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教育破綻の現実をどう克服するか
山口教組・鎌倉孝夫氏教育講演
               教師や母親150人が参加   2005年10月18日付

 第55次山口県教育研究集会が15日、宇部市で開かれた。午前中は、経済学者の鎌倉孝夫氏(東日本国際大学学長)が、教育破綻の現実、それをどう克服するか―「平和的な国家・社会の形成者」となるために―と題して、教育講演をおこなった。講演には宇部市内の教師や自治体労働者を中心に、県内の教師、母親、労働者など150人が熱心に聞き入った。午後からは全体会で「教育改革」、県教委がすすめる「学力テスト」とたたかっていくことが提起され、その後講演会の内容を受けて、それぞれの分科会討議が深められた。以下、教育講演の要旨を紹介する。

  教育講演会要旨
 教育の「普遍的原理は」は明確
 はじめに、国家と国民という関連について、国民のなかには資本家がいて労働者、勤労者がいるという階級対立がある。これを明確にとらえなければ、わたしたちが基礎におくものを明確に位置づけられない。現状の国家は「国民国家」といわれているが、資本の国家だ。資本というのが、ホリエモンなどに代表される資本の権化、「株式」を駆使した会社の支配だ。つい最近のテレビや新聞紙上でも、村上ファンドが阪神電鉄の大株主になった、楽天の三木谷がTBSテレビを買収しつつあるというのが大大的に報道されている。実はきょうの話がそれと結びついてくる。生活や教育に密接不可分にかかわってくるわけだ。
 まず最初に、教育の「普遍的原理」は明確である。これは教育基本法のなかにすでに明記されていることを確認しておきたい。

 社会の主体として人間形成
 まず1番目に「人間社会の主体としての人間形成」で、教育の目的は人格の完成をめざすところにある。人間の一生が人格の完成をめざしてすすんでいく過程だと思うし、人間がほんとうの人間になるということだ。その内容としての「自己の確立」は、他人との共同共生が絶対不可欠だ。「おれの利益が第一で、他人がどうなってもよい」というものは、自己の確立にはならない。人間性の本質が、仕事をしながら他人とつきあい、他国の民族ともつきあって、絶対に失ってはならない基本だと確認していくことが、人格完成の基本だ。

 平和的国家・社会の形成者
 2番目に「平和的な国家・社会の形成者の育成」である。教育基本法の改悪でこれを消そうとしている。教育行政についても「教育は不当な支配に服することなく、国民全体にたいし直接に責任を負わなければならない」ということが原則だが、主語に二文字入れて「教育行政は」とし、意味を完全にひっくり返そうとしている。いま文部科学省がやっている教育行政に異議をとなえることが教育にたいする「不当な支配」にされてしまう。
 現在の国家が平和的国家でなく、戦争をしようとする国家になりつつあり、これをくいとめ、転換することこそが課題になる。それこそが教育の目的になる。これを明確にしなければならない。教育基本法や憲法にうたわれている基本的原理は、その担い手が、生産物の生産者、教育労働者、つまり社会のほんとうの主人公である。それがどのような考え方や価値観に立って、どういう行動をしなければならないのか、そこに普遍的原理があると思う。社会の主人公にふさわしい人格を形成しなければならない。

