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教育崩壊打開する大運動へ
どこも紙一重下関・中学生逮捕事件
              「学力向上」推進で更に崩壊    2010年6月30日付

 下関の中学校で40人ほどの生徒がグループをなして暴れて、警察2、30人が学校に乗り込んで逮捕したという問題が、今、どの学校で起こってもおかしくない同じ根のある問題として受けとめられている。教育がいつからどのようにして崩され、現在に至ったのか、その原因をはっきりさせ、教育の立て直しに立ち上がらねばならないという論議に発展している。本紙では山口県と福岡県の人民教育同盟の教師たちに集まってもらい、今の子どもの現状とあわせて、このような教育の現状をどう見るか、なにが根本原因か、この現状をどうやって打開するかを論議してもらった。
  下関の中学校で40人もの生徒が暴れていることに驚いている。山口の方の中学校でも、そこまでではないが、20人ほどのグループができて暴れているところがある。教師たちが手を出せないことを知りぬいて、暴力や暴言をくり返し、授業中も立ち歩いたりが常態化している。それに対して手が打てない。ただ、警察に通報するというのはしていない。
 学校現場で一番頭を悩ませているのが、そうした子どもの荒れに対して教師たちが、「いけない」といえないことだ。ある学校行事のさい、体育館に集まった生徒の私語が最初から最後までやまなかったが、最後に生徒指導担当が「今日の式は大変立派な態度でよろしかった」といってデタラメをほめる。生徒をけっして怒らないし、教師は一致して当たりたいのにそれができない。だから生徒の好き勝手がはびこっている。本当に同じ状況だ。
  うちの小学校でも、学校のなかでなにがいいことか、悪いことかを教師がはっきりいえない状況がある。最近、だれが書いたかわからない落書きが続いて、それも「見つけてみろ」「どうせわからないだろう」という陰湿なもので、やった子を見つけるのに、2カ月も3カ月もかかった。教師は子どもに本当のことをいわせようとするが、なかなか踏み込めず、四苦八苦しながら気が重い。善悪の判断とか、人に迷惑をかけてはいけないとか、そういうことが育っていないので、消火器をいたずらするとか、毎日いろんな問題が起こっている。

 金さえあればの風潮が拡大 子どもの世界にも

  うちの小学校では、親の金を盗んでその金で友だちを誘い、ゲームセンターに入りびたったり、ボーリング場に子どもたちだけで行って好き放題遊んでいる。そういう家庭はたいてい親が2つ以上の仕事をかけもちし、一生懸命深夜まで働いて、子どもとはすれ違い生活になっている。そして子どものそういう状況を知らない。
 子どもは見つかっても正直にいわず、お金は「落ちていた」というし、しぶしぶ認めても、絶対に「ごめんなさい」をいわない。そしてまたくり返す。ある子はカードを箱買いして、そこら中にばらまいて、友だちに「拾え、お前ら」といって得意になっている。ホリエモン型の「金さえあればなんでもできる」という新自由主義が、子どもの世界にも広がり、だんだんグループ化している。「貧乏に負けない子どもをどう育てるか」という論議になっている。
 D うちの小学校でも金にかかわる事件が多い。学校から帰る途中に自動販売機を蹴ったら硬貨が出てきたというので、友だち4、5人でボコボコにして自販機を壊した。しかし罪の意識がない。自分がお金が欲しかったからという理由だけ。蹴ったら、その後どうなるかということを考えていない。数年前には子どもが祖父母宅から20万円とって、その金を友だちにまいたということもあったが、諫めるものがだれもいなかった。また、ゲーム機に入れるチップを、友だちの部屋に遊びに行ったときポケットに入れて持って帰り、どうしたのかと聞くと「ポケットの中に自然に入っていた」「帰ってから気づいた」という。いいわけ、いい逃れがすごく多い。絶対「ごめんなさい」といわない。それで世の中をわたっていこうとする傾向がある。
 E 新しく赴任した学校が「荒れた学校」といわれ、緊張しながら通っている。10人以上で1人の子をいじめたり、上級生5、6人が1年生をとり囲んだり、3年生ぐらいからタバコを吸ったりしている。6年生は1学期が始まってすぐに学力テストがあったが、白紙で出す子が何人もいた。4、5分で「わからない」という。どうせやってもダメだと思っている。九九も怪しい感じで、「2割る2はゼロ」という。
