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心こもる福田光子さん告別式
              革命事業支えた強靱な精神     2008年1月9日付

 長周新聞社勤務員で、4日に心不全のため急逝した福田光子氏(84四歳)の告別式が7日、長周新聞社の社葬として、下関市のからと会館で執りおこなわれた。家族や長周新聞社勤務員をはじめ、町内の人人、古くからの友人・知人、長周新聞人民保育所の子どもたちや卒業生など200人が参列した。戦中・戦後を通じて故福田正義主幹の活動を支え、長周新聞事業、後継者育成のために献身的に奮斗してきた生涯に学び、その意志を継承していくことを誓う場となった。

 生涯学び志の継承誓う 各界から200人参列
 初めに黙祷したのち、長周新聞社の三ッ井幸彦氏から略歴が紹介された。
 葬儀委員長として挨拶した森谷浩章・長周新聞社編集長は、「福田光子さんは、長周新聞社の勤務員にとっては、母親であり、おばあちゃんだった。福田主幹の指導のもとに勤務員が親子、兄弟のように団結するために、文字通り親身になって援助してもらった」と語った。
 そして福田主幹は、生涯の革命活動のなかで、「何度も革命か生活かという分かれ道があったが、必ず革命を優先した。それは旧満州から下関に帰り着いたとき、まず生活を確保してからというのではなく、家族を駅に待たせて共産党の事務所を探したのはその現れだ」といわれていたことをのべ「個人生活を革命事業に従属させる、そうすることによって個人生活も発展させるというものだ。主幹はこの分かれ目で、光子さんがいかなるときも逃げを打ったことがなかった、と讃えておられた。一切の私心を捨て人民に奉仕する思想に徹すること、自分の力に頼って刻苦奮斗する精神を貫くこと、これは口でいうのは簡単であり、しばらくのあいだやってみる者もいるが、光子さんは福田主幹の苦難に満ちた戦中、戦後からの革命事業を支え、それを生涯かけてやり通された。比類のない強靱な革命精神であり、だれも真似したことのない偉大な生涯だった。その精神は、長周新聞のような事業を継承するものにとって、いつも鋭く問われ続けているもっとも重要な問題だ」とした。
 また、「福田主幹なくして光子さんはいなかったと思うが、光子夫人なくして福田主幹の事業はなかったほどだと思う。そして、自分の子どもを革命事業に参加させるだけでなく、勤務員のことを常に親身に心配して、革命事業を貫くよう援助してくれた。さらに勤務員の子弟が親たちの事業に対立するのではなく、後継者になるよう育てる長周新聞人民保育所の創立と運営にあたり、自分の使命としてとりくまれ、最大の支えとなった。人民保育所卒業生と編集局・工場で一緒に働くのを大きな喜びとされていた」
 「主幹が亡くなられてから六年間をたたかってきたが、福田主幹や光子さんが生涯をかけて貫かれてきた精神と路線は、ますます多くの人人のなかで生命力をもって蘇っており、日本人民の解放事業を励まし続けることは疑いない。長周新聞の勤務員は、それを最後まで貫くことを誓う」とのべた。

 告別の挨拶 人民保育所創立に献身
 全国各地から寄せられた弔電が紹介されたのち告別の挨拶にうつった。日本共産党(左派)中央委員会の本田和人氏は、「中国からの引き揚げ途上、中国と朝鮮の国境を隔てる豆満江を渡るとき、ついてきてくれた八路軍の人人が、岸辺の砂のなかに隠されていた小舟を掘りおこして川に浮かべ、自分たちは胸まで水に浸かりながら船を引き帰国を援助してくれたこと、 “あのような心底配慮に満ちた対処のできるのが八路軍であり、革命をやる部隊はそのような部隊でなければならない” という福田さんの言葉も伝えてくれた。なにもないところから出発して、どんな困難にも負けずに長周新聞をつくっていった話、それを担った部隊の人人や家族の人人が、たいへんななかを1つの家族のように団結し乗りこえ、長周新聞事業を発展させてきた話、長周新聞人民保育所を創立した話など、おりに触れて聞かせてくれそのたびに感銘を覚えた」
 「幾千万の人人の幸福を実現することがもっとも正しい生き方である、というのが、光子さん自身の生き方だった。だから長周新聞事業を中心とする、人民の解放事業を福田さんとともにまっしぐらに進んで来られたと思う。家庭の困難も並大抵のことではなかったと思うが、自分のことより他の人のことを思い、惜しみない援助を与えてくれていた。そして、革命家族として、助け合い励まし合って乗りこえ、子どもたちもまた人民解放事業の後継ぎとして育てられた。私たちは光子さんが生活のなかで示され、教えてくれたことをしっかり受け継ぎ、自力更正・刻苦奮斗で進んでゆきたい」とのべた。
 長周新聞人民保育所の保母である熊原早苗氏は、保育所は福田主幹が幾世代にわたって革命事業をやり抜くために、後継者育成の目的で設立されたこと、光子氏が当初から保育所運営のために奮斗されてきたことを紹介した。自身が保母になった30数年前、初めは夜間保育の手伝いをしている程度だったものの、光子氏や勤務員らが夜遅くまで社会変革のために奮斗している姿や、子どもたちがそんななかで兄弟のように仲良く生活している姿を見て感動した思い出を語った。「光子さんは何度か、 “福田は自分たち家族だけが幸せになるのは容易かもしれない。しかしみんなが幸せになれば自分たちもなれるじゃないか、というんよ” と話してくれたことがあった。保育所に来るまで自分のことしか考えなかった私には、とても新鮮な感動だった。少しでも、この事業の役に立つ生き方をしたいと決心するきっかけだった。光子さんからは、長周や人民保育所、その仲間、子どもたちにたいする限りない愛情と、前向きなたくましい生き方をたくさん学んだ。おかしいと思うことは率直に批判し、自分の意見を出されていた。そして、みんなが一致して団結して進むことを大事にされていた。とても公明正大だったと思うし、みんなを勇気づけておられた。私はつい自分の気持ちが第1になり、失敗をまわりや条件のせいにして率直でないことがよくあるけれど、そんなときは“あんたなんかね!”と叱咤激励を受けることがよくあった。私自身の生き方のうえで大事なことを教わった。今の子どもたちも必ず後継ぎに育つよう、自力更正、刻苦奮斗の精神で努力してがんばっていきたい」とした。