 真理の確立
 3番目に「真理と正義の確立」「社会について、広く深い理解と健全な批判力を養う」ということだ。真理というのはどういう意味を持っているのか。現実の事物の現象、外見とその本質、根拠をはっきり見分けることが、真理をとらえるという内容だ。なにが基本でなにが副次的か、絶対に根拠としてゆるがせにできないのはなにであるのか、その見分けがたいせつだ。それではじめて、真理がとらえられたとなる。
 なぜ憲法や教育基本法のなかに、人間が人間として絶対に維持しなければならない普遍の原理がうたわれえたのか。これが成立した時点においても日本は戦争に敗れたとはいえ資本主義の国家だった。財界の力がなかったので、アメリカの保護のもとで資本主義を復活させていかねばならなかった。だが現実には国家、資本と、そのもとに支配される労働者という関係があった。
 資本主義社会のなかでも、ほんとうの主人公は働く労働者だ。働いて社会の存立を担っている人たちが、おたがいに共同しあい助けあい連帯しあって生活を維持している。そのなかに人間が人間として絶対に欠かせない原理がある。それを教育をとおして絶対に欠かせないものだと気づかせていくわけだ。労働の現場でも、弱肉強食で「おたがいに競争しろ」となれば、もうかる仕事ははびこるかもしれないが、人間社会を維持していくために必要な仕事はつぶされる恐れが出てくる。資本主義経済が資本主義経済として成り立つのも、お金や資本が支配しているからではなく、労働者、農民、中小企業者が額に汗して労働しているからである。資本主義社会だから普遍的人間の原理がとらえられないのではない。
 侵略戦争の悲惨な敗戦の場で、このような人間的原理が確認され条文化されたことは歴史的な意義、背景がある。悲惨な戦争は「国家を守らなければ国民は守られない」といって、国家によって大衆が牛耳られた虚構の共同体国家だった。国家を守るために戦争をやり、そして国民は死に、侵略戦争でアジアの多くの民衆も殺された。その戦争の経験をとおして、とくに天皇制国家のうそっぱちがあばかれた。その反省から人間性の復活が必要だと鮮明にとらえられた。
 アメリカ、イギリスなどの連合軍は帝国主義国家だ。それとともにソビエト、中国の社会主義体制の国家が連合軍のなかに参加していた。こうした現実的な力関係のなかで人間の普遍的原理が確立している。
 もう一つ提起しておきたいのが、この基本的原理を実現するにはどうしたらいいのかということだ。それは社会の主人公、実体の担い手である労働者、勤労者がほんとうの現実の社会の主体になる、国家を動かすようになるということだ。
 現在、労働者自身を支配し縛りつける資本家の価値観、いってしまえば階級敵の価値観が労働者、民衆のなかに入りこんでしまっていることが、悲惨な現実をもたらしている一つの原因だ。「労働者でも商品を持ちお金を動かせる主体なんだから、ホリエモンのようにうまくやれば勝ち組に入れるぞ」と国民を動員しようとしている。昔は戦争にかり出すうえで労働者、農民に「国家に奉仕しなければ国民の生存はありえない」というウソの主体観を押しつけたが、いまは経済的基盤のうえで、うまくやれば資本家にもなれるぞという主体観を与えている。

 2、「普遍的原理」を歪める現実
 そしてこの「普遍的原理」を歪める現実のなかで、「人格の完成」をめざす教育は破たんの危機にある。キレル小学生、校内暴力が激増している。とくに重要なのは、子どもたちを管理の対象にして、態度から行動にいたるまで全部点数化して格差づけ、評価の対象にする。要するに子どもたちをモノにして、人格を認めないことになる。教師はいちいち監視して、人間形成の教育をやるというよりも教育でないことをやらされている。
 そして「興味と関心」で、自分の感情、感覚、興味にあったものをやればいいという。「学ぶ意欲」といいながら、学ぶものの中身がない。そういう教育政策が浸透してきた。子どもたちは人格完成の途上にあるわけで、真理を学ぶ発展途上にあるわけだから、導いていかなければならない。教育をやめるということは人格形成をやめるということだ。
 もう一つ、マスコミの影響が大きいし、現実の社会経済の状況が教育現場にストレートに入りこんでいる。子どもたちは擬似的なバーチャルな体験で、ほんとうの人間関係を結べなくなる。パソコンと個人=「モノ対人」というかかわりになる。モノを消すのと同じように人間を殺すのが普通になってしまう。校内暴力がモノを壊すことから人間を破壊する暴力にまですすんできた。ほんとうに悲惨な現実であり、人間関係の崩壊だ。

 自己中心の拡大
 そして中学、高校に行けば自己中心的思考が拡大し、「他人や社会がどうであれ、自分の好き勝手をやればいい」という性質、行動がのさばる。ホリエモンや村上流の人間になってしまう。すべて点数づけにして格差、差別を助長して、できないものにたいして、「できないことを自覚した方がいいんだ。行きたくなければ学校に行かなくてもいい」となる。そして点数を高くとったできるエリートは、飛び級でよいとして、子どもの二分化を推進しようとしている。そして子ども間の格差づけから学校間格差の形成へと発展している。
 高校生たちはこういう現実に反発する。そういう子どもたちは悩んで、結局自分が悪いからだと思いこまされ、圧迫感のなかで手首を切ってみたり、自殺する高校生がふえている。それが社会の弱肉強食の反映だということはなかなか見れない。人間関係を解体させつつある教育のやり方が原因なのだが、それを「心の病」「カウンセラーに…」といわれればいわれるほど、この世の中が嫌になる。