 そういう子は「朝ご飯がない」「昨日の晩ご飯の残りもない」「だいたい1日2食、休みの日は1日1食」という。よく学校に来ていると思う。万引きも多く、ある学年は集団で万引きしたり、上級生が下級生に万引きの仕方を教えたりしている。自転車窃盗も日常茶飯事。ファミレスでの食い逃げもある。生活は貧困だ。貧乏な子が低学力になっている。最終的には学校に来なくなって、中学生とつるんで非行に走る。これは全学年にわたっている。
 F 小学校上学年になっても掛け算九九や、くり上がり・くり下がりができない子がいる。「もうちょっと練習しよう」といっても、「できなくてもいい」といって全然努力しない。意欲や粘り強さが身についておらず、最初からあきらめている。他方で算数がよくできる子は、「わからない子に教えてあげなさい」といっても、「僕はできたのだから、遊びにいっていいですか」と、他人のことに関心を持たない。怖いと思うのは、よくできる子にこうした自己チューが多いことだ。
 休み時間にドッジボールをしても、自分が外野に出てボールが来なくなって、自分が楽しくなくなると「先生、やめていいですか」という。団体戦でやっているのに、そういう気は全然ない。ボールが来ても追いかけもしない。「いけない」というが、違う遊びを始めている。また、昼休みに子どもたちと野球をやっていても、一度打ったら守備につかずに、「もうやめていいですか」という。自分が打ちたいだけ。自分の欲求を満たせばそれでいいという状況は共通してある。
 編集部 今回、下関の中学校の問題を取り上げてみて、親たちや地域のなかで教育の問題というのはものすごく真剣だ。そして現場教師も歓迎している。どこの学校も「紙一重で同じ状況」だという。この間の政府・文科省の教育政策の破産だ。それは全県的全国的にも、小学校でも共通して出ている。高校生が友だちを包丁で刺したという事件があったが、このままいったらアメリカのような銃乱射も他人事ではなくなる。
 ここ20年、幼稚園の「自由保育」からはじまって小・中学校で、新学力観の「個性重視」「興味関心第一」で子どもたちの好き勝手をやらせ、一方で教師に対しては「指導してはいけない」「体罰はいけない」といってがんじがらめにしてきた。日本の教育の崩壊、次代を担う人材の破壊であり、文科省の自由主義教育改革の破産だ。
  子どもたちの低学力は引き続き深刻な状況だ。同時に、「政府や県教委が“学力向上”といえばいうほど、子どもがバカになる」と職場で論議になる。以前、「体罰はいけない」というのが最初はその気にさせられ、結局それで教師の指導性が否定されるという経験をしてきたが、「学力向上」についてはそのときよりも相当早く教師が抵抗している。
 A 文科省の全国一斉学力テストの対象になる小6と中3の授業は、テストの点を上げるための勉強となり、その練習を何度もさせる。子どもも「なぜこんなことをしないといけないのか」と拒否反応を示している。しかし上から強制してやらせている。ある中学校では、「学力向上」といって、試験期間を長くして部活の朝練習をやめさせる方向で動いている。突っ走る校長がそういうことをやらせ、教師も生徒も振り回している。
  うちの市ではどの学校も小4と中1に学力テストをやらせる。なぜかと聞くと、山口県の学力テストの点が悪いから、2年間鍛えて、小6と中3でいい点をとらせるのだという。現場の声を聞かずに市長と教育長がやっている。
  県教委の「学力向上」対策で、「朝ご飯を食べたら賢くなる」「早寝早起きしたら賢くなる」「朝うんちが出たらいい子になる。学力があがる」といって、子どもたちの生活調査をさせている。「朝食を食べたか」「朝、うんちをしたか」「歯磨きをしたか」まで親にチェックさせ、それをまた先生がチェックする。それを数値化し、「達成率○%」となって学校だよりに載せる。それに教師は振り回され、子どもたちの本当の生活の要求や悩みなどに意識がいかなくなる。それが「学力向上」対策なので、みんな腹を立てている。
  小さい学校でもプロジェクトチームをつくり、朝食やうんちなどをチェックして、何学年は○%だといって競いあわせる。この学年は悪いとか、この学年はいいとか。そして教師は「なぜ就寝時間が守れないか」と子どもにいう。「学力向上プロジェクト」では、家庭学習をプラスワンさせよう、といって、「何時から何時まで勉強したか」「なにとなにをしたか」というのを毎日提出させる。親も腹を立てている。この忙しいときに、なんでそこまでするのかと。こうしたものに追われ、本当に学力がつくのかと不思議でたまらない。
 B 県教委が「自立する力育成プロジェクト」「子ども元気創造推進プロジェクト」「豊かな心プロジェクト」など10個の重点プロジェクトを示し、それを受けて各市教委が市内の各学校に分担してやらせ、成果をあげろと上から押しつけてくる。上意下達で、やらざるを得なくなっている。それを頑張りすぎたら、子どもはなにもかもみなやらされる。しかし子どもの成長にはつながらない。
