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呉原爆展2日間で1000人が参観
イラク戦争重ね溢れる使命感
             初めて語る被爆者、真剣に学ぶ小学生  2004年2月21日付

 呉市で18日に開幕した「呉原爆展」は、2日間で1000人が参観し大盛況となっている。会場には連日のように広島の会や呉原友会の被爆者、さらに傷痍軍人会の会員、主婦などが協力し参観者を温かく迎えた。参観者は被爆者や戦争体験者が多く、かつての原爆や戦争で父や兄や夫を亡くし、遺骨もわからなかった人、戦争の痛恨の体験を胸に戦後を生きぬいてきた人人が、みずからの思いを共有できる場に出会ったと胸の内を語っている。戦後五九年たった日本に不気味に漂う不穏な動きに心を痛めながら、若い世代に語りつぐ使命感と愛情にあふれた雰囲気が会場をつつんでいる。
 開幕した18日には開会式がおこなわれた。冒頭、呉原爆被爆者友の会の植田雅軌会長があいさつ。「(原爆のことを)子どもたちは知りません。若い世代に子どもたちに苦しんできた体験を継承していくことがつとめだと思う」とのべた。
 つづいて「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる広島の会の重力敬三代表世話人は、「平和を希望する多くの人人の願いをあざわらうかのように大型輸送艦おおすみは呉から出港しました。ほんとうに腹が立つやら情けない思いで胸がいっぱいです」といい、この「おおすみ」が出港した呉で原爆展が開催されることは意義深いこと、原爆展をつうじて平和にたいする理解が深まるようお願いしたいとのべた。さらに原爆展全国キャラバンが大阪で大反響となっていることも紹介し、呉でも盛大に成功するようがんばりたいとのべた。
 ついで呉市西保健所長の香川治子氏が小笠原臣也市長のあいさつを代読した。小笠原市長は、「人類が生きていくうえですべての根源となる“平和”は、常に脅かされている」「今日の平和や繁栄が、戦争犠牲者をはじめ、様々な先人の労苦や犠牲の上に築かれていることに再び思いを致し、このような苦しみや悲しみを風化させることなく、つぎの世界に伝えていくことをあらためて決意する」とのべた。
 最後に原爆展の賛同者協力者177人を代表してあいさつした西教寺住職の岩崎正衛氏は、原爆で崇徳中学にかよっていた友人が全滅したこと、「この命を平和のために奉仕せねばならんと思っている」とのべた。さらにお釈迦の説法を引用しながら、「偉い人たちは自分は殺しはしないが、人に殺させている。ブッシュさんは何人の人人を殺させたのか」「アメリカは原爆によって何十万人の米兵の命が助かったという。日本人は人間でないということだ。一人一人が信念を持って考えていただきたい」と訴えた。
 原爆展会場の入口正面には、被爆時に崇徳中学2年生だった山根省二郎氏から提供された被爆した制服が展示された。袖口は破れ、血の跡と見られる黒ずんだシミがいまでも当時のなまなましさをものがたっている。当時、崇徳中学の一年生で奇跡的に生き残った竹村氏をつうじて同原爆展へ提供され、参観に来る人人の目を引いた。

のべ30人が被爆体験を語る
 また初日と2日目も連続して市内の吾妻小学校6年生31人と、本通小学校5年生46人が参観し呉の被爆者と広島の会の被爆者数人ずつがみずからの体験もまじえながらパネルを説明、のべ30人の被爆者が体験を語った。
 呉の婦人被爆者で当時6年生だった山中エミ子氏は、「わたしたちは戦争の悲惨をくり返させないために生かされている」と子どもたちに訴えた。山中氏は、集団疎開で田舎に出ていたが、目の病気で市内に帰り6日は病院にむかう途中で「空襲警報」が鳴り、バスをおろされたところで被爆した。そこが住吉橋で、吉島の方へむかって土手づたいに逃げたこと、火が後から迫ってきてのがれたとたんに気を失って倒れ、渡し船の船頭さんに助けられた経験を持ち、その後も生死の境をさまよいつづけたという。
 山中氏は、パネルを見ながら「血まみれでパンパンにはれていたよ」「炭になって真黒焦げで血さえ出なかった」「もし身のうえにそういうことが起きてお父さんやお母さんがそうなったらどうする」と語りかけた。
 また原爆によって九死に一生を得た佐々木忠孝氏のケロイドの跡が残る手を生徒に握らせ、「死体が一カ所に集められ、焼かれる寸前にはい出してきた人が佐々木さんです」と話し、生徒も衝撃の様子で見つめた。
 今回はじめて体験を語った天応在住の男性被爆者は、女子生徒を前に「助けようにも助け出せなかった」絵を見ながら、自分の従姉妹も骨もわからなかった痛恨の体験を涙をためて語り、「人に体験を話したのははじめて、よく聞いてくださいました」とお礼をいい、「こんなに大規模にやった原爆展ははじめてだ。原爆はいかにひどいものか伝わったと思う」と語った。

