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教育の閉塞破る展望を開く
人民教育全国集会勝利の教訓
             皆が協力の人民精神が源泉    2011年9月2日付

 本紙では人民教育同盟の教師による教育座談会を系統的に開いてきた。今年の人民教育全国集会、それに先立つ平和の旅と8・6集会はひじょうに大きな確信と共感を呼ぶものとなった。それをどう評価できるか、どのようにしてそのような教育実践がやられたか、どういう教訓があるか、どうすればそのような教育を広げることができるか、などをめぐって人民教育の現役と退職の教師に集まってもらって総括論議をしてもらった。
 
 広範な親・教師・子が一体感

 司会 8・6原水爆禁止広島集会と「広島に学ぶ小中高生平和の旅」、そして人民教育全国集会についての参加者や周囲の感想や反響から出しあいたい。
  8・6広島集会や平和の旅、そして教育集会は、ある特定の団体のものではなく、広範な親や教師、子どもが集まって自分の思いを遠慮なく自由に発言でき、考えあえるひじょうにいい集会だった。参加した同僚教師も「行ったかいがあった」「来年も行きたい」といっていた。とくに異口同音にいわれたのは、「先生は算数の時間に子どもが目を輝かせないというが、実際のコメづくりの労働と結びつけば、子どもは算数はおもしろいと思うはずだ」といった北九州の農民の発言で、「あの発言で指摘されているのは私たち教師みんなのことだ」「自分たちが考えている学校の常識が、一般の人たちから見たら常識でないことを実感して、ひじょうによかった」といっていた。もう一つは青少年の成長する姿で、確信に満ちて堂堂と発言する姿に感動していた。あんなにしっかりした生き方を高校生からやっていくのなら、日本は捨てたものではないと語られていた。
  初日のつどいに若い女性教師が参加した。感想を聞くと、子どもも親も教師も地域の人もいて、彼女の言葉を借りれば「オールOK」だという。「教師のテクニックのような研修会はたくさんあるが、“教育とはなにか”という根本を考えられる今度のような会はないし、このような会の方が教師にとっては大事ではないか」と話していた。教研集会に参加した青年教師は、「どの先生も子どもを第一に考えていて、魂を注入してもらった」といっていた。若い教師たちがこの教育の方向に思いを致していることを深く感じた。
 C 平和の旅に続いてつどいに参加した同僚の若い教師は、自分の発言を被爆者の方が真剣に聞いてくれ、自分の発言が役に立ったと聞いてうれしかったことや、「保護者の考えがわかった。保護者も一緒にやっていきたいという思いがあることがわかった」と、子どもの教育への思いはみんな同じだということがわかったと感想をのべていた。感想にも「過去の事実は変えられないが未来は変えていける」と書いており、確信を深めている。集会へメッセージを寄せた農民の方に報告に行くと喜ばれた。鉄棒を全員ができるようになるまで一緒になって頑張っているという実践も喜んでいた。
 D 集会にすごく一体感があった。教師と父母と子どもの三者が、自分がいいたいことを喜んで率直に語りあえたというところに、今度の教育集会のすごさがある。そこにいる人たちが一つの方向で、信頼しあえる雰囲気が存在したと思う。「鉄棒実践」をやった小学校の教師と父母と子どもが一緒に出て自分の思ったことを発言するが、それが同じ方向を向いている。子どもの成長を第一におき、子どものために教師はあるんだなと改めて実感した。こういう方向でやっていけば教育の展望が出てくると確信できた。
  つどいに参加した母親は「熱い先生がたくさんいる」と喜んでいた。親は子どもの教育に情熱を傾ける教師を切望していることがわかった。その日の晩にメールで、「未来ある子どもがたくさんの希望を抱けるようにサポートできるよう、前向きになれました」と送ってくれた。この親は集会参加を呼びかけるとき、「これからの日本をどうするのか考えていく集会だ」というと、「それが一番大事だ」といって参加してくれた親だ。親たちも、そういう構えを持っていることがわかった。今周囲の親にも集会のことを伝えているという。
 F つどいで平和の旅について発言した母親は、宇部の逆上がりの実践について、教師と親と子どもが集団でとりくんでいる姿に感動していた。また農家の人の話や「平和の旅」の発表がよかったという。母親自身が集会のなかで発揚されていった。その母親は小・中学校のPTAの役員をしており、給食民営化反対のとりくみのなかで親同士の対立も経験していて、「子どものためには団結していかないといけない」と強調していた。集会で子どものために教師と親が団結して頑張っている姿を見て、話されたのだと思う。

