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協同組合といえぬ山口県漁協
海を売り飛ばす投機的幹部
                相互扶助掲げ尽力した先人    2014年10月17日付

 準ゼネコンの前田建設工業が下関市安岡沖に巨大な洋上風力発電を建設しようとしている問題をめぐって、地元安岡の漁師たちが組合員の九割の署名を携えて市長に反対表明を求めるなど、行動を開始している。ところが山口県漁協幹部が安岡の漁師に恫喝を加えるなどして問題になっている。漁業を守り、漁師を支えるためにあるはずの漁協が漁師を脅し、海を売り飛ばすために奔走している姿が浮き彫りになっている。漁業協同組合として本来の姿をとり戻すことが、下関市の漁業者のみならず、衰退に衰退を重ねる山口県漁業の発展のために待ったなしの課題となっている。
 
 貧困とたたかった彦島漁協の歴史

 今回の洋上風力発電をめぐっては、関係する安岡、伊崎、南風泊、彦島(海士郷)、吉見、吉母、六連の7つの浜で総会が開催され、20年間海面を貸与することが、「賛成多数」で可決されたというのが既成事実となっている。しかし、各浜では賛否を問われた記憶がない組合員がたくさんいる。内容がわからないまま組合に印鑑の提出を求められたとか、署名・捺印を求められたのちに簡単な説明があっただけだったとか、なんのことかよくわからないうちに「同意」したことになっている。
 響灘を漁場とする外海側の漁業者のなかでは、人工島建設をはじめ、白島の備蓄基地、砂とりなど、わずかな補償金と引き替えに海を売り渡してきた結果、海底はクレーターのような穴があき、潮の流れが変化してかつて産卵場所だった瀬から魚が消え、漁業そのものが衰退してきたと痛恨の経験が語られている。「漁業の後を継ぐ者がいないから仕方がない…とあきらめてきたが、地元安岡の漁師が反対しているのに、漁場を売ることに賛成する漁師はいない」と、安岡の漁師の動きを支援する声も強まっている。
 とくに山口県漁協に合併されて以後、上層部のあいだでいったいなにがおこなわれているのか、組合員にはほとんどわからないまま事態が進行していくことに、浜の漁師たちのなかでは怒りが鬱積している。今回の計画の中心にいる廣田・山口県漁協副組合長の地元である彦島では、警戒船業務を親族や仲間内だけで独占したり、自分に意見する者には時化の多い冬場の生活費を貸さない(漁協融資)など、私物化が甚だしいことが長く問題にされてきたが、これが海士郷だけでなく、よその浜にまで迷惑をかけようとしていることに怒りが語られている。

