トップページへ戻る

子供の商品あつかいに拍車
山口県教委が学力テスト
            公立教育も企業的競争  2005年10月11日付

 人間扱いしない教育の市場原理 教師の社員化も
 今日の教育の荒廃を打開して、子どもたちが知育・体育・徳育の全面でいきいきと成長してほしいというのは、すべての親や教師にとって切実な願いである。ところが近年の「学校への市場原理導入」をとなえた「教育改革」は、教育をズタズタに破壊している。このようななかで山口県教育委員会は、今年11月21日から25日にかけて、小学校5年生(国、社、算、理)と中学校2年生(国、社、数、理、英)の全員を対象にした学力テストを実施すると発表した。これを全県いっせいにおこない、そしてその結果を県教委のホームページ上で学校名と平均点をふくめて公表するといっている。文科省は2007年度に全国いっせい学力テストを実施するとしているが、それに先立って実施するものである。この学力テストは生徒をランクづけするものだが、それだけではなく、来年度から実施予定の教員評価制度、また学校評価制度と連動している。小泉内閣がすすめる「教育改革」による教育破壊を強力に押しすすめるテコとならざるをえない。

 差別選別で荒れは促進
 保育園児と小学生、中学生の3人の子どもを持つ下関市の母親Aさんは、学校5日制になったあたりから、学校が公立でなくなったようになり、教育に大きな不安を持っていると憤りを語った。休みがふえ、教科書の中身が薄くなる一方で、授業のすすむペースが早くて中学校一年の娘がついていけず、学期末にはびっくりするような成績をもらって帰る。それも通知票の評価は、提出物を出したかどうかまで点数化される一方で、「思いやり」など人間的な成長は評価されない。聞いてみると、近所の進学塾では毎日学校の授業の予習をやっており、塾に行っている子と行っていない子との学力差は歴然としたものになるのだという。
 校区の親のなかでは「塾に行かせないと、中学校にかようだけでは高校に入れない」と話されるが、しかし月謝が3万〜4万円かかるところもあり、家計の事情がそれを許さない。「それが娘のストレスになっているようだ。小学校3年のときから少人数指導でできないクラスだった。いまでは“どうせ自分はバカだから”“うちが貧乏だから”とあきらめが出ている」。子どもたちの芽を、早いうちに摘んでしまうのである。しかもその塾は「○○高校進学○○人」などの数値を子どもを集めるキャッチフレーズにしており、成績の悪い子は塾をやめさせられたり、行きたがらなくなる。「塾の集客のために、子どもがモノあつかいされている」という親の批判は強い。
 毎月の校納金や給食費などの負担感も大きいが、それに加えて部活に入るとまた金がかかる。Aさんの娘は中学に入って、望んで吹奏楽部に入ったが、楽器は個人で購入するように(市の教育予算切り捨てのため)といい渡され、クラリネット代11万円をどうしようかと悩んでいる。「貧乏人は部活に出るなということだろうか。いまの世の中、弱肉強食になって、金持ちが勝ち、貧乏人はバカにされているような感じがする。せめて義務教育の段階では、お金で子どもの差をつけないようにしてほしい」と訴えている。
 Aさんだけでなく、最近の学校が自分たちがかよっていたころとくらべて様変わりになったというのは、親も教師も語るところである。子どもの学習評価基準が「絶対評価」となり、「提出物を提出したら○点」「忘れ物をしなかったら○点」というように学校生活が数値化されて評価されるようになり、それが進学のときの内申書として子どもの運命を左右するようになった。また、荒れた子どもを、学級集団のなかで育てていくのではなく、すぐにLD(学習障害)やADHD(多動性症候群)などの病気にしてしまい、クラスから切り離して薬漬けにすることがはじまった。子どもたちと授業だけでしかかかわれないパート教師(非常勤講師)がふやされ、北九州市では小学校の英会話の授業に、教員免許も教育理念も持たないアルバイトの金稼ぎのような外国人を派遣会社が派遣している。
  最近、下関市内の高校で「これからの時代、親のニーズをいかに満たすか、顧客満足度をいかに高めるかだ」と論議され、研修の場で「教師は授業に専念し、生徒指導はカウンセラーや警察、警備会社にまかせ、金属探知器で持ち物検査などをしてもらう」と提起されたことが物議をかもした。「教員の資質向上」ということが、予備校の講師のような受験知識を覚えさせるテクニックと、子どもたちをひきつける演技力をつけるという意味で宣伝され、生徒指導は子どもたちと全学校生活でかかわる教師でなく、カウンセラーやスクール・ガードなどの民間人にまかせるという方向は、小・中学校でもすすめられている。
 昨年9月に就任した中山文科相は、「もっと教育にも競争原理を入れるべきだ」とのべたが、公立学校に市場原理を導入することは、学校を株式会社のようにし、学校ごとの競争にかりたてるというものである。子どもにとっても教師にとっても学校はおもしろくないところとなり、子どもが荒れるのはもっとひどくなるのも当然である。そして学力テストは、このような小泉内閣がすすめる教育改革を、いっそう強力に押しすすめるためのテコになっている。