 皆を結びつける教師の位置 若い教師が共感

  子どもがいて親がいて親の生活している地域があって、本当に子どもたちをその願いに立って教育していくということがすごく大きな影響を与えることになるという姿を見せてくれた。教師というのがみんなを結びつける位置にいるんだということをあらためて思わされた。子どもを変えたいと思っている教師はいるが、実践でその方向を示せたことがすごく大事なことだった。とくに若い教師がこの運動にスッと参加できることが驚きだった。今の社会や文科省の権威が崩壊するなかで生まれてきた若い青年が教師としてどう生きるのか模索していることと結びつき始めている。
  同僚の若い教師に教育集会を報道した長周新聞を見せた。そのとき「私たちは日教組の組合員であるが、教師の待遇を第一にする子ども不在の日教組の組合主義を批判したんだ」と伝えると、その教師はすごく喜んだ。「そこが私は嫌だった。広島で教師をする友だちも、“日教組の先生は子どものことより自分のことばかりいう”と嫌っている」といって、話が盛り上がった。
  自分もずっと若いときから教組で活動してきたが、「組合員のため」とか「父母のため」といっていたが、実際は理屈だけで無理矢理あてはめていたような気がする。父母や同僚教師の本当の思いはそこにはなかった。結局は自分の側から、小集団の側から見て、どうかしてやろうというひじょうに姑息な面があったと思う。今回の教育集会は、本心から親の思い、子どもや同僚教師の思いの側から出発している。そうでないとあのような雰囲気にはならない。
 「みんなのため」というのがキーワードになると思う。自分のために勉強するのではない、社会を発展させるため、働く人のためになにができるかというところで、子どもも親も教師もものすごい力を発揮している。こちらからの願望ではなく、もともと持っている子どもや親のそういう思いと教師が一緒になってやっていく。だから子どもが日曜日でも逆上がりを親と一緒に練習し、手の皮がズルズルむけても頑張った。組合主義の問題をはっきりさせることが重要だ。
 
