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子供を動物化させてきた教育改革
人民教育同盟教師座談会
              戦場の人殺し作る目的    2009年6月10日付

 日本社会がまるで植民地のようになり、未来に向けて発展するのでなく崩壊しつつあると危惧する声が高まっている。そしてその象徴として多くの人が学校教育の崩壊をあげている。戦争体験のある世代ほど、この問題意識は切実だ。本紙は5月、山口県と福岡県の人民教育同盟の教師たちに集まってもらい、今年4月から始まった新学習指導要領の先どり実施、英語教育などの実情と、それが教育の意図的破壊であることについて論議してもらった。今回はそれにひき続いて、今の教育改革といわれるものが開始されて以来の20年余りを振り返ってみて、学校の子どもの教育はどのように変わり、そのなかでどんな子どもが育ってきたのか、これに対置して子どもたちをたくましい日本社会の後継ぎにするためにはどういう教育をめざすべきかについて、大きなところから論議を深めてもらった。

 「新学力観」 叫び現実と切離す
 司会 1984年に中曽根内閣が臨時教育審議会を設置し、その具体化として89年に「興味・関心第1」の新学力観に立った幼稚園から高校までの学習指導要領が告示された。それから20年たつが、この間子どもの教育はどのように変わってきただろうか。
  職員室で今の新指導要領について論議になった。「このたびの改定ほどデタラメなものはない。学力向上、教科内容を増やすといって、上の学年にあったものをそっくりそのまま下の学年におろしただけ。系統性など全然ない。文部官僚の質も低下したものだ」というのが教師たちの怒りだ。
 理科の内容が増やされたが、「理科嫌いはだれがつくったのか。社会、理科をなくして生活科を新設したことで社会嫌い、理科嫌いをつくった」と話になった。小学1、2年生の科学的思考を形成していく大事な時期に、わけのわからない「ごっこ遊び」をやらせたことが1番問題だと。それに加えて、教師が「指導してはいけない「支援だ」といわれ始めておかしくなったと論議されている。50代の婦人教師は「今になって見ると、学校が学校でなくなるし、子どものいろんな問題が起こるのは、すべてあのときが転換点だった」といっている。
  「新学力観」がうち出されたころ、体育では、飛び箱を飛べないものはやらせなくていい、飛び箱を触っていればいいとか、無理やり泳げるようにさせたらいけないというのが出てきた。あの時期の研究会はそういうものばかりで、教師のなかで「おかしい。これで本当に教育になるのか」と話になっていた。年配の教師は「昔の人間だからおかしいと思うのだろうか」といっていた。それが最近になって「やっぱりおかしかった。あれでは教育にはならない。だから子どもたちが好きなことしかやらないし、弱い人間になった」というのが、ここまできて非常にはっきりしている。
  今年、小学2年生を担任しているので、生活科では「街探検」に行ったり、野菜を育てたりする。1、2年生の担任で「生活科というのはなにを教えるのか?」と話になった。トマトを育てると子どもは「苗までトマトの匂いがする」というし、街探検をしても「こんなところにカーブミラーがある」などいろんなことを発見して喜ぶが、「そうだねー」で終わっていいのかと。50代の教師が「そういえば、昔は街探検をしたら絵地図にしていた。それが3年生で地図を勉強し、4年生では県を勉強するというふうに、系統的な学習になっていた」という。そういうものがなくなってきた。
 当時の生活科を思い出すとひまわりは夏は日が当たって暑いから「ひまわりに段ボールをかぶせる」ことが生活科の実践例として奨励されていた。理科なら×だが生活科では○になる。秋には、コスモスが枯れたらPTAもこぞってコスモスを火葬する、というのがあった。1年生にアリを観察させて「みんな行儀よく1列に並びなさい」というのもあった。20年前といえば、今40歳の教師でさえ教師になったときは「生活科」が導入されている。当時は「なにかおかしい」といいながら抵抗もしていたが、長い時間をかけて学校教育は当たり前のことが当たり前でないようにされてきた。そのなかで育った子どもはどれだけの犠牲を受けてきたか。
