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国民の生存権奪う小泉改革
衆院選挙の重要争点
            どの分野も世界最低水準に   2009年7月3日付

 衆議院選挙を前にしているが、医療・介護・福祉から教育にわたる日本の国民生活分野は、中曽根・土光臨調から小泉・奥田、安倍・御手洗、宮内規制改革と今日に至る四半世紀余の新自由主義による市場原理改革によって、世界に例を見ない破壊を押しつけられている。OECD(経済協力開発機構、加盟30カ国)が発表する国際比較は、どの分野でも日本は最低水準にあり、日本の財界と政府がアメリカいいなりに「小さな政府」を掲げ「受益者負担」「自助努力」「自己責任」の名で、他に例がない切り捨てをやっていることを浮き彫りにしている。

 医者にもかかれぬ国 国民皆保険は崩壊
 国民の健康と生命を守り、社会の富の生産と運営を担う力を維持・再生産する医療はどうなったか。「国民皆保険」を実現するとして、それまで公的医療保険がなかった自営業者、農漁民を対象に国民健康保険(国保)が発足したのが1958年度である。この皆保険の基盤というべき国保は、いまや大量首切りによる失業者や退職者など無職者が54・7%を占め、大型店出店自由など大資本のなぎ倒しで廃業が続出、自営業者は14・5%に激減した。
 国保料の高騰は、いまや負担の限界をはるかにこえ、1世帯当りの国保料が所得の2割におよぶ市町村が、126自治体(全体の7%)に達している。全国平均の1世帯当り保険料は、32万5165円。保険料高騰は払えない世帯を増やし、2008年度は滞納世帯が全体の20%を突破した。
 保険料高騰の原因は、国保への国庫負担率の大幅な引き下げに始まる。1958年度の制度発足で、政府は「国が事業主のかわりになって50%負担する」と約束したが1度も実行せず45%の負担でスタートした。ところが、新自由主義による「小さな政府」を掲げた中曽根・土光による行財政改革で、1984年に38・5%に引き下げた。一方で市町村国保の「財政健全化」と称して、保険料徴収率が90%を切ると、ペナルティとして調整交付金をカットした。以来、国保料は年年値上げされ、早くから「負担の限度をこえている」との批判が広がっていた。
 ところが、2000年介護保険見切り発車で、40歳以上〜64歳以下から介護保険料を上乗せして徴収する制度を導入し、小泉政府のもとで1年以上の国保料滞納世帯から保険証とりあげを義務化した。2008年度には無保険世帯は36万世帯におよんでいる。
 「子どもの無保険」が社会問題になるなかで、中学生以下の子どもはようやく救済措置をとったが、高校生以上の子どもを含む約100万人が医療を受ける権利を奪われている。保険証をとりあげられ資格証明書を交付された世帯のほかに、3カ月などの短期保険証の世帯はこれに倍する事態。短期保険証の更新ができず、同じように無保険となるケースも続発している。
 無保険では、病院窓口で医療費全額を払わなければならず、最低食べるだけの家計を考えると、受診を断念せざるをえない。全国保険医協会連合会の全国調査によると、2007年度受診率(100人当りの年間受診件数)は、一般被保険者の受診率が794・9に対し、保険証をとりあげられ資格証明書で受診した人は14・8、53分の1と、医療を受ける権利を奪われていることが明らかになった。
 国民皆保険の基盤である国保の崩壊は、皆保険を空洞化させている。
 大阪府守口市で、無保険であった夫(61歳)が、ぜんそくなどに苦しみながら衰弱死した妻を火葬もできず冷蔵庫に葬り死体遺棄罪で有罪となる悲劇が起こった。判決は罪は問いつつ、「夫は愛情を持って介護していた。妻が病院行きを拒んだのは、家計の窮状をおもんばかって我慢したため」と社会的悲劇を指弾した。貧弱な医療政策で無念の死に追いこまれるケースは、無保険世帯、短期保険証が更新できない世帯と、全国的に続発している。

