トップページへ戻る

教師の指導性どう発揮するか
人民教育同盟教師座談会
             崩壊する文科省の権威   2006年9月6日付

 日本社会全般の度はずれた荒廃が進み、戦争をやろうという動きが強まっているが、学校現場は臨教審、教育改革の叫びのもとで近年そうとうに変化している。学校現場はどうなってきているのか、教師たちはどんな状況におかれているか、こういうなかで教育運動はどうして衰退しているのか、どういう立場・路線で行けば教育が発展するのか、山口県と福岡県の人民教育同盟の教師に集まってもらって論議してもらった。

 現状変革求める教師の力増大
  最近のことで象徴的な出来事だが、文科省から「運動会の騎馬戦で、男女混合で騎馬を組むことをやめろ」、あわせて県教委から「男女の対戦もさせるな」という通知がおりてきた。もとは、ジェンダーフリー教育で中性的な人間をつくることの問題点を国会議員が騒いで、「男女混合の騎馬戦をするとは非常識だ」「女の子のなかには、騎馬で対決するときに身体が相手の騎馬にあたって、嫌だといえない状況にされている。こういう女子の心情を考慮すべきだ」というもの。
 すでに運動会の準備が進行しているなかのことで、夏休み中の市の校長会ではみんなカンカンになって「だいたい教育の中身についてトップダウンで注文をつけること自体おかしい」と、校長会としては各校の実情に応じてやろうということになった。「女子の心情」というが、小学校段階では、男女でたたかう場面で、男子は女子に対する思いやりを見せるし、女子は男子をやっつけて自信を深める。そのなかで成長を勝ちとるとてもよい教育活動としてやっている。
  騎馬戦だけではなく、徒競走の男女混合レースに配慮する、水泳の着替えは全学年男女別別にする、内科検診の場合は男女に分け引率する担任の性差を考慮に入れる、というのもある。私は女性だから男子を内科検診に連れて行けないことになる。とても変だ。
  騎馬戦で触れあうことをいやらしく考える方がいやらしい。地域の人たちは、男子も女子も本気で一生懸命たたかう姿を、美しいものとして支持してくれる。それを「人権」をかかげて、あたったらいけないさわったらいけないという。現場の教育とまったく遊離したもので、みんな怒っている。
  小学校の時期は、成長の度合いが女子の方が早いので、女子の方が強かったりする。「男女共同参画」の趣旨にもとづいてやめろという通達だが、女子は男子に負けないようにがんばるなかで男女平等にも近づくと思う。

 反教育的仕事が増 教員評価や学力テスト・現場は大矛盾
  現場の教師のなかでは、教員評価制度をはじめすべてがつながっている。みんながいうのは、子どもたちのために毎日一生懸命やっているのに、まったくバカみたいな、反教育的なことで多忙化をひどくしているということだ。教師の思いとしては、「忙しいということにも2つある。忙しくても子どものためにがんばろうという忙しさと、子どもも教師もバカにしている忙しさというのがある」。
 先日も、1度も英語の授業をしたことのないうちの小学校に、突然英語の授業が入ってきた。担当者からは「なんとなくやっているふりをしましょう」という提案だったが、「やっているふりもいらない」という意見も出た。「英語をやる隙間が、どこにあるか」ということと、子どもを育てるうえで価値を見出すことができればいくらでもやるが、そういうものではないという意見だ。これまでは「せっかく提案した担当者に気の毒」とかいうのがあったけど、「そんなことはできないことがわかった」という人もいた。こうしたことが教師のなかに蓄積している。ここにきて、「みんな同じだ」「上からやれやれといってきて、大事な教育活動をつぶしている」と。
  うちでは小学校の段階で中学校並みの「教科担任制」をやると提案してきた。教師のなかで圧倒的に多かったのが、子どもたちを差別選別し格差を大きくする制度を、市長がマニフェストに出したからといってトップダウンで突然下ろしてくることに対して、「現場の声を聞いて反映してやっていくのが民主主義だ」という意見だ。
