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教育を破壊した「教育改革」
人民教育同盟教師座談会
              様変わりする教育現場   2005年8月30日付
 
 「興味と関心」で知育も崩壊 教師への物言えぬ重圧
 子どもの教育をどうするか、子どもを預ける学校はいまどうなっているのか。これは、すべての親にとって重大な問題である。政府・文科省の「教育改革」がすすむなかで、学校教育は様変わりし、教育現場ではさまざまな矛盾が山積している。本紙は人民教育同盟の教師に集まってもらい、いまの学校現場の切実な問題についておおいに出してもらい、なにが問題かについて論議してもらった。

  深刻なメディアの悪影響
 司会 いまの教育現場での切実な問題、教師の率直な思いを出してもらいたい。
  一つは、メディアの悪影響が子どもをむしばんでいることを痛感している。とくにテレビの影響で、子どもの言葉遣いがものすごく悪い。学校でも「うざい」「消えろ」「死ね」「ぶっ殺す」など汚い言葉を、人の心を考えずに安易に使っている。いわれた方がすぐにカッときてケンカになるという場合が多い。
 部屋にひきこもって、携帯の絵文字なんかを使って喜ぶ状況もある。携帯やパソコンのチャットで「おまえぶち殺す」というのが行き来している。テレビと違って親にはわからない。また、正常な男女関係が崩され「性」の商品化がやられている。子どもたちが劇をするときも、「不倫の劇」をしたり、「一番かっこいい死に方はなにか」とか、「ナイフでグサっと刺す」などのものが出る。こういう状況をかなり深刻な問題として受けとめている。
 最近は自分の体を傷つけるリストカットや、頭を机に打ちつけたり、拳で壁をドンドンたたいたり、自虐的な行為に走る。これもメディアの影響としてあらわれている。教師が本気でしかっても、ギャグを飛ばしてヘラヘラしたり、お笑いの動作をして茶化して受けを狙う。真剣にまじめに考えることから目をそらすのも、いまのお笑いブームの影響だ。
 B 学力の格差がひじょうに広がっていることがある。わたしは5年生の担任だが、ひらがながやっと、九九がいえないという子がいる。低学力から意欲がなくなってアナーキーになる。男子が授業中に暴れるという状況がある。板書をしていて、振りむくと、イスを振り上げている。そういう状況はどこの学校でも大なり小なり起こっている。教師のあいだで、なんとかしなければとなるが、親といっしょに考えるというふうにはならない状況がある。
 それから多忙化がすさまじい。始業時間は8時10分だが、1時間まえには学校に行く。するともう5人くらいはいる。職員朝礼が終わって教室に行き、職員室にもどるのは夕方五時。昼休みも休めない。給食の配膳指導をしながら、ノートや日記の丸付けをずっとやっている。提出する書類をつくったりで、以前は3時に子どもを帰せば、そのあと会議をやろうとなっていたが、いまは五時の勤務時間終了時刻後になっている。
 中学校では部活が入る。朝練を7時半からやり、放課後は4時くらいから6時半くらいまで部活。それが終わったら生徒指導上の対応などで、自分の仕事をやるのは8時くらいからだ。ある中学校では女先生でも夜11時、12時まで残っている。土日はなく、夏休みも毎日、部活の指導で出る。ほんとうにゆっくりものを考えるとか、地域の人と語りあうという時間がなくなっている。
 そしてなにか問題が起こったらマスコミをつうじてわんさかやられる。駒大苫小牧の問題があるが、体罰問題のキャンペーンの話で学校は持ちきりだ。「子どもがなにをしたかは問われず、教師がなぐっただけでは教育にならない」と論議になっている。
   