 日本には「3つ子の魂100まで」という言葉がある。小学校の1、2年といえば「1」の書き方から始まって、大事な学習の基礎を一生懸命勉強する。花は水をやらないと枯れるとか、すべてを経験しながら知恵や知識、技術を身につけていく大事な時期だ。だが、ひまわりに段ボールをかぶせるような、今考えるとバカみたいなことがねじこまれ、それでいくら3年生で理科や社会をやろうが、科学的な真実をつかみとるという根がはっていない。だから当然学力差も開く。昔の2年生は社会科では米づくりをやったり、パン工場や郵便局、スーパーなど多くの職業の働く人を勉強していた。今、低学力が問題になり、人を平気で殺すなど人間が破壊されているなかで、新学力観と生活科の導入という89年の指導要領の問題はすごく大きいと思う。

 凶悪犯罪者に共通 酒鬼薔薇事件など 「生活科」 の世代
  テレビで大きな凶悪事件が起きるたびに、娘が「いつも同い年だ」という。酒鬼薔薇事件のときも、昨年の秋葉原事件のときもそうだった。共通点は「生活科」が始まった世代ということだ。
 生活科は前倒しが2年くらいあり、当時の本当にわけのわからないときに小学1、2年生だった子どもたちは大事な時間を奪われてきている。酒鬼薔薇事件や秋葉原事件は偶然でもなんでもなく、生活科のなかで子どもたちの脳みそが育つどころか破壊されてきた結果だと思う。
 導入時の生活科は本当に異常だった。そのなかで育ってきた子どもがまともに育つはずがない。自分が植えた植物に立看板を立てて、「○○ちゃん」と名前をつけていた。科学でも生物でもなんでもない。まともにものを考える基礎の時期にそれをさせない。あのころ、現場の教師はみんな反対していたし、いわれるようにはやるまいと思っていたが、その後大手を振ってきた。最近では生活科の教科書を無視して、親の仕事調べから始まって、近所の働く人を訪ねていくという生活科をやろうと、同学年の教師のなかで話している。2年生の子どもたちはきちんと考える力を持っている。
  当時、「全教科の生活科化」といわれていた。図画もデッサンがなくなり、物事を客観的に正しく認識する力をつけさせなくなった。子どもの思いつきの、出たとこ勝負の発想がいいと持ち上げられた。また作文を書かせなくなったし、全体的に教育活動が様変わりとなった。あの改革が「個性重視」「競争原理」で教育の大転換をはかっていった時期だと思う。すべてを擬人化して、自然や社会と切り離れた観念的な教育をさせられた。
  授業研究を見たときに「ザリガニと遊ぼう」というのがあってびっくりしたことがある。はじめにザリガニにエサをさんざんやって、「釣りをやろう」というが食いつくわけがなく、それで次は「ザリガニになって遊ぼう」といって、子どもが机の中からハサミを出してザリガニになる。あのころは、エサをやりすぎて水が濁ったら死ぬということも、「教えてはいけない」といわれ、教師たちはおかしいと思いながら、子どもがやるままを見ておかないといけなかった。もし死んだ場合も、それがわかったらそれでいいんだと指導主事から指導された。
  1、2年生の担任を経験してきて、自由保育というのがすごく影響を及ぼしていると思う。生活科が導入されたときの1年生のある女子が、図工の時間の2時間ジーッとしていて絵を描かなかった。私は幼稚園にどんな子どもだったかを聞きに行ったが、その園が自由保育を導入していて、「その子が描く気になるまで待っているんです」という。小学校でそれをやればその時間は終わってしまう。
 理科では1年生のときは朝顔、2年生でひまわりを植える。全員が朝顔を植え双葉、本葉、実ができて、種子ができて最後はズボっと抜いて根っこを見る。2年生のひまわりは日の当たるところと当たらないところ両方で育て植物には日を当てないと育たないということがわかっていく。それが生活科ではひまわりに帽子をかぶせる。花が咲いた日に、誕生日といって輪飾りをつける。「スリッパさんの気持ちになったら、トイレのスリッパをきちんとそろえるようになる」といって頭にスリッパのお面をかぶらせたおかしな実践もある。
 また、1年から6年へと学年が上がるにつれて成長するはずが、だんだん悪くなる、とよく話になる。どんどんずるくなって、子どものリーダーもいなくなっている。地域でそういう関係ができていないという問題もあると思う。小学校一年から六年まで見通した教育ができづらい。