原爆で殺された肉親や友への思い溢れる
 パネルの前で涙を流していた83歳の婦人は、兵士だった30歳の主人が基町で被爆し、自分は3日後に入市し夫の遺骨を捜したが、箱には遺骨もなかった体験を涙ながらに語った。そして当時市内で見た惨状が「土左衛門(水死体)がいっぱい浮いていて材木のように流れてきては死体が船にぶつかって壊れていた」こと、その後は再婚するなどさまざまに苦労を乗りこえてきたことを語り、「このことは人に話したことはないんです。自分の願いはこういうことが二度と起きないようにすることです」と訴えていた。
 アンケートを書いていた70代の婦人は、兄が東練兵場でどのように被爆し亡くなったのかずっと気にしていたと語り、「それがきょう峠さんの詩のなかで、“…練兵場では 丁度その朝入隊した男たちが 軍服をつけて整列したとき…”と書いてあり、よく書いて残してくださいました。ほんとうにそのときのことを思うと胸のふさがる思いです」と絶句した。兄は親せき一同で見送り出征した明くる日に原爆にあったこと、子ども一人を残し、「せめてもの救いは苦しまずに亡くなったのではないかと思えることです」と峠詩集を購入した。
 戦艦大和の生き残りの男性は、「いまの若いものは平和、平和といってぬくぬくと育っているが、いまの日本は何十万、何百万の人人の犠牲と代償のうえにある平和だ。戦争というものはさびしいものだ」と語る。戦艦で出るたびに遺書を書いては破り、破っては書いていたこと、「今度は自分がやられる番だと思いながら、遺書を書いたが、妻が遺書を読んで泣くだろうと思うとそんなつらいことはない」と吐露した。さらに戦艦の上では戦場そのもので、敵機を確認するために窓をあけると「逃げる気か」と日本刀をぬこうとしたり、戦争になれば殺気だち残酷なものだと語った。
 さらに「海に沈んでいる戦艦大和の残骸をテレビに映して宝探しのようにして放映されているのを見て、死んでいった3000人の戦友に申しわけないと泣き明かした。戦争は残酷なもので、戦争だけはくり返したらいけない。それがいいたいんだ」と静かに語った。
 70代の婦人は、「県女の1年生だったんです」といったとたん、涙があふれ出し「パネルを見ると思い出されて…」と言葉にならなかった。そして自分はたまたまその日休んで助かったが、250人近い同級生のほとんどが土橋で勤労動員中に爆死したこと、生き残ったのはほんのわずかで、自分が生きているのが申しわけないと、「なにか自分にできることがあれば協力したい。わたしはイラク派兵に反対なんです。どうすればいいのか」と協力を申し出た。
 70代の婦人は、「わたしは兄を亡くした」と切り出した。「3回支那にかり出され、4回目に国内だったから、これで助かる助かると思っていたら、豊川で火薬庫が狙い撃ちされて死体もわからないほどだった」と語った。戦後は、3人の子どもに恵まれ、孫も4人すべて男の子だったことを語り、「孫たちを絶対に戦争にはとられたくないんです」と何度も涙をぬぐってパネルを1枚1枚見て回っていた。
 学校で配られたチラシを見て親や小・中学生が集団で参観する姿もあった。
 50代の婦人は、衝撃のあまりアンケートに書くペンを震わせながら、「絶対にあったらいけない。イラクの問題もあるし普通のわたしたちはこれでいいのか」と何度もみずからに問うていた。さらに「峠さんの詩は全世界に訴えられているのでしょうか。この詩は訴える力が強い。世界に広がっていくべきものです」と訴えていた。

子連れで見入る母親の姿も
 40代の母親は、「ほんとうにいま見ても怖い、胸がつぶされそうで…」といい、「ほんとうは怖いで終わっていてはいけない。イラクの問題にしても毎日がこのようなことが起こっている。現在と重なって見えてきます。もし子どもたちがその場に直面したらどうなるのかと考えると、怖いで終わってはいけない」とあらためて子どもを連れて参観すると語っていた。
 母親たちのなかでも、子どもたちに見せるまえに「自分が見ないといけない」と参観に来る人、直視できずに「また気持ちをたてなおして来ます」と、若い母親たちのなかで、この現実とむきあっていこうと葛藤しながら参観する姿があった。
 呉原爆展成功のためのカンパも4万円が寄せられ、呉市民のなかで圧倒的な支持と共感を呼んでいる。

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