 信頼築けぬ圧迫感 妨害される親との団結
 C 切実な問題といえば、親と教師が信頼関係を持って教育にあたるということがことごとくジャマされる。これが教師へのすごい抑圧になっている。問題が起こったとき、親が担任と相談して子どもの状況をつかんだり、いっしょに解決方向を探ったりするが、教師のなかで親にほんとうのことがいえないというのがある。教師のところでは予測するようなところがあっても、親に「どこまでいうか」とか「全部はいえない」と考えるようになっている。親もほんとうのところがわからないので、子どもへの見方が、親と教師で食い違うことが多い。
 教師がそうなるのは、親のところに行かないとか、親の気持ちをわかっていないということもあると思うが、さまざまな抑圧がある。「家庭訪問に行ったらお茶を飲んではいけない」とか、「あの家とこの家の時間が違ってはいけない」とか、細かいことをいわれて、教師が親と腹を割って話をするということができない。
 親の側にもそういう抑圧があると思う。親が文句をいってくるのはふえたが、子どもを人質にとられているというので、教師にたいしていえないというものがあると思う。親との関係がうまくいっていたら、「体罰はいけない」で手錠をはめられたような思いにはならないのではないか。
 教師は一生懸命熱心なのだが、なにごとも思いきってやれない状況がある。子どもをしかることや家庭訪問だけじゃない。学級通信を出すとか、教材で自主的なものを持ちこむとか、音楽会など子どもといっしょにこんなことをしたいと思うが、全部にブレーキをかけるものがあって、それが教師のなかで欲求不満のようになってすごくたまっている。
 D うちの学校も親と教師が本音で語れず、それで対立が起こる。学校が教師への要望でアンケートをとったが、「行事がどんどんなくなっています。子どもたちが生涯残るような教育をしてほしい」と書かれてあった。親や地域から見たら、キャンプやお祭り集会など子どもたちが喜んで参加するようなものを、なぜ学校はなくしていくのか、教師は行事をつぶしてやる気がないと見ている。
 教師としては多忙化で授業もままならず、追いまくられているというのがあって、どんどん削ってきた。一番最たるものは運動会で、うちの学校ではわたしが赴任するまえに教師と親が対立した。地域のとりくみとして学校で1泊2日のキャンプをしていたが、校長がやめろといったものだから、親からの突き上げがあって、校長は一年で学校をかわった。
 いま心配しているのは、子どもの万引きが急速にふえたことだ。まわりが田んぼだったのが道路ができて、店がいっぱいできた。男子はカードとゲームで友だち同士で売り買いもしている。女子はメゾピアノとかのブランドもの。ショッピングブルー、ショッピングピンクのきらびやかな服を買う。
 家庭訪問で聞いて回ったら親は「遊び場がない。子どもがかわいそう」という。運動場は野球部が土・日は占領し、近くの公園はソフトボールが占領し、ちょっとした公園はじいちゃん、ばあちゃんのゲートボールが占領している。しかたなくゲームになっている。
 それから学力差がひどい。大きな塾がどんどんできて、夏休みに毎日塾がよいをして私立を受けるといっている子もいる。中学校でしか習わないことも勉強している。他方では毎日遊んでいる子もおり、差が歴然としている。そういう子はまともに社会の教科書が読めない。上学年になればなるほど差が開く一方だ。学力差は以前はなだらか型だったが、いまは中間がなくてできる子とできない子の2極分化だ。
 お金の問題も気になる。「きょう、お母さんが昼ご飯に1000円くれた」という子もいて、友だち同士でおごりおごられという状況があり、子ども同士でトラブルも起こる。
   
