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期待高まる第7回長崎原爆展
長崎市内で原爆展キャラバン
             被爆地復興の経験伝える   2011年6月24日付

 原爆展全国キャラバン隊は、26日から長崎西洋館で始まる第7回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる広島の会)に先駆けて長崎市内で街頭パネル展示をおこなっている。22日に中央橋、23日には住吉中央公園でおこなわれた展示には、原爆展を成功させる長崎の会(吉山昭子会長)の被爆者たちも駆けつけ、炎天下のなかで市民にチラシを配ったり、若い人たちに体験を語るなど精力的に活動に加わった。参観者からは、東日本大震災、原発事故まできて、被爆や戦争の体験を無視してきた戦後政治が完全に破綻していること、320万人もの犠牲を出した第2次大戦の経験に立ち返って日本社会を立て直す意見が多く寄せられた。
 
 協力申し出る大学生の姿も

 中央橋では、年配者やサラリーマン、飲食業者、商店主、母親、旅行者など幅広い市民が展示に足を止め、なかには「毎年見ている」「今年も西洋館に行こうと思っていた」と親しげに声をかけていく人や、「学校でチラシをもらっている」「絶対に見に行く」という子どもや母親など原爆と戦争展への期待を込めて強い共感が寄せられた。
 また、福島原発をめぐる広島・長崎市民の声を紹介した「広島・長崎の放射能の経験」パネルや、「福島が復興できないわけがない」と題して、広島と長崎の被爆後の焼け跡でイモや野菜を育ててきた復興の経験を紹介するパネルが注目を集め、「被爆国でありながら日本中に原発をつくってきたこと自体が戦後政治が招いた人災だ」「危ないばかりいっていて復興になるわけがない。原爆の廃虚の中から復興してきた長崎や広島の経験を伝え、全国が一つになれば必ず復興できる」という思いが世代を問わず寄せられた。
 当時7歳だったという女性は、爆心地からすぐの西浦上小学校で被爆し、夜勤明けの姉は西浦上町の家で寝ているときに直爆を受け体中にガラスが刺さって数日後に亡くなったことを語り「ここに書いてある通り、福島は絶対に復興できる。長崎で被爆した母も、実家の焼け跡の庭にキュウリや野菜を植えて、味噌をつけて食べて生きてきた。そうするしか生きるすべがなかった。戦後最大の国難といわれるが、自分たちの物資難、食料難の経験からすると比較にならない。被爆地の歴史を全国に伝え、社会にとって必要なものはなんなのか、真剣に考える機会にしなければいけない」と語った。
 サラリーマンの男性は、被爆地の復興パネルを見ながら「この通りだ」と語り出し、「原爆の被害は原発の比ではない。たくさんの市民が殺されながらも、広島や長崎の市民がどのようにして街を復興させてきたのかという経験こそ、今伝えなければいけない。はじめから政府はあてにならず、現地の人たちが力をあわせていくしか解決の方法はない。大騒ぎをするマスコミの報道に疑問を感じていた。原爆でも長崎市民が全滅したわけではなく、それをこえる力が市民のなかにあったから復興できた。日本全体を勇気づけるためにもこの展示を各地でやってほしい」と強い共感の意をあらわした。
 飲食店を経営する男性は、みずからも被爆者であることを明かし、「戦後の日本は、国の独立を投げ捨ててアメリカのいいなりになってこれだけの大不況になっている。昔から起きていたはずの自然災害にもまともに対応できない国になっている。飲食業界も廃業が相次いでいるが、根本的には雇用問題、働く人の低収入問題が解決しなければ絶対に景気は回復しない。だが、政府にその責任感がないし、一部の大手企業だけがもうかる仕組みを“改革”と叫んでやっている。このままでは10年先はもっと悲惨な時代がくると思うし、必ずあちこちで暴動が起こる時代になる。諦めて自暴自棄になるのではなく、国民一人一人が国のことを考え、行動に移さなければだめだ」と語り、賛同協力者に加わった。
 第2次大戦パネルに足を止めた九一歳の男性は、陸軍兵としてシンガポールやサイゴン、中国などを転戦した経験を語り、「現地の兵隊にはミッドウェー海戦の敗北は知らされなかったので、現地民が私たちの顔を見てニヤニヤしていたのが不思議だった。すでに空母四隻をはじめ、日本の主力軍は壊滅していたのに、大本営は真実を隠蔽して多くの国民を死に追いやった。教育で中国に対する蔑視を植え付けて戦争に突っ込んだが、戦争をやってみてその愚かさが身にしみている。今の政治がまた当時と同じようになってきたと感じる。絶対に戦争をやってはいけない」と語り、原爆展に訪れることを約束した。

 被爆体験語り共に行動 長崎の会の被爆者も

 商店街の入り口にあたる住吉中央公園では、年配者や学生、買い物客らが熱心に参観。長崎の会の被爆者たちもチラシ配布をやりながら、若い人にはみずからの体験を語り、年配者には「ぜひ会場に来て体験を語って欲しい」と呼びかけた。展示を見た女子学生が協力者に加わるなど、若い世代の強い行動意欲も見られた。
 20歳のときに被爆した女性は、長与町から毎日電車で通っていた築町の貯金支局で被爆した経験を語り、「戦後は髪がすべて抜け落ちたり、甲状腺の病気など原爆症で何十年間と苦しめられてきたが、今こうして生きているうちに再び原発事故が起こり、私たちの二の舞いにならなければと心配もある。だが、もっとひどい状況下から立て直してきた被爆地長崎の歴史を伝えることは重要なことだ。ぜひ西洋館でも参観したい」と話した。
 60代の男性は、「足が悪かった父は、終戦まぎわに兵隊に駆り出され、陸上では使えないので人間魚雷・回天に乗れという命令を受けたと聞いている。武器も食料もなく戦争を続けられる状態ではなかったし、戦力の差を見ても負けることは明らかだった。だが昭和天皇は戦争責任をとるどころか責任をなすりつけ、自分は平和主義者の態度をとっていた。こんな卑怯者は日本人としての恥だと思う。戦後60年以上がたって戦争を知らない世代が増えたが、これを風化させたらもっと悲惨な結果を招くことになる」と強く語った。
 佐世保市出身の男性は、「戦後社会も東日本大震災の事態まできて、国民をわざと殺した戦争当時と重なって見える。ただ原爆や戦争の悲惨さだけではなく、あの戦争はだれがなんの目的をもってやったのかはっきりさせないといけない。今回の災害でも、昔から地震や津波の多い東北地域に原発を建てて“安全だ”といってきたことが、戦争政治の延長だ。政党政治は私利私欲で完全に国民からかけ離れているし、自分たちもただ現状を批判するだけではどうしようもないと感じている。日本を立て直す実力のある人間をどう育てていくのか真剣に考えなければいけない時期に来ている」と話した。
 展示を見て「自分も協力したい」と名乗り出た佐世保市出身の女子大学生は、「被爆した祖父から体験談を聞いてきたが、長崎に来てもっと学びたいと思っていた」と話し、会期中もスタッフとして参加することを約束して、ポスターやチラシを持ち帰った。
 終日宣伝に参加した長崎の会の婦人被爆者は、「戦争体験者や、家族を特攻隊で亡くした遺族の人たちとも涙を流して語り合い、本当に有意義だった。子どもたちや母親世代も以前にも増して真剣になっていると感じた。原爆展に向けて私たちもがんばりたい」と感想を語っていた。


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