 入学ゼロの学校も 深刻な東京や広島の例 
 「市場原理の導入」をかかげた学区の自由化・学校自由選択制と、学力定着度調査(学力テスト)、外部評価制度を全国ではじめて小学校で導入したのは、東京都の品川区教育委員会であり、2000年のことであった。それは臨時教育審議会(臨教審)の第3次答申(1987年)の「通学区域制度の見直し」を受けたものであり、その後各地の小・中学校で導入がはじまった。2003年4月に実施した学力テスト(区立中学校18校の1年生全員を対象に国語と数学でおこなった)からは、父母や教師の反対を無視して、中学校ごとの平均点と、卒業した小学校別の成績を、学校名をふくめて区教委のホームページで公開し競争をあおった。
 それが広がった結果どうなったか。各学校は「特色ある学校」づくりに奔走し、学校評価を上げるために学力テストの成績向上対策に追いまくられるようになった。学校のランクづけがすすみ、ランクの上位の学校に子どもが集中し、下位ランクの学校に子どもが行かなくなった。長年築いてきた学校と地域とのつながりは破壊された。品川区につづいて学校自由選択制を導入した文京区の区立第7中学校は、昨年度の入学者はゼロになった。生徒数に応じて教員もへらされるので、その結果子どもに目が届かなくなり、悪循環になると語られている。
 品川区の若月教育長は「これからの時代は、すぐれた教育実践者ではなく、まったく新しい経営的能力開発が必要」「投下した資本にたいしてどれだけ利潤があがったかと見るように、投下した時間にたいして子どもの学びはどうかと見ていく」と発言したが、教育と子どもを商品とみなしてあつかい、人間とはみなさないわけである。
 広島県の中学校でも、ここ数年、2年生を対象に全学校で学力テスト(国、数、英と生活実態調査)が実施されるようになった。そして、各学校のホームページに、県の平均点と自分の学校の平均点、その課題ととりくみを掲示しなければならなくなった。同時に学校自由選択制が広島市内からはじまり、周辺に広がっている。
 教師の研修の場では「どうやって生き残るか」「学校をいかに売りこむか」が語られ、「これまで経済的に裕福な家庭は私立中学に子どもを進学させていた。その競争が公立にまで入ってきている。学校評価で“安心してかよえる学校”とは、比較的裕福で子どもの成績がよい地域だ。家庭崩壊からくる子ども間の実生活の差、学力差がひどいなか、“あいつさえいなければ……”となりかねない状況だ」「自己申告制の教員評価が導入されたが、それは数値に出るもので示せといわれている。つまり“クラスの仲間同士が仲よくする”というのはダメで、“平均点を○点上げる”“家庭学習時間を平均○分上げる”などがよいとされ、それが今後は査定にひびき教員のボーナスの差となる。教員のなかで、おたがいにたいして“能力のある人、ない人”という見方が強くなり、子どもの教育のために力をあわせることができなくなる」などと、子どもも教師も競争させられバラバラにされていくことへの不安が語られている。
 こうしたなかで広島市内では、テストの点数を上げることのみに教師がかりたてられた結果、部活の顧問を外部のコーチに頼んだり、文化祭や運動会の毎年実施をやめて隔年実施にするという状況が生まれている。

