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猿とインテリ  福田正義・日中戦争前夜のコラム集
             
 武士は食う/国策の乱立/ヨーロッパの宿命/
オリンピック出し抜き合戦/猿とインテリ/生き甲斐
の問題/下関測候所/他95編収録
                                       

著者 福田正義 発行・長周新聞社 B6判 175頁 定価1000円(送料240円)


●猿とインテリ  (一部掲載)
(1936年8月11日門司新報掲載)
 熱心な訓練者の異常な努力によって、 動物仲間で1番頭脳の発達している類人猿が少しばかり人語を解するようになって、 白痴の頭脳と比較されることがある。 が所詮(しよせん)猿は猿で、 ついにいかなる努力にもかかわらず人類の最下等の頭脳にすらおよばないのである。
 人類の社会生活が複雑化し、 非自然的な世紀末的現象を呈し倫理とかモラルとかいわれるものが混沌としてくると、 人類は改めて自分がいかに動物よりも優位であるかを証明して安心してみるのである。
 まず第1に確かに人類の頭脳は優秀である、 人類には整然たる社会的モラルがある……と高らかに叫ぶ。
 よろしい、 確かにその通りである。
 そこで、 この優秀なる人類の頭脳も、 それが正当に使われなければ大して賞賛するには値しない事も同様である。
 人智の限りをつくして人を殺す武器を生産したり、 人類のために築きなされた偉大なる文化の書を火で焼いたり、 優れた科学者、 哲学者、 芸術家、 社会運動家を虐殺したりあるいは国外に追放し、 または獄内に閉じ込めたり、 あるいは非文明国に近代的な武器をもっておびただしい殺戮(りく)をあえてしたり等々々まことにもって動物以下ではないか。
 今日は言いたいことが言えない時代である。 と同時にもちろんしたいことができない時代である。−胸に手をおいてそれをよく考えてみて、 なおかつ今日の言いたいことが言えないこと、 したいことができない時代をもって、 社会的倫理に出発したものといい、 人類の誇り得るモラルの現れといえるか?
 言いたいことが言えないのはインテリの悲劇である。 ある過渡期においては 「首は斬(き)られてもいいから頭だけは残しておいて欲しい」 とインテリは叫んだ。 ところが今日ではインテリの頭は砂の詰まった空骸のごときであり、 何のために生きているのか判別しがたくなり果ててしまったのである。
 してみれば科学者の証明した人類の頭脳の優秀性もついに架空な抽象論でしかあり得ないのである。
 そこで心のうさの捨てどころはいよいよ氾濫(はんらん)する。
 科学者先生よ! インテリが悲嘆に暮れていますから、 時々お暇の節には、 人類と動物の頭脳の差を明らかにしてやって下さい。


手紙 ヒトラー様  (1936年12月5日)
 たいへん寒くなりましたが、 あなたは四六時中、 大きい目玉をぐりぐりさせ、 手を振り上げて御奮闘のようでございますが、 定めし目からは涙がながれ、 手は霜やけで赤黒く腐った熟柿のようにはれあがっていることであろうと、 新聞であなたのお姿を拝見するごとに、 日夜ご推察申し上げている次第でございます。
 あなたのような大英雄が治められているドイツ国民は、 たいへん幸せな国民であろうと信じていますが、 なにぶんにも日本におりましてはさっぱりわからないので残念に思っています。 日本国の官僚さんや脊髄(せきずい)が右の方へ少々歪(ゆが)んでいる人たちは、 あなたの勇敢な演説に涙を流して手を叩(たた)いているのも、 もっともなことと存じますが、 それにしてもわからない人間というものは仕方のないもので、 日本国の人民どもや、 インテリと称する知識階級などは、 どうした間違いからかあなたが猿に似ているの、 ナチスは文化の破壊者だのと、 まるで頭のないゴロツキのように申しております。 そしてドイツの人民は決してあなたを信頼などしていず、 あなたが無理押しに口を塞(ふさ)いでいるのだ、 などと考えていますが、 これは何かの間違いであろうと存じます。 あの盛大なオリンピックで、 ドイツ人民たちが 「ハイル ヒトラー」 「ハイル ヒトラー」 とあなたへの親愛の情をあふれさせているのを、 「サルニ ニトラー」 と言っているのかなど、 まことに言語道断なことを申したりします。 日独防共協定が結ばれて日本国にもナチス旗が売り出しの広告にまで使用されることになりましたが、 「あのマンジを反対にした葬式の旗はどこの旗か?」 などと申しますので、 「あれはヒトラー様主宰のナチス党旗でハーケンクロイツです」 と申しますと、 「ナニ剥(は)げん黒い尻(けつ)? それではヒトラーは瀬戸物屋の親分か」 など、 まったく学問のないものは仕方のないものでございます。
 それにしても日本国の官僚さんは、 あなたを手本にして、 一生懸命で努力いたしていますからお喜び下さい。 もっとも今までのところでは何もかもみんな人民の反対をくらって、 例えば芸術統制なども、 文展はボロボロの醜態ぶりですし、 映画統制雑誌などもテンデ人民は読みませんので、 ホトホト困り果てている模様ですが、 いまに上手になることと思います。 人民が生活に困ることより国防の方が大切だと考えている点など、 日本国の官僚さんのイデオロギーは段々あなたに近づきつつありますし、 ことに公債政策など、 世界中の誰よりも日本国の官僚さんは、 あなたのおよびエチオピア 掠奪(りゃくだつ)の英雄ムソリーニ様のイデオロギーを手本とし勤勉これつとめている証拠でございますから、 以後もどうぞ可愛がってやってください。 ではこれで失礼いたします。 乱文で意に満たぬふしふしは何卒ご賢察のほど、 お願いいたします。  かしこ  
 大和撫子 