 本当に子どもたちに愛情を持って、子どもたちの1日の生活を見ながら、また家庭生活や生育歴なども把握しながら、喜怒哀楽、気分感情を1つにして成長させよう、親とも気持ちを一緒にして教育をしていきたいという願いがあるのに、こうした現場の教師の願いと違うところで、教科担任制、学力テスト、教員評価などの動きがあることにみんな腹を立てている。

 水や電気まで制限 矛盾を回さず・プールにも入れず
  うちの学校のある市では、これまで学校の電気代、水道代は教育委員会が払っていたのを、郡部と合併した今年度から学校単位に、しかも、過去最低ラインで予算配分した。夏休みにプール開放をして、日直の教師が水を出すとすぐ水道局から「タンクが空になるから水を出したらいけない」といってくる。翌日の先生が水を入れると、またいってくる。そうやって、水道代まで削っている。パソコンを使って5、6年の資料をつくろうとすると、「今年は、電気代があがっている。もう電気を使わないでほしい。あんまり使うと水道代も電気代も12月でなくなる」といわれている。
 学校生活での1番の基礎の電気と水が制限されれば教育活動ができなくなるので、教師が腹を立てて「署名運動をしよう。座りこみに行こう」「米軍再編には日本の税金から3兆円も使うんよね」「岩国の米軍の電気代も水道代もただ。あふれるほど使っているらしいが、金はあるのに日本の学校教育に金をくれない」と職員室でワイワイなっている。旧市並みに教育予算が削減されたらどうなるかと、郡部の教師からも声が上がっている。
 もう1つ、マスコミが教育を破壊しているという話になっている。ある地区では登校指導のときちょっと教師の手が子どもにさわったといって、マスコミが「体罰」と騒ぎ、教師が子どもを指導できなくなっている。別の地区でも、子ども同士の事件で子どもがけがをしても警察は呼ばないのに、子どもが先生にちょっとあたって鼻血が出ただけで、警察を呼びパトカーが来た。子どもたちは納得できず「俺らをすぐ警察に売る」といってますます荒れていった。始業式の日には茶髪の子どもが黒く染めてきたのに「まだ不十分」といって学校に入れず家に帰すというように、すごく管理的になっている。
 結局それがどこからきているかというと、やっぱり「体罰禁止」のキャンペーンで、教師が子どもたちと真正面からぶつかりあって、子どもたちと格斗しながら、成長を願って指導していくという教育をできなくしておいて、「問題が起これば警察」と、子どもを切って捨てる流れがつくられている。ますます学校が学校でなくなって刑務所のようになり、人間的な喜び、悲しみが味わえる場所でなくなってきている。
  そうなると子どもも親も学校への不信感が募り、「先生のいうことを聞きなさい」とは親もいえないという。そういう関係になって、親と学校の対立も深刻なものになっている。そういう学校のなかに閉じこめられている教師の悩みは深い。
  刑務所という話があったが、最近似たような体験をした。2学期の始業式で子どもたちの顔を見て元気が出たその放課後に、同僚の先生が「見て見て、これ指名手配のファイルみたいよ」といって、2人で泣いた。各クラスの気になる子の顔写真が指名手配の写真のように大きく貼ってあって、その下にその子のどんなところが問題かが書いてある。その先生と、「うちのクラスのこの子を見たら涙が出る」「これは親には見せられないね。自分の子が学校でこんなファイルをつくられていると知ったらどうする?」という話になった。子どもたちは罪人みたいな扱いをされている。
 職員室で同僚の教師たちと「○○君がこんなことした。でもこんないいこともした」と話をしていると、肩をたたかれて「その子はちょっと検査しないといけないね。1度医療機関に見てもらわないと」と。だから子どもの教育について職員室では小さい声でいわないといけなくなっている。