  役に立たないことを「学力向上」などといって、上から統制的に押しつけてくる。しかし、子どもが悪いことをしたらしかるなど、本当にやらないといけないことは「自由」「人権」だといってやらせない。そういうものが学校現場に襲いかかっている。
 編集部 学力を向上させようと思ったら、子どもを勉強する気にさせることだ。やる気のところを「がんばらなくてもいいんだよ」「きみの自由だよ」という自由主義教育でつぶしているのが文科省、教育委員会ではないか。うんちをして朝飯を食べても、やる気がなかったら学力が上がるわけがない。そんな馬鹿なことを大まじめにやっているのこそ異常だ。
  学力テストと一緒に生活調査をやるが、その分析結果として「早寝早起きした子はちゃんと学力がついている」という結論を出している。そして「子どもの生活や家庭学習は親が見ろ」という。余裕のある家庭はできるかもしれないが、夜11時、12時まで親が働いている家で兄ちゃんと留守番している子が夜八時に寝られない。親は忙しくて食事をつくってやりたくてもできない。そのなかで子どもは頑張って学校に来ている。登校したとたん「ああ、お腹空いた」といって献立表の前に立つので、「給食まで頑張りよ」と声をかけている。そういう子や、親の実際状況、学校での様子、そこを見ようとしないで、上からああやれ、こうやれという。そこに教師は怒っている。
 A 下関の荒れた中学校で、子どもたちが家に帰っておらずホームレス状態になっているとあったが徳山あたりでも朝飯を食べてこない子どもが多いので、4時間目に給食をするという。そうしないと子どもは四時間目には目がとろっとして活力がなくなるからだ。生活が困難な家庭が増えているなかで、教師たちがそれと格斗している。
  うちの学校では生活保護や就学援助を受けている家庭が四割だ。教師たちは、今の「学力向上」対策は子どもたちの家庭生活や社会的背景を見ていない、テストでいい点をとらせるだけじゃだめだ、県教委はなにを考えているのかといっている。
 F 教師がそうした親や地域から切り離されている。担任を持っている教師にときどき「あの子の親はどういう仕事をしているの」と聞くが「さあ」という答えが多い。「親はいつ頃帰ってくるの」といっても「さあ」という感じ。何年も前から「親の職業を聞いたらいけない」「プライバシーの侵害になる」といわれてきて、それは知らなくてもいい、それでも教育できるとなってきた。家庭訪問をしてもふれないままだ。
 編集部 暴れる生徒たちに打つ手がないというが、生徒の心情を理解できない。子どもは学校生活だけではなく、家庭生活、社会生活のなかで成長している。そこを理解しなければ子どもを理解することはできない。
  金髪で学校に来ている子が授業妨害はするし、教師に暴言をはくので、それをしかると、その親が校長室に怒鳴り込んでくるということがあった。話しあうなかでお互い理解し合えたが教師のなかにははじめから腰が引けて、親がなにかいってくるとすぐにクレーマーのように見る感覚があると思う。
  以前の教え子のところに行くと、最近は子どもと真剣勝負でかかわってくれる先生がいなくなった、以前は先生と子どもとの関係はもっと血が通っていた、今そういう先生はなぜ育たないのかという。
 編集部 下関の中学校の場合、教師には「たたいてはいけない。怒鳴ってはいけない。胸ぐらを捕まれたら手を広げてなにもしない」と指導されている。親たちも協力を求められて学校に行くが、「生徒たちに声をかけてはいけません」「機嫌をそこねないでください」「じっと見守ってください」と学校がいう。好きなようにさせておいて、それを監視し、なにかあったらすぐに警察を呼ぶというのが市教委の指導だ。だからますます荒れてくる。補導員のなかでは、ショッピングセンターにたむろしていたら、何もしていなくても警察に通報するようにと市教委がいうと、腹を立てている。
 下関の中学校の荒れはこの1、2年で急激だが、全県的にも全国的にも突出しているようだ。北九州の市教委関係者も「どうしてそんな数になるまで放置していたのか考えられない」と驚いていた。現場の教師も「体罰はいけないというが、そんなことでは教育にならないのでたたきますよ」といっていた。下関の市教委はかなり突っ走っているようだ。2年前からついた嶋倉教育長は安倍人脈で、行政しかわからぬ文科省の元課長の天下りだ。教育基本法をかえ、教員免許法をかえ、少年法も12歳から逮捕するとかえた安倍元首相の地元の関係で、下関をその教育政策のモデル地域にしているのではないかと思われる。校長のなかでも、役人的な部分が発揚され、「退職までに何事もないように」とか「何かあったら隠す」といった、非教育の自己保身が目立つようになった。
