「先生」が多い。教える内容も、教師がいうのとは訳が違う。
  1年生でも「腕を曲げて」とか「足はこれぐらいで」などと教え合っている。教え方がうまい。逆上がりだけでなく、算数でも教え合っている。工作をするのも、手順とかを教え合ったのでスムーズだった。子ども同士で教え合う力はすごい。教師以上のものがある。
 編集部 昔、地域でも縦系列の集団ができており、ガキ大将がいて下の子に教えていた。こういうことをしたら怒られるとか。今はバラバラだが、クラスに集団ができ、それに縦系列ができればものすごい力を発揮するのではないか。また、親も子どもを一生懸命に教えたし、「先生」ばかりになった。一大教育運動になっていった。
  逆上がりでも、親が子どもを公園に連れて行って練習させたりしている。うちのクラスのある子は、骨折したが学校に練習に来た。「だってお母さんがやっていいっていった」という。親もそれぐらいやりなさいとなっている。いちいち小さなケガを子どもが気にしなくなった。たくましくなった。
 編集部 今は過酷な世の中だ。その逆境に負けない子を育てたい、人民的な強さを持った子どもになってほしいというのが親の要求だ。鍛えないと話にならないと思っている。そういう親の要求と合致してきた。
 F 「全員達成というが、最後に残った子がかわいそう」という意見がある。しかしこの間の実践のなかで生まれる子ども集団は、できない子をバカにするような集団ではない。勤労父母の子弟としての子どもが本来持っている資質はそうではない。最後に残った子に対して教師が「頑張っている。ヒーローだ」と励まし、その子の頑張りに励まされて他の子も、鉄棒だけでなく算数を頑張ったりする。特徴的だったのは、最後の最後で逆上がりを達成したA子が、七分間持久跳びが跳べたとき、今度は最後までできない子のところへ教えに行った。子どもの本質は、できない子を絶対に放っておかない。そういう集団をつくっていけば、いじめも解消されていくし人間関係が非常に密になっていく。
  討議をした翌日から、とくに若い教師はすぐに行動を始める。何かが取っ払われたら開ける。「とにかくやってみることですね」という結論になる。実践第一だ。
  北九州で、「人権学習」で鉄棒実践を題材にしたと聞いたが、今までの上からおりてきた道徳ではなくて、今子どもたちがとりくんでいる実践をとりあげ、徳育の教材として教えていったことに感心した。子どもが本当の姿を見せるもの、目を輝かせるものをどんどん持ちこんでいく。子どもが社会に出て役立つものを本当の教科書として持ち込んでいく、そういう教育をしていかないといけない。
 編集部 「人権」の意味合いが全然違う。実際に鉄棒をやってつかんでいる徳育がある。鉄棒実践は体育実践だが、道徳実践だ。「みんなのために」という人民のモラルを教える教育であり、そこを導きにした体育実践だ。それと文科省が下ろしてくるいわゆる「子どもの人権」の意味合いはまったく対立している。「勝ち負けを争ってはいけない」といって、社会と切り離された個人の人権を主張する。それは人権を振りかざして他人を攻撃するという性質で、他人の人権はどうでもいいというものだ。しかし鉄棒実践で培われたモラルは、そうした「人権」と対極にある。こっちの方が本当の意味の人権だと思う。
 スポーツでも勝ってやろうというのがあるから、負けたとき悔しい。それなしにスポーツにならない。強い者は弱い者のおかげで強くなれるのであって、弱い者は強い者とやることによって強くなれるという相互関係だ。もし負けたら、自分の実力のないのを自覚して次に頑張る。また勝っても、調子に乗っていたら次にやられる。