 読み書きの授業時間も不足
  この前同僚と生活科の評価について話になった。生活科はテストの点数がないので、観察をよく書いた子、驚きをつぶやいた子に高い評価がつく。ということは、気がついたけどなかなかしゃべれない子、長い時間立っていう子はぜんぜんだめで、頭の回転が早い子や自分をよくいうためにものすごくしゃべるのが上手な子は、どの教科でも高い評価になるという話になった。
 例えば低学年で悪いおこないを叱るとき、要領よく「ハイ、わかりました」という子はそれで終わるが、そうでない子は「このお手手が悪い」とバシっとたたき、ようやく泣きながら理解していた。それが今は「体罰」ができないので、「手が悪いわけ」を教師が延延と口でいう。いっている間に、子どもがなにが悪かったかわけがわからなくなる。すると教師は、それに腹を立てて「悪かった」といわないかぎり永遠にいい続ける、というおかしな状況になっている。そして素直にいわない子はダメな子となる。
 1年生担任の教師が「1年生は入学時、まだ字が読めなくていいんですよね」と質問されたとき、「読めない子のために“あいうえお”を教えようとしたら回らない時間配分になっている」という現状から、「入学の時点で貧乏か金持ちかの差が大きい。それで教科で大きな差がつくのは当たり前だし、良心が痛む」と話してきた。教科書の内容に「習熟度によって扱うため、全員が学習しない」という「ジャンプ」や「ステップ」というのがある。教師は「ジャンプ」はしないと抵抗しているが、大きな運動を起こして抜本的に変えていきたいとつくづく思う。
  福岡県も予算が大幅に削られ、消耗費が2〜3割カットされた。以前は上質紙も使えていたが、ザラ紙になった。低学年では消しゴムで消したら破れるから中質紙を使わせてくれというが、それもできないという。なんで予算削減かと聞いたら、率先して英語とパソコンを重視しているが、そのパソコンのインク代、紙代がものすごくかかり、ほかの消耗品を圧迫している。授業の度ごとにカレンダーつくらせたり、名刺をつくらせたりで、どんどんカラーで刷っている。
 うちの学校も水道代で押さえつけられている。以前は9月にも水泳をしていたし、夏休みも1週間はしていたが、今はだんだんしなくなった。だから6年生の最後まで泳げない子がいっぱい出る。図工のことも気になる。6年生になっても、顔とか腕とか足とかがうまく描けず、お人形さんのような絵しかかけない。週に1・5時間だから、まともな絵が描けない子が育っている。この10年余りの教育改革のなかで、子どもたちの描画の力がなくされている。音楽にしても体育にしても同じ。持久力もぜんぜんない。以前はマラソン大会がおこなわれていたが、危険だということでできなくなった。知・徳・体が伸びないのでなんとかしないといけないと思うが、時間数の削減でできない。一方、英語は2週間に1回やられているが前は子どもたちも楽しんでいたが、今は英語の時間になったら「えーっ」という感じだ。そうとう矛盾が出ている。
 編集部 現場の教師のなかで抵抗が強まっている。文科省・県教委が上から強権的にやってくるけど、その権威がなくなっている。最近ではあまりの程度に、校長会などが発言し始めている。現場の教師のところでは、学校単位では相当論議が起きているようだが、全体としてはバラバラ状況だ。現場で個別にはさまざま問題になっているところを、共通の要求としてつなげて統一したものにしていけば、すごい教育斗争が起きる状況があるのではないか。

 真の敵に立ち向かう側へ 目前対処で見えぬ展望・重要な教師の立場
 司会 そのあたりの教師の現状なり運動の方向性はどうか。
  反対をしている声のなかにもいろんな段階があって、よく聞くのは「反対なんだけどしょうがない」という意見だ。また「腹が立ってしょうがない。絶対立ち上がっていかないといけない」という意見や、「自分の所属している組合は教連だが、今たたかわんでどうするか」という意見もある。さまざま意見が出るが、それを広く集約して、高めて返して、運動にしていくというところがない。自然発生的な意識でとどめている。そこが最大の欠陥だと思う。
