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福田正義主幹紹介へ


教育論  福田正義評論集 創刊45周年記念出版
       
 
   1、教育者の戦争責任/子供を「手がるな商品」にしてよいか
   2、アメリカの現実・映画『暴力教室』について
 

                                       
著者・福田正義 発行・長周新聞社  B6判 223頁 定価700円(送料240円)


●教育者の戦争責任
    もう一度繰返す良心の退廃
                
(1958年11月9日掲載)
 
10月23日に勤評問題で下関の教師たちが市教委と交渉したときに、1人の教師が上田教育長に「あなたが下関商業の先生であったときに学徒動員をし、多くの学生を戦争におくったことをどう思うか? わたしはあなたの教えによって予科練に行ったが、ふたたびそのような悲惨な状態を教え子に強要する反動政策としての勤評を、どうして阻止しないのですか? 自分が教師としてやってきた軍国主義教育への反省はどうなのですか?」と問うたのにたいして、上田教育長は「あのときはそういう行政機構のなかにあったのだからしかたがない」と答えたと報じられている。
 いまの岸内閣を中心とする「戦争」へむけての急速度の反動政策については、わずか一三年しかたたない今日、りつ然とするものを感じさせられる。岸信介は戦争指導官僚の尖兵であった。かれが東条内閣の商工大臣であり、A級戦争犯罪人として投獄されたことはだれでも知っている。その岸を獄から放っただけでなく、こともあろうに平和な国を建設すべきいまの日本の総理大臣に祭り上げているのである。だからかれが、「わたしは改憲論者だ」と公然といったり、教育の反動化、警職法の改悪、日中関係の断絶、日米安保条約の改定というふうに新たなる戦争政策へむけて強引にすすめてゆくことは当然のことでもあろう。かれは戦争犯罪者であり、出獄したかれがそれと同じ犯罪をくり返さないという保証ははじめからないのである。
 ところで、問題は、たとえば下関市教育長の上田強氏のような人たちが、あの戦争時代を教育者としてどのような責任を持って考えているかということである。上田強氏といえども、かれが直接に戦争にかりたて、あるいは戦争に反対することが幸せの道であることをまるきり知らされず、そのために死んでいったり傷ついたりした何百何千の青年の魂と関係を持っているはずである。戦争が終わったときに、上田強氏は、そのことについて良心の痛みを感じなかったであろうか。あるいは戦争が終わって一三年の間に、あれこれの教え子の運命について考えるときに、まるきりそのことの「教育者としての第一義的な責任の重大さ」について反省がなかったであろうか。わたしはそういうふうに単純には考えたくない。ところが、かれは「あのときはそういう行政機構のなかにあったのだからしかたがない」ときっぱりといいきっているのである。
 いったい、そうなると教育というのはなんのことかわけがわからないではないか。とくに教育者というものの位置はどういうことになるのか。今日、教育長というような位置にある人は、大なり小なり上田強氏のような経験を経ている。文部省となると戦時中の特高をはじめ内務省畑の悪質戦犯分子がうようよしている。そのうえに岸A級戦犯が号令をかけている。そうなると「あのとき」ではない、いまや「このとき」が「そういう行政機構」なのである。したがって上田強氏のような教育長はふたたび「しかたがない」ということになっていると思わざるをえない。
 上田強氏のような教育長や校長さらには教師がまたもあらわれ、岸内閣やいまの文部省のようなものに不当に支配されて「しかたがない」などといって国民にたいする教育に直接責任を持たないようなことが二度とあってはいけないというので、法律で「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は根本において教育の力にまつべきものである」(教育基本法前文)という根本原則を示したうえで、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」(教育基本法第一〇条)と規定されているのである。すなわち、上田強氏のような教育長や校長も、戦争のあのたとえようもない全国民的な深い犠牲の反省から、二度とそれをくり返さないように、つまり「そういう行政機構にあったのだからしかたがない」といわなくてもよいように、厳密には二度とそういうことをいってはならぬために、法律が制定され保障されているのである。
 それにもかかわらず、上田強氏のような教育長や校長は、ふたたび岸内閣の「不当な支配に服」して「国民全体に対し直接に責任を負」おうとせず、勤務評定や新学習指導要領や道徳教育の名を詐称する修身科の復活などに浮き身をやつすというのは、どのような寛容さをもっても許すことのできないことである。ことの本質は「しかたがない」ですむようなことでないことは、常識のあるものならだれでもわかることである。しかも、上田強氏らが目下展開しつつある軍国主義教育の第二回戦は、アメリカの原子戦略に日本を組みこんで、アメリカの下請として「安上がりで命知らずの日本軍隊」をつくるということであって、その反民族的な犯罪性はたとえようもないほどのものである。
 わたしは、たまたま上田強氏の言行をとりあげたが、上田強氏のような傾向は、今日、教育の部面だけでなくあらゆるところで「戦争協力への恥しらずな無責任」としてあらわれているのである。わずか一三年で、ある日心のうちにはあったであろう反省もなにもかなぐり捨てて、軍国主義復活のラッパ卒となるという道行きは、良心の退廃として、今日の一個の典型をなしているといえるだろう。

