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教師は父母と結びつこう
                教科教室強制巡り座談会      2007年7月9日付

 下関市の川中中学校でクラスを廃止する教科教室型新校舎を建設する問題をめぐって、現場の教師も親も、「子どものためにならない」「大失敗する」といっているのに、その意見には一切聞く耳がなく、江島市長と市教委が強権的に進めている。これに対して親の怒りが爆発し、こういう非民主主義的なやり方に黙っていてはいけないし、「子どもたちを点取り虫ではなく人間的に育てよう」という意見が表面化している。川中中の問題は全県の教育関係者のなかで大きな論議を呼んでいる。それは実際に教育を担う現場、家庭を無視する強権的なトップダウンはどこにもあらわれているし、安倍内閣の教育再生会議や、教育3法強行の具体的なあらわれである。本紙では山口県と福岡県の人民教育同盟の教師たちに集まってもらい、川中中問題がどう語られているか、政府の教育政策はどうあらわれているか、それを打ち破って勤労父母が願う教育をやる力はどこにあるか、など論議してもらった。

 「どこも同じ」と大話題に 学校現場
 司会 川中中問題の受けとめはどうだろうか。
  川中中の問題は防府の学校で話題になり、「現場の声を聞かないで上から勝手にやってくる。いつもそうだ」とすごく怒っている。小郡中が地域の力で教科教室をはね返したが、あれから数年たち、上からの強引さが違う気がするという意見も出た。また新校舎に50億円もかけるというのが話題になった。うちでは子どもたちがガタガタの机と椅子をずっと使っており、要求しても今年度はうちの学校にはわずか20台。みんなが求めているところにはお金を使わない。だから川中中の問題も地域の教師や親に頑張ってほしいと思っている。人ごとじゃないし、全国共通して現場に対する抑圧が強まり、教育を上から好き放題にしようとすることに対する怒りは教育現場で大きいと思う。
  北九州では同僚の教師が、「点取り虫ではなく人間を育てろ」と川中の親たちから意見があがっていたことに、驚きとともにすごく喜んでいた。
  職場で「川中のような大規模校で教科教室型にすれば、どこにだれがいるかわからなくなる。萩も中学校が荒れているが、そこに教科教室を持ちこめばもっと荒れるのはわかりきっている。それなのになぜ上からで強引にやっていくのか」と話になった。下関の江島市長が六連島で軍事訓練をやることにも驚いて、「なんでも上から押しつけてくる」と、川中中問題と共通のものとして論議になっている。
  宇部のある中学校で話になった。ニュージーランドやオーストラリアに留学していた教師たちが「あちらの学校は教科教室型だが、子どものモラルや心というものは育たない。アメリカ型は、学校というのは知識を教えればいいという考えのうえに成り立っているが、それが問題」といっている。「1時間目が終わって次の授業に行くまで先生は監視していないといけない。身体障害のある子どもたちはどうするつもりか。親に毎日来させるつもりか。教育再生会議で“学力向上”といって生徒同士を競争させようとしているが、こんな学校は絶対に失敗する」といっていた。
 小郡中が数年前に教科教室型をやめさせた。説明会を3カ所くらいでやったが、あちこちから反対という声があがり、母親が署名を始めると一気に集まった。教科教室が押しつけられた豊北中では現場の教師が頑張ってホームルームを残したが、「残さなかったらどうなっていたかわからない」と話されている。200人ちょっとの規模でもそうだ。