 唯一の目的が「金」
 そういう子どもたちが大学に行ってなにを学ぶか。なにを学んだらいいのか目的意識が欠如し、唯一の目的が「金」となる。目的意識を持って大学に入っている学生はほんとうに少ない。結局企業の秩序を守るという方向にからめとられていく。大学のカリキュラム、授業の内容が就職をどうするかに流れていく。「いい先生」とは、いい就職を世話できた先生となる。社会にたいする健全な批判力は育たず、いかに現実に適応し上手に立ち回るかになる。授業は興味をひけばよいと、論理性などない、デジタル感覚を育てるだけのものになっている。人間がものを考えなくなってしまう。これでは真理を探究する学問の死だと思う。現状をおかしくしている社会、国家を批判できないことが決定的な問題だ。

 管理され管理する多忙化の教師
 そして教師は、多忙化で管理され現実批判の余裕もなくなっている。子どもの教育にまったく関係のない子どもの管理、あるいは、文科省や教育委員会から要求されることをこなしていくために多忙化され、くたくただ。やればやるほど永遠につづくそういう状況を、わたしはブッシュ大統領がやっている「テロ撲滅」の終わりなき戦争と同じ状況に教師が追いこめられているのだと思う。「テロ」の一番の根拠を変えないで、無限に反発が出てくることに無限に対応していかなければならない。子どもたちがむしゃくしゃして反発すればするほど、管理を強める方向にいく。

 現実をもたらす要因・原因
 その現実をもたらしている要因、原因はいったいなにか。戦後の人格完成をめざす人間としての普遍的原理をもっていた教育が、どんどん歪められてきた。ついにこれを破棄してしまうところまで現実がきている。
 戦後の教育を歪めてきた張本人は資本家だ。1950年代〜60年代に入った高度成長期においても、財界の人材要求として多様な技術に即適応できるような教育再編成、高校の多様化、さまざまな専門学校の形成が進行した。大学もそれにあわせて、技術教育中心の教育にしていった。財界や国家という外部から、教育現場にたいしてさまざまな要求を出し介在してきた歴史だ。
 80年代〜90年代にかけて、ケインズ主義国家を新自由主義国家へ転換させた。ケインズ主義国家というのは、社会主義に対抗して、資本主義のボロをかくす一定の改良政策をやったもので、別名「福祉国家」ともいう。それと同時に資本の勝手な行動にたいして国家が法的に規制する処置もあった。たとえば、中小零細・地場企業を維持しようという大店法などだ。これには労働者階級の意志を代弁する政党や労働組合の力が大きな役割を演じていた。

 「教育改革」による教育破壊
 しかし社会主義が崩壊し、労働者のなかに社会主義を展望する意識が消えようとしている状況になると、福祉政策はいらないとなり、ケインズ主義を新自由主義に転換させる。国家の介入をできるだけやめて「官から民へ」という。小泉さんが使っている「民」とは資本家的企業の利潤追求にゆだねるということだ。資本家にたいする規制を撤廃し、労働者の要求に即した福祉政策とか、「義務教育費国庫負担制度」などもなくす。新自由主義というのは、ケインズ的な改良を切り捨て資本の思いどおりの行動を容認する。教育についてもこれをやろうというわけだ。
 「生きる力」というが、財界のいう「生きる力」は市場競争戦に勝つ力、弱肉強食の勝ち組になる力だ。いってしまえば徹底的な市場原理のなかで、資本家の行動原理である「弱肉強食」「利己主義」、安い株を買って高くしてもうけるというだけの徹底した利潤原理、相手がやるまえに出しぬいてやるという資本の論理と価値観のなかに、国家も労働者もとりこむというのが、新自由主義教育だ。教育の場がもうけの原理を徹底させるという方向に行く。もうからない教育はいらない、国家の財政をあてにするな、みんな自己責任でやりましょう、勝ち組に入れずに負けたのは本人の能力がないからだ、という雰囲気を国家にも労働者にも浸透させようというのが新自由主義教育だ。

