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国家統制強める安倍教育改革
無駄な多忙化まるで「調教」
              従順なロボット教師を意図    2014年4月25日付

 子どもたちと喜怒哀楽をともにしながら、時には叱って社会的規範を教えたり、その成長を導いて育てるのが教師の仕事で、「聖職」と形容される時代もあった。ところが近年、教育改革がごり押しされるのと歩調を合わせて、「体罰」「いじめ」などが起きる度に教師や学校叩きが過熱し、教育者たちが本来実力を発揮すべき学校現場で萎縮するような状況ができあがったり、その環境は様変わりしている。とりわけこの数年来、安倍教育改革が実行段階に移ってきたなかで、社会と切り離れた別世界になりつつ、ムダに多忙化していることが問題になっている。子どもと向き合う時間を確保するべき教師が免許更新制度に振り回されたり、事務量が増大して書類作成ばかりに追い回されていたり、「それが子どもの成長にプラスになるのか?」と首を傾げたくなるようなことばかり真顔でやらされている。「多忙」化の中身とは何なのか、その具体的な実態について現場の教師に聞いた。
 
 増大する書類作成の事務仕事

 山口県内の小・中学校では4月8日から新学期が始まり、各学校では月末にかけて家庭訪問が始まっている。その最中の22日、小学6年と中学3年を対象とした全国学力学習状況調査(学力テスト)が実施された。
 この日の放課後、山口県下の学校では教務主任などが全員の答案用紙をコピーする仕事に追われた。学力テストは業者が採点するため、答案用紙は梱包して送付することになっているが、山口県では県教委から「コピーして各校で学力テストを丸つけして分析するように」と指令が下ろされたからだ。四七都道府県のなかで、山口県も秋田県のように高学力先進地として名を馳せたいという大人の世界の欲が働き、その競争に勝ち抜くため徹底分析せよ、というものだった。
 同じ日には小学3年〜5年生、中学1、2年生についても、県独自の学力テスト「やまぐち学習支援プログラム」が実施された。教師はそれを採点して結果をパソコン入力して、県教委にメールしなければならない。結果入力といっても合計点や平均点というものではなく、テストの全ての問題について、生徒一人ずつの一問ずつの解答の正誤をパソコンに入力していくという膨大な作業である。
 学校関係者の一人は、「テストをすれば分析も必要。どの問題が理解できておらず、どの部分をもっと教えたらいいという分析はする。しかしテストの結果をこれほど事細かなデータにする必要はない。少なくとも学校の発想ではない。しかも期限を決めて“○日以内に”といってくる。子どもにとって何の価値があるのだろうか。STAP細胞も成果に追い回されてデータ捏造をやったが、学校ではもっと熟練工や職工さんのように地道に努力して成長していく大切さを学ばせることの方が大事だ」といった。
 目先の点数に振り回されて一喜一憂したり、成績上位を目指して他県や他校を見下して喜んでいるような世界観で教育になるのか、という問題意識も強い。低学力を喜ぶ者はいない。かといって、高学力というだけで人間の成長を判別できないのが教育で、成績だけを喜んでいる教育界の「偉い人」たちの顔つきなど、子どもたちに見せられるような代物ではない。「学力向上」なら、子どもとしっかり向き合って徹底的に勉強を教える環境を整備しなければ始まらないが、子どもと向き合う時間は削られて、しまいには行政が必要とする事細かな統計のためのデータ作成という事務仕事までが舞い込む。職員室は、株式会社のオフィスかと思うような状態で、正誤のパソコン入力に追われる。
 年度初めで家庭訪問が始まり、子どもや親たちの把握でもっとも忙しい最中に、こうした業務が膨大な時間と労力を割いておこなわれる。この手の統計調査や事務仕事が増えているのも特徴だ。子どもたちが学校にいる時間帯に、そっちのけで教師がパソコンばかり見ているわけにはいかず、部活動等にかかわればなおさら時間はない。夜遅くまで職員室は明明と電気が灯っている。

