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子供ら戦場に送った軍国教育
下関市民の痛恨の経験
               「お国の為」で幼心を洗脳    2014年3月17日付

 現在、集団的自衛権の行使や秘密保護法の制定など新たな戦時国家体制づくりに対して人人の危惧(ぐ)と批判、怒りが広がっている。戦争準備というとき戦争体験者にとって、かつて国民を戦争に動員していくのに教育が決定的な役割を果たし、「天皇のため」「お国のため」という皇国史観教育で純真な子どもたちが戦争の肉弾にされていった痛苦の経験を忘れ去ることはできない。「気がついたら、いつの間にか戦争になっていった」といわれるが、時の為政者は国民が気づかぬように平時から戦争にかり出せる人間づくりを進めていたことが強調されている。あのとき学校でどのような教育がおこなわれ、子どもたちは何を思い、どのように戦争に動員されていったのか。下関の戦争体験者に聞いた。
 
 重なる安倍晋三の教育改革

 旧制中学卒業後、昭和16年10月に14歳で海軍甲種飛行予科練に志願し、テニアン島で米軍の襲撃を受け一年間ジャングルの中を逃げ惑って生還した90歳の男性は、「あの戦争でわれわれ甲飛予科練の同期18、19歳の若者たち九割が亡くなった。今思えば小学校1年生のころから理由もわからず奉安殿に最敬礼させられ、旧制中学では配属将校の指導で軍事訓練が強制されていた。当時は不思議に思いながらも、子どもたちが知らず知らずのうちに戦争のための教育の型にはめられていった。その結果、同期の若者たちが食料も燃料も武器もないなかで、命を落としていく悲惨で非道な結果につながった。そして今もまた、型にはめた教育がおこなわれているように感じて、心配でならない。戦争の実体を後世に残していかないといけない」と痛恨の思いを語る。
 昭和初期に小学校に入ったとき、学校内にある小さな社の前で必ずおじぎをするように先生からいわれた。何の社なのかもわからず、ただ「偉い人が祀ってあるので帽子をぬいでおじぎをしなさい」と先生にいわれていた。あとになってそれが天皇を祀った奉安殿であることを知ったという。

 校内闊歩する配属将校

 小学校から豊浦中学(現在の豊浦高校)に入学すると、学校に銃器庫があるのに驚いた。当時、学校では週に何時間か「教練」があり、配属将校の指導で鉄砲の撃ち方や長府前田の付近で実弾の練習をしたり行軍の訓練をさせられた。また一人一冊の「軍人勅諭」が配られ、日本帝国軍人の心得を叩き込まれた。
 「勉強するために学校に来ているのに、話が違うじゃないか」と内心反発しながら、校長よりも権力を持った配属将校に反抗できる空気ではなかった。「学校の中を軍服を着て日本刀と短剣を腰にさした配属将校が歩き回っていた。校長よりも威張っていた」という。
 1941(昭和16)年、日米戦争が始まり「教練」は匍匐(ほふく)練習、銃剣術のほか、銃に着剣して人を刺すときはえぐるように刺すこと、人間を刺した後は身が固まり剣が抜けなくなるので、刺した相手を蹴って抜くことなど「人の殺し方」を訓練する内容となった。学生たちは「いつ戦場に行っても役立つようにと心身ともに鍛えられ、学校に通学するときも、足にはゲートルを巻き兵舎に通うような服装で毎日登校」し、旧制中学は軍人養成学校と化していた。
 またあるとき教師から「陸軍に行くか、海軍に行くか」と問いただされ、「陸軍で中国に行ってものたれ死にだ。海軍に行っても死ぬだろうなあ」と冗談まじりに話していたが、体が弱く答えられない生徒に対して「お前は非国民だ」とののしる様子に反感を覚えたという。
 明治期の日清、日露戦争をへて「神国日本の現人神たる天皇の下に、世界に冠たる祖国の民として、最もすぐれた祖国に生を受けたはずの私たちは朝鮮、台湾の領有は当然」であるという「皇国史観」教育が進められ、大正、昭和にかけて一段と強められた。それは、アジア諸国を欧米の植民地から解放し、天皇の威光を押し広げて「大東亜共栄圏」を建設するという大義名分の下で青少年を有無をいわさず肉弾にかり出すものとなった。
 学校の敷地内に天皇を祀った奉安殿が設置され、子どもも教師も最敬礼が義務づけられた。また『教育勅語』を徹底的に丸暗記させ、旧制中学では授業で「軍事教練」がもうけられたのが特徴だった。子どもたちにとって、『教育勅語』は漢文まじりのむつかしいものであったが、要するに日本は「万世一系」の天皇の国であり、親孝行や友だちと仲良くして、有事には天皇のために身を捧げるようにすることが国と子孫のためになるのだというものであった。
 大正生まれの別の男性は、小学校の全校朝礼と始業式、終業式、また紀元節(2月11日)、天長節(天皇誕生日)、明治節(明治天皇誕生日)、元日などの祝祭日には必ず奉安殿の前で儀式がおこなわれ、校長が『教育勅語』を読みあげていたことを覚えている。「個人や家族よりも天皇陛下やお国を大事にしなさい」という内容が徹底的に子どもに植え付けられた。そのころ「ハナ ハト マメ」などと平和な装いの小学校一年生の国語教科書が新しく変わり、「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」という記述が登場し、「歴史」の時間には神武神話から始まる歴代120人余りの天皇の名前を覚えるようにさせられていた。
 旧制中学の5年生で終戦を迎えた八八歳の男性は、「小学校でも中学校でも、“お国のため、天皇のためだ”といわれてきたが、その結果天皇や一部の者が始めた戦争の犠牲になったのは国民だった。10歳ぐらいになると軍隊に入ることが誉れのようにいわれ、中学校で成績がよくて体格のよい生徒は、予科練や少年航空兵に志願していた。それほど洗脳していた。安倍晋三は集団的自衛権の行使を強行にすすめている。まるで独裁者・ヒトラーだ。あのような空気が充満することは危険だ」と語る。