 父母の期待に合致 8・6集会や平和の旅 震災で意識転換

 A
 教育集会に至る8・6集会と平和の旅の成果は大きい。実感として3・11東日本大震災以降、人民の意識が大転換していることがつかめた。平和の旅に子どもたちを送り出す親も、「今の時期だからこそ歴史や社会の真実を学んでこい」と意識的に送り出す。旅のカンパ活動でもこれまで出さなかった人人が協力する。個人主義ではなく集団の力で世の中を発展させていくんだという意識が人人のなかにずっと浸透してきている。それを信頼して教育集会の宣伝ビラをつくって訴えたのだが、「みんなのために」という標題が喜ばれた。手練手管ではなく、教師集団が子どもたちのために一生懸命とりくめば必ず大きな運動になるという確信。その基調と呼びかけに賛同した教師が参加してきたと思う。時代意識、時代にかみ込むような一つの実践の成果だ。
 平和の旅に体現された子どもたちの発言は確信に満ちているし、将来頼もしいという気持ちになる。また、学校で手の皮をむきながら逆上がりの練習を頑張った子どもたちの姿というのは、「鍛えてはいけない」「子どもたちを自由に」では子どもは育たない、だれがなんといおうと教育改革に負けぬ子どもをつくっていくんだ、汚濁に満ちた世の中を変えていく力をもった子どもを平和の担い手として育てていくんだ、という立場で粘り強くとことんやっていけば、子どもたちは育っていくことを示した。それがみなの心を打った大きな要因ではないかと思う。迫力、情熱、熱気が伝わったと思う。
  沖縄の幼稚園で全員が竹馬に乗れた実践の絵本を同僚の教師に渡したら、「私はこれを読んで恥ずかしく思った。自分は時間がないとか忙しいとかいって、子どもをできなくてもほったらかしにしてきた。このなかに書いてある“みんなができるようにしたい”ということをしてこなかった。2学期から見習っていきたいと思う」という。教師はだれもが子どもを成長させたいと願っているんだなと、その言葉から感じることができた。
 編集部 今回の教育集会では、たんに一つの学校の教師集団が突破したということではなくて、この方向でいけば日本の教育を打開できる、そういう展望をみんなが感じている。教師はみんな現場で苦しんでいるが、そこを突破できる展望が見える。それはまた、戦後66年たって日本社会は政治も経済も文化もガタガタに崩壊しているが、これを立て直すのは人間の教育からだという人人の期待に合致するものになっている。
  今年の教育集会への参加を親や同僚の教師に呼びかけるときに、人民教育同盟の集会があるとは呼びかけていない。うちの小学校でやってきた実践はひじょうに重要な役割を果たすもので、日本の教育を今から変えていく一つの要素になると力強く訴えていった。それに応えて「そのためのお役に立てるのであれば」ということで同僚教師が結集した。高い理念や意識で参加しているので、どの教師も熱をこめて発言した。教師が自由な活動を阻害されている抑圧感があるなかで、自分たちが鉄棒実践で突破したところを知らせ、日本の教育を変えていく誇りと自覚を持ってやっていく必要がある。
  「原爆と戦争展」を10年やってきた集大成の『原爆展物語』公演を宇部でもやった。時代の転換点といわれているが、3・11以降本当に変わったと実感する。宇部の『原爆展物語』公演には小学校の母親が多く観劇し、その母親が今度は校区の原爆展のスタッフとして参加してきた。朝から晩まで、準備から終わりまで終日、2日間詰めて案内をしたりした。『原爆展物語』の内容が人人を励ましており、「原爆と戦争展」への協力を訴えたらすぐに呼びかけ人になる状況だった。また、はぐるま座のスタッフの人が、戦争体験者や被爆者、老人会、婦人会など全然知らないところに入っていって話をし、その人たちが呼びかけ人になって実行委員会に参加する、その活動に学ばされた。社会的な運動と平和の旅、「原爆と戦争展」、教育実践が有機的に結びついている。そういうのが一緒になって、今回の実践が開花していったと思う。時代がすごく動いている。
 A うちの小学校では、広島への修学旅行で広島の被爆者に体験を聞くのは7年目だ。だから広島の被爆者も、自分たちがあの子どもたちを育てたんだという思いを持っている。被爆者が先生だ。
  今年は平和の旅に対する支持が絶大で、地域にカンパをとりに行ったときに、「しっかり勉強してきなさい」「福島の原発の問題もあるから今こそ行くべきだ」という声があった。そういう経験を通じて子どもが、平和の旅に行って「被爆者の話を聞きたい。福島原発の問題に対して被爆者がどう思っているか聞きたい」「そういうことを学びとることが平和をつくる元になる」という。親や地域、子どもも予想を超えて高い認識にあることがわかった。そこに立てたときには結びつけるが、「僕たちの団体の集会にきてください」という主観的な、「私の観点」では見向きもされない。