 教師の指導性否定 体罰禁止も騒ぐ  「個性重視」 掲げ
  当時、これまでの戦後教育は「画一的な教育」で、それが教育荒廃を生んだといって、「一斉指導はいけない」「平等はいけない」と「個性重視」が徹底された。個人主義がよくて進歩じゃないかとなり、個人主義に反対するとは何事かとやられた。それと同時に個と集団との関係で見ると、個と集団を対立させ、集団主義を否定していく。個人主義の教育、個への対応となった。もう1つやられたのは、「指導はいけない」とされ、子どもの自発性と教師の指導性を対立させた。子どもが感じるまま、思ったままを大事にするとされ、子どもの経験したものを教師が理論化、理性化し科学的にしていくことを否定していった。同時期に、「体罰禁止」がいわれるようになった。子どもたちのなかで善悪や正義、不正義というものを曖昧にすることには、教師のなかで「おかしい」という思いがたくさんあったが、しかし全体として巻きこまれていかざるをえなかった状況がある。
  90年に神戸の校門圧死事件があり、子どもを抑えつけるような校則は見直しがされた。中学校の教師が1番いうのは、社会にしても理科にしても学問の系統性が全然なくなったということだ。新学力観で、なんでもかんでも「興味・関心」でやり、数字で子どもの生活まで評価するようになった。とくにこの間の教育改革のなかで教育学者がほとんど役割を果たしていない。教育学者ではなく、オリックスの宮内やソニーの会長など、教育界の外側から教育に手をつっこんでメチャクチャにしてきたという話になる。
  基礎・基本の力、知育、物事の考え方、とらえ方をメチャクチャに破壊されてきた。基本的な考え方、とらえ方がないうえに子どもの興味・関心でいくから、本当に筋道立てて物事が考えられない。
  総合学習がまた悪影響を与えていると思う。総合学習は結局、北九州では「英語」と「パソコン」になった。英語は今年度から独立したので、今はだいたい「環境問題」。ウソを教える教科が増えた。真実でないことがまかり通る20年間だったなと思う。例えば5年生の社会科の農業のところに減反政策や国の政策に対する人人の怒りはまったく出てこない。前の教科書はまだ減反政策が載っていたが、今は「品種改良」「合鴨農法」「消費者と生産者」というもので、まさしく農業はそれで進むようなことを書いている。
 「個性重視」といって教育の機会均等が奪われできる子とできない子の差がものすごく広がった。総合学習で「発表する力」をつけさせるといってきたが、相手をいい負かす、揚げ足をとる、そしてウソをつき通す、白を黒というようになっている。とくに学力が高い子がそういうことを身につけている。「口から先に生まれたのか」としかると、「それはどういう形で生まれるんやろうか」といって逆に教師をいい負かそうとする。いい負かすことが1番いいように思っている。
 生活科をふくめ各教科で、しかも6年間積み重ねているから本当にしゃべれる子が得をする。こんなことでどうなるだろうか、いい負かすことはできるが、人の気持ちや感情を理解する力が育っていない、こんな子どもを育ててはいけないという教師の怒りがある。国語教育の崩壊も大きな問題だ。それは長い年月をかけて、計画的にやられている。
 教師に対しても、免許更新制まできて「国に従わないと免許をはく奪するぞ」といい、資本主義社会を維持する手軽な商品を黙って育てる教師しかいらない、ということをやってきている。学力低下とかいじめや体罰禁止など、マスコミのキャンペーンが周到にやられて、次の政策がおりてきているのもあからさまだ。

 自由放任で動物化 人類の歴史に逆行・人間を猿へ退化
 編集部 学校現場から真理、真実、法則性、科学性というものを否定してウソをはびこらせ、教師の指導性も否定していった。個性重視、興味と関心で「スリッパさんの気持ち」「ひまわりさんに帽子を」というが、人間の方がひまわりやザリガニのレベルになる。できてきたのは子どもの動物的な自己中心ではないか。人類の歴史は猿から人間に進化してきた歴史だが、保育園から自由保育をやって自由放任をやってきて、人間をサルの方に退化させてきたということではないか。学校がサファリみたいになる。