 教育委員会連日メールで号令通知

 2000年代に入って、学校では教師たちにパソコンが1台配布され、LANシステムを整備してネットワークにつなぎ、市教委が一括管理するシステムが整備された。放課後の職員室では教師がパソコンとにらめっこする姿があたりまえになっている。パソコンのメールを通じて、県教委や市教委が通達や調査依頼などを湯水のように現場に流す。その対応に日日追われている。下関の管理職のなかでは、他市に比べても市教委からの文書やメールが膨大であることが語られ、その疲労感が現場に蓄積しているのも特徴だ。
 調査の内容として、例えば生徒指導を担当する教師は、3月までの1年間に学校で起きた対教師暴力、いじめ、子ども同士の暴力沙汰、不登校、保健室登校などの件数を把握し、パソコンに入力して市教委に報告が義務づけられた。教師はクラスごとの件数を担任教師から聞き、養護教諭から資料をもらって保健室登校の人数を調べ、データを入力して送信した。それだけでなく、どんないじめか、不登校かなど具体的に入力して報告するよう指示され、パソコンが苦手な年配教師はデータを下書きし、若い教師に入力を頼むなどしている。また、全国のどこかの地域で通学中に事故が起きると、「通学路の点検と危険箇所の調査」とその報告の通達が下ろされたりもする。日日、メールで号令がかかる。
 子ども同士のケンカやいじめも、発育過程や家庭の事情など原因は千差万別であり、不登校もいろんな背景があるのは教師が一番よく知っている。「家庭環境も複雑化し、子どもの背景を知ることこそ教育だ。件数を把握したところで行政が子どもを教育できるわけでもないのに…」と語られている。「いじめ調査」「いじめアンケート」などアリバイ的で、裁判対策用に責任の所在を証拠として残すための業務も増えている。
 現場の教師が一人一人の子どもと向き合い、さらに親たちと切り結んで問題解決にあたっていくべきで、またそうするほかないのに、市教委の現場不信を根底にした教師管理・学校管理の統制が強まっている。解決できるかどうかは別として、責任問題に発展しないよう介入し、予防線をはっておくというケースもめだつ。

 授業のデザイン 本来の目的からも離れ

 学校生活のなかで教師と子どものかかわる時間が最も長いのは授業時間だ。授業を通じて子どもの弱点を理解しながら学力を身につけさせ、努力して真理真実を探究する力を培わせ、生徒との信頼関係を築いていく。
 しかし二十数年来の「新学力観」導入以後、「そのままの君でいいんだよ」という「個性重視」教育では、わからないことをわかるまで教えたり、漢字を何度も書いて反復練習させたり、四則計算などの基礎基本を身につけさせるのではなく、「子どもの興味・関心を引く授業」が称揚されてきた。「新学力観」が導入された当時は、小学二年生の算数の授業で、黒いマントと帽子をかぶった魔女に扮した教師があらわれ、マジックボックスを使ってかけ算九九を教えるというパフォーマンス授業が真顔で称揚された。
 現在、学校では「学力向上」が最も重要課題だとされ、そのためには「教師の授業力アップだ」とひん繁にいわれている。文科省や県教委がいう「授業力アップ」では、一つの単元を教えるために「授業をデザイン」して臨む教師、子どもの「興味・関心」を引きつける指導要領どおりの授業をすることが称揚されている。
 例えば小学2年生の国語で出てくる「ふきのとう」(工藤直子・作)では、何回かの音読をしたあとは、「音読劇をしよう」という展開になる。そのために教師は文章に出てくる登場人物の「ふきのとう」「竹」「春風」「雪」のお面づくりをして授業に備える。そして子どもが楽しく音読劇をすれば良しとされる。「“ふきのとう”がどんな植物かを知らない子どもがほとんど。文章を通して何を伝えようとしているのか深く読解していくのが国語だが、じっくり読む授業よりも、おもしろおかしい音読劇に流れ、その準備のために教師は時間を使っている」実態がある。
 3年生の国語教材「ちいちゃんのかげおくり」や、5年生の国語教材「大造じいさんとガン」などの文学も深く読みとることをさせず、授業展開は「ショーウインドウをつくろう」という工作をさせて終わるようになっている。父母や教師たちが子どもに読解力がなくなっていることを危惧しているが、指導要領どおりの授業を一生懸命やればやるほど子どもの読解力が身につかず、人情の機微を洞察したり国語本来の目的からも離れていく。低学力ができ上がるのと同時に、教師もムダに多忙化する関係となっている。「“授業をデザインする”といっても、子どもの実情ぬきには描けないはず。きれいなマニュアル通りの授業をしても子どもは本当には育たない。教師も考えない教師がつくられている」と指摘されている。