 進行する学力低下 増える英語やパソコン授業
 E 北九州市は「北九州市教育改革100プラン」というのがある。「少人数」「放課後教室」などがそうだが、その具体的なものにすごくしめつけがある。それにたいしていいたいことがほとんどいえない。いえば、教員評価制度で不適格にされるんじゃないかと考える状況がある。「二学期、自分たちはセンター送り(教師の研修)になるかもね」とそれが普通の会話だ。授業中に校長がグルグル回って、教師は監視されているような抑圧感がある。すごく気にしないといけない、「おかしい」というのが渦巻いている。
 完全週5日制になってからは、子どもたちの時間割が長くなった。低学年から長い。先生たちがみんないうのだが、以前は土曜日の終わったあとに、1週間の子どもたちのいろんな遅れがとりもどせていた。作品を仕上げたり、つぎの週の計画を子どもに立てさせたりとか。それが切られていっさいない。
 総合的学習は、パソコンと英語については確実にさせている。パソコンも英語も派遣会社が雇った人が派遣されてくる。その人たちは企業なので、教えておけばいいという感じだ。英語教師はコロコロ変わる。うちの学校では今年になって、知っているだけで4人目だ。
 怒りがわくのだが、英語のときにはゲームが多い。アメリカのゲームはすぐに点数をつけて序列をつけたがる。グループに分けて「何点」と点数をつけて、点数で「イエーイ」と子どもにやらせる。ある子は英語がわからないから、ゲームの内容がわからず、いつも負けてイライラして、投げてしまう。そういう子は無視される。とにかく毎回点数だ。なにか英語がいえるようになるというのはちっともない。
 パソコンの授業もすごい。派遣会社の考えで今年は「校内メール」をやる。校内メールというのは佐世保事件で問題になったように、全校の子どもや先生に「バカ」とか、いくらでもメールが送れる。いわゆる「チャット」で隣同士でおしゃべり。しかし子どもたちは「○○さん、こんにちは」と送るだけで一時間が終わる。
 学校に来る派遣会社の人たちは、いいかげんにやって、いいかげんに去っていく。英語の場合、アメリカ人とはかぎらないが、「どうして来たんですか」と聞くと、「東京にいるときにこの仕事がもうかるからといわれてきた」という。先生同士でも「おかしいね」「わたしも思っているよ」とはいうけれども、たたかえていない。
 総合学習ではパソコンと英語はどんなことがあっても隔週1回させられるが、あとの時間は教科書もない。地域に入ってやることもよほど計画していないと流されてしまう。終わってみれば総合で英語とパソコンだけしていたということになりかねない。
 編集部 それは外人崇拝ではないか。遊び半分かアルバイトの稼ぎのような動機で教育的な意識のない外国人を派遣会社から教育現場に来させる。遊び半分の外人は立派で、英語のできない日本人教師はダメだという教育をしているということではないか。

 派遣会社の外人が教育
  うちに来た外国人の先生に「なんで先生になったんですか」と聞くと、「世界旅行したいから」という。うちあわせも英語でやるからわからない。子どもが「先生、英語わからんのやろう」という。先生は英語のときもパソコンのときも子どもからもバカにされている。
 F わたしが切実に感じているのが、子どもの力の差、親の生活にすごく差があると感じる。給食費を催促しなければいけないという親から、いくつも習い事ができる親がいる。
 読み書き計算について、子どもの差に個別に対応していこうという体制ができあがっている。学級のなかでみんなでできるようになろうという、集団で学びあいをしていくという体験を子どもたちができないような仕組みになっている。できない子をピックアップして、何人もの教師がはりついていく。表だっては問題は起きない。だからなにか起こったら、学力的なことだったら担任の手に届かないところに行ってしまうか、生徒指導上の問題だったら、担任が全部かかえこんでしまう形になる。
 もう一つは、少人数指導というのがある。国語と算数が少人数で、週に10時間ほど子どもが分かれていく。1日2時間は子どもが分かれて、朝から子どもがあそこの教室、今度はあっちの教室と入れかえをする。ゆっくり教師も子どもが見れない。いけないと思うのは、子どもたちがクラスの友だちのことをちゃんと見て、あの人どうしたのかなとか、ゆっくり考える時間がないことだ。低学年のころからの積み重ねで、人のことを気遣うとか、みんなでなにかをしたら楽しいというようなことになるが、体験が少ないまま大きくなっていくというきびしさを感じている。
 少人数指導は教師から見れば、「指導上最適な人数じゃない?」という意見もある。わたしも「それは教師側のよさじゃない」といったりはするが、なかなか子どもにとってどうなのか、議論できずにいるのがジレンマだ。みんな熱心に違う方法でやっている。親から見たら、さっき英語とかパソコンの派遣会社の先生を見て教師が「ほんとうに嫌よね」と感じているように、「嫌よね。先生は適当にやってきて、適当に指導して、その場を過ごせとけばいい」と強く感じている。
   