●子供を「手がるな商品」にしてよいか

 何十年というもの汗水たらして働いてきた労働者も、何十年間サラリーマン生活をしてきた人たちも、いまのこの社会が、そっくりそのままでよいと思っているものはいないだろう。大ブルジョアで万事思いのままに暮してこれたごく少数のものはともかくとして、たんに「苦労が多かった」ということばかりでなく、もっと社会に正しさの一本とおる筋道があった方がよいと思うであろうし、いつ首を切られるかわからぬ不安のない社会が望ましいし、家庭がもっと豊かな状態であった方がよいに決まっているのである。
 また、今日一定の年齢に達している人人で、自分たちが働いている世界、会社であれ官庁であれ、そこでの生活を、そっくりそのまま子どもに話して聞かせることのできる人は少ないだろう。家庭で語られる職場の生活は、ちゃんと一定の区切りをつけ美化してあるのが普通である。なぜか? 子供の教育上よくないことが多いからだ。
 子供のためによくない社会
 自分にとってもっとも重要な働く生活が、そっくりそのまま子どもに語られないということくらいばかげて悲しむべきことはないだろう。これくらい非教育的なことはない。しかし、事実はそうなのだ。だから、多くの人人は、自分の職場での生活 ――それで一家を支えている働く生活のすべてを子どもにそっくりそのまま語ることができ、そのことで子どもがじかに教育されるような、そういう生活が望ましいと思うに違いない。そういう社会であってほしいと思うに違いないのである。
 早い話が、自分はそれなりに生きてきたし、しかるべきあきらめもしたが、自分の子どもが、そのまま自分の歩いてきた苦渋の何十年かを歩くとしたら、ちょっとやり切れない思いをするだろう。また、いま自分が職場でしているその生活のなかに、子どもがそのまま投げこまれると仮定したら、これまたやり切れない思いをするだろう。さらには、自分が何十年間か経験したこの社会に、子どもが突然投げ出され、自分の眼が届かなくなった事態を想像して、心のなかにあるどうしようもない焦りを感じることのない親は少ないだろう。
 これらのことは、多くの問題をふくんでいる。またきわめて大きな問題をふくんでいる。
 しかし、ここでわたしがいいたいことは、ごく一部のものをのぞいてだれでも、いまのままの社会であってはならないと思っているということである。それぞれの人人が願望する社会がどういう社会であるかということになると、それはそれなりにそれぞれの思いはあるだろうが、そっくりそのままいまの社会では、大きくなった自分の子どものためにはよくないということでは、少なくとも勤労によって生きてきた人人は、肉体労働者であれ頭脳労働者であれ、一致していると思うのである。
 ここで、わたしは教育の問題にふれたいのであるが、そのような親たちは、さまざまな思いをこめて、子どもの教育について考えているのである。
 教育の世界に二つの流れが
 ところが、いま教育の世界では二つの流れが鋭く対立している。一つは、現状の社会をそのまま固定したものとしてそれに適応する教育をしようとするものであり、もう一つは、子どもたちが新しいより進歩した社会をつくり上げてゆく能力を持つように教育しようとするものである。前者は、政府・文部省であり、後者は、日教組・進歩的学者・文化人・民主人士である。そしてそれは、いま、子どもたちの教育コースを規定する教育課程の改訂をめぐって、はげしくたたかわれているのである。
 いまここで、改訂教育課程の内容についてくわしくふれることはできないが(一昨年秋から昨年春にかけて本紙のこの欄に連載されたので参照されたい)文部省の新教育課程が出されて以来、小学校上学年から中学校、高校においては進学、就職ということを中心に人間性の開花、創造力の発展、社会科学の把握力というような項目が圧殺されて、現状の社会にいかに子どもが適応するか、いいかえれば、子どもの商品化が、教育行政の権力による統制化によって(教育委員会の任命制・教師にたいする勤務評定など)強引に押しまくられているのである。
 こういう教育が、親たちが心に深く思う「子供の将来」への願望の真反対であることはきわめてはっきりしている。人間のエゴイズムを中心に、いまの虚偽に満ちた社会にそのまま適応する子どもに仕立て上げるということは、新しいより進歩した社会が子どもたちの力によって築きあげられるという可能性を台なしに、ひからびた非人間的な新世代が生産されるということでしかない。
 ところが、文部省は、たくみに親たちの目前の願望をひきつけて、詰めこみ教育、点取り主義、道徳教育、進学というようなことで、親たちをめくらにしようとしているのである。文部省のなすべきことは、進学のために大らかさもなにも失わせてしまうことではなく必要な学校をつくることであり、すし詰め教室を解消し、教師の数をふやし、教師がじゅうぶんに一人一人の子どもの内面にたち入って教育できるようにし、教材を豊かにし、また教師が夜間課外教育などをやって生活の資を稼がなくとも受けもった子どもの教育に専念できるようにすることである。