破廉恥時代    (1937年2月2日)
 物を盗んだ泥棒がシャアシャアとしていると、 ひとつ“盗人たけだけしい”という俗言があるが、 最もよく当てはまるのに、 わがナチヒトラー君がいる。 彼がしばしば恥しげもなくやる名(?)演説くらい、 世界中を笑わせるものはないが、 ことにナチス革命4周年のヒトラーの大演説など、 大辻司郎や柳家金五楼の比ではないのである。
 彼は言う、 ナチスはほとんど鮮血に血塗らずして国民革命を成就したと。 なるほど鮮血を見せなかったかも知れない。 牢獄が超満員で誰が何で殺されたかわからないから、 まあそれはいいとして 「世人は口に民主主義と独裁主義の優劣を論議するが、 ナチスこそ言葉の最善の意味の民主主義そのもの」 だそうで 「世界広しといえども余のごとく人民の名において語る資格を具有している人はあるまい」 にいたっては、 われわれも長生きすれば面白い目にあえるものだと、 開いた口が塞(ふさ)がらないのである。 ナチドイツが民主主義なら泥棒は善人であり、 人殺しは救命者である。 もっとも当節は少々インチキでも、 言いたいことを威張って言った方が勝つらしいから、 何も不思議がることはないかも知れない。 「人民の名」 云々も、 なるほど罪深い連中のなかで、 平気で言うほどのアツカマシイ男は世界広しといえどもヒトラーをのけてはいないであろう。
 そのような意味で彼が第1人者であることは、 否定する余地はない。 平和に関する大熱弁など、 なるほどヒトラーでなくては言えないような至言名言に満ちみちている。
 世界平和を要望するといい、 無責任な国際的煽動屋を退治し、 組織的に国際政局の雰囲気を毒する徒輩を撲滅することが必要であるという口の下から、 ヌケ図々しくも植民地要求の熱情を大いに示しているのである。 「無責任な云々」 の煽動屋とはまずヨーロッパではナチスかムソリーニくらいなもので、 ナチスの御本尊ヒトラーがわざわざ言ってみなくてもいいのである。 自分で自分を退治し撲滅すればこの問題は簡単に解決がつくのである。
 人民を戦争にかり立てる宣伝に終始し、 鉄砲や大砲を作り出すのに憂き身をやつし、 人民を貧窮の飢餓(きが)線下に突落し、 文句を言うものは獄に繋(つな)ぐ男が 「人民の名において」 語り、 スペインに内乱が起れば反軍に義勇軍を送り、 不干渉論を一 蹴 して好戦的策動の限りを尽くし、 人民の金を搾り上げて兵器を作る男が 「平和を云々」 するのである。
 もっとも物価を大暴騰させ、 大増税をやり、 国策として 「国民生活の安定はつとに現内閣の留意している所である」 としゃあしゃあという男が日本にもいるのだから、 不思議ではないかも知れない。
 それにしてもこのヒトラー迷演説は芝居気たっぷりに結びに 「天におわす神よ、 この大業を成就するため平和を与え給え」と祈ったとあるが、当節は軍服を着用におよんだ神様が天にいるのであろう。 それにしても神様もヒトラーからものを頼まれるとは、 落ちぶれ果てたものである。
 まことに、 まことに、 世界中を見るに天上といわず地上といわず、 今日は破廉恥の時代である。 神さま! 