 学校5日制から急変 多忙化にも拍車
 司会 切実な状況が出されたが、親から見たらまったく想像できないぐらい、学校がものすごく変わっているという感じを受ける。どういう経過でそうなっていったのだろうか。まえと比べてどう変わったのだろうか。
 B 学校5日制になったのが急激な転換点だ。月曜から土曜まで学校があった時代と、月に2回は土曜が休みになった時点、そして完全5日制。この段階をへて学校が変わってきたように思う。
 80年代半ばの中曽根臨教審のころから、ジワジワやられてきたが、そんなに変わると思わなかった。5日制になり、教員評価、学校評価、新勤評が出され、学力テストまで出されてきて、いよいよ追いまくられてきたなという感じがする。とくにこの3年ほど。
 F 生活科の導入(89年)のところで、内容的にはすごい変化があったと思う。最近もいろんな制度が入ってきたが、子どもの評価をものすごくいい出したころから、多忙になった。
 G 90年代に入って新学力観、自由保育、生活科がはじまり、「知識・技能」から、「興味・関心」第一へ変える。あのころから「先生は教えたらいけない、子どもの自発性を」といい出した。「いままでとは違うんだ」という研修をずっとやった。
 H 自由保育が出て、小学校で1年生を担任する先生が目をまわす。いままでは高学年になって荒れるというのはあったが、1年生から授業にならずに荒れる。席につかない、嫌と思ったらやらないなど、自由保育の影響を受けた子どもが小学校に来て、1年生の担任のなり手がなくなってきた。
 G “酒鬼薔薇”(神戸の少年事件)の世代が、自由保育世代だ。
  あれはほんとうにデタラメだった。先生の立つ位置までいわれた。「前でなくて、横に立ってもいけない。うしろで指導するように」と。「指導してはいけない」といわれたが、いまごろになって指導主事が、「そんなことはいってない。それは受ける側の理解不足」といっている。
 G 授業案で昔は「指導事項」というのがあった。それが「指導」という言葉がなくなって「支援」というのに変わった。
 E 今年文科省のエライ役人が来て、「“支援”などといっていない。そのようにとる方がおかしい。ちゃんと指導しないといけない」といっている。
 D 北九州では、とび箱が飛べなかったら「さわっておくだけでいい」というのもあった。
  山口県もそうだった。とび箱が嫌いな子はとび箱をさすって、とび箱に親しんでというような体育の指導を受けた。
 H 子どものなすがまま、やりたいことをやらすというので、「これで子どもが育つのか」と、先生たちもそうとう反抗した。しかし徹底的に、教師の学力観をひっくり返さないといけないんだとやられた。
   
 「知識」は一番下に 「関心・態度」が一番上の項目へ
  昔だったらテストをやって、知識が何点というのが通知表の一番上にきていた。通知表の順番が「知識・理解」「思考力」「表現力」で、つぎに「関心・態度」だったのが、「関心・態度」が一番上の項目になって、「知識」が一番下になった。そこから、知識の方で100点をとった子でも、関心態度は△になるとか、関心態度を○にした子が、テストをやらせば点が悪いというものが生まれた。興味がないものは勉強もしないし、知識がとれるわけない、興味・関心があるからがんばって勉強するのだが、と思いながら矛盾を感じていた。
  一人一人を大事に、横並びはいけない、といういい方でずっときた。「興味・関心」と「知識・理解」の関係もそうだが、集団と個人の関係とか、指導と子どもの自発性の関係など、一方だけを強調して、切り離してきた。
  たとえば、国語の読みとりで「やさしさ」というのをテーマにした作品を読みとらせて、そのテーマにたどりつくように昔は指導していた。ところが、いまはその内容を理解していなくても、自分の意見、自分はこうだと思ったことを最後までいいとおしたものが、「関心・意欲・態度」が○になるような評価になる。だから自分のいいたい、やりたいことを、最後までとおしたら勝ちとなる。殺したければ殺すとなる道筋だ。
 H 先生の指導がまったくやられない。子どもが文学教材などを読むとき、「ここはこういう状況をあらわしてるんだね」といえば、「いやそれは先生が感じたことを子どもに押しつけることで、いけない。子どもは思ったらそれでいい。100人いれば100とおり思いがあってそれでいい」とされる。
 いま国語では「話す・聞く」がテーマになっている。子どもたちを2つに分けて自己主張をしあい、どちらがいい負かすかというのを重視している。文章の起承転結など関係ない。適当に子どもが感想を書いていればそれでいいという感じだ。言葉そのものが破壊されている。そこでの思考力の破壊はそうとうなものだと思う。