 「子供不在」と決別 組合主義と斗い勤労父母の後継ぎ育てる 

  編集部 今回の教育集会は、ある団体の主張を聞いてもらいますというものではなかった。参加している大衆が主人公だ。自分の側から見るとか、「自慢大会」からの大きな転換だ。人民観、大衆観で転換があった。「学校の常識は一般の非常識」という話があったが教育に関して勤労人民の方がまともな考え方を持っており、文科省の方が異常ということが見えたと思う。
  この1年間の大きな転換点は組合主義との斗争だった。自分たちの側からいくのか、大衆の側からいくのかの問題が、ずっと大斗争だったと思う。平和の旅を成功させる過程でもそうだったし、立場の転換をやっていけば開けるという確信が大きかった。
 編集部 組合主義というのは子どもや組織は自分のために利用するものとみなす。反対するばかりの被害者意識で、子どもを成長させる、建設するものがない。
 F この1年間、子ども不在か、本当に子どものためかが具体的にあらわれ、斗争になってきた。去年、自分が「子ども不在」だと指摘されて衝撃だったが、それは日常的にいろんな場面で出てくる。それは人民不在ということだ。北九州は教職員組合が強いが、自分のところから考えるというのも強い。今度の集会で往復ビンタ10発ぐらいくらった感じだ。鉄棒実践でも形は真似するし、ある程度はできる。しかし徹底的にやるということにならないし、同僚教師とともにやることにならない。結局自己満足で、自分のためにやっている。今回の集会は自分にとっては衝撃的で、喜びや感動と同時にそこに気づかされた。
  子どもの教育をするのに、中心に流れているものを絶対に欠かしてはいけない。鉄棒実践をするのも「こんな体で将来働く者の後継ぎにはなれない。これではろくな仕事もできない」と、勤労人民の後継ぎを育てるんだということが中心にある。同僚の教師もみんな、勤労人民の後継ぎとして精神力や集団性を育てるんだということを理解してくれて、大事だといわれている。なんのために鉄棒をやるのかだ。「最近はスポーツテストの体力や筋力が弱まっている。集団で鍛えたら体力テストの評価が上がる」というものに帰結したらいけない。ただ「集団で体育を鍛えた」だけでは方向を見失う。子どもをなんのために育てていくのか。
 編集部 感想のなかで、「逆上がりを全員できるようにさせるのが驚き」とか、「“学級王国”ではなくて、同学年の教師が協力しあって実践するのはなかなかできないことだ」というのが多い。宇部の鉄棒実践と同じような実践が、ただ子どもを鍛えればできるわけではない。文科省のイデオロギー、競争主義のランク付け、自分勝手な自由主義では、できる子とできない子が分離・対立してストップだろう。子どもたちのなかで、自分のためだけでなくみんなのために、みんなが協力しあってやるんだという精神の方が勝った。教師も、責任の押し付け合いなどではなく、集団で結束して、それこそ熱い思いでやった。その思想が人民的だ。親たち勤労人民の世界は、共同で助け合って生産をし生活をしている。だから子どもたちも親たちも喜んだ。文科省の教育路線に縛られていたのではできるものではない。
 C 「働く人と結びついた方向」というのが、全員ができるようになるということだ。教師がそれを喜びにしていく。教師一人一人が志を同じくしてやるのが喜びだし、子ども同士が励ましあい教えあっていくのが、みんなのためにという精神だ。その働く者の考え方を農民の方が教えてくださっているんだと思う。しかし、いろいろいって全員をできるようにしないのが組合主義だ。北九州では30年前から徒競走でも1等、2等をいわない。それが子どもができてもできなくてもいいという、冷たい「子ども不在」だ。できるまでやらせて、助けあって本当に社会に役に立つ人間に育てるという方向を教師もみんな願っている。
  子どもにとっては先生がものすごく増えた。学校の先生が教えるだけでなく子ども集団が教え、親が教える。集団主義の方がはるかに力が大きい。人民のなかに教育する力がそもそもある。それが発揮できるように教師がやっていくことだ。一人よがりで「子どもができたのは自分のおかげだ」というのはもっとも嫌われるし、それで鍛えてもできるようにならない。
 H ここにくるまで大変な斗争だったと思う。大きく戦後の教育斗争、とくに山口県は子どもの教育が基本にあって教組のたたかいも発展した。だが60年「安保」斗争以後、日教組をふくめ総評全体に経済主義がまん延した。そして80年代以後、政府の教育政策が変わった。80年代のプラザ合意以後は「金融立国」、産業空洞化で、生産現場は途上国なみの低賃金・非正規雇用にすればいいとなり、だから九九や分数や漢字はわからなくていいとなった。
 文科省の「個性重視」教育は、子どもを成長させないものだ。子どもはとことん成長したいというのが本質的な要求だが、それをつぶす。子どもを成長させないのは、この社会を発展させない、とくに社会発展の原動力である生産力を破壊していることとつながっている。
 編集部 大震災の復興過程を見ても、なにもかもつぶれた東北をどう立て直すかというとき、自分だけ抜け駆けしようにもできない。魚をとってくる漁師がおり市場があり、製氷屋、運送屋、油屋、商店があるというふうに、町全体が依存しあって成り立っている。その全部が立ち上がらなければどこも動けない。競争原理、金もうけ原理のより根源にそういう生産原理、共同体原理がある。これが社会のより本質的な原理だ。だからみんなが協力しあって復興にあたっている。
 鉄棒実践でも「一人はみんなのために、みんなは一人のために」という思想を体現している。だから馬力が出る。これは勤労人民の思想だ。生産を担う人民が未来を代表する力を持っている。働く親たちの基準で教師が団結してやっていけば、親の支持を得るし学校の様相は変わってしまう。だれが見てもあたりまえのことをやっていることになる。文科省の教育は子どもを成長させる力がない。時代遅れで滅亡の側ということだ。