 人間的基準を破壊 教育の機会均等もつぶす
 「学力テスト」といっても、その差は「親の経済力の差だ」と学校現場では語られている。もっといえば「塾に行く子が多い学校がよい点をとり、行かない子が多い学校が悪い点をとる」。
 この10年余りの教育改革によって、小学校段階からの少人数指導、習熟度別(能力別)学級編成がすすめられ、家庭の経済力の差によって塾に行ける子と行けない子の差ができ、学校内で子ども間の格差がはなはだしくなった。それに加えて学力テストがはじまれば、全市・全県的な子どものランクづけ、教員のランクづけ、学校そのものの差別・選別、ランクづけがやられることになる。
 平等であるべき公立の小・中学校を、まるで企業間競争のようにするというものである。「郵政民営化」といっているが、公立学校の民営化、企業への払い下げなどもやりかねない。教育の機会均等を破壊し、いわば習熟度別(能力別)学校化をすすめるということである。学力テストと学校自由選択制を先行してすすめたイギリスでは、平均点の高い学校の校区には裕福な家庭がぞくぞく引っ越し、平均点の低い学校の校区は貧乏人だけというような、地域そのものの崩壊がすすんでいる。
 そうした学校の運営基準は点数だけである。勤労父母が望む「やさしさや思いやりの心を持つ」「困難に負けない」「まわりに流されるのでなく、判断力や創造力を身につける」など、子どもたちを人間的人民的に成長させるという基準を破壊する。
 市場原理主義の教育への導入、学校の株式会社化は、教育そのものの破壊である。それは教師を「株式会社××小学校の社員」とし、子どもの精神生活や家庭環境を知悉(しつ)して子どもの全生活に愛情を持ってかかわるという教師をなくそうというものである。
 そしてそこでつくる人間は、小泉やホリエモンのような、自分の損得が第一で、他人がいかに苦しもうが平気というような、ひとにぎりの冷酷なエリートと、できるだけ論理的科学的な思考力を欠いた独占資本にとって便利な「働く商品」であり、アメリカの戦争のためにかりたてられる安上がりの兵隊をつくろうとしていることは明らかである。
 このようにことは、小泉政府が、国の将来がかかる教育という社会的に重大な責任も能力もなくしたということにほかならない。子どもを立派に教育するということは、親のつとめであるばかりでなく民族のつとめであり、だからその最低の教育課程は義務となっている。教育は機会均等でなければならないし、義務教育費は無償とするという原則が憲法にも定められている。この責任をはたさない政府は政府と呼べないし、日本社会を滅ぼす道をすすんでいるとしかいえない。

 注目すべき山口教組の行動
 山口教職員組合(谷村芳宏委員長)が、「学力テスト反対」の声を上げていることは注目すべき行動である。この教育の重大情勢で教師がどういう役割をはたすかがきわめて重要だからである。山口県でも60年代に「学テ」斗争が果敢にたたかわれたが勝利しなかった経験がある。日教組はかつて「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンでたたかった。しかし60年代になると、子どもをどのように教育するかが第一義でなく、教師の待遇や権利を第一義とする潮流が強まった。そして90年代に入ると現在の文科省の「教育改革」にたいしては「パートナー」を宣言し、アメリカ型のインチキな「自由、民主、人権」の旗ふり役にもなってきた。
 教育の問題は国の進路とかかわる重大問題である。独立、民主、平和、繁栄の日本の担い手になるという勤労父母の側に立って、売国、反動、戦争、貧困への道に身を挺して反対する立場に立つことなしに、子どもたちの信頼をえ、教育することはできない。

トップページへ戻る