  自己主張のみ重視 新型人間の大量生産
 編集部 客観的な真実はどうでもよく、自己主張しておればほめられるわけか。自分の意識する外側に真実があるし、それを学びとるとか、親や大人や先輩に学ぶというのではないわけか。それじゃろくな人間にはならないだろう。また正しい科学的な知識とそれを貫く法則というようなものはそうとうの努力なしには習得できない。知育が崩壊しているということではないか。戦前も日本は天照大神(あまてらすおおみのかみ)がつくったとかの、非科学的なことを教え、批判力をなくして戦争に動員していったが、それと同じではないか。天皇崇拝のかわりにいまは「個人の好き勝手自由」の崇拝だ。
 社会的にもそういう人間がふえているが、「興味と関心」教育で大量生産をしているわけだ。たとえば、アメリカの小学校を出た下関市長の江島氏など、自分のいい分ばかりで人のいうことを聞かない、下関の歴史とか現状を知ってどう地域の発展のために役に立つかというのはなく、自分の興味と関心、自分の損得には熱心な、昔の常識から見たら想像できない新型人間といわれている。
 また財務省のエリートという30歳ほどの兄ちゃんが市の部長に天下って威張っている。国際的な弁護士資格を持っているらしく、勉強しない市会議員などが論争しようものなら、立て板に水のごとく弁が立ってすっかり煙に巻かれて劣等感にさいなまされている。自説を絶対に曲げず、相手をとことんいい負かす達人だ。ところが、住民をなだめて了解を得なければならない説明会でも、いい負かす術しか心得がなく、それをやるものだから住民を怒らせ、「エリートというのはアホのことか」といわれている。
 小泉がまた自分のいい分ばかりで人のいうことは聞かない。いい負かし専門だ。「コメ百俵」とか知ったかぶりをするが、やることは逆で、まるで真実性がない。今度の選挙で「刺客」といって出している連中もそういうのが多い。ホリエモンなんて自分が得することの達人で、他人がどんなに苦しもうが平気というものだ。こんな利己的なものが政治という公的な場を占領したら、日本はつぶれてしまうということではないか。
 F テストをしたら問われていることの意味がわからない子がほんとうに多い。口で説明してやると、わかったとなる子が、あっちにもこっちにもいる。

 内容変わる理科や歴史
  中学校の理科でも実験は1学期に1回しかない。マッチを使わせないとか、いろいろ危ないといって実験もできなくなってきた。いまの子どもが筋道を立てて物事を考えないというが、理科という教科でそれをやらないのだから、考えられるはずがない。自分が思ったらそれが天下だから、ものすごく観念的、短絡的だ。興味・関心が第一だから、「河原で拾った小石を宝のように大事にしよう」というような、コレが理科か? と思うようなのが出てくる。
  小学校の理科の教科書も、内容を読んでもわからないものになっている。問題では「これはどうかな」と書いているが、それがわからない。まず社会科がわからなくなった。
 D 歴史の分野でもトピックだけで、つながりがまったくない。興味・関心をひかせるようなエピソードだけだ。
 編集部 小泉の歴史知識みたいだ。知育も破壊ではないか。それじゃ授業は先生もおもしろくないだろうが、座らされている子どもの方はもっとおもしろくないではないか。