  教育改革とかかわって、現場では「人権」を掲げた組合の側が、それを推進している。昔は「解放の力」といって、差別しないとか、差別に負けないといっていたが、いつごろからか「解放の力」とは「高校に入る学力をつけること」に変わった。学力をつけるためには少人数がよいとなって、40人のクラスが半分になった。また教員評価制度も、組合の方から「教組が話をつけたのだから納得してやれ」といって、現場がみんな反対しているのに押さえつける。自分たちの仲間であると思っていた組合や人権団体が教育改革を率先して進めている。味方と思っていたところが敵だったとか、そこのところをうち破って、敵がだれか友はだれかを明らかにしていくべきだと感じている。
  かつて日教組のなかで強いといわれ「御三家」といわれていた府県の教育改革が1番進んでいる。教員評価制度でも大阪、東京、神奈川、広島、福岡が先進県になり、そこへ他の県が視察に行って、自分のところの政策を出す。東京、大阪、広島は、教育荒廃も非常に進んでいる。東京では教師として子どもの教育にかかわっていくというところでモラルが崩壊し、現場の先生たちもあえいでいる。広島では、退職者の9割が若年層で定年前。また病休者の半数が精神疾患だ。
 広島県の人権派の教師が教育改革の実情を報告したが、「山口県のような全面撤回斗争では絶対勝てない」といって、はじめから受け入れて条件斗争という立場で、結局いかにやられて悲惨な状態になったかという話だった。
 編集部 現場で怒りはうっ積しているが「しょうがない」というのは、敵味方の本当の力関係が見えないからだ。今の学校教育に対する危惧(ぐ)や怒りは、父母や年寄りのなかには充満しており、バックアップする力はものすごい。それがあまり見えていないという問題がある。それと本当の敵が見えているかということだ。今年、広島で「アメリカは核を持って帰れ」とやったら拍手喝采だった。その前からマスコミは「北朝鮮制裁」でやりまくっていたが、しかし、本当の大衆世論はアメリカに向いている。それを堂々とやりまくったら、敵の側は手も足も出なくなった。
 教育運動を進めるとき、目の前のクラスをどうするかだけでは見えない。かつての戦争も教育が決定的だったと年配者はいう。今も教育は目先のことではなく、日本の将来とかかわる大きな問題としてある。そこでだれに依拠してだれとたたかうかという立場が定まっていけば、直面する具体的な諸問題もその性質はなにかがはっきりするし、教師のなかでも展望が出てくるのではないか。広島でも日教組が嫌われている。それは「アメリカは民主陣営」とみなし、敵のてのひらに乗せられているからだ。日教組路線には人民蔑視と、アメリカ賛美をする立場がある。ここと一線ひかないと、敵が見えないし、人民の力が見えないと思う。

 戦争体験者と共に 米国賛美の洗脳が障害・立場変え展望へ
 司会 広島に召集されて被爆し殺された兵隊は3万人いるが、その慰霊碑がない。元軍人の会がつくってくれといっても、広島市が許可をおろさない。「戦争で悪いことをしたから原爆を落とされた」という側だ。教師のなかでも「今の情勢のなかで危険な動き」という部分がおり、「1銭5厘で連れて行かれてむりやり殺された」というのが腑に落ちない。
  被爆2世の活動家のなかには、いつも「親が許せない。戦争に反対しなかった親が許せない。親が謝罪しない」と平気でいう人がいる。大久野島の毒ガスで中国でなにをやったかという加害ばかりをいう。
  知人の日教組活動家の教師も「戦争反対で一緒に行動はできない」「自分のおやじが戦争に行って戦争に加担しているから」という。人民のなかに対立をつくっていく。戦争体験者を加害者、戦争の犯罪人としてしまったのでは、教育斗争にも戦争反対斗争にもならない。実際に被爆者、戦争体験者がもっとも、2度と戦争をくり返してはいけないと強調しているし、学校教育がバカと人殺しばかりつくって、いったいどうなっているのかと心配している。