 医療費削減で医師不足
 日本の医療費は国際的に見ても、きわめて少ない。中曽根から小泉―安倍と、今日に至る四半世紀余にわたる医療費削減策がもたらした結果である。OECDヘルスデータ2004年によると、GDPに占める医療費の割合は、日本は8・0%で、加盟30カ国中21番目、OECD加盟国平均8・9%を下回り、ドイツの10・5%、フランスの10・2%、カナダの9・9%にはるかにおよばず、サッチャーの新自由主義改革による「医療崩壊」が世界的にも問題になったイギリスの8・3%をも下回っている。
 この医療費削減策は、深刻な医師不足を招いている。OECDヘルスデータ2004年によると人口1000人当りの医師数で日本は2・0人で加盟30カ国中、27位で下位から4番目。この少ない医師数で、急性期の高度集中医療を担っていることを明らかにした。
 医師不足は80年代の中曽根・土光行革のもとで「将来の医師過剰、医師免許を持ったタクシー運転手が増える時代になる」「医師過剰は医療費増大を招く」と、マスコミを動員してキャンペーンをはり、大学医学部の定員を削減してきた結果である。
 急性期病院はギリギリの医師体制となり、2000年代の小泉改革で、「大学医局解体、新研修医制度」を強行、2年間ですべての診療科を経験し、専攻科は自由とした。この結果、医師不足に拍車がかかり、激務でリスクの多い診療科は敬遠された。先端技術に意欲のある医学生は大都市の大病院に流れ、大学医局も医師不足となり、派遣先から医師を引き揚げる事態となった。
 こうして、産婦人科、小児科をはじめ脳神経外科、循環器外科、呼吸器科(結核病棟を含む)の診療科休止があいついだ。この医師不足による減収と、市町村合併をてこに地域医療の中核を担ってきた公立病院統廃合、民間移譲、独立行政法人化などがあいつぎ、地域包括医療体制を崩壊させている。
 救急医療を担ってきた公立病院の統廃合は救命救急センターへの救急患者の集中を招き、激務から救命救急担当医がそろって辞め、救命救急医療の危機も招いている。
 産科、新生児科医の不足は、周産期救急医療の危機を招き、担当医不足や救命救急ベッドの不足などで救急患者を受け入れられないケースが続発し、妊婦や胎児が死亡する悲劇が後を断たない。

 高齢者医療も切り捨て 
 中曽根から小泉―安倍に至る新自由主義改革は高齢者医療の切り捨てもやってきた。80年代の行財政改革で「病院は老人サロンと化した」とマスコミを大動員してキャンペーンをはり、老人医療費無料制度を廃止、老人保健制度を創設、際限ない患者負担増を押しつけた。
 人人が高齢化すれば身体に故障が生じ医療が必要になるのは当然であるが「高齢化社会」と高齢者のお荷物扱いを煽った。2000年には、高齢者医療費の削減を目的に、介護保険制度を見切り発車、新たに四〇歳以上のすべての国民から高い保険料をとり、高齢者福祉での措置を廃止した。
 介護給付費の半分は、40歳から64歳の現役保険料と65歳以上の高齢者保険料でまかない、国の負担はわずか25%で計画段階から「公的保険制度の名に値いしない」との批判を集めてきた。発足で約束した「介護の社会化」「選べる福祉」は真赤なうそで、いまや要介護1の高齢者を「自立」と称して、認知症やリウマチなどの持病がないものは要支援に引き下げ、介護サービス利用を大幅に制限。その規模は七割におよぶ。
 これでもあきたらず、2006年、小泉市場原理改革で、75歳以上のすべての国民を皆保険から切り離し別建ての後期高齢者医療制度に強制加入させる法律を成立させた。「いずれ死ぬ」とばかりに差別・制限医療押しつけの定着を強行している。
 中曽根から小泉―安倍と強行してきた高齢者医療の改悪は、新自由主義による“姥捨て政策”を象徴している。戦中、戦後と、戦火をくぐり、焼土のなかから戦後復興を担い、「高度経済成長期」から70年代、80年代と懸命に働き、次代を育ててきた世代の労苦に報いるどころか、「いずれ死ぬ」とばかりに低医療を押しつけてはばからない。市場原理改革の正体をむき出しにしたものである。
 小泉―安倍の市場原理改革は段階を画している。最後のセーフティネットである生活保護制度から、老齢加算を廃止したのに続いて、母子加算まで廃止を強行した。これに対する全国的な批判世論は強く、野党四党による母子加算復活法案が国会に提出されるに至っている。また、障害者福祉法を改悪、「自立」と称して障害者福祉施設などの利用料を1割負担とした。このため、「自立」どころか社会参加の細い道も閉ざされ、ひきこもりが大きな社会問題となっている。
 さらに児童福祉法を改悪、国や行政の責任を放棄、保育所と保護者の直接契約を強行。経済的に困難な家庭の子どもや、智恵遅れなど少しでも手のかかる子どもが敬遠されたりすることが危惧(ぐ)されている。また、保育所の保母の配置、子どものためのスペース基準などを緩和し、公立保育所ではなく民間参入を促している。だが、民間企業は採算が合わなければ撤退する。すでに、ある朝、子どもをつれて保育所に行くと「閉鎖」のはり紙がしてあり、首都園を中心に数百人の保護者が途方に暮れた事件も起きている。
 医療・介護・福祉の市場原理改革による切り捨ては、財界・政府は「主権在民」など眼中になく、生存権をも奪ってはばからないことを示している。