 ここ数年来の激しい教育斗争は、このことをめぐってたたかわれている。巧妙なマスコミが、事態の本質をゆがめて宣伝し、教師の非難に血道を上げ、それがまた多くの父母に、事態を正しく見ることをできなくさせているのである。
 しかし、問題は、子どもの将来の運命にかかわる重大さをもって、事態がどんどんすすんでいるという事実である。子供を「手がるな商品」にするか、「信頼できる新しい世代の担い手」にするか、このことが、今日の教育問題の最大の問題であろう。
 戦後の新しい教育への障害
 戦前の非人間的な教育を克服し新しい平和と民主主義に根ざした教育のための運動が広く起こってきたが、その新しい教育のやり方は、たちまち多くの障害につきあたらざるをえなかった。
 はじめから、日本の占領者であるアメリカ軍司令部のやり方は、軍国主義を一掃して民主主義の立場に立つというのであったが、実はその基本を、独占資本の復活を援助し、これの支配を確立するというコースにおいていた。そのコースを、平和と民主主義のように見せかけていたのである。
 政府・文部省は、教育現場で発展してゆきつつあった平和と民主主義の教育に、激しい弾圧を加えはじめた。それは、組織的計画的であった。教育委員会を任命制にし、勤務評定を施行し、行政面から教育基本法を無視して教育の政府による直接支配を確立し、いま教育課程を改訂して教育内容の面から、戦後発展しつつあった平和と民主主義を基調とする教育の根本的な破壊にのり出してきているのである。
 とくに、安保改定・日米軍事同盟のコースが大きく浮かび上がってくるのに呼応して、教育政策の内容もいちじるしく露骨になってきた。かれらは、安直に、独占資本が要求する「働く青年」をつくり上げたいと考えている。その「働く青年」はものごとをあまり考えるようなものであってはならない。真理とか真実というものについて正しい判断ができるようなものであってもならない。社会の事物について批判的であってもならないし、ましてや自己の判断力によって行動するようなものであってもならない。無批判に、手軽な技術を身につけて、独占資本が必要とする労働部門で忠実に働く、そういう青年でなければならない。それには技術を身につけさせねばならないし道徳教育によってしつけなければならない。そうして、便利な「働く商品」をつくり上げねばならないのである。
 多くの良心的な教師たちは、こういう非人間的な教育に強く反発した。しかし、巧妙に仕組まれた組織的計画的なやり方、さらにつけ加えての権力の圧迫による強引なやり方、またこれらを助けるマスコミの援護によって、これらとのたたかいが、いまきわめて困難な事態に逢着しているのである。
 子供の幸福な将来のために
 たとえば、小学校上級から中学校にかけて、今日、まったく予備校化されているという問題がある。高校すらが予備校化されている。この傾向は、もう数年まえから露骨にあらわれている。予備校化ということが、とりもなおさず、子どもを、まともに、人間的に、創造的な取扱いをするということではなく、なんでもいい芸をつめこんで、試験がとおればよいという仕組みである。
 今日、中学校や高校の子どもたちを見るとよい。とくに中学生の場合、それも三年生にもなると、上級入試のために毎日追いたてられるような状態におかれている。これで、まともな教育ができるわけはない。豊かな人間性を養い、のびやかな個性豊かな、独自の判断力のある創造的な人間が育つということとは、まったくほど遠いことである。
 ところが、親たちもまたこの波のなかに完全に巻きこまれているのである。そのために、良心的な教師でも、このような状態を改めてゆくということには、ほとんど抗しがたいものを感じるのである。だから、一方では教育現場での予備校化の波に巻きこまれ、一方ではそれに反対の運動をするという矛盾が、今日広く一般的になっているのである。
 親たちも、現在の教育のあり方でよいとはだれも思っていない。教師もまた現状がよいとはだれも思ってはいない。それにもかかわらず事態はそのまま押し流されるように悪化の一途をたどっている。犠牲者は子どもである。親も教師も、心をこめて愛している子どもが犠牲者であるという悲劇が、今日の教育の実情である。
 この状態は改められねばならない。しかし、父母と教師が、相互にこの状態がよくないとわかっていながら、父母は教師に、教師は父母にこれまた双方が刺激しあって子どもをそのような状態に追いこんでいきつつあるということでは、問題の基本的な解決には遠ざかるばかりである。
 もちろん、問題は簡単に解決できるようなものではない。しかしまずなによりも、父母と教師は、問題の基本的な解決をめざして、じゅうぶんに話しあうことが必要であろう。参観日にやられるような相互の交流でなく、もっと問題を深く掘り下げて話しあうことが必要である。そのことが、あるいはそのことだけが、今日の教育を真に子どもの幸福な将来のために役立てる第一歩を踏み出すことになるのである。

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