●オリンピック出し抜き合戦    (1936年8月5日)
 オリンピックの聖戦開く! ここで大新聞たるもの一大報道戦を展開、 決戦を試みずんばあるべからずとあって各社秘策に秘策を練り上げた。
 かたや毎日は 「新鮮な感覚をモッテ巴里(パリ)を描いて貰う」 という表向きの社告を発表して文学の神様コト横光利一を、 テキがその気なら我またなんぞ敗けておらんやと朝日は 「聖林(ハリウツド)で沢山歌を作りたい」 とかなんとか言わせて流行歌の神様コト西條八十を、 それぞれオリンピック報道線上に引出すことにひそかに決定して、 両神様は目指すは同じベルリンへ、 因果を含められて西東と船出した。
 毎日が横光利一を引っ張り出したことは、 利一の親分菊池寛と毎日の腐れ縁からとはいえ、 スターバリューは当代文壇随一といえる。 従って朝日の西條八十ではいささか手薄の感がある。 大体この神様引出し合戦では朝日は毎日に機先を制せられたのであるが、 その補充の意味で送られたのがあまり補充映えはしないが二宮尊徳コト武者小路実篤である。
 さて、 まず毎日が 「スポーツ文学を創生せしめるであろう」 と最大限の紹介文を掲げて、 横光利一のダラダラと長たらしいオリンピック村印象記を朝刊の1面にドッと載せて一弾を放った。 さればこそわれも慌てずんばあるべからずと競技開催第1日の夕刊に西條、 武者小路の観戦記をウチ並べて相対峙した。
 いまのところでは、 スターバリューの点と出し抜いて機先を制した点で、 毎日の方が少しばかり点数はいいといえるだろう。 オリンピックの終幕の日まで、さてどちらが点数を上げるか? 見ものである。
 それにしてもカナシイのはオリンピックの写真である。 その日その日の写真を見るがよい。 出し抜き専門の両社はオロカ地方二流紙にいたるまで、 十把一からげで写っている。 人間が右を向いている日には日本中の新聞の写真は全部右を向いているし、 左を向いている時は左、 寸分違いはないのである。 これは通信統制が生んだアワレむべき結末というか? マアそれはいいとして、 あの写真はいったいナンデスか? あれから受ける印象はまったく正直なところ大雨の日にミイラが踊っとるみたいである。 ウソと思うならもう1度 「聖火競技場に入る」 ナンテ奴を見るがいい。 朝日、 毎日サン、 コレは何とかなりまへんヤロカ。