 叩き込まれた教育勅語

 一方、家が貧乏で旧制中学校に進学できなかった子どもたちは高等小学校に通い、働きながら夜間に青年学校に通った者も多かった。青年学校といっても目的は「生徒に軍事的基礎訓練を施し、至誠陣中の精神を培養し、もって国防能力の増進に資するにあり」というもので兵隊を養成する学校だった。働きながら週に2、3回は昼から通い軍事教練がおこなわれていた。
 昭和2年生まれの元漁師の80代男性は、青年学校に3年通い、光の海軍工廠への徴用を経て海軍に志願し入隊した。「天皇制で天皇が現人神だと幼いときから信じ込まされてきた。天皇はわれわれと何一つ変わらない人間だ。それでも意味のない教育勅語を暗記させられ信じ込まされてきた。この天皇制というのが一番おかしい。戦争は天皇がやれといったからやったのに、戦争が終われば何事もなかったようにのうのうと生きている。最大の責任者ではないか。今の安倍総理は勢いのいいことばかりいって実際の力がなにもない。戦時中の若い将校にそっくりだ」と、実感をこめて新たな戦争の気配を危惧している。
 日米開戦が勃発した1941(昭和16)年末から、「真珠湾攻撃の成功」やシンガポール陥落のニュースがラジオや新聞号外で知らされ、街中が沸き立っていた。しかし年を追うごとに戦況が悪くなり「ぜいたくは敵だ」「兵隊さんが遠い異国でお国のために頑張っているのだから」と戦意が煽られ、学校でも戦時教育が色濃くなっていった。
 戦時下で学校生活を送った体験者は共通して「勉強などほとんどした覚えがない」「毎日防空壕を掘ったり、運動場の畑で芋を植えることばかりしていた」「空襲からずっと逃げ惑っていた」など、明日の命がわからない極限状態の日日を鮮明に記憶し、語っている。学校でまともな教育はやられなかった。それでも、子どもたちが物怖じすることなく人殺しができるように小学校でも竹やり訓練がやられた。
 小学3年生で終戦を迎えた70代の女性は、2年生のころは算数や国語などを勉強したが、いつの間にか運動場での芋作りや防空壕を掘る勤労奉仕の時間にかわっていったという。音楽の時間には予科練の歌をオルガン伴奏に合わせて歌い、ときには全校児童が講堂に集まって日本兵が果敢にたたかう「戦争映画」も見せられた。授業で慰問袋をつくったこともあった。またある冬の寒い日には「天皇陛下のため、お国のために兵隊さんが一生懸命頑張っているのだから」と、全員が素足で運動場に出され、雪の上を行進させられたこともあった。凍えて痛い足をひきずって家に帰ると、母親がお湯を沸かして温めてくれた。
 別の小学校では終戦2年前から運動会がなくなった。学校では週に何回かの防空演習があり、上級生が下級生を連れて避難訓練がくり返され、上級生はバケツリレーの訓練もさせられた。空襲に備えて学校の廊下には水が張られたバケツがいくつも置かれていたことも鮮明に記憶されている。
 そのころ若い男の教師は兵隊にとられて学校からいなくなり、若い女性の代用教員が慣れない指導をおこなった。要塞都市である下関市内の文関小学校や王江小学校では、学校の中を兵隊が竹刀を持って歩き回り、いうことを聞かない子どもを叩いて回っていたことも語られている。
 阿部高女(現・早鞆高校)に入学した女性は一年半は勉強したが、戦況が厳しさを増すなか、働き手を兵隊にとられた王司や小月の農家へ手伝いに行き、麦刈りや稲刈り作業をした。2年生になると神戸製鋼に学徒動員で行くようになった。「14歳、15歳の女学生が3交代で八時間働き、隣と会話をしたら見張っていた兵隊にこづかれ、トイレに行くぐらいしか動けなかった。少しでも油断したら自分が死ぬし、極限の状態だった」。
 防空壕に逃げる練習やアメリカ人を見立てた藁人形をなぎなたで思いきり突く練習もさせられた。女学生は声が小さくて10回ぐらいくり返しさせられ、みな泣いていたという。

