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個人競争で社会性否定に問題
低学力巡る本紙記者座談会
               現場で破産する「できる子」   2009年11月11日付

 下関市内のいわゆる「暴れる中学生」が警察に逮捕され意図的に学校から排除されている問題をめぐって、中学校で生徒がなぜ暴れているのかの解明を進めていくなかで、九九や分数が分からない、漢字が読めないなど、小学校低学年で授業がわからなくなっていく生徒が多くいて、そのうちの1部は暴れ、1部は不登校になり、1部は分からなくてもジッと座って聞いているという実態があることがわかってきた。さらに「成績のいい子」がいいわけではなく、冷酷で何をするかわからない恐ろしさを持った子がおり、学力も昔と比べたら極端にレベルが下がっていること、そして実社会に出たら使い物にならない例が多く、それが深刻な問題になっていることもわかってきた。読み書き計算という基本的なことが学校でできていないのである。この現状は民族の危機にほかならない。いったいなぜそうなったのか、どうすればよいのか、記者座談会をもって描いてみた。
  「成績のいい子」の低学力も大きな問題になっている。彼らが働き始めてからの実社会での評価はどうか。
  税務署の話で、中央から20代の超エリート、キャリア署長が来て、総務課長が面倒を見て地域に連れて行ってつきあい方などを教えるという。「役所の中では税率何%にするかというような計算をものすごい勢いでやるが、世間のことはなにも知らない」といわれていた。あるとき来た女性の署長は、葬式のときにミンクのコートを着て来て「なにもいえなかった」という。いかに度はずれているかだ。県庁の東大出身も使い物にならず、出世コースから脱落しているのがいるといっていた。
  山口県庁で、国からおりてくるエリートに頭を抱えていた。県庁の主要な部分で部下を従えられるようになったあるエリートが、県の仕事はちゃんとあるのに、それをほっぽり出して、自分が国に帰ったときの手柄のために最新の政策をやってやろうと、部下の若い連中を集めて動く。「自分の手柄ばかりでチームプレーができない」と話されていた。
  北九州の製鉄の職場の人が「最近入ってくる大学生、高校生が全然役に立たない」と憤慨していた。「とくに大学生が悪い」という。「いい大学」を出た学生はマニュアルは全部覚えることはできる。今、製鉄の作業はボタンを押せば製造できる全自動だが、なにかトラブルが起きたときや変化が起きたときに対応できないという。「マニュアルでしか考えられない。自分の頭で考えるとか、工夫するという思考すら出てこない」というのだ。
 最近は教育担当も若手になり、彼らの方も「マニュアル通りに教えたのに」という。現場では細かいことまでマニュアルばかりになっている。「私らのときには実作業を横で見て、このとき青い光が出たらこうするんだとか、そういうのを体で覚えていた」という。最近はケガをさせたらいけないと、いたるところに「安全」シールを貼っているが、結局ケガしたときには大事故になる。現場ではハシゴを登る作業があるが、最近は公園でもジャングルジムが危ないと撤去されているので、はしごが登れなかったり落ちてケガをする新入社員もいるという。
 また普通、先輩・後輩の縦系列で仕事をするが、みんな「お友だち」という感覚で入社してくるから、学ぶということがない。集団で協力しあうことができず、お互いのことを考えて連携することができない。「これでは生産現場で通用しない。日本は技術大国といわれ、私らは世界と競争してきたが、そんな子ばかりだと技術が低下して韓国などが日本を抜いていく。このままでは日本も終わりではないか」と危惧(ぐ)していた。