 音楽・図工が大幅削減 授業内容も変化
 司会 音楽、図工・美術などの芸術的な面や体育はどうか。
 B 小学校は音楽・図工の授業数が削減されて週1時間だ。1学期で絵を1枚つくるのがやっと、歌でも1曲うたえるかどうかだ。一つのものを仕上げることができないから、中途半端になっておもしろくない。今年の1学期はその削減された時数も達成できなかった。算数、国語を削るわけにはいかないので、音楽、図工を犠牲にするので授業時数はさらになくなる。毎日、朝の会、帰りの会で歌をうたわしているが、授業としてはなっていない。
 C 図工も造形で遊ぼうという感じで、集中して作品を仕上げるとならない。4時間で絵が仕上がるわけがない。
 H スケッチ、デッサンなど物を見てとらえるという訓練がまったくなくなっている。偶然性、奇抜性がもてはやされて、物事を正確に見る力、観察力はまったく育たないようにされている。体育を削ると子どもは嫌がるので普通はへらさないが、それでもへっている。
 A 子どもは体格的には大きくなっているが、体力は劣っており、精神的にも、最後までがんばろうとか、辛抱してやろうというのが欠落している。集団プレーはできないが、スタンドプレーで自分だけめだちたがる。自分が気に入らなかったらやらない、泣き叫ぶという現状がある。ある学年では水泳を見学するのが10人以上、持久走をやるときでも「やりたくない」といって見学する子どもが多くなっている。
 G 逆上がりができないとか、まっすぐ走れないとか、走らせたら骨が折れるとか、そういうことは学力と見ない。逆上がりができない方が命をなくす可能性が高いのだが。いまはできる子とできない子で2分化し、完全に分かれてしまう。
 もう一つ、「つくられる障害児」がふえた。これらの教育方法は全部アメリカから持ちこまれたものだ。先生が受ける講習会では、「アメリカのどこそこの教授の学説であります」とやる。その中身は「子どもができないことはやらなくていい」というものだ。ときには、原書を英語で勉強しろという。
 D いまは子どもがちょっとでも問題行動を起こしたらADHD、アスペルガー症候群などの病名がつく。そして、一時おさまるような薬を飲ませておとなしくさせている。病名がついたら教師の役目はないとなって、結果その子はそれ以上によくならないし、かえって悪くなる。ほんとうに子どもたちが切り捨てられてしまっている。
  授業日数が年間190日とか200日を切るようになった。昔は240日あったので、2カ月くらい勉強していないことになる。日数的にもすごい削減だ。
 編集部 夏休みも学校に出て、教師の方は忙しくてやれんということだが、子どもの世話で忙しいのではなく、子どもを相手にする時間を削って、教育委員会を相手にする時間とか、要するに教育でないことばかりたくさんやるようになって忙しいわけか。

 子供も態度点数化 理解度より挙手数
  中学校では、2002年の指導要領ですべての面での点数化が本格的に導入された。昔はABCで評価したが、人間の行動からお行儀まで点数化するようになった。これで、中学校の先生は大ごとになった。学期末は追いまくられている。
 B 「ノートを提出した」「授業中に手を挙げた」などの項目でチェックリストがあって、子どもの態度を全部点数化する。
 H いまあの子が手を挙げたとかチェックして、それをパソコンにうちこんでいる。
  中学校で4クラス四時間を受け持っていたら、4クラス分の子どもを全部点数化して提出しないといけない。これでこの子にこういう点をつけたという説明能力がないといけない。もし親からなにかいわれたら、「この子はこういうことで」と説明できないといけない。授業がわかっているかわかってないかよりも、手を何回挙げたとかでの点数化だ。子どもは「意欲・関心第一」で、点数から解放されたというものではない。逆に、日ごろの行動は点数でがんじがらめにされている。
  小学校は、そこまで点数化されていないが、親からなにをいわれてもいいようにといわれる。懇談会まえには、それ用にノートをつくってやっている。
  実際に懇談するときに、親は子どもは何回手を挙げたかとかバカなことは聞かない。「友だちと仲よくしてますか」とか「この子は学校の生活どうですか」というのがおもだ。子どもは点数化で、いつも自分は見られているとなったら、他人をけ落としてでもという競争意識が芽生えてくる。他人の欠点を喜ぶようになる。
 G 中学になると高校への推せん入学が大きな問題になってくる。以前は、私学がおもだったが、公立が何%か推せんでとるようになった。なにか秀でたものがあるとそれで推せんするのだが、まず中学の先生で判定会議を持って選抜しなければいけない。自分らが教えた子を自分らで選抜しないといけないというのは、泣きの涙だ。そのときに「なんであの子は入ったのに」と親からいわれたときに説明できなければならない。行動評定といって「担任にたいして態度はどうか」「生活規律はどうか」など、全部点数をつける。子どもは廊下を歩いていても見られており、全部評価される。
 編集部 本音をかくして体裁だけをとらせて、なにか起きたら「心の教育」というわけか。