 集団のために力発揮 人民的な厳しさの中で育つ子供 働く親の資質

 G それと数値評価というのが、教師にとってプレッシャーが大きい。教師の成績も数値評価によって攻め立てられる。だから全員達成というのが、「あと何人」と成績を競うものに追い込まれてしまう。
 編集部 原理的にいえば、数値評価は、質の多様性を否定して交換価値に還元し、商品の価値に換算してしまう。数値というのは同じ質を前提にし、単一の質になる。しかし世の中にはもうけにならないけれど、多様な質というものがある。それで人人の関係が成り立っている。物づくりもすべて具体的な労働であり、質の多様性だ。それぞれに専門性があって熟練性もあり、プライドもある。質が違うから社会的に有用なものができる。
 だから数値評価というのはバカみたいだ。なぜ、数値にできないものを数値化しようとするのか。できるわけがないという話だ。それでいけば被爆者の話など、一文の価値にもならないということになる。しかし重要な体験であり、それを学ばないと人人の気持ちとか人情の機微は理解できない。質の多様性を否定したら教育にならない。実際に運動会を削り、学芸会を削り、遠足を削り、美術や音楽を削り、テストの数値だけ追いかけて、そして九九も漢字もできない低学力になってきた。そして、社会に役立とうという意欲性が数値もよくしていくと思う。
  子どもたちが力を出すのは、自分のことよりも集団の利益のためがはっきりしたときだ。学年の集団のために頑張ろうとする。その資質は持っている。働く親の資質だと思う。
 A 小学1年生のなかでも「1、2、3組で力をあわせて」とか「1、2組さんに教えてもらう」など最近あたりまえのように書く。あんな小さい子どもたちが学年集団を意識するというのは相当な発展だ。
  三つの交流会をして感じたのだが、人民的な基準としての厳しさが必要だなと思う。集団の規律を乱したりしたら厳しく叱る。そこを開けて通してはいけないというのがはっきりしたら前に出られる。人民生活のなかには規律がある。
 編集部 重要なのは人民性と指導性だ。「個性重視」で日教組が文科省のパートナーになっていくところに、インチキな民主主義観がある。「子どものいうとおりにしなさい。それが民主主義だ」と。それは迎合でしかない。子どもの要求だけれども、その本質的なもの発展的なものを激励し発揚するのであって、さぼったりなまけたりする成長を妨げる要素とはたたかう。そこに指導がある。指導しないというのを「民主主義」と考え迎合になるのが、教組の活動家あたりでは支配的ではないか。
 F 応援団の練習に遅れて来た子に対して「やめてしまえ!」と叱った。若い教師はオロオロしている。しかし次の日からちゃんと来たら、みんながそこを認めてやる。そこを乗り越えて達成感がある。
  上宇部小の教師がいっていたが、それぞれの教師が教育観を持っており、それは人生観をともなってある。それが子どもの教育をめぐって、学年の4人の教師同士の教育観がぶつかって学び合う、そして研ぎ澄まされていく。そこが、教師が個人主義に追いやられるのを断ち切って集団でやっていくうえで安心してやれる保障だと。「子どもたちのために」というのがあればそれができる。子どもたちにとって何が正しく、なにが良いかで一致すれば、試行錯誤はあっても意見の相違は解決する。
 F 交流会に参加した若い教師が「1人では解決しなかったけど、集団でやると乗り越えられた」という。女性教師は「1+1=2ではない。相乗効果がある」といっていた。
 編集部 子どももバラバラ、教師もバラバラというのが文科省の政策できている。障害としては大きいし、教師の抑圧感の根拠がここにある。ところが集団でやることが一番強い。「3人寄ればもんじゅの知恵」というが、意識して核になっていく者が必要だ。
 