 「金」にならない教育は切り捨て
 人格形成はカネになるとかならないとかの次元とまったく関係ないが、それを切り捨てていく。大学の研究助成金などは典型的で、企業の利益にならない研究は切り捨て、いい教師は民間からカネを引き出す教師だとなる。いよいよアメリカナイズ教育だ。
 市場原理の徹底は無政府主義となる。自分勝手に動けばいいのだ、もうかるやつはもうかればいいという。もうからない人、生活ができない人を福祉政策で救うのが国家の役割だった。それを放棄して自己責任で生きればいい、生きられないのは死ねばいい、教育を受けなくてもいいとなる。だから、国家は消えてしまう。だけれども国家はなくせない。
 それは、戦争をやるためには絶対国家をとおした国民統合が必要で、無政府主義ではだめだからだ。国家を大事にしようという意識を国民に持たせなければ戦争などできない。
 そこで教育基本法、憲法を変えようとする財界や文部官僚は「家庭、地域が崩壊し、日本というアイデンティティが崩れたのは、民衆が利己主義でいいんだと誤解して動いたからだ」といい出した。これは民衆の責任ではない。財界の要求をとおして徹底的に市場原理で福祉も教育も推進し、それによって人間の生きる基盤自体が解体してしまったからだ。その責任を民衆に負わせながら、だから国家が必要なんだとうそっぱちの共同体のなかに民衆を統合しようとする。
その国家は労働、連帯の実体的基盤に即した共同体の国家ではない。財界は資本の理念を体現した国家をつくろうとしている。ところが資本の理念とは株で、それ自身価値を持たない擬制資本だ。みじめなものだ。そんな国家できやしない。それでしょうがない天皇制を維持しなければならない。女系でもなんでもとにかく維持しようと必死だ。新自由主義というのは、国家の暴力なくしては維持できない。統制なくては資本の自由が実現できない。そこで日の丸、君が代、天皇の尊厳など思想の押しつけに権力、暴力が必要になる。

 3、現状の変革ー抵抗・変革・創造
 最後に、現状を変革するということだ。目標は、「普遍的原理」の社会的実現と、普遍的原理を歪めてきた張本人は資本家だから、この支配を弱め、規制し、最終的には転換させる。実体の担い手である勤労者の国家にならなければいけないし、そうすることによってしか、平和な国家はできない。現実にそれを具体的に実現していくということを教育の目標にはっきり据えなければならない。小泉改革は資本原理のすべての分野への徹底だ。それを一つ一つ歯止めをかけ、規制力を強め、転換、変革していかなければならない。
 人間破壊にたいする抵抗をすすめていく力は、現場の教育主体、地域の働く人人との連帯のほかにない。資本の思うような擬制経済を推進する小泉改革、その本質を明確にとらえたうえで、それを変えていく実体の担い手の基盤を確立しなければならない。

 平和確立をめざす国際連帯の教育を
 最後に、「反帝国主義・平和確立をめざす国際連帯の教育」を訴えたい。
 先日わたしはチャベス大統領のベネズエラを訪問し、反帝国主義、自主確立をめざす国際集会、討論集会に参加した。ベネズエラのボリバルというのは1783年から1830年まで生きた、スペイン帝国主義からの南米の独立を実現しようと努力したベネズエラの建国の父だ。ボリバル革命のもとで反帝、反アメリカ帝国主義を推進していこうというすごい実験をやりつつある。
 ボリバル革命は、「すべての人間の人格を平等に保障する」、そのための国家政策を実現していくというのが基本だ。それにたいしアメリカの意向に従った財界の連中、労働組合の幹部など反チャベス派は、「貧乏人の独裁政権」といって反革命策動をやっている。しかし、医療無料の政策もキューバとの連帯をとおしてやっているし、2500万人ぐらいの人口で(国土面積は日本の2・5倍)国家による無料の住宅建設をすすめている。寄生地主、大地主を追放して農民に土地を分割することを断固としてすすめている。働く労働者は圧倒的にチャベス政権を支持している。アメリカ帝国主義は公然と介入できない。その背景にはラテンアメリカ諸国の連帯がある。キューバと連帯し、南米諸国共同体をつくり、たがいに補いあう関係を経済関係をとおしてつくっていこうとしている。
 金融ギャンブルをするような多国籍金融資本集団はごめんだ、地域の資金は地域で使おう、人民大衆の福祉のためにそれを連帯してやろうという方向だ。また民族の自主性を基盤に、勤労者のための放送局テレスールを南米全体でつくった。これまでのアメリカ中心の放送は、労働者のなかに支配層の思想を入れるのが役割だった。思想の奪還だ。このボリバル革命に朝鮮民主主義人民共和国も強く連帯し、関係を深めることをうち出した。
 そういう民主国際連帯をとおして、一歩一歩ギャンブル資本の支配をうち破っていくことをめざさなければいけない。それが重要だということを自覚的に確立する人間形成、意識づくりが、教育の現実の大きな課題だと思う。

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