 この20年間、「個性重視」「興味関心」といってやってきたのは、結局、日本の子どもを動物化する大がかりな教育の破壊だったのではないか。
  冗談でよくいうが、「先生は動物の飼育係じゃないんだからね」と。ときどき奇声を発したりするし、人の話をまったく聞かない。自分でやりたいようにゴソゴソしてみたり、人に話しかけたり、立ち歩くし本当に猿のようだ。あれじゃ勉強という感じじゃない。
 編集部 教師が新学力観に負けていった要因は、自由放任を民主主義のようにみなすイデオロギーではないか。それ以前の戦後のブルジョア民主主義教育もしっかりやられている。だから「個性重視」といわれたら日教組中央は飛びついた。戦後のアメリカ賛美の民主主義派がこれにいかれて、それどころか旗振りになって、自由放任の動物化を推進した。社会のためとか、みんなのためにのイデオロギーを破壊してきた。
  自由保育、生活科の導入にともなって91年ごろから不登校が増え、家庭訪問もよくやっていたが、日教組の生活指導の分科会に行くと「学校に無理やり来させてはいけない」「子どもには学校に来ない権利がある」としこたまやられた。「子どもの人権」といい始めてからおかしくなった。
  だから教師のなかでは、教え込みはいけないといわれたことが相当こたえた。「体罰」といわれると、おかしいとは思いながら、ものがいえなくなる。
  指導主事が来て「教壇の前で指導してはいけない、横でもいいけど1番いいのは子どもの後ろ」と教師の立ち位置を指導されたことは忘れもしない。やはり「子どもの自発性」というのが壁になっていた。黒板は教師が書くものではなく子どもたちが書くものだと「黒板の開放」もいわれた。指導案のなかの言葉が「指導」から「支援」に変わった。それにはみなギリギリする思いがあった。
  今年は家庭訪問に行ったときに、「悪いことをしたらたたいてください、先生」という親がすごく多かった。「去年までの先生にそういったら、“今はそういうことができない”といわれてガッカリしてたんです」という。まちがっていることについては毅然と、厳しくしつけてほしい。自分の子どもが動物的になっていることに対して親がものすごく心を痛めている。その思いがすごく伝わってきた。

 教育も市場原理に 科学的な思考破壊・生産労働教えず
 編集部 89年に天安門事件があり、東欧やソ連が崩壊して米ソ2極構造が崩壊した。ここからアメリカは「資本主義が勝利した」「自由・民主・人権」といって新自由主義、市場原理主義をやりまくる。その一環として教育の現場には「個性重視」「興味・関心第1」の教育、いわば市場原理主義教育が持ち込まれた。そして科学的な思考や批判力をなくして、動物的な興味と関心の子どもを体系的につくってきた。それは今、生産現場で労働者がモノ扱いされ、非正規雇用や成績主義賃金などで非人間的な境遇におくことに照応している。
 もっと重要なことは、動物的な自己中心をつくることが、戦場の人殺し、肉弾をつくるものだということだ。戦前の軍国主義教育は、皇国史観のようなウソ話を教え、天皇のため、国のためといって戦争に駆り立てていった。戦後の戦争教育は、自由と民主を唱えて動物的な自己中心を植え込み残酷な人殺しをしていくものとしてあらわれている。
 そして学校教育全体で、生産労働を教えなくなった、そして働く親たち、地域の人人と学校を切り離してきた。生産労働が社会を進歩発展させる原動力だ。生産人民は社会のために、人人の役に立つために物をつくっている。それを集団的にみんなで協力し団結してやっている。この勤労人民のなかにある資質を代表する教育にこそ展望があると思う。それを親や地域の人たちと一緒に進めることが教育の展望だと思う。
  萩の校区では今、玉葱の収穫の時期だが、その作業を子どもたちはやったことがない。親世代もそうだ。地域のじいちゃん、ばあちゃんが腰を曲げて畑や田んぼで農作業をしており、そういう苦労を子どもたちに知らせたい、一生懸命働いているじいちゃん、ばあちゃんがいるから自分たちがいるということを考えさせたいと、玉葱の収穫体験をやらせることになった。
 子どもたちは最初は鎌を持つのもこわごわだったが、やり出したらすごく喜ぶ。すごくうれしそうな顔をしてみんなで写真に収まっている。子どもたちは収穫したあとの運動場より広い畑で走り回って楽しんだ。周りで作業している人たちが、その姿を見て非常に喜んでいる。地域の人たちがこういう教育を待っているんだなとすごく感じた。なぜ今までそういうことをさせなかったのかと思う。
