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呉原爆展にむけ主催者会議
                呉原爆被害者友の会中心に40人     2004年1月22日付

 「原爆と峠三吉の詩」原爆展を成功させる広島の会と呉原爆被爆者友の会(原友会)は19日、来る2月18日から22日までの日程でそごう呉店7階イベントプラザで計画されている「呉原爆展」の主催者会議をビューポート・呉でおこなった。主催者会議には、広島の会の被爆者や事務局、呉原友会の理事らを中心に約40人が参加した。
  
  自治会や校長会も協力 呉傷痍軍人会も取り組む
 主催者会議は、はじめに呉原友会の植田雅軌会長が口火を切った後、主催団体である広島の会の竹村伸生氏があいさつした。竹村氏は、みずから旧制中学2年のときに爆心から800bのところで被爆し、ほとんどの学友が亡くなったこと、数少ない生き残りとしてなにか人の役に立つことはないかと原爆展を手伝っているとのべた。そして今回の呉原爆展が昨年八月の広島福屋八丁堀本店で開催した原爆展が火種となって動き出したこと、呉原友会の役員が廿日市まで展示を見に来られ、その熱意を感じ共にやっていきたいと思ったことを明らかにした。さらに「イラクの自衛隊派遣やアメリカの小型核兵器開発、エノラゲイ展示など原爆を正当化することがやられているなかで、“また戦争が起きるのだろうか”と感じている」とのべ、呉原友会の人人と協力してやっていきたいとのべた。
 つづいて呉原友会がこの間、市や300をこえる自治会に働きかけてポスター1000枚をおろろしたこと、校長会にもお願いして1万7000枚のチラシを学校で配布してもらうことが報告された。
 広島の会の事務局から、この間の経過報告がおこなわれた。3年まえの旧日銀支店でおこなわれた広島原爆展を契機に、「広島のほんとうの声を若い世代に、全国、世界に伝えよう」と各地の公民館や学校、街頭で連続的に原爆展がおこなわれてきたこと、昨年八月には福屋八丁堀本店で「広島市民原爆展」を開催し、7000人が来場し、これまで体験を語ることがなかった広島の被爆市民が集い、熱をこめて語り合う感動的な場となったことを報告した。そして呉でも運動が広がっていることを明らかにした。
 ひきつづいて広島の会の被爆者らがみずからの体験も交え、原爆展への思いを呉の被爆者たちに伝えた。
 この2年来、原爆展運動にたずさわってきた被爆者は、「原爆のことが風化させられていくように感じているなかで、これまで被爆者にとって話す場がなかった。原爆展にはそういう人たちが集まるのではないかと思う。広島、長崎の悲劇を伝え、戦争のない世の中にしたい」(70代、男性)、「広島市内の地獄の光景を見て、なにか役に立つことはないかと思い、福屋八丁堀で原爆展を手伝い、廿日市原爆展も手伝った。廿日市でも授業で子どもが参観し、パネルを見ながら話させてもらった。風化させないためにも子どもたちに伝えていきたい」(70代、男性)と思いを語った。
 福屋での原爆展ではじめて体験を語るようになった70代男性は、倉橋町生まれで、旧制中学2年で学徒動員先で被爆し、顔を半分くらい焼き、腕にもひどい火傷をし、肉片が落ち白骨がみえていた当時の生々しい様子を語った。福屋ではじめて体験を話したことで、「この活動をやろうと決めました」と、子どもたちから届く感想文などに感動し、あらためて戦争や原爆があってはならない思いを強くし、励まされているとのべた。さらに最近、原爆を受けた同年配の親戚が白血病で亡くなったことを聞き、「まだ原爆の影響はつづいていることを痛感した」と語っていた。
 呉傷痍軍人会の会長で呉原爆展を呼びかけた佐々木忠孝氏は、福屋での原爆展に協力したことが縁で原爆展を傷痍軍人会としてもとりくむことになったと語り、はじめは「広島でやっても人が集まらないのではないかと思っていた。それはとんでもなかった。初日、会場には溢れんばかりの人人でビックリした」と心境を語り、「原爆のことを忘れていない、知らない人がいっぱいいると思った。呉でもぜひやりたいと思った」とのべ、呉はまだ眠っている、今回の原爆展を成功させたいとのべた。
 この間、地域で会員の人人に働きかけてきた原友会の理事は、新聞販売所を経営する会員がいて、「原爆展のチラシを無料で配ってもいい。できれば隣の地区の販売所にも働きかけて配ろう」という話がされていること、「チラシは準備してもらえるのか」と質問も出され、事務局も「市民に知らせるためにもそのような動きを全市に広げたい」と訴えていた。

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