 論理的な思考ができず
  『分数ができない大学生』という本に書かれているが、そのような状態は各生産現場に共通していて、トラブったときに全然対応できず、パニックになってしまう。実際を見てなにが問題なのか発見し、論理的に考えて対応するという思考そのものがない。コンピューターの扱いそのものは、大学出の学生が慣れているということもあるが、コンピューターがどんな仕組みでどんな電源系統で、どうやって動いているのかということについては、彼らは全然知らない。「電卓があるから筆算や二次方程式ができなくても実際生活はやっていける」と曽野綾子や三浦朱門などが提唱した。実生活や生産現場の実際に即してトラブルを解決していくというのでなくブラックボックスをそのまま信頼する。わからないものがいっぱいある。
  北九州の高校の先生がぼやいていた。工場で新人を教育するときに「これは絶対にやったらいけないぞ」というと、逆に「それはおもしろそうだからやってみよう」といって爆発事故を何度もやり、高校に苦情がくるんだという。「興味と関心第1」だ。
  下関市立大学のある教授が「これだから“ゆとり世代”は困る」という。2人の女子学生が論文の添削を受けていたのだが、学生は「じゃあどう書いたらいいんですか」という聞き方しかできない。「どう書いたらいいかを探求する、調べるのが学生の仕事でしょ」といって追い返したところだった。
  高校生が、理科の実験にほとんど関心を持たないという。なぜかというと、結論がわかっているからやる必要はないじゃないかと。子どもに実際に即して論理的に物事を考えさせない。じっくり時間をかけて自分なりに理解していく過程を「ゆとり」といって省いてきた。そして結論さえあっていればいいとなる。百マス計算で答えが出ればいいとか、大学入試などがマークシートで答えさえあえばいいというのがそうだ。意図的にバカをつくってきた。
  70代後半の花屋の店主が「昔は尋常小学校出がほとんどだった。しかし漢字やソロバンはみんながわかって卒業していた。だから私もこうして商売ができる。中学校を卒業しても九九がわからないとはどういうことか」ととても驚いている。「最近は子どもの人権というが、そんな社会の役に立たない状態で外に出して、その方が子どもの人権を奪っているではないか」という。そういう一定の年齢の人たちの問題意識はすごい。
  勉強は読み書き計算が基礎だ。それが義務教育で学校に9年間も通わせて、九九がわからないとか、漢字が読めないという実態がある。いったいなんのために学校に通っているのか。それは大問題だし、日本の教育界にとって恥もいいところだ。20〜30年ほど前には日本の学力は世界一のレベルといわれてきたし、とくに初等・中等教育が高く評価されてきた。それが、中曽根内閣の臨教審に始まる、教育の機会均等破壊の教育改革で、底辺も学力が低下しているが、エリートも低下している。それは実際には日本から優秀な人材をなくすものだった。無惨な低学力のバカ民族づくりであり、民族の危機だ。
 
 学習の意欲も潰す 学習の内容内容も変え・努力せぬ事奨励
  中学校で九九やかけ算ができないというと、小学校で教えていないからとか出る。小学校では入ったときから動き回って勉強しない、保育園が自由保育になってダメだとか出る。結局親が悪いともいわれる。
  子どもが小学校に上がった1年生のとき、立ち歩いて席につかないし、騒いでいうことをきかない。それは「自由保育」との関連がある。「集団で同じことをするのでなく、好きなことをさせればよい」「しかってはいけない」という教育の結果だ。社会的な風潮としても「子どもに寄り添うのがいいお母さん」というのができあがっている。母親向けの育児書やテレビなどもここ十数年「子どもが嫌がることを無理やりさせてはいけない」「好きなことをやらせなさい」となっている。
  その考え方はキリスト教からきているらしい。ある小学校英語の講演会で、「日本語で教育とは“ムチで子どもを育てる”という意味だが、アメリカではキリスト教の“できるんだよ”という自己肯定の文化だ。子どもが“僕はこう思う”といえば、とにかくほめる。悪いことをしてもしからない。できないことには触れない」といっていた。
  小学校にあがってからも、1、2年では社会、理科をなくして遊びのような生活科だ。子どもたちが学力を身につけるのには努力がいるが「そのまんまの君でいい」「頑張らなくていい」「できないのも個性だ」といって、その学習意欲の背骨を折ってきた。また、農業や生産活動を学ぶものがなくなり、「消費者教育」「金融教育」を重視するといって、労働から遊離してきた。
  国語でも以前は読解力を重視して作家がなにをいわんとしているかをつかませていたが、そういう指導はダメとなり、「あなたの思っていることが正しい」「1つの結論を出してはいけない」ということになった。そして表現力ばかりを重視する。教科書もそういうところから相当変えられてきた。
  大学の哲学関係の先生がいっていた。社会的基準がなくて「自分が真理」という自己中心的なひっくり返った世界観がネックになっていると。学生からは「私の考えていることは他人にはわからない。自分がいつも見ている赤色は、他人に同じ赤色に見えているかわからないように。だから他人の気持ちをおしはかることは無意味だ」という学生がいるという。それは社会とのかかわりができず、ひきこもりになっていく土壌だといっていた。「あなたが生まれる前に社会があって、そのなかであなたがいる」といってもピンとこないという。社会的な仕組みや人間関係が先にあって、その社会的な基準を理解し、そのなかで有用な役割を果たすところに個人の存在意義、個性があるのに、最近の「個性尊重」はその社会性を否定しているといっていた。主観的観念論者がつくられている。