 学校が周りの生活とかけ離れた世界にあることをある父親が気にしていた。働くことによって人と人とのつながりが出てくるのに、子どもたちは普段、友だち同士でいるのに1人1人バラバラでゲーム機に向かっている。そういう子どもたちをじいちゃん、ばあちゃんがどれほど心配しているだろうかと思う。
 先日もみかん農家のおじいさんを訪ねた。そしたら家に上げてくれ、「今ごろの子はこのままでは一体どうなるか。若い者が派遣切りにあって田舎に帰ってきても、みかんづくりもわからないで、そんな子に育てたらいけない」と長いこと話された。その人は歴史研究家でもあるが、「古いことを勉強するのは、未来のことを学ばないといけないからだ」と強調していた。そして「みかんづくりは3カ月ごとに区切りがあるから、みかん農家の体験は年間4回はやってもらわないといけない」という。
 地域の人はみんな、生産労働をなんとか子どもたちに知ってほしい、受け継いでほしいという思いを持っている。それを教師は学校のなかにいて全然気づかない。朝早くから一生懸命教材を考え、暗くなって学校から帰るからだれとも出会わない。教師が学校に閉じ込められて、子どもに現実世界とかけ離れた違うものを教え、子どもがバカにされてきている。それがすごく計画的にやられてきたと思う。それを親たちや地域の年寄りはすごく心配している。
 編集部 理科にしろ社会にしろ国語、算数にしろ、「興味と関心」といっても、現実の生産活動に根がなかったらまともな関心が出ようがない。自然界に働きかけて有用な物をつくっている。そういう生産活動をつうじて自然界の諸現象を体感する、そこから理科や算数への興味と関心ができるはずだ。そして生産活動はみんなが協力してやるわけで、人と人との関係の実感から社会や国語の関心が出るはずだ。生産活動、実際生活と切り離して、興味と関心といっても、興味と関心などわきようがないと思う。そんな学校は子どもたちにとってクソおもしろくないものだろう。
  小学校の教え子がその後漁師になって、私の退職祝いに花を持ってきてくれた。担任していたときは漢字を覚えないで、「まちがった字を100字書きなさい」といって手を焼いた子だ。それが、持ってきてくれた花の中にメッセージがあって、ちゃんと漢字をたくさん使って「長い間ご苦労様でした」と書いてある。父親が漁師として1人前にするという迫力で必死で育て、その子も実際の生産活動の必要から学んで成長したんだなと思った。私がただ覚えろといって身につくはずがない。
 以前漁師の話に感動したことがあったが、ほとんど近辺の魚は全部わかるといっていて、驚いたことがある。甘鯛の習性がどうだとか、そういうのが本当の理科だ。はえ縄などは、何人かで一緒にやる。息があわなければ命を失うことにもなりかねない。その団結力はすごい。そういう資質を子どもに教えて、受け継いでいくのが本当の教育だ。
  ひまわりに帽子をかぶらせる子どもが、田んぼに石を投げたり水門を勝手に開けたりして、地域に迷惑をかける。そういうことは以前だったら一年生で教えていた。生活科では、石を投げちゃいけんとか、水門をひっこ抜いたらどういうことになるかということがわからなくさせられる。「ひまわりさん」といっていたら農業にならない。農業の後継者をつくらせないように頭の中を改造している。
  玉葱の収穫体験の2、3日前に「病気がついた」といって電話がかかってきた。「農業では一生懸命育てても病気がついたりして収入にならないことがある。それを教えることも大事。育たなかったら自然を恨むのではなく自分がダメだったと考えてやり直すことが大事」といわれていた。
  子どもも「ひまわりさん」のようなバカみたいなことを教えられるより、真実を教えられて学んでいくことを1番求めている。五年生で農業の勉強が出てきたから、学校のすぐそばの田んぼで田植えを見せようと思い、子どもを連れて行った。すると代かきをやっていたおじさんがトラクターを休めて、今の農業問題への怒りを子どもたちにワーッと語ってくれた。機械は他にもたくさんあって、機械を買うのに大きな借金をしなければならないこと、「それに比べて年間にもうかる米の値段はその10分の1にもならん」といって、また仕事を始められた。泥の中に埋まって働いていたおばさんも女の子たちに「このなかで何人、農家の嫁に来てくれるかね」というと、子どもたちは本気で受けとめる。学校に帰ってみんなで整理していく作業は真剣さが違った。子どもたちはそれをきっかけに機械の値段を調べようとしているし、そうなると「算数」もいるし「理科」にもつながる。