 痛切な戦後教育の出発

 体験者たちは共通して、「頭の柔らかい、社会的な判断がつかない子どもが自分でものごとを考える力、科学的な思向や批判力を身につけさせることをせずに、教育勅語の丸暗記や型にはめて従順に従うよう強制させられた」「そのときは戦争だからあたりまえと思ってしていたが、今考えると恐ろしい殺人訓練をさせられた」とふり返る。
 予科練を経験した前述の90歳の男性は、志願するとき父親から反対されたことや、「配属将校によく見られようとする教師もいたが、予科練に志願する生徒に“お前たち大丈夫なのか”と心配する教師もいた」と語る。しかし、「あの時のわけのわからない教育が戦争につながっていった。今もそれは無関係ではない。戦争など関係ないと思っていたら戦争になったのだから。今度はあのとき日本がたたかったアメリカのために、また戦争をしなければならなくなる。戦争の実態をもっと後世に残していかないといけない」と、現在の教育の重要性を切実に訴えた。
 戦後子どもたちが持っていた教科書は使用不能となって没収されたり、墨塗りなどがされた。終戦のとき小学3年生だった男性は、若い女先生が「ごめんね」と涙を流しながら教科書の墨塗りをさせていたことを覚えている。子どもたちに真実だと教えていたことをいとも簡単に覆すことになった。そのような痛切な反省から戦後の教育は始まった。
 16歳で中学校の音楽の代用教員をしていた92歳の婦人は、「戦中、大本営発表を学校に貼りだしていた。お国のため、兵隊さんも頑張っていると子どもたちに教えた。敗戦になって自分が教えていたことがウソだったと責任を感じた」と語り、その経験は戦後教師として「教え子を再び戦場に送るな」という思いで教師人生を歩むことにつながったと語る。
 今の学校教育は当時のような「天皇のため」「お国のため」という装いはとっておらず「平和」を装い、戦争とは関係ないようにやられている。だがそこで、アメリカ型の「自由・民主・人権」の名で称揚されているのは、他人のことよりも自分中心で物事を深く考えなくてもそれも「個性」で良しとするものである。
 多くの人人は、そのような教育が、近年めだってきた通り魔などの凶悪犯罪と合わせて、厳しい現実に負けて自分の思うようにならねば人殺しも辞さない人間を生み出す土壌となっていることを感じている。
 一方で、そうした状況をもっけの幸いにして安倍晋三やその「お友達」の右翼集団が教育改革を叫び、やろうとしていることは教育勅語の世界への引き戻しという、露骨な肉弾作りがあらわれている。戦後の欺瞞を取り払い、今度は「アメリカの戦争のために死んでこい!」といってはばからない。A級戦犯でありながら死をまぬがれ、戦後は占領軍やCIAのエージェントとして日本社会を売り飛ばした岸信介の孫が旗を振るから、戦争体験者たちの思いは強烈なものがある。
 被爆者や戦争体験者は、子どもたちが過酷な体験や「二度とあの戦争をくり返してはいけない」という思いを真剣に聞く姿に深く喜び、子どもたちが社会の腐敗に負けるのではなく立ち向かい、自分中心ではなくみんなのために役立つ人間になりたいという願いを発揚する教育にたくましい平和の担い手の成長を見て、限りない期待を寄せている。安倍教育改革が目指している戦時教育の方向に対して、教育界の全国的な決起が迫られている。



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