 教育破壊し未来も潰す
 教育の分野も、新自由主義による「受益者負担」で中曽根から小泉―安倍と際限ない削減によって、「教育の機会均等」を破壊したのはもとより、小・中学校の義務教育無償どころか、塾に通わなければ学校でついて行けず、父母をはじめ保護者の負担ははかり知れない。今日至っている事態は、国による次代育成の放棄であり、日本と民族の破滅か、独立・平和・民主・繁栄の日本かの岐路にあることを示している。
 日本の教育への公的支出はきわめて少なく、OECD2008年報告によると、GDP比で3・1%。スウェーデンなどの北欧諸国は、GDP比5〜6%を教育につぎこんでおり、フランスは4・9%、イギリスは4・7%、アメリカでさえ4・5%である。
 教育の部門別に見ても日本は初等・中等教育でも最低のGDP比2・6%であり、大学など高等教育においても同0・5%と最低レベルである。日本の公的教育支出の中身を見ると、国際的に最低レベルであるばかりでなく、高等教育のそれは、ほとんど(82%)が教育機関への直接支出であり、学生に対する補助は18%にとどまっている。奨学金など学生やその家族の経済的負担を直接軽減する金銭的補助の対GDP比は0・12%にすぎない。しかも、日本における学生に対する金銭的補助のほとんどは貸付ローンである。
 これは小泉市場原理改革で、国立大学の独立行政法人化に先行して、日本育英会を解体、独立行政法人とし奨学金をローン化した結果である。欧米諸国の多くは、保育所から大学まで基本的に授業料は無料である。
 日本では、「無償」をたてまえとしているのは義務教育の中学校までで、高校以上の教育は国が責任を持つ次代の育成ではなく、子どもや子どもの家族の「個人的選択」として、「受益者負担」と称してほとんど100%の負担を押しつけている。
 中曽根行財政改革から義務教育費を含む教育費の際限ない削減をおこない、国立大学入学金・授業料の値上げをくり返してきた。また、大学・高校の私学助成の削減も同様である。
 憲法第26条は「義務教育はこれを無償とする」と明記している。だが日本では、無償なのは小・中学校の授業料と教科書だけとなった。実際には多額の負担が父母や保護者に転嫁されている。埼玉県の2006年の例によると、同県の公立小学校では、最低でも6年間で42万円以上の給食費、学級費、教材費などの負担金をとられている。中学校では3年間で約31万円の負担だった。下関市では、このほかにPTA会費、後援会会費から、トイレットペーパー代などにいたるまで、さらに多額の負担が押しつけられている。
 国立大学協会(会長・濱田純一東京大学学長)が6月24日、政府の授業料引き上げの示唆に対し「受け入れがたい」との所見を発表。このなかで国立大学授業料は過去30年間に15倍となり、実質的に世界最高水準に高騰していることを指摘した。1975年当時の年額3万6000円が、2008年度には53万5800円となった。
 さらに日本の高等教育の私費負担の割合が66%で、OECD諸国平均27%の2・4倍と、けた違いの高負担であることを明らかにしたうえで、家計の収入の高低によって大学進学率に大きな落差が存するとしている。そして、「(大学)運営費交付金を拡充し、授業料・入学料標準額を減額するとともに、国公私立を通じ、給付型奨学金を創設するなど、経済的支援の飛躍的充実をはかるべきである」と要求している。
 市場原理改革による、義務教育から大学教育にわたる教育費切り捨ては、まさに「国による次代育成の放棄」にほかならず、「百年の計」どころか国の将来を破滅に導くものである。

 国民搾り大資本は太る
 医療・介護・福祉から教育に至る新自由主義による切り捨ての一方でアメリカと三井、三菱、住友、安田などの日本独占資本集団に金を貢いできた。トヨタ自動車が米ビッグスリーを抜いて世界トップにおどり出たように、彼らはアメリカとグルで日本国民を極限までしぼりあげ、史上空前に肥え太った。小泉市場原理改革の七年間、連続して史上最高利益を更新し続けたのがそれである。
 アメリカ発金融恐慌によって新自由主義が破たんするや、その犠牲のすべてを労働者、勤労国民に転嫁し、空前の失業と貧困を押しつけ、ひき続き市場原理改革を強行しつつ、「海外出兵」を強行し、「先制攻撃」を唱え、アメリカの戦争の下請を担って危機を乗り切ろうとしている。それはまさに「一銭五厘の赤紙」の道であり、国民を人間扱いしない市場原理改革と表裏一体の肉弾に動員する道である。

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