  去年のはじめ、鉄棒実践をやりはじめた頃は、親に対して疑心暗鬼の部分もあった。あるとき手を骨折した子が、それを親に隠して「鉄棒に行く」といって学校に早く行く。それが懇談会のときに「先生、実はうちの子、手が折れていたんですよ。今まで何事にも逃げていた子が、骨が折れてもそれを隠してやり通す根性をつけてもらった」といって大感謝だった。その担任は親からの支持に確信を持って、鉄棒でもマットでも断固やっている。
 いろんな親がいるから「なぜうちの子だけ嫌な思いをさせるのか」などの文句が出るかと思ったが、そうではなかった。徹底的に仲間同士が応援して、できない子もみんなの力でできるようになるという話も聞いているから、親も支持する。集団主義のイデオロギーでみんなで育てていくと、たとえ鉄棒ができなくても違う面で粘り強くなったとか、苦手なことから逃げないという成長もあった。教師や父母のなかで圧倒的支持を得ているから強いと思う。 
  物わかりのいい顔をして「できない子の気持ちを考えているのか」という意見もあったが、うち勝っていった。
  教師たちは、学年の114人の子どものうち、逆上がりができない最後の2人をすごく励ます。「あんたら幸せよ。112人が毎朝見てくれて応援してもらえる。ヒロインだよ」という。子どもたちも人が変わったように水泳でも泳ぐようになったし、これまで体育を逃げていたが、すごく明るくなった。できるできないの問題ではなくて、子どもたちのイデオロギーを革命的に変えたことが確信だ。競争意識とたたかって団結意識だ。鉄棒のできない子を子ども集団がほったらかしにしない。体を下に持っていったり、足を持ったり、10人がかりで抱えたりしている。
  「できない子の人権を守る」といって、できないまま置いておく方がいい、ような風潮がある。「あらためて鉄棒ができないことをはっきりさせない方がいい」とか「あいまいな方がいい」「みんな違ってみんないい」とか。だから全員ができるようにさせていくというのが、今どんなに重要かだ。みんながその実践を待っている。子どもたちは勤労人民の子だし、その環境のなかで育っているから、もともとそういう資質は持っている。教師の側が、実は世間から見たらおかしい。
  90%以上の教師は「子どものため」というのはみんな思っている。だがそれがさせてもらえない。やったら問題になるというものすごい抑圧感だ。「体罰」とかメディアが袋だたきにしてきた。教育改革の抑圧は並大抵ではない。だがそこを親の立場に立ち、子どものために教師が集団でとりくんで、その教師たちが目の前にあらわれてきたから、ものすごくうれしい。これは勇気づけられる。教育改革の抑圧は破れるんだという確信になる。
 編集部 父母が支持すれば強い。学校は今の支配勢力、アメリカと財界の都合の良い人間をつくろうとして文科省があり、たくさんの予算を使っている。しかし学校には成長したいと願う子どもたちがいる。この子どもたちは勤労人民の子どもだ。教師がどっちの立場に立つかが不断に問われる。農民の発言があったし、これまでも被爆者が語ってくれたが、文科省より勤労人民の方が教育についてまともな見識を持っている。文科省崇拝の人民蔑視ではなにも見えないし、心の病などで破産する根拠だ。
  やったらできると口ではいってきたが、実際に実践して突破したから強い。ごく普通の一歩ではない。大きな一歩ではないか。
  うちでは6年生に加えて5年生の集団が西と東に分かれ、毎朝鉄棒に鈴なりになって練習している。校長も出てきて応援する。近所の文句いいのじいさまは「先生たち、朝早くから頑張っているから、早く帰ってもいい」といってきた。
 D 校長、教頭も教育者だ。そういうふうに見ないのが組合主義だ。勤務時間がどうとか自分の権利が中心で、校長や教頭を管理者と見て対立するばかりだ。というのは子どもの成長が中心になっていないからだ。子どもの成長が真正面にあったら校長も教頭も支持する。
 編集部 大きくは文科省路線と人民路線の対決だ。文科省路線には「パートナー」となって賛成していて、校長とケンカするのが組合主義スタイルだ。自分の待遇などが優先だからそうなる。子どもの教育が中心で、文科省路線と対決して人民的な方向で育てるのだとなれば、それが学校現場における本当の対決だ。
 今回の教育集会の成果はこの1年だけの努力でできたんじゃなくて、原爆展や広島への修学旅行、平和の旅をはじめとして、親たちが支持し被爆者が協力して子どもが解放されていく、そういう何年もの蓄積のうえに、去年の組合主義との決別でもう一段鮮明になり見違えるようになったと思う。
 今、はぐるま座の『原爆展物語』がすごい反響だが、今一番反応が強いのは「原爆展スタッフのような活動をやりたい」「そういう活動をするはぐるま座を誇りに思う」というような、エピローグで演じられている内容だ。大衆が歴史を創造する原動力であるし、大衆こそが真の英雄だ、これを手助けして団結させて立ち上がらせていく。そういう観点に立ったらどこでも勝利する。人民教育同盟が人民に奉仕する思想でやっていく組織になっていったら、教育戦線全体に影響していくし、いろんな戦線に影響していく。親たちは労働者だから、労働者の思想に火をつけていくことになる。
 時代意識の問題でもある。その時代意識も屁理屈の世界ではなくて、目の前の抑圧とたたかう勤労人民のなかに新しい時代をつくる力があると見るかどうか。一方、文科省は見かけ上権力を振るって強そうに見えるが、発展的な力はなくなり、滅亡の世界にいる。新しい教科書を見ても、文科省はまともな教科書をつくる能力がない。文科省の方が低学力だ。集会で発言した農民の方が教育について見識がある。それはあたりまえで、生産活動をし社会生活をしているから、算数や理科がどのように必要かわかっている。知識の源泉は社会的実践をしている大衆のなかにある。知識はインテリのなかにしかないなどという偏見はとり払うことだ。
 C 農民の人に学んだあと、新しい教科書がきて、ほんと滑稽。子どもの生活実感や認識能力も無視している。農民に教えてもらったようにすれば、子どもはすぐに理解できる。
 