門商犬糞   (1936年11月17日)
 門司商業の内部が腐っていることは少なくとも門司においては周知の事実である。 フンプンたる臭気に気のつかなかったのは前校長の谷川某や職員連中くらいのもので、 数百名の最も貴重な人生の出発期の教育にあたる学園が、 長期間にわたってどぶ泥のようなぬかるみに放任されていたことは、 重大なる社会問題であり、 人道上からも憎むべき罪悪であると言えるのである。
 いったいこれほど長い間これが放っておかれたのは、 人事における実質的な権利を校長が持っている慣例と、 その校長がヌラリクラリと煮え切らず、 今春前学務課長久保田氏を犬死させて、 恬然(てんぜん)としている心臓弁膜の厚さにあったのであり、 そのような慣例ゆえに、 一朝一夕にはどうにもならなかったわけである。
 いたずらにこのような悪弊が長く続くということは、 前にも書いたように、 その社会的性質からいって、 一校長がどうのこうの、 職員がどうのこうのの問題ではなく、 何百何千の生徒にとって迷惑千万な話である。
 腐臭の膿(うみ)は必然的に爆発する。 学園浄化の旗を掲げて、 5年生が立上がった。 盟休は各方面に異状な衝動を与えて、 これを契機に今までなすべくしてなされなかった学園の腐臭を徹底的にえぐることにまで高まり、 さすがの谷川校長も辞表提出となり、 学内職員の暗闘を根絶すべく、 全職員の辞表提出となったが、 これまではいいとして、 さて14日の職員会議は、 首謀者と見られる5年生8名を無期停学、 盟休参加生徒120余名を譴責(けんせき)処分にそれぞれ通告したが、 これはいったいどういうわけであろうか? 学校をここまで腐らし、 何百何千の生徒および卒学生に迷惑を掛けた職員が、 果敢に腐臭除去のためにたたかった生徒を罰するとは、 どういう方程式から割出した答えであろう? 現状の門商職員会議にそんな資格があると思っているのか? 近ごろこれくらい犬糞的な珍芸は稀(まれ)である。
 盟休の首謀者および参加者は進歩的良心的分子であっても、 罰せらるべき性質のものではない。 1つの学園の進歩が必然的に盟休を要求し、 それが進歩的分子に反映して、 決起にいたったもので、 門商が腐っていなかったら断じて盟休もなければ、 首謀者もいないのである。
 本末を転倒した職員どもの犬糞行為は許さるべきではない。 このような処分が、 職員どもよりはるかに大きい未来をもっている生徒たちの将来に、 いかなる暗影をおよぼすかに想到すれば、 慓りつ然ぜんとさせられるのである。 またこのような犬糞的行為が、 次の世代を担うべき若々しきゼネレーション一般を、 いかに無気力のどん底に突き落すか、 これが一門商のみならず、 社会一般に与える影響も甚大である。 正しきものを、 より進歩を、 輝かしい希望を、 求めて猪突する若き者の熱情に水をかけるようなことはしてもらいたくない。 それとも悪を悪とし、 腐臭を腐臭として、 そのまま受け入れ、 その中に平然としていることが若きものへ与えられた宿命であるというのなら、 何をかいわんやである。 また仮に盟休生徒たちに罰すべき不純な行動があったとすれば、 それは現職員会議の触れるべきではなく、 一切が白紙に還元した日に、 後任校長および職員たちによってなさるべきであろう。

崩れる人情   (1936年11月18日)
 「煙草持ってる?」 と言われて気持ちよくポンと出されない御時世となった。 といって何も最初からケチなわけではないが、 こう世の中が世知辛くなり生活が難しくなれば、 7銭のバットが8銭になっただけで、 人間と人間の間にこんなわだかまりができるのである。 どちらが悪いのでもない、 政府が値上げしたからである。
 人情が紙のように薄くなったといい、 日本古来の 醇風(じゅんぷう)たる家族制度が破壊に瀕(ひん)しているといい、 当の政治家先生や教育家道徳家先生連は、 あたかも人民が悪いのかのように声を大にして嘆くが、 これは少々見当外れである。
 肉親への愛情は誰でも持っている。 大きくなって親たちを喜ばせようという夢は、 大抵のものが少年時代に持ち続けたものであるが、 さて成長してみれば、 夢は現実のものとならず、 辛うじて職にありつきカツガツ人に迷惑をかけずに食っていくのが精一杯であるのが普通である。 ここに親と子のうすら寒い悲劇が横たわっているのである。 いや当節は親どころではない。 学齢期前の子供を2、 3人も持っている若い親たちの、 無心な自分の子供たちを、 立派に成長させ、 教育をさせ、 生活を確立してやり得る自信を持っているものがいったいこの世の中にどれくらいいるというのか?
 考えて解決のつかないことを思い詰めても、 所詮(しょせん)どうどうめぐりをするばかりだから誰も四六時中思案もしていまいが、 じっと自分の胸に手を当ててみて、 少しの不安もない者がいったい何人居ると言えるか? ほとんどの人々の生活は、 辛うじて組立てているイミテーションの生活であり、 1本杭を抜けばバラバラに崩れて収拾のつかなくなる危険を、 不安として胸に蔵しているのである。 このような状態に追詰められては、 他人への人情どころか、 自分および自分の庇護(ひご)がなければ到底生活できない子供、 および妻その他の係累が精一杯なのである。 みんながこんな風だから、 人情なんてとうの昔に羊に食われてしまうのである。
 そこに加えて物価はどんどん上がり、 税金は高くなり、 郵貯の利率は下がり、 保険にまで税金がかかる。 これでは家族制度が崩壊する方が当り前である。 馬場財政の方にどうやら原因はあるらしい。
 為政者先生よ、 教育家道徳家先生よ! 見当違いの御高説は、 いくら理路整然と声を大にして説いたところで、 ついに屁(へ)のツッパリにもならないこと、 お含みおき下さい。

