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教育否定で解決できぬ“いじめ”
教委や警察介入では泥沼化
               教師の指導性回復こそ急務     2015年11月20日付

 子どもたちのなかで起きる「いじめ」を巡って、時に自殺するまでの事態を引き起こして社会問題になるケースがあいついでいる。その度に学校側や教育委員会が把握していたか否か、適切な対処をしていたか否かをメディアが追及し、保身に走る教育委員会の狼狽ぶりがテレビ画面に映し出される。最近、文科省がおこなった調査で全国の小・中・高校で「いじめ」件数が増加し、とくに小学校で「過去最多となった」ことが発表された。この間、いじめ撲滅を掲げて国が「いじめ防止対策推進法」まで整備し、教育委員会や警察、カウンセラーといった第三者が介入してとりしまる体制もつくってきたが、いじめは一向になくならず、むしろ被害者意識を強めた結果の報復自殺が助長されている。学校現場で何が起きているのか、子どもたちのなかで日常的に生起するいじめの質はどうなっているのか、山口県内や北九州の教育関係者たちに話を聞き、記者座談会を持った。
 
 言った者勝ちの「いじめ調査」

  まず、「いじめ」の実態がどうなっているのか出しあってみたい。教師や父母たちはどう見ているのか、現在の子どもたちの特徴も含めて実態を描いてみたい。
 B 「いじめ」による自殺が起きる度に、教師や父母たちは「どうして死ななければならなかったのだろうか…」「死ぬほどの何があったのだろうか…」と心を痛める。目の前にいる子どもたちの姿を重ねあわせて考えている。この間、話を聞いて回ってみて、何を「いじめ」と見なすのか? という疑問にもぶつかった。年代によってもさまざまなケースがあるが、集団生活を送るなかで人間関係を巡る軋轢や感情のもつれはどこにでもある。「いじめ」ないしは人間同士の衝突がない「素晴らしい学校」などどこにもない。現状では被害者側が「いじめられた」と感じればそれがいじめ認定されていく仕組みのようだ。
 ある小学校での出来事だが、月に2回の「みんなで遊ぶ時間」に3年生のクラスみんなでドッヂボールをすることが決まった。しかし一人の女子児童が「私は長縄をしたいからやらない」とわがままをいいだして、それに怒った男子児童が「どうして勝手なことをいうのか」と強い口調で注意した。それに腹を立てた女子児童がこっそり男子児童をつねったため、怒った男子児童が女子児童の頭を叩くということが起きた。教師は男子児童が女子児童の頭を叩く場面を目撃して指導に入ったが、女子児童が「○○君にいじめられた。自分はつねっていない」と強く主張し結局男子児童と親に対して「いじめはいけません。手を上げてはいけない」という指導がなされた。
 子ども同士のケンカはどっちもどっちのことが多いし、叩いたという部分だけを見て“いじめ、暴力はいけない”と指導しても子どもは戸惑う。何が良くて何が悪いのか、集団のなかで絡まった糸を解きほぐすように教えていくのが教育ではないかと思うが、どちらかというと「いじめられた」という主張が勝っていく風潮が強まっているようだ。