  今年の原水禁のスローガンであった「アメリカは核を持って帰れ」というのは、子どもたちの方が響いている。子どもたちは被爆者のお年寄りに学んだことを真剣に受けとめて、それを紙芝居にして報告して、「アメリカは許せない」「アメリカは憎い」と感情を込めて感想をいう。すると地域の知識人の年配者から「日本もやったじゃないか」といわれたが、子どもは断固として譲らない。絶対アメリカが許せないんだ、とはっきりしている。揺らぐのは私の方だ。子どもたちは「日本中の人に伝えたい」と何回も報告する。子どもたちは毎日の家庭生活のなかでギリギリした思いを持っている。この子どもたちは、黙っていても未来に生きることを考えており、大きな社会の関係で生きており、教師の側が目先のことだけ考えていたのでは負けていく。
  今年の教育集会で宇部の教師が「地域には掘り起こせば掘り起こすほど宝のような人がたくさん出てくる」といっていた。僕たちがそういう立場に立って、本当に地域に力があり、そこに戦争を阻止する力があるんだということに確信を持ってどれだけ旺盛に活動できるか、だと思う。小さな目先の行事に追われ、「忙しいから」に負けている。立場を変えて飛び込んでいって、多くの人と結束していくことが重要だと思う。
  教育集会に参加した同僚の先生が、「インパール作戦に参加した人の戦争体験をもっと聞きたい」といっていた。
  その人は「南方に行った兵隊は武器も食糧もなく、ほとんどが餓死で死んでいった。その生き残りの兵士たちがどんどん内地に帰ってきたら、絶対に暴動が起きる。それをさせないためにわしらは殺されたんだ」といっていた。

 真実隠した戦後「民主教育」
 編集部 第2次大戦の体験者を悪者扱いしてものをいわせないようにしてきたのだ。戦後の民主教育を受けたものは「うちの親父は犯罪者」になる。体験者も「一応豊かになったし、平和になったから黙っておこう」と思ってきたが、今やそんなこといっておれないようになったといっている。なんで負けるとわかっていたのにあんな戦争を続けたのかと、みんな思っている。その真実が隠されてきた。戦前もだまされて戦争につれていかれたが、戦後はもっとだまされている。そういう体験者のなかに真実の力がある。そういう人たちと立場を共有し、教師が学校現場で教育をしていったら圧倒的支持になるのではないか。
 今進められている「個性重視」「興味・関心第1」の教育改革は、「もはや教育じゃない」というのが圧倒的な意見だ。それは、80年代の臨教審以来のものだが、とくにここ数年は、教育界の外側から、ホリエモンと同じ人種のオリックスの宮内が議長をつとめる首相直属の規制改革・民間開放推進会議が音頭をとって、アメリカの指示で進めている。全国一斉学力テストをやり、成績をホームページで公開し、教師と学校の数値評価をやり、「お客様のニーズ」とかいって学校の自由選択制やバウチャー制度をやろうとしている。子どもを地域から切り離し、学校同士の企業的な競争を煽っている。株式会社××小学校とその社員のようにしている。こんなものは父母も年配者もみなが怒っている。
  「アメリカが進歩」という考え方がすごくある。小学校からの英語教育についても、おかしいとは思うが、「英語を話せないと国際人になれない」とか「これからは日本に外国人がいっぱい来るので、仕事にならない」というのが相当宣伝されている。
 編集部 前の戦争のことを考えても、日本の戦死者はほとんどアメリカから殺されている。本土空襲その他で100万人、外地で200万人以上。中国戦線では日米戦争が始まるまでに18万人で、それ以外ほとんどがアメリカからだ。事実はアメリカによる大虐殺だが、そんなイメージはなく、「解放のためにやってくれた」という意識がつくられている。アメリカは「日本軍国主義からアジアを解放した」というが、それはかつて日本軍国主義が「白人帝国主義を追い出してアジアを解放する」という理屈と同じだ。同じ侵略だ。それを、きれいにマインドコントロールされている。それを戦争体験者はよく知っている。こんなアメリカに洗脳された状態では、教育改革とはたたかえない。