  教師もそっちの世界をあまり知らない。そういう勉強だと子どもを押しのけて自分が前にいって聞いたりしている。教師も政策的に人民生活と切り離され、人民的な生活実感が持てなくされてきた。家庭訪問も「プライバシー」といって踏み込めなくなってきた。
  働く親について作文を書かせ文集にしようとしたら、プライバシーの侵害になるのでつくってはいけないとなる。子どもがこんなふうに親の仕事を受けとめたといって、親は喜んでいるのに。学校は人民生活と切り離して異様なる別世界をつくっていくことが意図的にやられている。

 英語の授業が典型 人との関わりを切断
  子どもにとって興味のないものが持ち込まれている典型が英語だ。英語担当の先生が朝の挨拶を全校生徒に教えるため、「ハーイ、アイム○○子、ナイストゥミーチュー」と放送する。朝の挨拶がまともにできない子に「ハーイ」と教えているのが情けない。生活から離れているものだから、コミュニケーション能力どころじゃない。逆に人とつながれなくなる。
  毎週1時間英語があるが、ある子どもは「先生、アメリカ人のようにいわんでもいいと思っている。英語は好かん」といってしゃべろうとしない。父親が外国人の子は「オバマは戦争はしないっていってるけど、本当はしたいのよ。でも、ほかの国はみんな反対しているからうまくいかないわ」「アメリカは保険もないから病院に行けない。貧しい人はとくに行けないの」という。成績のいい子は「でもオバマにもいいところがある」「日本が核を持たないのはおかしい。でないと北朝鮮にやられてしまう」と論議をふっかけるが、負けてしまった。
 成績のいい子を中心にそういう考えがあるが、本当の真実を見ぬける頭のいい子に育てないといけないと思う。教師がどっちを向いて教育をしているのか、子どもは見ていると思う。
  子どもたちは「自分がバカみたいになる」「ヘラヘラしよる」という。感情があわない。親たちはますます嫌だろう。日本人の生活秩序が崩れるという感じがある。日本語がちゃんとできないで、物事が考えられない子どもが多くなったなと思う。しっかり日本語を教えるべきだ。言葉は思考の源だから。
  人のいうことがきちんと聞けない。ある教師が授業をしようとして、話している途中から子どもがヤーヤーいい始め、それに刺激されて別の子がまた違うことをいい始めて話を聞こうとしない。「きみたちはキャッチボールというものを知っているか」「まずは人の話を受けとめる。とる前にどうやって投げるのか。まだ玉が空中に浮いているのに、なんで途中でいい始めるのか。それではキャッチボールはできんぞ」といって、すごく怒っていた。
  そして、あとで「聞こえませんでした」という。子ども自身も発表するのに、以前みんなに聞いてもらえなかったら悲しい顔をしていたのだが、今は聞いていなくても平気。いいさえすればいいという感じ。子どものなかで相手を意識する、仲間と一緒に学びあうとか、人の気持ちに心を寄せることが大事にされなくなっている。「興味と関心」の教育のなかで、自分のしたいこと、いいたいことを自由にどうぞという感じでやられてきた。人との関わりも切断する教育になってきた。
  教室がザワザワしてなにも聞けない状態だから、勉強もわからなくなるのが当たり前。集中して勉強するのをお互いが妨げている。猫や犬が吠えたいときに吠えるような感じで、本当に動物化だ。聞かないというのは学ばないということであり、勉強否定の学校だ。だから成長しない。
  奮斗努力してなにかを身につける、学力にしろ運動能力にしろ身につけるというのを破壊してきた。頭の中が空っぽになって全然定着しない。

 反動教育はね返す 勤労人民のなかに力
 編集部 こんな教育の状態で、今から20年、30年たったら日本は一体どうなるか、というのを年寄りは心配している。各地で原爆展をやっているが、アメリカは第2次大戦で日本人を「イエロー・モンキー」と見なして殺しまくったことが怒りをもって語られている。今やられている教育は日本人の子どもをモンキーと見なしている連中がやらせていることだ。
