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郷土廃墟にさせぬ思い共有
廿日市原爆と戦争展閉幕
             世代超えて行動求める意欲   2008年1月23日付

  廿日市市のはつかいち美術ギャラリー(廿日市市役所併設)で開催されてきた「廿日市・原爆と戦争展」(主催・原爆展を成功させる広島の会)は20日、5日間で約900人の参観者を集めて閉幕した。被爆者、戦争体験者たちのこれまで語ることのできなかった痛切な体験が語りあわれ、320万人もの人人を死に追いやった日米政府の戦争計画と、戦後60年たってアメリカの植民地となりはて、再び日本を戦場に引きずり込もうとする今日の政治への底深い怒りを世代をこえて共有しあった。
 とくに、隣接する岩国をはじめとする在日米軍再編、憲法改定、日本全土へのミサイル配備や米軍への給油活動の再開など、国民生活を圧迫しつつ進行するアメリカ従属政治に対する怒りは強く、「再び郷土を原爆の廃虚にさせるな!」「子や孫のために黙っていてはいけない」という切迫した思いが語りあわれた。
 最終日にかけて、年配者に加えて、親子連れ、会社員、教師など現役世代や被爆二世の参観が増えた。パネルを通じて、これまで聞くことのなかった父母の経験にふれ涙する姿や、会場につめて体験を語った「広島の会」の被爆者たちの話を学び、みずからも行動を求める積極的な姿がめだった。
 40代の婦人教師は、「これまでの戦争についての認識が間違っていた。兵隊の天下で、そのために庶民が苦しんだと思っていたが、外地ではほとんどが餓死や病気で死んでいくなど、ひどい境遇に置かれていたことを初めて知った。亡くなった祖父は兵隊経験者で“負けるとわかっていた…”といっていたが、いいたいこともいえなかった祖父の気持ちが初めてわかった」と涙をにじませて語った。
 「廿日市でも米軍機が空を飛んでいるのを見る。形は変わっても、今も戦前と同じになってきていると被爆者の方はいわれていたが、その通りだと思う。この犠牲のうえに立って、自分たちがなにをしないといけないのか考えていきたい」と話した。
 広島の会の被爆者から体験を聞いた子どもたちを通じて訪れた小学校教師は、「原爆についてはこれまで何度も学習してきたが、パネルの写真や千人針などの実物は胸に迫るものがあった。まずは自分自身がこの事実を真剣に受けとめて、学校の同僚や子どもたちに必ず受け継いでいきたい」と語り、被爆者を学校に招いて学習することを申し出た。
 長崎出身の50代の婦人は、「母も被爆しているが体験は一切語らぬまま亡くなり、平和教育もなかったので、今回初めて被爆の真相を知った。久間大臣は“原爆はしょうがない”といって批判されたが、今まで見てきたものすべてが、悲惨だが最終的には“しょうがない”というものばかりだった。政治家はこれだけの人が殺されてもなんとも思っていないし、意図的に民間人を殺した米軍のやり方は全然変わっていない」と悔しさをにじませて語り、「米国政府に謝罪を求める署名」を記した。