 大失敗となるのは必至
 編集部 山口県中の教師が「大失敗する」と見ている。下関の大学の教官が、今ごろは大学でもクラスをつくって担任がいるという。学生が自立できていないということだが、それなのにどうして中学でクラスを解体するのか、絶対ダメだという。
  6年生の子どもが川中中のことを知っていて、「学級がないと嫌なことがあったらだれに相談するの。それじゃあ友だちが絶対にできない」といっていた。今でもクラスには、会話ができず友だちができない子がいる。それが6年0組だから、みんなが一緒に遊び、手分けをして係りの仕事もする。それがなくなれば、さびしくて学校に来れなくなるといっていた。
  敗戦後すぐに山口市の白石中で教科教室をやったとき、私は生徒だった。しかしそれは実情にあわず、広がらなかった。すぐ元に戻してホームルームを置いた。「これが、日本の教育だ」とみんながいっていた。「今でも生徒が教室からいなくなるのに、教室を移動するあいだにどこに行ったかわからなくなる」と話されている。
 編集部 「教科の学力向上」が目的というが、結果は収まりがつかなくなって生徒指導重点校になるのは明らかだ。子どもを実際に育てている親や、教師を切って捨てて教育をやろうというのだからバカげたことだ。江島市長が号令をかけ子どもを出世の道具にしたいヒラメ教育長、事務職役人の次長など、教育のことが全然分からない連中が、権力ばかり振り回して教育に手を突っ込んでメチャメチャにする。自分たちの大切な子どもをどうしてくれるのかという親たちの怒りが爆発するのが当たり前だ。
  川中中問題では、当事校をはじめ教師はものがいえないようにされている。そのなかで、父母が行動に立ち上がり、それがみんなを激励している。とくに校区の子どもの親である教師が先頭に立っている。ほとんどの親は学校の実情はよくわからない。それがわかるのは、教師だ。説明会でも教師がちゃんと身分を明かして発言している。あの態度が立派だと話題になっている。親も事情がわかるし、パワーがあるのは親たちだ。教育運動は教師が指導的な役割をはたさなければならないということを示していると思う。
  小郡の場合も理論的にリードしたのは父母である教師だった。

 現場の怒りうっ積 「管理」や「評価」の嵐
 司会 川中中の教科教室の問題は1つの焦点だが、今どこの学校も同じような問題があるのではないか。
  教師の間で「わけのわからない間に物事が決められ、わけのわからない方向に持って行かれる」ということに対する怒りがある。防府市では、虫歯を予防する「フッ素洗口」事業について今年から287万円の予算をつけた。現場の教師が望んだことでなく、だれも知らないうちに決められていた。市長が選挙のときに歯科医師会に公約し、議会が勝手に決めて現場に下ろすというやり方だという。現場の教員は、「子どもにつける消毒薬や傷薬、トイレットペーパーなどが足りない。そういう方にちゃんと予算を回すべきだ」「防府の学校には民主主義がない。子どものために本当に役立つことは無視されて、政治の話で無理を通されることが多い」とすごく怒っている。この問題と「国のいいなりになる教師をつくる」教員免許法強行採決の問題で職場で論議になった。
  親のなかでも今の学校現場でなにが起こっているのか、教師がどういう状況にあって、子どもたちがどういう状況にあるのかを知らなさすぎると話されている。それで教育改革の狙いなどを親に訴えると、「どうにかしなければならない」「先生たちと連携してやっていきたい」と立ち上がろうとしている。
  学校のなかでは「管理」「評価」の嵐のなかだ。教員評価制度が着実に効果をあらわしている。教師も黙って従っていく方向と、それに対して噴き出していく方向と2つにわかれていく。私たち教師がいなければ、子どもたちは育たないし学校は運営できないと、それぞれ自負もあり、みんな負けてないが、ものすごい勢いで上からどんどん下りてきている。こうしたことが子どもへの教育にあらわれる。クラスの見栄えをよくするために子どもを枠の中にはめようとする傾向もある。学級から飛び出す子がいる、朝の会で机が乱れていた、などが評価の対象になるので、「気になる子」を「特別支援」の方に早早とリストアップして、「病気」にしてしまって学級集団から切り離していくということも起こっている。
 ところが先日、同僚の先生が、「みんなが“気になる”といっている子が朝1番よくあいさつするよ」といっていた。実は“気になる子”としてクラスから追い出されそうになっているその子の方が、教室の中でもよく発表をするし、給食がこぼれたとき真先にかけつけるという優しい気持ちを持っているし、自然のなかで泥んこになってよく遊ぶ。それを今の学校というのは「できが悪い子」「気になる子」にしてしまう。それも教員評価制度からきていると思う。そうして「おりこうさんクラス」ができつつあるが、人には優しくないし、泥んこになって遊ぶこともない。子どもの姿は大人社会を鏡で映したようだなと思う。
  文科省の「興味関心」「個性重視」の教育で育ってきた子どもたちのなかで、人がどう思うか、困るのではないかと考えずに動く。だれかが給食で粗相をしてもだれも助けに行かない。自己責任というわけだ。本人もそれで納得している。給食時間が始まると、みんなが立ち歩いて、自分の嫌いな物は人にあげ、好きな物は人からもらう。好きなことだけやり、嫌なことはやらなくていいという状況がある。
 それに親からも「どうなっているのか」と意見があり、学級の実情を話すと、親は「そういう実情をきちんと親に話してほしい。親はそういう学校の状況はわからない。子どもは家では都合のいいことしかいわないので」といわれた。子どもたちに「どんな子どもに育ってほしいか」を親に聞かせたら、「人のことが考えられる子ども」「思いやりのある優しい人」と多くの親が書いていた。