  敗戦直後から日本軍国主義が悪かったというのを毎日のように聞かされた。東条英機など軍部中枢も戦争犯罪者だが、しかし軍部だけでなぜ戦争ができるか。天皇が絶対的な権限を持ち、官僚機構が総動員で動いているし、教育やマスコミでものをいえないようにしなければ国民を戦争に動員できるはずがない。戦後、この連中の戦争責任は問わず、「平和主義者」のようにいわれてきた。この連中が今、アメリカにくっついて再び戦争をやろうとしている。
  教師のなかでもっとあの戦争はなんだったのか、戦後社会はなんだったのかということを明らかにしていくことが大事だ。今の戦争体験者、被爆者の人たちと同じところに教師の側が立たないかぎりは、1つ1つ起こる問題の性質がわからなくなるし、違ったものにしてしまうと思う。

 安上がりな肉弾作り 教育改革の中味・子供の批判力奪う
  今までずっといわれてきたことだが、アメリカが進めている、子どもたちを戦争の人殺し・肉弾にする教育改革とたたかっていくということを具体的な問題としてやっていかないといけない。
 編集部 教育改革によってどういう人間をつくろうとしているのか。それは結局、資本の都合に従う奴隷だし、安上がりで命知らずの兵隊づくりだ。今子どもたちは、学校を卒業しても仕事がない。ニート、フリーターというが失業・半失業状態で、20〜30代の半分は非正規雇用だ。正規雇用といっても10万円かそこらの賃金。まともに結婚もできないし、食っていけない、将来展望がない。若者を食っていけないようにして、戦争にいったら稼げるぞ、というのがアメリカの今のスタイルだ。貧乏な黒人やヒスパニックの子弟を戦場にかり出している。日本でも教育改革で、動物的で刹那的な、批判力のない子どもを意図的につくろうとしている。
 また、最近は小さい頃から成績でクラスも学校も分けてしまおうとしているが、それでエリートはできてもリーダーはうまれない。リードすべき貧乏人の子どもとつきあいができないわけだから。安倍晋三氏を見ても、東大出の下関の江島市長、林芳正参議院議員などをみても、エリートではあるだろうが人がついていくリーダーではない。こんなものばかりがはびこったら日本はつぶれる。
  今、日本語でしゃべっている言葉が子どもたちに通じなくなっている。また、深く考えず、1言か2言かの「ワンフレーズ」で反応する子どもたちをつくっている。そういう方向でずっとやられてきた国語教育はいったいなんなのか、という問題だ。お年寄りの人たちのなかでは、民族的な魂が抜かれていっていることに対する怒りは猛烈に強い。だからまた、礒永秀雄の作品に対する支持は圧倒的だ。
  かしこい子どもを育てたいと思いながらバカをつくっている。それもアメリカの戦争のためにバカをつくってあげている。本当に情けないというか、すごく怒りを感じる。教師は「社員」で、目の前をベルトコンベアーが走っていて、子どもがその上に乗っていて、来たらハイとボタンを押して、あなたはいい人、あなたはちょっとダメな人、あなたはダメな人と、その作業員である自分を情けないと痛烈に感じている。日本の子どもの敵はアメリカなんだ、あなたたちをまっとうに育てる民族的な教育はこれなんだというものをぶつけていかなくてはいけない。
  子どもたちが本当に求めているものを私たちが与えないから、腹を立てて反乱を起こしている。子どもたちが本当に求めているものは、自分たちの父母や祖父母、先輩たちの真髄のところを学ぶことだし、実際に被爆者や戦争体験者がそういう立場で接するからグーッとひきつけられ成長する。目の前の子どもたちに、支配階級の子どもはほとんどいない。みな勤労人民の子であり、自分の両親や祖父母の気持ちを1番受け継いでいる。

 教師集団の団結を 市場原理、個で分離・労働と生活根ざし