 岩国市長選巡り交流も
 会場に貼り出された「米軍再編をめぐる岩国市民の声」や米軍基地労働者のストライキ、岩国1万1000人集会を報道した本紙も関心を集めた。訪れた岩国市民からは、「広島の真剣さがよくわかった。市長選では選挙権のある地元市民が頑張りますよ!」とスタッフに声をかけていく光景も見られた。
 夫婦で参観した年配婦人は、「兄2人が人間魚雷“回天”とフィリピン海戦で戦死しているので思い出すと涙が出る。軍部だけでなく、天皇陛下も負けるとわかっていても自分たちが安泰だから戦争を続けたのだ。米軍問題でも、政治家は私利利欲や名誉欲だけで、国民の声に一切耳をかさない。議員を選ぶのも、これからは地域代表とか自分の利害ではなく、日本の政治全体をどうするのか考えてやらないといけない」と語った。
 宮島から来た70代の被爆男性は、「今、宮島でも岩国問題に関心が集まっている。ベトナム戦争、湾岸戦争のときは宮島上空をものすごい数の爆撃機が飛んでいった。艦載機がくれば、宮島を方向転換の目標にするといわれている。国は厳島神社を“国宝”とか“世界遺産”とか持ち上げながら、島民のことは一切考えてない。金で釣る国のやり方も汚いが、わずかな金で被爆地が先走りするわけにはいかない。宮島島民は全員一致して反対していく」と熱をこめて語った。
 小中高生も集団で参観し、被爆者の話に耳を傾けた。大竹市在住の男子高校生は、「頭上を米軍機が飛んでいくのは、あたりまえのように感じてきた。でも、米軍がこれだけ悲惨なことをやったとは知らなかった。アメリカは日本が逆らわないように憲法九条をつくらせ、今度はアメリカの戦争に参加させるために憲法を変えろといっているように見える。岩国に米軍艦載機が来ればひどくなるので絶対に反対です」と語った。
 19日、20日には、「戦地体験を語る会」が開かれ、約60人の老若男女が参加。元従軍看護婦の森本ヤスコ氏と駆逐艦「雪風」の乗員として沖縄特攻作戦に参加した中谷満氏が体験を語った。
 森本氏は、日赤救護看護婦として1943年にフィリピン・マニラに派遣されたが、「米軍は国際条約で攻撃を禁止されている赤十字病院や病院船を徹底的に攻撃した」こと、無差別爆撃のなかを患者を連れて逃避行し、食料や医薬品もなく、多くの同僚を失った経験を語った。
 とくに、避難中の看護婦たちに向かって米軍機は度重なる機銃掃射をやったことをあげ、「低空飛行で近づいてきて、若い米兵がガムをかみ、赤いマフラーをなびかせながら、雨あられのごとく弾を撃ち込んできた。隣にいた同僚の子の鉄カブトが割れ、弾が脳に直撃して、血綿が流れた。攻撃が終わってみれば、赤十字のバスもやられ、婦長も負傷。苦肉の策で原住民の家から大八車を借りて遺体を乗せていったが、橋を破壊されて渡れないので、その子の腕から先をメスで切って、焼いて骨にした」と言葉をつまらせながら話した。
 戦後は、「米兵による身体検査、口頭試問、私物の検査までされ、みんなデング熱や下痢になった。昭和20年12月に2年3カ月ぶりに大竹港に帰港した。向こうでは日本は今にマッチ箱くらいの爆弾でアメリカを吹っ飛ばせるから大丈夫だといっていたが、実際には広島に原爆が落とされ40万人が殺されていた。本当にアメリカが憎い」とかみしめるように話した。
 話に聞き入っていた年配者のなかには自身の体験と重ねて涙を拭う姿も見られた。
 70代の男性は、「父親が終戦間際の20年8月にフィリピンで戦病死している。昭和19年に召集を受け、そのとき病院船吉野丸に乗っていたが、行く途中で米軍に撃沈され、3000人のうち半数が死んだ。親父はそのとき助かってたどり着いたが、結局帰ってこなかった」と、拭いきれぬ憤りを語った。
 40代の男性から「岩国市長選もあるが、日本中の米軍基地について、これまでは“日本を守ってもらうためだからしかたがない”と聞かされてきたが違うと思う。体験者としてどう思われるか」と質問も出された。
 森本氏は、「沖縄でも岩国でもしかりだが、守るためではなく占領だ。米兵の兵舎から賃金まで日本の税金で払い、国民は圧迫されている。昨年起きた広島の女性暴行事件のように国民が犠牲になることはあっても守ってくれて助かったと思ったことは一度もない」と語気強く語った。
 元海軍兵士の中谷氏は、1945年4月、駆逐艦の乗員として、沖縄特攻作戦に参加し、戦艦大和の沈没の様子と海上に投げ出され油まみれになった兵士たちを必死で救助した体験を、ときおり涙で言葉をつまらせながら語った。
 「あの時点で海軍は壊滅し、日本の戦争続行は不可能だった。広島、長崎、そして日本全国が空襲で塗炭の苦しみに見舞われたが、アメリカは負けがわかり切っている日本にこんな仕打ちをする必要はなかったと思う。今もイランやイラクで紛争が続いているが、一方的な人殺し戦争によって平和は絶対に築かれない。今も海軍の戦友たちと集まっては、平和のためにわれわれはなにをすべきか話しあっている。この悲惨な経験を後世に伝えていくことが、責任であり義務であると思う」と力強くのべた。
 参加者からは大きな拍手が送られ、その後も、交流は閉幕時間まで続いた。

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