 「効率化」で教師「多忙」
 G こうしたなかで、教師の多忙化が段階を画してきた。教育委員会では、どこの学校でだれが休んでいるか、全部パソコンで集中するようになった。提出物もメールで校長のところに大量に来る。それをパソコンで返さないといけない。朝来て昼までに返事をしろというのがすごくふえた。こうした「効率化」で先生が多忙化している。
 編集部 教育現場を非効率にすることで教育委員会が効率化しているわけだ。
 D 教頭と教務がその仕事をしているが、9時10時まで残って提出書類に追いまくられている。
 B 今年山口県で体力テストがやられたが、50b走は何秒か、握力がどれぐらいか、一人ずつのデータを全部コンピューターに入れて県教委に送る。今度学力テストをやるが、それも問題を1問ごと全部インプットして、県教委に送らないといけない。いま、その平均点を学校の名前入りで県教委のウェブサイトに出すというので、一波乱起きている。東京や広島ではすでにやっている。
  夏休みもずっと出勤させられて、親のところに行けないようになっている。以前は勤務日でも場所をかえて研修というのもあり、自宅研修もあったがそれもいけなくなった。
 H 子どもの抑圧感はそうとうなものだ。学校で問題行動を起こしそうな子は、よろいをかぶって無表情だ。教師にたいしても表情をキッとして、自分を守る。しかしその子が平和教室などに来るとのびやかに、ぐっと自分の力を発揮する。この差の違いはなにか。学校のなかで子どもをいかに抑圧し押さえこんでいたかハッキリしてきた。
 
 点数で縛られた監獄 自由なく差別・選別
 編集部
 子どもも教師も毎日点数ばかりつけられて自由がないではないか。監獄みたいだ。子どもは好き勝手にやれといわれて放置されながら、点数をつけられている。子どもにとっては油断もスキもできない。こういう学校を嫌がるのは当然だろう。反発する方があたりまえで、これに従順で一生懸命やる子どもの方が恐ろしいのではないか。
 学校は本音を出したらいけないところになったら、それは教育とか学校とはいえない。子どもから見たら敵地になっている。平和の旅の場合、学校で能面のような顔をしている子どもが安心しているし、思ったことがいえて解放されている。平和の旅は安心できる人民の学校なのだ。学校は安心できない敵の学校だ。
  敵の学校の枠内で、子どもをいくらよく評価してやってもだめだ。旅ではだれも学校の基準で評価していないから、のびのびとやっている。そのような方向で学校でどうやっていくのかが問われていると思う。教師も本音がいえなくなっている。点数をつけられてクラスが荒れたりすると、不適格教師として見せしめみたいにやってくる。
 F 本音をいうのに、ものすごいエネルギーがいる。
 D 職員室でも声をひそめるという感じだ。夏休みなどは、みんなワーワーいっているが、9月1日からパッと変わる。
  自由がぜんぜんない。学校現場は驚くほどなにもできないし、なんにもいえないし、いわない方が楽という感じだ。たとえば給食一つでも「残すなってもういわない。その方が楽だし、見ていてつらいけどわたし今年からいわないことに決めた」という先生もいる。
  子どもを本気で怒れない。それをやれば体罰教師といわれる、というのがあって、子ども天下を助長する。熱血先生がやれなくなったというのはどこも普遍的だ。
 F 怖いのはそういうなかで、だんだん子どもとかかわらないようになることだ。子どもと距離をおいて、子どもたちの人生の教師ではなくていわゆる学校の教員として、そこで組まれているプログラムをこなしていく社員になり下がっていく。そういうことにたいするストレスが大きい。
  中学校のちょっとぐれたような生徒に、「なにしよるか」といったら、「なにを!」とはむかってきて、「なにをいうか」となれば手が出る。それでは「体罰」でやられるから、最初から「なにしよるか」といいさえしなければいいという状況になる。「あれだけ先生の足腰を立たないようにしてしまったら、子どもの教育にならない」と、かなりの校長がいっている。
 
