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巨大な行動になった長崎の意志
長崎「原爆と戦争展」
              熱帯びた若者との交流     2008年7月7日付

 「被爆市民と戦地体験者の思いを結び、若い世代、全国・世界に語り継ごう!」をスローガンに先月29日からおこなわれてきた第4回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、原爆展を成功させる広島の会、下関原爆被害者の会)は6日、8日間で2000人の参観者を集め、大盛況のうちに閉幕した。アンケートは489枚が寄せられ会期中に新たに加わった人を含めて、賛同協力者は約300人に及んだ。
 第4回目となった「原爆と戦争展」は、広島と並んで世界で唯一の被爆地であり、長年「祈りの地」として沈黙を強いられてきた長崎の被爆市民、戦争体験者が一丸となって行動し、若い世代に体験を語り継ぎ、「ふたたび日本を核戦争の戦場にさせない」というゆるぎない意志を全国に発信するものとなった。
 会場には、「長崎の会」の被爆者、戦争体験者が毎日のように常駐し、高校生や大学生、青年教師、労働者などに熱をこめて体験を語り伝えた。スタッフとして関わった被爆者、市民はのべ60人となり、市民同士の交流は熱気を帯びた。
 友人や家族と連れ立ってくる市民や、県内各地からも参観者が多く詰めかけ、これまで胸に秘めていた体験や、「真実を語らなければ、死んでも死にきれない」「2度と戦争を起こさせないために力になりたい」と協力を申し出る人が後を絶たなかった。
 何度もパネルを見返していた年配婦人は、「母と妹と自分が被爆し、道ノ尾駅から爆心地を通って家まで帰ったが、足元にはあちこち死体が転がっていた。母も妹も戦後すぐに亡くなり、乞食のような生活だった」と語りかけてきた。自分と妹の髪が抜けて丸坊主になり、心配した母親が自分たちの頭に炭を塗って学校へ通わせたが、友だちから「被爆者はくさい、汚い」といじめられたことを語った。
 「あるとき2人の友だちといっしょに呼ばれて、米兵から私たちの乞食のような姿を写真に撮られた。友だちから“あんたの写真が展示してある”といわれて、見に行くと街角の展示に自分たちの惨めな姿があった。それ以来、2度と写真展は見たいとは思わなかった。だが、今日のこのような展示なら力になりたい」と協力を申し出た。
 「この展示は毎年見ている」という年配男性は、「動員学徒の指導員をしていた父はボロボロになって帰ってきたが、一カ月後に原子病で歯茎から血を流して死んだ。竹の久保で一家全滅した親戚もいる。アメリカは人間を灰どころか粉にして、いまだに核兵器の開発をやっている。日本で使ったナパーム弾をベトナムで使うなど、ますます残虐なことをやっている。もう、私の怒りは個人的なものではない」と激しく語った。
 「日本では戦争を早く終わらせるためといいながら、全国民を焼き殺し、イラクでもフセインを捕まえるといってフセインが殺した以上の国民を殺した。アメリカこそ最大の戦争犯罪者だ。日本がこれだけの犠牲にあいながらアメリカに追随していることに腸が煮えくり返っている。ぜひ、今後も続けて欲しい」と話して賛同者となった。
 80代の戦争体験者の男性は、17歳で佐世保の海兵団に志願し、潜水艦部隊としてトラック島へ渡った体験を語った。米軍の機動部隊を避けるためにサイパンへ立ち寄り、東北のカツオ船5、6隻でトラック島へ向かったが、焼き玉エンジン2つでは6しか出ず、波乗りのような速度で10日かかった。その間に米軍の攻撃を受けたが、戦力は38歩兵銃が2丁だけで機関砲1発で何隻も沈められた。
 「トラック島では米軍の艦砲射撃、機銃掃射に加えアメーバ赤痢やマラリアに襲われたが海軍病院での治療は水とお粥しかなく朝になると冷たくなっている兵隊が、何人もいた。毎日10体ずつ遺体を埋める穴を掘るのが仕事だった。悲惨を通り越して、呆然とした日日を送っていた。割り切って死んだものはいない。戦争を憎んで、憎んで死んでいったのだ。戦場では人間1人の力はあまりにも無力で、“どうか死ぬときは1発で殺してくれ”と願うしかなかった」と語った。「命からがら帰ってきた日本は、てのひらを返したように簡単にアメリカの植民地になったが、1番苦労したのは下下の国民ではないか。アメリカのいいなりに流されていたら、日本はまた同じ目にあう。若い人には真剣に戦争に反対してほしい」と語って、アメリカ政府に原爆の謝罪を求める署名を記した。