 父母の中で心配する声
  北九州も教員評価の自己申告というのが定着して、数値化し教師をバラバラにしている。それが最初は抵抗があったが、だんだん定着してきた。これに対して教師の側は、学年の集団化が進み、教師同士遅くまで話しあってやっている。上の方はバラバラにして支配していこうというものがあるが、教師は団結してやっていきたいという気持ちが強い。先日、学級懇談会があって、親が多く参加した。教師の側には「この校区の親は教育に無関心」「文句ばっかりいう」という意見がある。しかし親は子どもの生き方を心配している。友だちとのかかわりあいが少ないとか、子どもたちがホームレスやフリーターをバカにするとか、そういう傾向を親が心配している。
  親たちは子どものこと、教育のことを先生たちと一緒になって話したい、という気持ちが強い。学校の懇談会のようなものでない、膝をつき合わせて考えていくような会の要望がある。
  教育再生会議の方向だろうが、県内の学校では「職員会議は決定機関ではない。どうするかは校長が決める」という校長が増えている。だが、現場が反発してそれをひっくり返している。ある学校では、校長がそれを下ろした次の職員会議で、「いっても聞かないのだろう」といって教員はだれも口をきかず黙っていた。すると校長がとうとう「みなさんと一緒にやらないとできない。いい過ぎだった」と撤回した。校長のなかでも、「教育再生会議などで“これが決まりました”といって、どんどんわけのわからないものが現場に下りてくる。もう我慢はできない。どうしたらひっくり返せるのか」という思いが鬱(うっ)積している。

 人間育てる教育を 冷酷なエリートでなく・勤労父母は切望
 編集部 強権的にやってくる方だけを見ていれば展望はない。しかし、大多数の勤労父母の側に足をおいていたら確信が出てくるという関係ではないか。親たちはほとんどが仕事や生活で忙しいし、学校の実情についてはあまり知らない。その親たちは、成績のいい子が母親の首を切ったり、親に毒を飲ませて観察するなどの身震いするような冷酷な犯罪を起こすようなことを1番心配している。またホリエモンや村上ファンドみたいな頭のいい詐欺師ができるのでは困ると見なしている。「点取り虫じゃ困る」し、まともな人間に育てる教育を切実に願っている。この勤労父母の側に教師が立つこと、教師が父母との関係を密にして運動を起こしていくかどうかが分かれ目ではないか。それがいきはじめたらバカげた教育の強権なんて通用しなくなる。教師の方には親たちが子どもを教育することがあまり見えないところがあるのではないか。子どもは親や家族のなかで、また地域や友だちとの関係のなかで、そして学校生活のなかで育っている。
  テレビなどがキャンペーンをはって、「学校に文句をいってくる親」をすごくクローズアップするが、それは本当の親の願いとは違う。最近うちで起こったいじめの問題でも、学校のことをきちんと伝えたら、お母さんが子どもを諭して学校に来させるようにしている。
  確かに1人、2人の親が学校に文句をいってくることはあるが、最近はそれだけで大騒ぎになる。一方で「教師はプロフェッショナル」だとたたきこむ。親との対立が煽られている。
  教育再生会議なり教育改革の流れのなかでわれわれが視野を狭められて、どこの立場でものを考えているのかというのがひっくり返っている。父母との団結が基礎にあれば怖いものはないのだが、親が本当に信頼できず、学校の立場でものをいってしまう。そして子どもの悪いところは親にいわない。親たちは教育改革とか教育再生会議に文句をいっているのに、「自分がいわれている」と受けとって精神疾患になる教師は多い。
  「親の教育力の低下」「地域の教育力の低下」と宣伝されるので、「じゃあ私たち学校ががんばらなくては」と錯覚している。そして実は学校が教育できないように上から押さえつけている。
  教師の側が親の教育に対する情熱や願いが見えなかったら展望はない。子どもというのは親のいうことを1番よく聞く。クラスでいろいろ問題が起こっても、親と団結したらぴしゃっと解決する。親と対立している状態で、そのクラスなり学校はうまくいくわけがない。再生会議のいうことをそのままやっていたら学校崩壊になることははっきりしている。