  最近、下関市内のある中学校では、仲の良い男子同士のうち1人が、相手の教科書にこっそりいたずらをしたことが分かり母親から「うちの子がいじめられている」という訴えがあった。クラスで誰がしたのか確かめたところ、事の重大さを察知して男子生徒が自分で相手に謝ったため解決した。指導した教師は、「本人はいたずらのつもりだったようだが、人の物を壊したり、人が見ていないところでこっそりやるのは人間として卑怯なことだと教えなければならない場面だ。だがそういうことも教育委員会には“いじめ”一件として報告するのが今のやり方で、きちんと指導すればいい問題が子どもの教育とは無関係な方向にいく」と話していた。
 これがいじめなのか?と思うようなこともすべていじめ認定されて数字が上がっていく。全国でいじめ件数が急増したというが、子どもの悪ふざけで済まされるようなものも多分に含んでいるようだ。教師曰く、「遊び半分でやるいたずらの度が過ぎるのも最近の子の特徴だ。見境がない面がある。子どもが幼稚化しているため、限度がわからない。だから教師が細心の注意を払うようになっている」という。
  地域の補導員をする男性は、最近、中学校で男子同士が突き倒したり、引きずり倒すようなケンカがあったが、学校が教育委員会に報告し、それで警察まで校外のパトロールを強化したものだから、「なぜいじめ対策で警察が動くのか」と話題になっていることを話していた。学校内や友だち同士で解決する力がなくなっていることを問題にしていた。教師が教育力を発揮するのではなく、警察までが介入してきて「加害者」「被害者」に子どもを切り裂いていく。そうなってしまうと、子どもたちのなかで何が衝突の原因だったのか、どうすれば解決できるのかに話が進まない。
 E 別の学校の中学校教師は、「人が集まればケンカや嫌がらせ、いざこざは起きるのはあたりまえ。だが10年くらい前から子どもたちが自分たちの力で乗りこえ解決する力がなくなってきた」と話していた。大人の側が過干渉する環境も無関係ではないと思う。友だち同士でトラブルが起きて、「仲直りがしたい」と教師に助けを求めてくるのだが、自分から謝るように促すとそれは嫌がる。「じゃあ仲直りせず、そのまま無視しときなさい」というと、「それは嫌だ」と主張し、結局教師が両方の生徒を呼んで事情を聞いたうえで仲直りさせた。「自分の悪い部分も認めて、謝ったりすることができない。友だちのために何かをするという人間関係ではないから、仲がよさそうに見えても壊れやすい」のだという。
 子どもたちが幼いころから集団でぶつかりあって遊ぶような経験が乏しく、以前なら遊びを通じて培われていた相手の気持ちや痛みを理解する力、友だちのために頑張るという感情が希薄になっているという指摘だった。それでいじめに警察が介入したり、市教委あたりが介入して大騒ぎになったら、子どもたち同士で解決すべき問題が別次元へと吹っ飛んでしまい、人間関係が余計に切り裂かれることにもなる。昔から「子どもの喧嘩に親は首を突っ込むな!」といわれてきたが、教育委員会や警察までが首を突っ込んでくる時代になった。