 教員免許更新 意味ない30時間の拘束

 学校への管理統制とともに教師を物理的にも縛りつけてきたのが2009年から始まった「教員免許更新制」だった。「不適格教員は教壇に立たせない」と豪語した第1次安倍政府が2007年に教育基本法の改定と教育改革関連3法案を強行成立させたことにより、終身制となっていた教員免許を10年の更新制にした。1人3万円の講習料を支払い、30時間(1日6時間×5日間)の講習を受けなければ教員免許失効となる。制度開始から五年が経過したが、経験した教師たちのなかでその意味の無さと同時に、拘束時間だけは増えて、ますます子どもたちから遠ざかっていく教育システムの有り様が指摘されている。
 多くの教師が夏休み期間に講義を受けるため定員オーバーとなり、宿泊費を払ってわざわざ遠方の大学で講義を受ける教師も多数いる。中学校の教師は部活動を他の教師に頼んで受けなければならない。朝9時から夕方5時までの詰め込み式で教師たちが受ける講義内容は、子どもの現状とはまったく関係のないものばかり。哲学であったり、環境学であったり、「教員免許」とどうつながっているのか、教えている大学側講師たちすら首を傾げている。また、必修項目が2日間設定され、教師の不祥事問題について行政の役人が説教したり、教育基本法や最近の教育事情などについて講義がなされる。
 選択項目は3日間と決められ、理科や体育、数学、パソコン、防災、英語教育などさまざまな講義が設定されている。ある教師は、せめて教育に関係ある講座をとろうとしたが定員オーバーで、選択項目の一つを「○○語」(アジア圏の言語)にした。最後にテストが実施されるが、講義した大学教授から「私たちもこの制度に反対だ。テストがわからなくても大丈夫ですよ。落としませんから」といわれた経験を話していた。双方ともに、何のために30時間を費やしているのかわからず、要するに「免許」を国なり行政側が人質にして、教師を管理統制するという意味合いしかないことが浮き彫りとなっている。
 子どもたちとの関係で多忙化しているのではなく、むしろ文科省やその傘下の県教委、市教委が持ち込んだ要因によって、教師たちは大忙しとなっている。ところが一方で教師の病休が問題になったころから「ノー残業デー」「定時退校日」なども唱えられ始めた。そして、「忙しくて精神的に追い詰められている」から何をやったかというと、朝8時10分から夕方4時40分までの勤務時間を超えた超過勤務について、これまた統計や調査が始まった。超過勤務が100時間を超えた教師に対しては、病院に行くよう管理職が指導するというもので、これまでにない数値管理や調査までが加わった。
 行政から学校に下ろされる調査がみなこの調子で、「報告書を書く時間があるなら、苦手な子に勉強を教えた方がいい」と誰もが口にしている。中休みや昼休みもだが、給食も五分で食べ終えて、その間に宿題や連絡帳のチェックに追われ、放課後も膨大な事務作業や会議が舞い込む。教師同士がゆっくり会話をすることもできず、幼い子どもを抱える女性教師は、大量の仕事を自宅に持ち帰っている。
 多忙化の中身を見てみると、教育の国家統制とそれに従うロボット教師の育成という効果しか生み出さず、子どもの成長にとっては何の関係もない、どうでもいいようなものが多い。子ども不在で、教師の管理に全ての目的が貫かれているのを特徴としている。そのなかで、真面目にやればやるほど精神を病んだり、早期退職する教師が増えている。
 「いじめ」「体罰」といって社会的に叩き回して萎縮させ、多忙化で思考停止状態に追い込み、そこに安倍教育改革が戦前ばりの皇国史観を振り回して、脳味噌が極端に右に寄ったような、科学的な思考力のない子どもづくりを迫っている。子どもよりも先に教師を従順に調教していくための「教育改革」にほかならず、それがあまりにも子どもの成長と無関係であることから、現場で大矛盾をきたしている。
 かつての大戦で教師は「お国のために」と子どもたちを戦地に送り出し、洗脳教育の罪深い役を担わされた。戦後はその深い教訓のうえに立って、山口県でも「子どもたちを二度と戦場に送るな!」と果敢な教育斗争がたたかわれてきた。教師一人一人が多忙であるか否かという不平不満以上に、教育の国家統制とその目的地である戦争政治との身体を張ったたたかいが迫られている。

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