 工場勤務員 行動を貫く思想受継ぐ
 1971年に光子氏と同時期に入社し、長周新聞工場勤務員として共に働いてきた近藤寿子氏は、「光子さんは解版という部署で仕事をされていた。当時は活版印刷だったので、印刷の終わった版をばらす最後の部署であると同時に、次の印刷にむけて材料を供給する最初の部署でもあった。1つ1つの材料をより分けて、所定の位置に戻すという、地道で根気のいる作業を毎日毎日されていた。インクで真黒になりながら、コミをよったり、糸まきをしたり、工場の仕事に愛情と責任を持っておられた姿を思い出す。派手な活動に目を奪われがちだった当時の私たち青年勤務員にとって、理屈ではなく日日の実践を丹念に積み上げていくことの重要性をわからせてくれる存在だった。
 後年、主幹の看病で工場に出てこられないときにも、糸巻きやウエス準備はできるからと、家に持って帰られることがたびたびあった。“看病に専念しないといけないから、持って帰ったらいけない!” といっても、いつも押し切られた。自分のことより人のこと、個人のことより公のこと、光子さんの行動の基準はいつもそこにあったと思う。 “私は理論がないから、むずかしいことはよくわからん” といわれていたけれど、行動を通して、私たちにいろいろなことを教えてくれていた。その中心にあったのは主幹の思想や活動にたいする信頼であり、光子さん自身のまわりの人人にたいする深い愛情だったと思う」とした。
 また、とりわけ勤務員の子どもたちの成長を常に気にかけていたこと、自身も長周新聞人民保育所で子どもたちを育てていく途上では、問題にぶつかるたびに助言してもらっていたことを明らかにした。「“人民保育所がなかったら子育てはできんかったやろう” とよくいわれていたがほんとうにそうだと思う。あまりにも突然の別れで、もっと話したいことがたくさんあった。今までほんとうにありがとうございました。みんなが幸せになることが自分たちの幸せと胸を張っていえるよう、がんばっていくことを決意したい」とのべた。

 青年勤務員も決意 刻苦奮斗の精神を学ぶ
 福田光子氏の孫で、長周新聞社青年勤務員を代表して挨拶した本田千恵氏は、生前の祖母の思い出というと、幼少の頃、夜自宅に行くと、工場の解版作業で使う糸をまいている姿や、家の前の通路を掃除する姿が思い浮かぶと語った。
 「仕事に対する責任感と、人人に対する愛情で貫かれていたのだと思う。 “おばあちゃんの人生でいいことは1つもなかった” といいながらも、主幹と一緒に長周新聞をつくってきたことを誇りにしていたし、新聞社が発展し、勤務員のみんなが元気にがんばっていること、とりわけ保育所で育った青年たちが長周新聞で働いていることをたいへん喜んでいた。昨日の偲ぶ会でみなさんの話を聞いて、私たちの知らなかったおばあちゃんの生き様を知ることができた。どんな困難があっても決して逃げを打たず、多くの人人が幸せになる社会がくることを確信して自力更正・刻苦奮斗で全生涯を貫いてこられたことに、私たちは真摯に学びたい。人民に奉仕する、というのは言葉でなく行動で貫いているかどうかが、常に私たち勤務員には突きつけられる。しかし、その活動はもっとも人人から支持され、人人の役に立てる道だと思う。青年勤務員一同、主幹や光子さんが生涯かけて切り開いてこられた事業と、その意志を受け継ぎ、やり抜いていくことを誓いたい」とのべた。
 長周新聞人民保育所の子どもたちは、全員で『ひまわりの歌』を合唱した。
 親族を代表して挨拶した長男の福田槐治氏は「母・光子はその生涯を父・正義とともに幾千万大衆の解放のために捧げたと、多くの方方が評価して下さっていますし、本人も長周新聞社員としてその生涯を終えました。数え切れない多くの方方や近所の方方に支えられ、援助を受け、母も日頃からたいへん感謝していました。故人に変わって厚くお礼申し上げます」と謝辞をのべた。
 最後に参加者全員でインターナショナルを合唱したのち、1人1人献花をして別れを告げ、思い出のこもった品品や、故人が大好きだったタバコ、たくさんの花をつめた棺は長周新聞社旗にくるまれ、全員が1礼するなか出棺した。

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