 また教育だけがつぶされているのではなく、今の日本は対米従属と売国独占資本の支配のもとで、食料生産もエネルギー自給も破壊され、労働力の再生産まで破壊されている。医療も介護も福祉も社会的な保障が切って捨てられている。教育の破壊は日本社会全体の破壊の一環としてあらわれている。独立国なら絶対にやらないことだ。
  家庭訪問で、昨年のクラスで母親が看護師の子どもがいたが、最後の文集の作文のなかに「どれだけお母さんが大変かわかった。自分もそういう仕事につきたい」と書き、それを見てお母さんが泣いていたという話をした。すると聞いた親が涙を流して感動するし、「今年もぜひお願いしたい」といわれる。生産労働と結びついた教育を願っているし、今の教育は子どもにいいのかどうか、英語はどうかなどあらゆる情報を集めて勉強している。そして自分の子どもに、まじめに働くことが大事だと教育している。たんにわが子だけの問題ではなくて「今の教育はどうなるか」という質問をたくさんされたり、「リストラで家を引っ越さないといけない人がいる」と語るなどすごく鋭い。本当に働く親たちの願いにそった教育をしないといけないと強く思った。
 編集部 被爆者や戦争体験者が子どもたちに体験を語るとき、体験だけではなくどう生きるか、日本の平和な未来のために頑張れと話している。そして「今ごろの子どもは見捨てたもんじゃない」というのがだいたい一致した評価だ。子どもたちは学校のなかではいうことを聞かないが、じいちゃん、ばあちゃんが体験した真実の話にはグッと集中するし、それが子どもを教育している。新自由主義の教育で学校をメチャクチャにしてきたが、現状はそれに子どもたちが反乱を起こしている。あらわれ方は好き勝手の自分中心だが。それは今の学校教育の権威が崩壊しているということだ。
  地域のじいちゃん、ばあちゃんは社会のために、みんなのためにといっている。人民生活のなかではみんなと協力してやるというのが生活のなかにガンとしてある。社会はどうなろうと自分だけはよくなりたいという自由主義教育はそこと対立している。

 団結して働く生産現場
 編集部 生産現場は、チームプレイでないと成り立たない。そういう要素を学校で破壊している。人が働いた物を自分の物にする者が威張るのではなく、みんなが団結し協力して、人の役に立つ物をつくるために働く。この労働者のなかにこの社会の発展性がある。二極構造崩壊後の市場原理主義のなかで、労働の価値とか労働を通じた集団性などがものすごく攻撃された。
  家庭訪問で出てきたのは、「少少嫌なことがあっても我慢強くなってほしい」「みんなと仲よくする」「協力することを教えてほしい」ということで、成績のことはほとんど出なかった。わが子を見てそういうことが欠けているというのを心配しているのだと思う。
 ある親が、自動車工場のチームも十数人で協力しないとできないといっていた。その仲間とは旅行に行ったり家族以上に仲がいいという。親はそこから「友だちと仲よく」といっている。
 編集部 支配階級が大きく日本社会全体をぶっつぶして戦争に持っていこうとしており、その重要な一環としての教育の意図的体系的な破壊をやってきた。ここまできて人民的な世論は様変わりをしている。戦後自由で豊かな社会になったのではなく、さんざんにだまされてきたという思い、この社会では安心して暮らすことはできないし、何とかしなければ大変なことになるという世論が噴き上がってきている。教師がこの人民の側に立ち、全人民的な統一戦線の一翼として、大がかりな反動教育とたたかう力を結集することだ。学校の中だけの狭い視野で見ていたら、手も足も出ない。
 日本社会全体を将来にわたってどうするかという構えでないと、とてもはね返す力は出てこない。教育を発展させようという力は勤労人民の中にある。教師がそういう大多数の人民の側に立ち、新鮮な時代意識に立っていけば、大きな展望を切り開くことができるということではないか。
 司会 大がかりな教育の破壊に対置する方向もだいぶ鮮明になったと思う。今日はありがとうございました。

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