 教師集団の結集へ 文句いうだけの被害者ではなく建設側対置し

  もう一つは平和の旅の2日間のなかで、いろんなところからきたいろんな傾向を持つ子どもたちを、教師集団が平和の担い手になる子どもを育てるのだと意思統一してあたれば、その集団主義で子どもが変わる。実績としてあらわれた。
  平和の旅は、被爆者の話を聞くだけでなく、全行動を貫く基準、つまり目的とめあてを行動のなかで貫くことで団結させていく。それを貫くということで、日頃校長の目を気にしたり親の目を気にしたりして悩んでいた若い教師たちが、旅では教師が結構自由に「悪いことは悪い」と子どもをしかり、鍛えていることに励まされて、班の指導に責任をもって奮い立っていく。教師がなにを基準に子どもたちを指導していくのか、というあたりが一致しはじめた。あそこは大きかった。教師も一人一人個性があるが、文科省基準ではなくて人民的な基準がはっきりするとみんなが一つになれるし、そうすればすごい力になって、子どもも急速に成長する。
 編集部 日教組もまともな教育路線でとり戻さないといけない。現場の教師は、大きな抑圧のなかで、それに立ち向かってまともな教育をするための組織を必要としている。集団でやらないと教師もやっていけない。下関でもそうだが、学校のなかで程度が悪いのが組合主義活動家だ。組合主義というのは敵側のイデオロギーで、「自由・民主・人権」を現場で確信をもってやっている確信犯だ。民主党政府になって与党でさらにひどくなった。
 B 教育集会の呼びかけに「日教組路線が人民大衆から忌み嫌われている」と書いた。最初は懸念もあったが、実際にはすごく喜ばれた。「忌み嫌われている」というのがいいそうだ。すごくうなずいている。
 D もともと山口県は教組運動も教育斗争が中心だった。勤評、学テ、伝達講習、人確法と全部ストライキでたたかっているし、それが子どもの教育を阻害するものとたたかうという方向だった。しかし日教組中央が文科省のパートナーとなり、抑圧物になったとき、それに反対するだけで、子どもの教育をやっていくというところが弱まって、同じ範疇でまきこまれていったという経過だ。こことはっきり決別していくことだ。
 編集部 文科省もダメ、日教組もダメ、しかしこちらはなにもない――というのではなくて、こちらが教育する側、建設する側を対置したらズバーっと切り開いていった。文句をいうだけの被害者ではなく、建設する側だ。目の前に子どもたちがおり、毎年毎年育っている、だからどう育てるかだ。
 人民教育の意味合いがここまできてはっきりしてきたのではないか。人民こそが歴史を創造する原動力だ。ここが一切の知識の源泉であるし、これを知らなかったらなんの知識も得られない。そのあたりが屁理屈ではなく、思想として中心に座ったら、運動の様相は一変する。そして実践的で行動的であることが重要だった。今年の集会で切り開いた実践を教訓化して広げ、あらゆる学校にこの方向を体現する教師集団ができていけば、日本の教育を閉塞状態から展望に変えることができると思う。
 司会 それでは来年にはもっと発展させることを確信して、この辺で終わりたいと思います。



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