 真理否定し「思い」優先
  社会で役に立たない低学力が増えたというとき、自分の好き勝手な思いが優先されて、現実に即した客観的真理が学校教育のなかで否定されてきたということではないか。製鉄の話があったが、鉄がどうやってできるのかは、自分が勝手に決めることはできない。鉄ができる法則が自分の外側にあって、自分はそれを努力して理解して、現実の法則に則した動きをしなければ、鉄ができるどころか大爆発にもなる。理科にしろ、数学にしろ、そういう製造業とか農業、漁業とかの生産活動の実感と遊離したところで、空中を漂うような無味乾燥な内容になっているのではないか。
  日本の歴史学会なども、これまでの研究の蓄積をどう継承していくかとか、今の社会を発展させるためにそれをどう生かすかなどの基準はなく、「実証的に」といってこれまでだれも触れなかった興味関心のあることをやるとなって、水準がきわめて低下している。東行庵から高杉史料を盗み出した一坂太郎氏など、「史実に即して」といってあれこれほじくり出して「敗者の美学」などといって高杉冒涜、明治維新否定、幕藩体制擁護をやる。歴史がどう発展してきたか、それを法則として明らかにするというのではなく、自分の興味と関心だ。
  国立大学が独立行政法人となり、企業のための研究をやって目先カネが入るかどうかが優先されて、科学的真理かどうかは2の次になっている。
  九九ができないという低学力の問題は、地域の育成協や補導関係者のなかでは以前から問題になっていた。しかし隠されてきた。大きな教育問題として世論に明らかにされてこなかった。大学でも学力低下を隠している。やはりうちの大学が学力低下だとわかれば、生徒が集まらず定員割れするということだ。そうなれば大学評価にもかかわる、と。経営優先で低学力を隠し、バカでもなんでもたくさんきてくれたらいいとなっている。それ自体が、学校現場にウソがはびこっていることを証明している。

 生産には基礎学力必要
  成績のよいエリートが、「俺はできるんだ」と傲慢になって、世間を知らないで大矛盾をきたしてパンクする例があちこちで問題になっている。他方で、「自分はワルで低学力だった」という土建会社の経営者が、実際に就職して生産活動に従事するようになって、どういう勉強をしなければならないかを痛感したといっていた。基礎学力がいるし、専門知識がないと仕事はできないと。
 漁師の息子で学校時代は1つも漢字を覚えなかったけど、漁師になって必要に迫られて勉強し免許もとって、漢字もたくさん使って手紙をくれたのにびっくりしたと教師がいっていた。やはり勉強は労働が基本だし、人と人との社会的な関係に規制することが基本だ。
  学校の勉強が、こうした生産活動に立脚した社会的な基盤から遊離したことに低学力をもたらした決定的な問題があるのではないか。知識の源泉は、頭から頭へ、本から本へとか、コンピューターに聞けばわかるというものではなく、人間の社会的な実践だ。物づくり、生産活動が人間の基本的な活動であり、農漁業であれ製造業であれ、自然界に働きかけて人間の必要なものを生産する。そこに理科があり、数学の源泉がある。また生産活動を通じて人と人との関係、社会的な関係を結ぶ。その人と人との結びつきを基盤として、言語・国語があり、社会科がある。そこから遊離していれば、多くが働く勤労人民の子どもである生徒にとって、勉強がおもしろいわけがない。
  臨教審以来の教育改革で、好きなように遊ばせて「個性重視」「ゆとり」などといってきたが、その本質は、教育の機会均等を破壊して強烈な自己中心の競争だ。金のあるところの子は小学校から塾などで勉強して、貧乏な家庭の子は塾に行けずに遊びほうけているうちに授業についていけず、脱落してしまう。そうして中学校になったら、成績一本槍の受験競争だ。成績がいいかどうかが基準で、生徒同士が競争させられ、クラスも学年も学校も教師も競争で競わせる。勉強の遅れた子はジッとわからぬ授業を何年間も聞く羽目となり、暴れたり不登校になっていく。そして邪魔だからと教室から排除され、警察に逮捕させ排除させている。そしてこの低学力は貧困とセットだ。塾に行く子が多い学校が学力テストで点数が良く、就学援助の受給率が多い学校が点数が低い。要するに塾のおかげであり学校間競争でどこが成績がいい、悪いというものではない。