護憲の一戦   (1936年11月20日)
 20数年の長年月と、 巨万の工費を投じて完成した“日本憲政の殿堂”であるべき新議事堂だが、 さてできあがったころには憲政どころかこの国にはファッショ野郎どもが時を得顔にはびこっており、 政党は何をしているのやらサッパリわからず、 政党の親方達は、 かたや去勢されたトラのようであったり、 かたや人民の支持なく代議士選挙にさえあえなく落選したりで、 新豪華議事堂の方が内容の貧弱に反比例して立派すぎ、 代議士先生ども少々恥しくはないか、 というところである。
 ところが軍部の行革問題にはさすが奴隷のように忍耐強い押され押されの政党もたまりかねたとみえ、 議員制度調査会第2回総会で、 軍部にたいして痛烈な質問を投げ、 当の陸相寺内クンの出席を執拗に要求し、 テレンパレンの煮えたとも煮えんとも知れぬ広田クンをキュウキュウいわせ、 まず第一弾を勇敢に放ったことは、 先日この欄に書いた“代議士奮起録”とともに、 近ごろ腐り続けの政党にしてはなかなかできのいい方である。
 もともと日本帝国は、 ファッショどもがどうワメこうと、 議会政治の国であり、 立憲政治の国である。 その根本をゆるがされはじめたのは、 何もいまにはじまったことではなく、 満州事変を契機としてだんだんはなはだしくなったのである。 政党は腐ってしまって、 所属代議士がいるという形式だけで、 事実は人民の信頼はまったくなく、 そのことの一反動として、 人民は政党以外のものにある種の期待を持った。 人民はファッショが大嫌いであるが、 信ずべき何ものもないことが、 それがファッショであるかどうかを見極める余裕もなく、 ここにファッショの台頭を促したのである。
 従ってファッショの横行は政党自身がそのような素地をつくったともいえるべく、 今ごろ決起したというのは、 決して当り前ではないのである。 しかしながら、 いまからでも遅くはないとあって、 いよいよ新議事堂第一回の御目見得である所の第70議会で、 憲政興亡の一戦を交えようというのである。
 陣頭に立ったのは決して政党総裁ではない。 2人とも護憲三派時代生き残りの老政客、 一人は政友会の浜田国松であり、 一人は斎藤隆夫である。 さてこの一戦勝つか、 負けるか、 人民のすべての期待はこれにかかっているのである。 それにしても、 自ら無産階級の代表のごとくいい、 人民の反ファッショの希求によって圧倒的勝利を博した無産党はいったい何をしているか? アともスともいわないのである。 ここにおいて、 この国に労働運動華やかなりし時代にしばしばいわれたように、 資本主義が最高の段階に達したとき、 社会民主主義者たちが、 決して真の民衆の味方でないことが、 どうやら明らかになったようであり、 人民たるもの大いに考えねばならぬことである。

広田内閣の馬脚   (1936年11月13日)
 大衆課税はなるべくしないと言っていた広田官僚内閣は、 なるべくどころか、 遠慮会釈なしに平気で大衆課税をやる内閣であることが、 どうやら人民にわかってきた。 アレヤコレヤと国策がどうの、 大衆の生活不安を除去するのと、 口の先ではなかなか調子のいいことを言っているが、 広田内閣が組閣以来、 物価が安くなったとか、 収入が多くなったとかいうためしがない。 それどころか、 人民の生活必需品はどんどん値上げをしている。 砂糖が上がる。 ビールが上がる。 酒が上がる。 織物が上がる。 煙草が上がる。 近くは郵便料金もポンと上げる計画がチャンと国策の中に入っているのである。 これを“広田クン”は 「人民よ安心せよ」 と言うのである。 これで人民の生活の不安が除去されれば天下はまことに太平である。
 広田内閣が大衆課税をなるべくしないというのは、 何を標準にして言っているのであろうか。 ひょっとしたら人民を不死身のデクの棒くらいに考えているのかも知れない。
 それにしても人民が物を言わぬのを幸いに、 勝手な振舞をするのは不届き千万である。 たかだか一握りの電力ブルジョアの反対を食らって、 シドロモドロの醜態振りを発揮して、 修正につぐ修正で馬脚を現した広田内閣は、 9千万人民の生活に直接ピーンと響いてくる生活必需品の値上げの方では 「今日から値上げ」 と言ってシャアシャアとしている。 これでは弱い方が損ということになる。 同じ国策で煙草は抜き打ち、 電力案はあれほど討議される。 どうやらこのあたりに広田内閣の美しい馬脚が見えているようだ。

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