 被爆者に学ぶ授業 輝きが違う子ども達

 A 
被爆者の方を呼んで平和集会をおこなった。同学年の教師たちが手伝ってくれて実現した。それが全校に波及して他の学年の教師からもさまざまな援助をしてもらったし、子どもたちが変化してリードしていった。
 子どもの感想もすごくて、「僕たちの使命は世界中に平和という文字を飾ることです」「今僕たちが過ごせるのは戦争をあのとき感じて立ち上がり、あきらめずにやった被爆者の方たちのおかげです」と書いている。校内放送で「12月8日は開戦記念日です」というと、子どもが「明日から戦争が始まるの?」と聞いてきた。子どもにとってはいつ戦争が始まってもおかしくないと思っており、それがゆえに使命感を感じる切実さがある。被爆者の方の話が昔のことではなくて、僕たちが今止めなければならないと思っている。だから子どもたちの輝きが違う。
 荒れているといわれる学年の教師も、被爆者の力、本物が持つ力が大事といわれ、「また呼べませんか」といってこられた。子どもにも集会に真剣な態度で臨むように指導されており、子どもたちが染み込むように聞いたというのは、その環境作りを教師たちがしていたということだ。しかし私ははじめ「被爆者を呼んで授業をするのは難しい」と考えていた。
 他のことでも、良心の証として意見はいうが、「授業を変えるのは無理」で「実現せずともよし」と、結局のところできない方がいいという立場だった。それを同僚の教師たちは、子どもにとっていいからと、あたりまえのこととして主張し、教師集団が結束して変えていった。
 編集部 「自分は社会から外れた特殊なことをしているんだ」という感覚、そのズレだ。日教組の活動家がそうで社会の片隅から管理職に文句ばっかりいう。組合主義というのは敵側だ。自分の利益のために子どもの教育を犠牲にする。しかし上宇部実践の教訓を見ると、集団が発展することで自分も目が開け、展望も見えてくる。だから集団を大事にする。
 子どもたちがおり、父母がいるなかで、子どもを理解し、親の生活を理解し、その教育要求を聞いてそれを代表して実現していくという立場に立つなら、孤立するわけがない。それに、今体験を語っている原爆展運動で参加してきた被爆者の人たちは、被団協なんかとは違い、地位とかお金に関係なく「子どものため」「平和のため」でやっており、市民的な基盤が強い。
 広島でも長崎でも全広島・長崎を代表しているという姿勢が強い人たちで、教育的な問題意識もかなり持った人たちだ。今それと同じ質の教育運動が始まってきたということだし、このあたりまえの質が広がったら全国を席巻できることは疑いない。
 F 教師が、子どもの抑圧物としての敵の学校の立場に立つのか、人民の側の立場に立つのか。支配する側もあれだけの施設と教員を雇うために金を使って、それだけ目的をもってやっている。そして働く親たちとは異質な学校の有り様が子どもらにとってたまらない場所にしているが、その子どもたちは勤労人民の子弟であり、人民的なモラルを学びたいという要求もある。そこで教師がどっちに立つかということだ。自分の食べる生活と地位を守るため、上によく見られるため、要するに個人主義では通用しない。そういう抑圧をとり除きつつ、子どものためで意識的に進んでいったらすごい運動になると思う。
 編集部 教育同盟が被害者同盟を脱して、未来を建設する側に立ったことは大きかったと思う。いかに被害者かを自慢して、その原因は文科省の教育路線にあるんだと説明して終わり。「だから私の教育実践ができないのは文科省のせいである。みなさんわかりましたか?」という調子だ。それは滅亡していく側だ。
 人民が歴史を創造する主人公であり、文化・芸術も教育も、人民のなかに未来を創造するすばらしい力を見出し、それを形にするという立場がないと成り立たない。教育はまさに未来に向かって成長する子どもが目の前にいるんだから。汚濁にまみれた社会のなかで、未来に向けてどのように成長させるかという、社会進歩の立場に立つことが決定的だ。
 東日本大震災が起こっても、岩手県の漁師たちも負けてない。協同で船を買ってバリバリ生産を復興させるし、たくましい。福島県の農民も、あきらめずに除染して、今年は安全な桃を胸を張って出荷している。豊北とか上関もそうだが、働く人たちはみんなそういう感覚だ。東京といって威張っているけれど、田舎がつぶれたら東京がつぶれる、と。
  宮崎の農家も口蹄疫に負けていない。頑張って牛が日本一になった! といって、子どもたちが喜んで作文をどっと寄せている。
 編集部 人民がいて支配階級がいる。支配階級は人民からの支持をなくしたら権力を維持できない。憲法を変えて戦争をやると安倍がいうが、人民を動員できなければ戦争などできない。それが教育改革とかバカをいうから、現場はだれもついていかない。いつの時代も大衆が一番強い。人民のいるところではどこでもかならず人民を団結させ、勝利していくというのが福田路線だ。
 F 今かけ算九九を子どもたちととりくんでいる。子ども同士が教え合い、親も本気になっている。そこで鉄棒実践でつくった集団主義が力になる。これまで全然できない子が頑張れば平均点が上がるし、今度は学力で1位にもなりうる。
 司会 きょうはこのへんで。


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