 仕入れ販売や金融 共同化で経済状態一変

 そもそも漁業協同組合は、長年困難な経営状態に置かれた零細の漁業者が団結し、多額の資金がかかる漁具・漁船を互いに融通しあい、また漁業を営むうえでさまざまに起こる問題を解決し、発展させるべく組織されたものである。現在、廣田氏が運営委員長を務める彦島の漁業協同組合・信用組合もまた、漁業者の困窮状態を打開するため、先人たちが漁業の発展を願って心血注いで設立したものだった。その歴史を振り返ったとき、廣田氏を筆頭とする県漁協幹部たちのあり方が、協同組合精神に大きく反していることが浮き彫りになっている。
 彦島の漁業の歴史は古く、島の開祖・河野通次が「耕釣に身をゆだね、独木船(まるきぶね)をつくって漁業をなしたことに始まる」と伝えられている。盛んになったのは明治10年前後からである。純漁業は海士郷のみでおこなわれ、六連島、迫、西山、福浦、竹ノ子島などにも漁業者はいたが、その多くは季節を限って出漁しており、漁獲物もわずかだったという。
 当時の彦島の漁業者は、彦島沿岸、蓋井島付近から遠くは見島付近まで出漁し、イワシ、タイ、フカ、貝類、エビ、タコ、海藻類そのほかさまざまな漁獲物を得ていた。また蒲鉾や雲丹、肥料など水産加工物の製造も活発におこなわれていたことが伝えられている。
 明治35年、漁業法の発布とともに彦島でも漁業に従事している海士郷、六連島、迫、西山、福浦、竹ノ子島の五部落にそれぞれ漁業組合がもうけられた。しかし、その漁場は古くから共通しており、五ヵ組合が同一漁区に出漁するため衝突が絶えず、もめごとを引き起こし、相互の不利益はいいあらわしがたい状態にあった。有識者のあいだでは組合を一本化することが提唱されるものの、なかなか実行に至らず、組合相互の軋轢は日とともに激甚を加え、その影響はついに漁業者の経済におよび、安定した収入のない魚家は生計困難に陥る事態にまで発展した。
 そこで当時村助役であった富田恒祐氏(当時30代半ば)が、この救済と解決に向けて動き出した。一村に数個の小組合が分立することは不利であり、今後組合の発展をはかろうとすれば各組合を合同経営にすべきであると熱心に説き、各組合を勧誘して会合・折衝を数十回重ね、ようやく各組合員も従来の不利を悟って、それまでの感情や主張を封印して既設組合を解散した。そして明治42年6月に設立されたのが彦島漁業組合だった。懸案事項だった全島一致の漁業組合は組織されたが、当時の漁業者は、そのほとんどが半農半漁の零細な生業であり、大部分が貧困に苦しんでいた。金融機関がないため漁業資金として高利貸しから2割、3割の高利金の融通を受けて漁業を営んでいたため、漁業の近代化や生活の改善・向上は望めず、組合員の大部分は資金の前借りにきゅうきゅうとして苦しめられているありさまだった。
 この窮状を打開するためには、低利資金が融通できるようにすること、貯蓄を奨励することが必要だと先人たちは考え、漁業組合を組織するのと同時に、291人の組合員を基礎に信用組合を設立し、農工銀行から5000円を借り入れて漁業者が抱えていた高利の借金を償還していった。さらに漁具・漁船の改造や調製など、そのほか漁業資金を低利で融資して産業の発達をはかっていった。そして漁業者には貯蓄することを教えて、経済状態は一変したことが記録として伝えられている。この信用組合が、のちに彦島信用組合となり、下関信用金庫(現・西中国信用金庫)へと発展した。
 さらに組合設立後も漁獲物は従来通り組合員やその家族の自由販売だったため、相場に公定がなく、比較的安値で叩き売りすることになっていた。組合員の被る不利益が多いことから、大正5年12月末からは共同販売事業を開始。販売事務所を新築し、専門の事務員を配置して事業を始めたところ、販売成績は良好で、目を見張るような収益を上げるようになったという。販売代金の受け渡しは即日勘定とされ、大場鰯は販売上の1000分の45、そのほか鮮魚は1000分の72に相当する手数料を徴収した。組合員の貯金をつくり、貯蓄思想を浸透させるために、組合に入る手数料から売上高の1000分の12に該当する歩戻金を交付。それを各漁業者名義で信用組合に預け入れるという形で、不慮の事故などに備えていった。
 また翌年の大正6年10月からは、網地、氷、米、薪炭、そのほか漁業のうえで必要な物資の共同購買を開始。網地は長崎県や下関、米はすべて下関から購入し、組合員の協議のうえで販売価格を決定し、ほとんど無手数料で組合員に供給した。販売代金は現金制度だったが、場合によっては漁獲物販売代金から控除するなど便宜をはかり、漁業者の生活向上に尽くした。今の山口県漁協が多額のマージンをかけて、他よりも高い油や漁具を漁業者に売りつけていることと比べると、雲泥の差である。
 さらに海士郷では「相互団結して勤倹力行の美風を涵養し、不幸をあわれみ、罹災を救いもって漁業家の良風善俗をつくる」を目的として、明治四二年八月に、共同救済組合なるものが組織された。休日などを利用して組合員が共同出漁して、その漁獲物を販売し、代金を積み立てて遭難などのさいに備えた。トップに立つ漁協幹部が自分だけイイ事をしようというのではなく、みんなのお金をみんなの労働によって積み立て、困ったときに拠出しようという試みだった。
 その積立金は、規約に沿って以下の場合に使われた。
 1、水難そのほかの変災に遭遇し漁具漁船を喪失・毀損したる者あるときは、その新調費または修繕費の補助
 2、遭難により負傷しまたは疾病にかかりたる者は医療費補助
 3、漂流者帰郷旅費の補助
 4、遭難者を救助したる者に対する賞与金または謝金
 5、遭難者の家族の扶助料並びに教育費補助
 6、遭難者祭祀料
 彦島の漁業組合は、その後第2次大戦中の戦時統制を経て、戦後ふたたび分割されることになったが、戦後69年のあいだに、こうして先人たちが築き上げてきた協同組合精神に立った組織が崩壊し、多数の漁業者の利益よりも政治と絡み合った一部の幹部たちの利権が優先する組織に変わり果ててしまったことが語られている。
 南風泊でも海士郷でも、近年の油代の高騰と魚価の低迷で、毎年やめていく漁業者が後を絶たない。海士郷では唐戸市場で魚を売る女性が家族のなかにいなくなれば、漁業をやめざるを得ず、若手も高齢者も大量にやめてきた経緯がある。
 昔は共同販売などで安く仕入れていた資材が、現在では逆に割高なものを押しつけられ、油代にいたっては本店、支店などが二重三重にマージンをかけるものだから、漁師は泣く目にあっている。先人たちが聞いたら激怒するような時代の逆戻しである。既に協同組合ではなく、「協同組合」の看板を掲げた漁民搾取機関に成り下がっていることを示している。みんなのために助け合うのではなく、幹部が高利貸しのように融資の有無を決めたり、権力を振り回す様は、とても彦島漁業協同組合を設立した先人たちに見せられるものではない。
 山口県全体をみてみると、90年代の信漁連問題以降、桝田市太郎・黒井漁協組合長や信漁連幹部がつくった203億円の負債を解消するためとして、その支援の見返りに上関原発の埋め立て同意や岩国基地拡張、下関沖合人工島の建設の容認などを迫られ、漁師には出資金増資や負担金を覆い被せて信漁連の負債を尻ぬぐいさせ、しまいには県一漁協合併で、浜の協同組合を破壊してきた経緯がある。漁師みんなの苦労のうえにあぐらをかいたボスが、あろうことか組合員の貯金を使い果たし、その穴埋めを山口県中の漁師に押しつけた。その下で93年に1万2016人いた漁業就業者数は、2013年には5106人と、20年間で漁業者は半分以下まで減少した。08年〜13年の五年間の減少率も24・1%と、全国の減少率18・3%を大きく上回り、全国でも突出して漁業の衰退・高齢化が進行している。
 こうした現状を打開し、下関の沿岸漁業を発展させるうえで、漁協の立て直しが切実な課題となっている。現在の山口県漁協は協同組合ではなく、海を売り飛ばすブローカー集団といった方が正確である。祝島の漁民に漁業権放棄を迫り、響灘では20年間8億円で貸与するという条件に目がくらんで風力を推進し、いつも電力会社やゼネコンの下請社員のような顔をして組合員を恫喝している。
 2005年の漁協合併以後、各浜では漁協組織が実質的に解体され、浜の扶助組織はなくなったに等しい。スコットランドが盛り上がっている折、分離独立運動を展開して、真の協同組合を設立し直すことが待ったなしとなっている。

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