 戦争体験学ぶ学生達 集団参観し真剣に論議
 会場では、運営に携わる被爆者たちが参観者に運動への参加を呼びかけ、お互いの思いを語り合いながら絆を深めていた。また、親世代、青年、学生たちの真剣さと「戦争体験を受け継いで行動したい」という強い意欲は、被爆者、戦争体験者の切実な思いと深く響きあった。長崎西高校、長崎大学、長崎県立大学、長崎県立シーボルト大学をはじめ、市内、県内の学校から学生たちが集団で訪れて体験を学び、世代を越えて真剣な論議が広がった。
 長崎大学の男子学生は、「これまで学内の団体で戦争展をやったこともあるが、それは日本軍の加害の歴史を強調するものだった。自分は下関や全国の空襲、東南アジアや満州などでの戦争の実態を知らなかった。若い人が戦地に行ったのは、自分の意志に関わらず、どこに行くかも知らされず、行き着いた戦場で餓死や病死で死んでいった。いろんな心の傷を受けながら生きてこられたのだと思った。“中国では日本軍が点と線だけで占領したと騒いでいたが、それはアメリカのイラク占領と同じ”という体験者の話にハッとした」と衝撃の面もちで語った。
 これまでいろいろ運動をやっても根本的な解決にならず、メディアの情報操作という大きな力に対してどうすることもできないという無力感を感じていたが、「戦争には反対だし、戦争にくみする側には絶対になりたくない。どうすれば戦争政治を変えていくことができるのか」と真剣に悩んでいたという。「ここにきて、体験者のなかに真実があるということに勇気づけられた。このように自分より若い人がたくさんきて真剣に話を聞いているのも驚きだった。やはり、自分自身が立ち上がって真実を知り、まわりの人に広げていきたい」と決意を語って、賛同協力を申し出た。
 長崎大学医学部の女学生は「亜熱帯、熱帯地方での病気を治したいと思って勉強している。私の祖父の兄が医者で満州で若くして死んでいて、小さいときから祖父や祖母が“悔しい”と繰り返し話してくれた。きっとアメーバ赤痢やデング熱などの熱帯病で亡くなったのだと思う。地元の愛知県でも空襲はひどかったと聞いているが、なぜここまでやる必要があったのかはじめて知った。上の方ではもともと戦争をやる理由があったのだ。絶対に繰り返してはいけない」と語って賛同者となり、被爆者交流会での被爆者らの話を真剣に聞き入っていた。
 市内の小学校の教員は、会場にいた被爆婦人と交流し、「学校では永井隆の紙芝居を子どもたちがやるようになっているが、教師である私も子どもたちも生の体験を聞いたことがない。ぜひ学校でやってほしい」と願い出た。「戦争を知らない世代がもっと勉強して子どもたちに伝えていかなければ愚かな歴史が教訓として生かされない。今日は、決意を新たにした」と噛みしめるように思いを語って被爆者と連絡先を交換し、『原爆と大戦の真実』パネル冊子を購入していった。
 28歳の青年労働者は、「展示を見て涙が出た。沖縄戦、第2次大戦の真実を知り、日本をアメリカがコントロールして日本国民を踊らせてきたことがわかった。長崎でなにか平和運動をしたくて平和大使などの集会に出たが本物に出会うことはできなかった。今日は“生の声を聞かせたい”という被爆者の訴えを聞き、こういう運動なら参加したいと思った」とのべ、8月に広島で行われる原水爆禁止広島集会に参加することを申し出た。
 また、「原爆を学ぶために他県から入学してきて、原爆資料館などにも通ったが、あれでは長崎をPRする程度のものでしかないと感じていた。長崎出身の友だちが原爆に関心がないことがショックだった。長崎から原爆のことを伝えていくために力になりたい」(県立大学・女学生)「大学のカリキュラムに加えて欲しい」(長崎大学・女学生)など、学生が積極的に協力を申し出ていった。「自治会やPTAに呼びかけて地域でこの展示をやりたい」と申し出る親たちもみられた。

 確信に満ち閉幕式 長崎の運動の発展誓う
 次次と参観者が詰めかけ場内の熱気もさめやらぬなか、午後5時からは閉幕式が開かれた。
 主催者として、原爆展を成功させる長崎の会の永田良幸会長は、「今回は下関や広島からの多大な援助で成功させることができた」ことへのお礼をのべ、「会期中には集団参観した桜馬場中学校をはじめ、若い人がこれまでになく真剣に体験を学んでくれた。8月6日におこなわれる広島市でも子どもたちも多数参加して体験を聞いてくれる。長崎からもぜひ行きましょう」と原水爆禁止広島集会への参加を呼びかけた。
 事務局から原爆展の概況が報告されたのち市内の被爆者から感想が語られた。数日に渡って会場で体験を語った被爆婦人は、「8日間を通して若い人が多く、地元の子どもたちに被爆者の生の声を聞かせることができたのが最大の喜びだった。来年は、もっと多くの学校へ参観を呼びかけたい。高齢になり、次の世代を教育していくことが私たちの責務だと思う。来年にむけてがんばりましょう」と意気揚揚とのべた。
 家族4人を原爆で失った被爆婦人は、「原爆と戦争展」を通じてはじめて子どもたちに体験を語ったことを語り、「とにかく戦争は2度としてはならないと強く思う。被爆者はモルモットかというパネルがあったが、やっぱり核兵器の廃絶は私たちの使命だと思う。体の続く限りがんばりたい」と抱負をのべた。他の参加者からも、「子どもたちから“ありがとう”“またいくよ”という声をもらいうれしい」「平和のためにみなさんと協力してがんばりたい」と意欲に満ちた発言が相次ぎ、今回の成果をもとに被爆地・長崎の運動をさらに発展させていくことを誓い合い、名残を惜しむように会を閉じた。

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