 人の気持ちわかる子に
  うちのクラスは成績は大変よい。それで、「このクラスは問題がない」と親も学校も見ていた。だけど人の気持ちがわからない。記憶力や計算力はついているが原爆展パネル集に載っている「おとうと」という、弟に水をあげたくてもあげられなかった気持ちを書いた詩を読んで感想をのべさせたら、「この人は弟に水を汲んでやらなかったから悪いと思います」という感想を何人もが平気でいうのに驚いた。これまで荒れて大変だったクラスの子は「辛かっただろう」という感想を書いていた。
 編集部 価値観をどこにおくかではないか。頭のいい冷酷なエリートというのにどんな価値があるのか。
  むしろ今、学校で暴れている子の方がまだ人民的だ。そのあらわれ方はよいとはいえないが、まだ人情が伝わる。できる子はなかなか人の気持ちが伝わらない。学校の「いい子」という評価基準は、一般の人民とは逆転している。点数のことより、まともな人間性を持った子どもに育ててくれというのが親たちの最大の要求だし、教師がこの人民的な価値観を共有して親と一緒に動きはじめたら、だれも手出しができない大きな力になるのではないか。
 編集部 長崎の伊藤市長の銃殺は、「うかつにものをいえない」という空気をつくった。それが久間防衛相の「原爆はしょうがない」発言までくると、長崎市議会・県議会が全会一致の抗議決議となり、田上市長が東京に行って、久間大臣に抗議をする。そして辞任になった。大衆世論が動かした。なおさらものをいうようになった。長周新聞は「背後勢力の政治テロ」と書いた号外を長崎でも数万枚配った。そして「原爆と戦争展」が開催された。大衆がたたかう力を持っていること、その大衆の思いを代表していく立場を貫くなら、勝利する。大衆を確信できなければ権力が怖くなるということではないか。
 安倍内閣にしろ江島市政にしろ、強権で突っ走るということの反面は、国民から浮き上がり、現実離れのバカさ加減だ。学校がデタラメになり、文教行政がいかにデタラメか、このままでは自分たちの子どもたちが戦争に連れて行かれるし日本がつぶれると思うのが、大衆のなかでは圧倒的だ。自分たちの子どもの将来となると親たちは真剣だ。そこで教師の立場、思想感情が、どちらの側にいるのか。支配権力に雇われた側か、勤労父母の側か、ここが分かれ目だと思う。人民の側、社会の進歩の側に立つなら、堂堂たる教育実践ができるだろうし、権力側の教育破壊を打ち破る力になると思う。