 勤労父母と団結し 進歩と反動を鮮明に
 編集部 なにか起こればマスコミが来て教師を袋だたきにし、警察も動くという関係で大きな権力が学校をコントロールしている。
  校長はじめこのままではどうにもならんという意識がすごい。勤務評定制度も「先生に点数をつけるなどどうしようもない」と校長がいう。
 
 個人競争は野蛮な時代遅れ
 編集部 小泉はホリエモンを時代の先端を行くすぐれた人物とほめているが、いまの教育改革というのはホリエモンとか下関でいえば江島市長のような新型人間をつくるということではないか。ホリエモンが成功することは、大多数のものが負け組になることを意味している。学校ではホリエモンとかの人種を批判する力が弱いところがあるのではないか。
 ホリエモンのタイプというのは、進歩どころかとんでもない野蛮時代の人間だ。コンピューターという近代兵器を使う、頭の回転が速い野蛮人ではないか。企業でも成績主義の賃金制度とかいって個人の点数をつけるが、働くものが個人競争ばかりをやるようにすると、資本主義の企業は封建時代と違って集団労働であり、チームプレーだから、企業もガタガタにならざるをえない。金もうけの願望が過ぎてもうけの根拠をつぶすということだ。学校もみんなが協力しあわないとことは動かない。それを先生も生徒も点数分けをしてバラバラにしたら、現実の学校が動く法則に反することになる。みんなで協力してみんなのためにやる方が進歩であって、自分勝手の個人競争オンリーは手工業の封建時代以前の時代遅れだ。
 教育改革として学校現場にあらわれているさまざまな問題を、支配の側か人民の側か、進歩か反動か、どっちかという基準でハッキリさせる課題がたくさんあるんではないか。その辺の評価・理念をハッキリさせて、教師、父母の世論を統一して現状を変えていく力にしなければならないと思う。
  教師も学校で起こる一つ一つとはたたかっている。教科書がおかしいと感じて自主教材を入れていくことはできる。国語で「話す・聞く」ではいけないから、文学作品を読ませるということはできる。しかし、それは一つ一つでしかない。全体の大きいところでどうなっているのか、それで子どもが犠牲なっていくところが見えないと、ほんとうに教師の集団としての力を発揮できない。
 編集部 親たち、祖父母たちはいまの子どものことをひじょうに心配している。だが親たちのほとんどは、学校がデタラメになったとは強く思っているが、近年の教育改革で学校がどのように様変わりしているかは、よく理解してない。大きく構造的に教育改革がやられている。それがどうやられてきて、いまどうなっているのか。その教育改革の性質というものを教師のなかでも親のなかでもハッキリさせて、共通の目標で団結するというのがいるのではないか。
 いまの教育改革の方向での学校現場の変化というのは、ひじょうに大きな権力の力でやっている。これでできる人材は、小泉とかホリエモン的な冷酷な精神の一部エリートと、大多数が科学的な批判力のない奴隷であり、外国崇拝の劣等意識と一体となった動物的なものであり、戦争の肉弾に都合のいいものだ。
 教師がこの反教育的な方向とたたかうということと、子どもたちへの愛情というものを統一した思想感情で、つまり子どもたちをよりよい社会の担い手にしたいという、進歩を要求する勤労父母、祖父母の側に立って、かれらと心をかよわせ団結するという方向、つまり統一戦線の方向でなければ展望は見出せない。教育運動は教師が指導的な中心を担っており、この辺の問題でしっかりした理念をうち立て、そうとうの馬力を発揮しなければならないということだと思う。
 広島への平和の旅は、まさに人民の学校であり、教育の発展性を証明している。子どもたちはみな学校へ行っている。学校現場で、平和の旅のような立場、思想を勝利させたら展望があるということではないか。
 司会 きょうの討議を土台にして、もっと構えて教育運動にとりくみたい。きょうはありがとうございました。

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