 陰湿なスマホトラブル

  人間関係の希薄さとかかわって、些細なことで感情が行き違ったりして不登校になったり大きなトラブルに発展することもあるようだ。それを助長しているのがスマホのトラブルだという。
 中学生の6〜7割、小学生までが所持している。暴力など目に見えるいじめよりも、大人の見えない世界で友だちを仲間はずれにするような陰湿な方法になっている。
 下関市内のある中学校では、一人の生徒がライン上である生徒に関して「みんなで一緒にはぶろう(無視して仲間はずれにすること)」とメッセージを流し、他の生徒が便乗してどんどん書き込むということがあった。発端は自分より成績のいい生徒に対して、それが気にいらない別の生徒が腹いせにやったことだった。「どうにかしてほしい」と生徒からスマホでのやりとりの内容を見せられて、はじめて教師が事態を把握し、仲介に入って解決した。また市内の小学六年生が同じクラスの女子同士のメールのやりとりのなかで、「死ぬまでいじめてやる」というメールを送るまでエスカレートし、それを察知した親が話しあいをして解決したという話も聞いた。そんな事例が山ほどある。
  中学校の教師が「いじめといっても昔のように暴力を振るったりするような内容ではない。生身の人間の感情のぶつかりあいが希薄で、小さなスマホの世界で誤解から生じていじめに発展する。自分中心で、嫌な他人は排斥するという人間が育つ土壌にもなっている」と語っていた。「メールやラインなどでの自分の行動や言動が周囲にどのような影響を与えるのか思考しない。それは深刻な問題だ。社会はもっと複雑だし厳しい。嫌なことだらけだ。子どもに“いじめはダメです”と何度唱えてもダメ。友だち同士で意見をぶつけあって何かを成し遂げる喜びや悔しさを集団生活のなかで経験させることでしか育っていかないと思う」と問題意識を語っていた。
  子どもが「いじめ」と感じれば「いじめ」になる。教師の指導に対して生徒が「体罰」と感じればそれが「体罰」になる。学校現場の統制が強まる過程で、「いじめ」「体罰」が敏感な問題になっている。全体として子どもを指導してはならないという方向が貫かれ、教育にならない。警察がいじめを解決する能力などないのはわかりきっている。教師が教育者として関わり、精神的にも未熟な子どもたちを高めていくのでなければ解決などしない。
  学校という集団生活の場で、人間関係の軋轢(あつれき)や衝突は当然のように起きる。そのなかで、「うざい」といわれる子どもが本当に協調性がなく、我が強く、自己中心的でうざったい場合もあるわけだ。嫌がられた子ども自身にも考えなければいけない点があったりもする。嫌われて初めて「自分は何がいけないのだろうか?」と省みたり、内面の葛藤を乗りこえながら自分を変えて、みんなの仲間として再び加わっていくというような経験は思春期にはありがちなものだ。弱者を集団でいじめ抜くとか、殴ったり蹴ったりという悪質なものは論外だが、すべてをごちゃ混ぜにしていじめ扱いしたのでは混乱してしまう。
  「やられた…」という被害者意識が強い子どもがいるのも事実のようだ。自分の周囲に対する振舞は脇に置いておいて、常に被害者、受益者の側からしか物事を見ることができないという場合、非常にやっかいになると教師たちは語っていた。親も巻き込んで「いじめられた」と主張し始めた場合、それこそ市教委やメディア、警察まで介入して大騒ぎになりかねない。その子の成長にとって大切なことは置き去りにされてしまい、今度は「加害者」とされる側に報復していく構図だ。こうなると、何が何だかわからなくなる。
  家庭環境の変化もある。学校で友だちに頻繁に暴力を振るう子どもの背景を探ると、両親の離婚や再婚という複雑な家庭環境のなかで抱えたストレスが要因になっていることもある。子どもをとりまく環境が複雑化するなかで、社会的な背景、家庭的な背景など、子どもの内面世界を見ていかなければ解決できない事例が増加しているようだ。
 