 親・地域と団結へ 行動求める意欲充満
  最近、僕のまわりで「暴動」という言葉をよく聞く。1つは教育3法で免許更新制が国会で強行採決されたとき、テレビを見ていたうちの子が「父さん、暴動を起こさないの」「教員はなぜ黙っているの」という。職場の人も「もうこうなったら暴動を起こすしかない」という。どちらの立場に教師が立つか。頭ではわかっていたが、実践的に親の側に立っていくということをやっていくことが重要だ。生活全般が大きく変化して人人の怒りは充満している。「人民の側に立つ」というのがお題目ではなくて、具体的に親や地域の人と仲良くなり、気分感情をかよわせ、具体的に知っていくことだ。
  教師のなかにも、久間発言にものすごい怒りがあり、辞任したときは「みんなで追い出した。文句いってよかった」と、正しいことが勝ったと喜んでいた。しかしその後アメリカの高官の「それでも原爆投下は正しかった」という意見が新聞に出ていて、「やっぱりバックはアメリカだ。ここを断ち切らないと」と怒っていた。教師も情勢に敏感になっている。
  広島への修学旅行をとりくみ、その報告会の準備のなかで、ある男子が女子をなぐった。聞いてみると、女子が発表するための絵をふざけて書いていたわけだ。彼はそれを見て「この絵は許さない」といった。でもその女子はその男子がいつも暴れる子なのでバカにしていて、受けつけない。それと、彼に味方をしたのは1人だけだった。いわゆる頭のよい子は、これが被爆者に対する冒涜であり、許されない行為だというふうに怒っていない。それでその男子が怒って手を出した。それについて集団討議をし、子どもたちはまちがっていることを指摘されると、「5年に被爆体験を正しく伝えることが僕たちの使命だ」というところを明確にして短時間でやりかえた。子どもたちの力を感じると同時に、冷酷と人情、人民的なものとエリートの冷酷主義が子どものなかでぶつかりあっている。毎日のようにそういう斗争の場面がある。それをどっちの方向に発揚していくのかが、教師に問われている。
  被爆体験の継承ということで、6年生が紙芝居をつくって各学年に見せている。最近、2年の担任の先生が「子どもを見る眼が変わりました」といってきた。聞く力がないとか、全然本気で勉強しないと思っていた子が、紙芝居をすごく真剣に見て被爆者の辛い思いに心を寄せて感想文を書いた、そのことに驚いたという。日ごろ、子どもたちの心に本当に響くものをやっていないで、「この子は考える力がない」「まじめでない」と教師が評価してしまう。今、子どもたちの本質面を信頼し、それを発展させるように教育していくことだ。それが今の学校では、子どもに対して逆の評価がされている。子どもを現象的に、つまり支配階級の側から見て、「力がない」と評価している。どこの立場に立って、子どもたちをどんなものに触れさせないといけないか。そういうことをちゃんと同僚の教師たちとも論議しないといけない。

 打勝つ力育てる教育へ
  子どもたちが厳しい生活のなかで学校に来ているし、親がその生活のなかで教育している。だから世の中がどうなっているのかを子どももよく知っている。親と教師のズレというのもそこから来ているのではないかと思う。この前の雨続きの日、傘がなくて休んだ子がいた。1、2日はずぶぬれで来ていたが、とうとう休んだ。その担任は学力に厳しい教師だったが、「傘がないから休んだと思う。迎えに行きたい。とにかく給食を食べさせないといけない」といって迎えに行った。その教師が早く気づかなかったことを悔やんでいたのに胸をうたれた。その教師と話になったのだが、子どもの生活を本当に心配するとともに、子どもの生活をかわいそうだと思うだけでは解決にならない、子どもへの愛情をもってそのような社会を改革しないかぎりは子どもに生きていく展望が与えられない、それとともに貧乏に負けずはね返していく力を子どものなかに育てる教育でないといけない、と。
 教師はどちらの側に立つのか日日揺れるが、やはり子どもがどういう生活をし、生きていくのかという、子どもの未来に立ったとき、教師の本来の力が出てくるし本当の願いも出てくる。そういうところで職場の同僚を信頼するし、そういう教師の思いがあれば親や地域と結びつくことができると思う。教師のなかも大きく変わってきている。
 編集部 教育現場で管理統制が強まっているというのが1つの側面だが、もう1面は政府が進める教育は崩壊しており、権威が失墜しているということだ。小泉内閣から安倍内閣にいたる過程で、教育もメチャクチャに破壊してきた。教師がその敵の学校の枠の中から見ていたら展望は見えないが、人民の側から見たら真実が見える。安倍は民主主義でないという話があったが、強権では動物の調教にしかならず、教育はできない。安倍政府は凶暴だが、できないことをやろうとするわけで、実際は衰弱だ。空飛ぶ政治というか、宇宙遊泳政治だ。
 目の前で教えている子どもたちが、卒業しても非正規雇用とかで人間扱いされない、あげくは戦争の肉弾にもされていく、そのようにし向ける力と正面からたたかって、平和で豊かな社会を実現する力ある担い手として育てていく。大多数の父母も祖父母もそれを死活問題として願っている。それと団結して民族の子どもたちの教育を担うところに教師の展望があるし、喜びがあるのではないか。
 司会 きょうはこのへんで。どうもありがとうございました。

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