  教え子のところを歩くと、「日本がデタラメになっている」ということの最初に出てくるのが教育問題だ。子どもが親と平等と思っている、先生とお友だちの関係になっている、どうにかしないといけないというのが、親世代になった教え子から出てくる。そこは本当に切望されている。
  親がすごく行動的になっている。先日も中学生7人がガラスを割る事件があったが、母親たちが追いかけて小学校の教師にも中学校の教師にも連絡して、「7人を呼びつけてちゃんとしかってくれ」という。地域の子どものことに知らない顔はできない、みんなで育てようと行動を起こしている。親たちはやる気だし真剣だ。今の教育をなんとかしたいという気持ちが社会的にも充満している。
 D 4年生のはじめに130人中30人しか逆上がりができなくて、「緊急事態だ」ということで、4人の教師で毎朝・中間・昼休みに子どもを鍛えることにして2週間やってきた。100人ができるようになり、親はすごく喜んでいる。「できないのをそのままにせず、徹底的にやらせてくれ」「手の皮がむけようが、先生たちと一生懸命練習するなかで子どもも一つできるようになれば、逃げないという精神が培われる」「うちの子は鉄棒もできない、九九ができない、ローマ字もわからないといって逃げてきていたが、そういう精神を他の教科でも徹底してやってくれ」と親や祖父母は歓迎している。
  20年前に新学力観が出された頃、「跳び箱を跳べない子は飛び箱にさわってなじんでおけばいい」といわれて驚いたが、月日がたつうちに「嫌なことはやらなくていい」「好きなことをやらせろ」「子どもが喜ぶことをやればいい」となっていた。しかし子どもたちが本当の喜びを感じるのは、できないことを克服してできるようになったときだ。
  スポーツ、体育は努力して自分を改造しないとできない。だから体育をやることが知育や徳育にもつながる。それを上から「鍛えたらいけない」という。こんなバカな話はない。この「努力しないでよい」というのが、小学校からの学力低下の要因にもなっている。体系的に教育を破壊している。人間が成長するというのは自己改造の連続だ。できないことをできるようになっていくのが教育なのに、それをしてはいけないというのはもはや教育ではない。
 編集部 下関の中学校の状況が典型的だが、中学生の暴れ方はまことに「個性重視」、好き勝手だが明らかにこの間の自由主義、市場原理教育改革で変貌した学校、教師への反乱だ。アメリカの市場原理主義がリーマン・ショックまで来て破産しているが、教育の市場原理改革も破産するところへきたということだ。教育は小手先の手直しではどうにもならず、根本的な立て直しを求められるところへ来ているということだ。
 市場原理主義の特徴は社会的な規制の撤廃だし社会性の否定だ。教育に持ち込まれた市場原理主義の特徴も、社会のため、みんなのためを否定してすべて自分のためというものだ。それは勤労父母たちが、みんなで協力しあって、生産をやり、生活をするという、人間の社会を発展させてきた根本的な要素を否定している。
 戦争のできる国にする旗を振ってきた安倍元首相が教育にも手をつけたが、これは結びついているということだ。アメリカの兵隊集めは、若者を食っていけないようにして、食べるために兵隊にさせるという方式だ。アメリカが指図してきた日本の教育の破壊は、兵隊集めの明確な意図が働いている。日本の子どもたちの将来にとってまことに不幸な事態だ。
 教師自身も今の体制のなかで、安住することはできなくなっている。上にあわせるだけなら、子どもの現実の前で破産する。いくら権力者の意図でも現実の方が強い。求められているのは子どもたちの将来に対する愛情だ。その子たちは支配階級の子どもではなく、勤労人民の子どもだ。教師が勤労父母と団結することが分かれ道だという関係はますます鮮明になっている。教師の側が、いまの学校はどうなっているか、文科省や教育委員会がいかにおかしなことをやってきたか、世間にバンバン知らせて、親、地域と力をあわせて教育を立て直す力を結集していくことが重要だ。親たちは学校のことを知らない。
 教育は日本の将来がどうなるかという問題だ。教師が、いまよりよい社会の担い手として子どもたちを育てるため、教育を崩壊させてきた根源とたたかい、保育園、幼稚園から小学校、中学校、高校、大学の教員が団結し、また父母や地域全体とも団結した、大きなスケールの社会的な運動が起きる情勢に来ているのではないか。
 司会 では、きょうはこのへんで。

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