 自己中心的な思想 個性重視教育の弊害

  教育現場では二十数年前から「自由・民主・人権」路線で「そのままの君でいいんだよ」という個性重視教育がやられてきた。そのもとで、子どもを集団の規律に合わせて我慢させたり努力することをさせず、「自分が感じたまま」「思うまま」が尊重されてきた。そして教師の指導性を否定して野放しの「子ども天国」にした結果、学級崩壊なども頻発するようになった。
 小学校で悪さをした子どもを叱ると、「ごめんなさい」という言葉は出てこないで、一言目には「だって、おもしろかったから」「やってみたかった」という言葉が出てくるという。また自己保身のためにウソをついたり、それが発覚すると言い訳や屁理屈を披露するのには長けているという。また「○○君の方が先にしていた。僕は悪くない」と人のせいにして正当化し、問題をすり替えることも近年の特徴だ。子どもたちの基準が、「自分が楽しいかどうか」「気持ちがいいかどうか」が最大で、「人様に迷惑をかけたらいけない」「友だちはどう思うだろうか?」といった人間としてのモラル基準、善悪が教えられておらず、叱ってもなかなか心に響かないことも複数の教師が指摘していた。自己中心的なイデオロギーが一方では強烈に存在している。それが反社会的な傾向としてもあらわれている。
 E 最近、東京で29歳の男がバイト先のコンビニで知り合った17歳の高校生の首を締めて殺した。アニメが好きで「興味半分でやった。女性の首を締めてみたかった」という「興味関心」が殺人まで行き着く事件がめずらしくなくなっている。こういう自己中心的な攻撃性をもったイデオロギーとは教育現場で徹底的にたたかわなければならないし、弱い者をなぶりものにするようないじめには毅然として対応しないといけない。
 F しかし今の学校現場は、教師が物事の善悪を徹底して教育することがはばかられている。何か事が起きるとすぐに「体罰」騒ぎに発展したり、学校を袋叩きにして解決能力をマヒさせてきた。どんなことであっても相手が“いじめ”と感じればいじめになるという、いった者勝ちの風潮が煽られている。いじめがいけないというだけでなく、同時に不当ないじめには挫けない強くたくましい子どもを育てなければならないのに、最悪の場合はいじめられた側が詳細を綴って自殺するような、報復を意味する事件も起こるようになった。
 B 大津市で市立中学2年の男子生徒が自殺した事件をきっかけにして、国会では「いじめ防止対策推進法」がつくられた。いじめは犯罪であり、警察介入も視野に入れて対応することが義務づけられた。それ以後、全国の学校で定期的ないじめアンケート、いじめ防止対策マニュアル作製が義務づけられるようになった。
 下関市で実情を聞くと、生徒にいじめの有無を調査するアンケートを毎週一回実施している。「いじめがあるか、ないか」「周囲に困っている友だちはいるか、いないか」などを問い、何か記入があった場合、教師はすぐ生徒と教育相談をおこなうようにマニュアル化されている。だが逆に自分の悪さを棚に上げて「○○君に叩かれた」と教師にチクるような悪知恵を働かせる生徒も出てきたりする。
 C あと年に数回、親に対して「いじめアンケート」を実施し、封筒にのり付けして担任を跳びこえて校長に提出するという厳重な取扱いになって、親と担任教師の疑心暗鬼を生んだりもしている。多くの内容は子ども同士の日常的な「からかいや悪口」「遊ぶふりをしてたたく、蹴る」「仲間はずれ」などだが、子ども同士ではすでに解決済みの問題を、親から指摘があれば再度掘り起こすことになり、「いじめの数を数えることそのものがナンセンスだ」と語られている。それらをすべて「いじめ」として数えるから、いじめ件数が急増するのだ。子どものいじめ件数を数えることに熱心な文科省だが、「自由・民主・人権」の個性重視教育を押し進め、「自分の気持ち」を第一の基準にする人間を大量に生みだしてきたのはオマエたちではないかと現場は頭にきている。
  昔から学校で友だち同士のいじめやケンカはめずらしいものではない。多感な時期に集団生活を送るなかで、我慢したり、努力したり、友だちを思いやったりする経験をくり返して、そのなかで一人の人間として成長していくものだ。不当に仲間をいじめたりしてほしくないことと同時に、いじめがあればそれに負けない強くたくましい子どもに育ってほしいし、みずから命を殺めるような子どもにはなってほしくないと親たちは願っている。大人の社会はいじめだらけだから余計にでも、“せめて子どもたちには”と思っている。集団生活のなかで苦しい思いをしたり、辛抱したり、楽しいこともあったり、さまざまな経験をくり返すのは当たり前だ。仲間たちと喧嘩もすれば団結もして成長していくのが本来の姿だと思う。そのなかで子どもたちに社会的基準を教えるのは学校であり、家庭であり、地域社会だと思う。
 「いじめはいけません」のお題目をいくら唱えても、それは教育ではない。原因を突き詰めて子どもたち自身に解決させていくことこそ重要だと思う。
  いじめを解決するには、子ども同士が集団のなかで心を通わせながら、教師が父母と団結して善悪をはっきり教え指導するというあたりまえの教育を通じてしか実現しない。「体罰だ」「プライバシーだ」といって教育をさせず、解決能力をマヒさせた状態こそ問題にしなければならない。文科省の破産教育に対峙して、子どもたちの成長のためには身勝手で凶暴な個人主義イデオロギーとは意識的にたたかっていくことが求められている。社会的には新自由主義イデオロギーがたけなわで、1%の者が99%を叩き回すような構造だ。そのなかで人民的なイデオロギーを勝たせていくこと、仲間や周囲と団結していく力を身につけさせていくのは教育の重要な役割だと思う。


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