 学校も競争原理に 「できる子」も低学力
  「ゆとり」とか「個性重視」とかいってきたが、学校を支配したのは熾烈な競争原理だ。社会的規制を取り払った規制緩和、自由競争だし、教育の機会均等を取り払った競争と差別、選別、ランク付けだった。そしてできる子も低学力となった。
  石原都政はその典型で、中学校から選択制で、生徒が集まらないところは統廃合する。高校は進学校と中堅校とその他というふうに差別化してしまって、通学区も都内全体として自由選択制にした。学力テストによって学校もランクづけ、教師もランクづけ、成績の悪いところは予算を減らすというやり方だ。ものすごい市場原理競争で、格差が異常に拡大した。それを全国が追っかけている。
 そしてその前提にあるのが、東京には製造業はいらない、金融を中心にした国際都市にするという政治だ。金融詐欺のホリエモンみたいな人間ばかりつくろうとする。労働者はいらないというのだ。そしてスーパーの店員とかサービス業ならそれほど勉強しなくていいという。労働者がいなければ資本家は存在できないのが資本主義なのに、労働者がいない資本家ばかりがもうける社会にしようというバカなことをやるところまできている。
  金融工学などといってサブプライムローンなどのイカサマ証券商法で暴利をむさぼって破たんした。連中が株主資本主義などといって物づくりを破壊してきたが、それを教育の世界に持ち込んだ結果がこのザマになっている。
  私有観念にもとづく競争原理、市場原理は資本原理ということだ。利潤獲得競争が金融投機の極限までいって、学校教育にまで持ち込んできて教育をメチャクチャにした。それはエリートの低学力までもたらした。社会的な基準がなくなったらバカばっかりになるということではないか。市場原理主義を教育に持ち込んで、社会性の否定、生産労働の価値の抹殺をやってきた。資本の論理で個人競争を煽っていった。それでは学問、学力にはならない。
  勉強の内容そのものから社会的基準を奪っていった。現実には社会に出て社会の役に立つことができなければ、自分の生活もできないが、それを否定している。
 鉄で自動車ができるにしろ、橋ができるにしろ、社会に役に立つということで認められなければ給料ももらえない。社会の一員として認められるような勉強を否定している。
  製鉄の教育係があきれていたが、入ってきた大学生がまず「どうやったらお金をもうけられるか」という話ばかりするという。「お前、鉄をつくっているんだぞ。バカじゃないか」というが、関心が全然違うことにある。
  「進歩的」と見られている教師のなかに、新学力観を支持する考え方が強い。文科省が「画一化反対」「個性重視だ」ときたとき、日教組中央は真っ先に賛成してパートナー路線に行った。学校5日制賛成だし、小学校からの英語賛成だ。
  勉強を教える教師のやり方もずれたところがあるのではないか。ある中学校で、授業の進み方が早すぎて生徒がわかってもわからなくても関係なし、塾の講師が必死で復習をさせているという話があった。
 とくに今年から教科書がかわり、上の学年の内容がかなりおりているのだから、ますますわからない子どもが増える。五日制で詰め込みがひどくなったうえにますます詰め込みになる。そうしたなかでマニュアル通りに教えていればいいという教師が増えれば、子どもは悲劇だ。

 生産基盤の教育に展望
  市場原理の教育への強制というなかで、社会性の否定が深刻な学校教育の崩壊をつくっているが、それは学校を父母、地域から切り離すこととしてあらわれている。社会性を基盤にした教育の再建というなら、勤労父母、地域と一体となって、教師が子どもを育てるということが展望になる。人人が学校に子どもたちを通わせるのは、社会に役立つ人間に育てるため、必要な読み書き計算、学力をつけさせたいと思っているし、強い体力も、何よりも人間関係をまともに切り結ぶことのできる徳育を養うことを願っている。市場原理、競争原理の狂った頭にして欲しいとは思っていない。勤労父母の基本的な要求の側に教師が立つことに教育の展望があることは明らかだ。
  中曽根臨教審以来の教育改革30年で、今の学校が子どもたちのため、日本の未来のためではなく、アメリカや大資本のためにがんじがらめにされてきたということだ。反抗する者は厳罰主義と少年法改定で、警察に逮捕させ施設に送るというアメリカ式ゼロ・トレランスだ。日本を農業や漁業のない国、製造業のない無惨な国にしようという政治が人材までも破壊している。
  教師が行政的にもがんじがらめにさせられているなかで「なにもできない」「仕方がない」というところを突き破って、奮起しないといけない。子どもと日本の未来がガタガタにされようとしている。子どもたちが農漁業の後継ぎの道も破壊され、労働者として生きていく道も困難に満ちている。そして戦争の肉弾とされることも現実味を帯びている。この子どもたちの運命に関わり、子どもたちの魂に関わりを持っているのが教師だ。よりよい社会の担い手としてどう力を持った子どもを育てるか、教師集団の奮起が求められている。

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