 編集部 アメリカの支配の問題とともに、教育改革で進めているイデオロギーは市場原理であり、大競争で個々人をバラバラにするというものだ。市場原理とは株投機を中心とする商売原理、資本天国の原理だ。労働者や勤労人民のイデオロギーはそれと対立している。生産現場では、社会のみんなが使って役立つものを生産しているし、それをみんなが協力し協同労働で生産している。生活の場も共同・連帯の原理であり、みんなが協力しあって個人個人が生活しているという原理だ。
 学校でも子どもは集団で影響しあって育っている関係ではないか。1人の子だけがみんなと無縁なところでよく育つというわけにはいかないと思う。どこかが成功したらそれが学校全体に影響するとか、どこかが荒れたらそれが影響するとか。だから学校全体をどうするかというところから対応せざるを得ないはずだ。教師も個人個人がバラバラで自分のところからだけ見るというのではなく、教師集団全体が一致してやらなければどうにもならない。これを崩すというのが教育改革だから、学校は崩壊するほかない。教師が問われているのは、支配階級に雇われてその代理をする立場か、労働者的人民的な立場かということだ。
  現場の教師は教員評価制度に対して、「教育は1人ではできない」「学年集団、学校全体でみんなで子どもを育てている」とみんないう。それをバラバラにして子どもも教師も競争させたのでは学校は成り立たない。
  職員会議で運動会のスローガンを考えるときに、いつでもどの学級からも「みんなで力をあわせて」というのが出てくる。みんなが力をあわせて、助けあってやっていくものが教育だと、みんな思っている。それを上からトップダウンで破壊していくのが今の教育改革だ。みんな、だんだんこれはおかしいぞ、受け入れられんぞというふうになっている。団結したがっている。力をあわせてなんとかしようとなってきている。そこを束ねて大きな運動にできるかどうかだ。そうしたら日本の教育は変わる。
  怒りがグーッと湧き起こっているのを感じる。今回の、騎馬戦問題に対する校長会の怒りは、これまで教職員評価制度への怒りを押さえつけられてきて、そこにこの問題が出たから爆発している。うちの学校では校長が「例年通りでよい」「いつまでも県教委のいうことを黙って聞くと思ったら大まちがいだ」という。校長会ではそれで一致したという。
  校長と話をすると、県の教育長は総務畑出身の役人であり、教育のことがわからないやつが山口県の教育をガチャガチャにしていると、どこでも出る。「教育長を首にしろ」というと「それぐらいやらんといけん」という意見だ。
  当然だ。学校現場を破壊しているのだから。「アメリカは核を持って帰れ」みたいな、みんなが「そうだ」というようなピタッとくるスローガンを打ち出せば、みんながそれをいいだしていく情勢にある。
  そういうものを学校の教師のなかからねりあげて、変えていくまでやる。変えるという迫力が大事だ。教育は自分たちが握っているという誇りはあると思うが、今のような抑圧に仕方がないと黙っていたら、それすらなくなってしまう。教師の生命にかかわるところまできている。
  教師でなくされる。みんな子どものために教育がしたくて、必死の思いで採用試験を何回も受けて通って、ずっと子どものためを考えてきて、そして今教育ができない状態に追い込まれているのだから。

 時代意識と指導性 教師に求められる役割・学校現場が勝負
  株式会社××小学校のサラリーマンにされている。そこに組合主義、経済主義の路線がピタッとあっている。子どもの教育のためではなく、いわゆる、教育労働者の「権利」という立場だ。学校共済の教師の借り倒しが全国で20億円、山口県で5000万円にのぼるというが、そういうふうになって教師の荒廃も進んでいる。教師が教師でなくされているのが別の面でも出ている。
 編集部 長年来の日教組の誤った路線の破産だ。子どもの教育を2の次にして、「教師の権利」ばかりいってきた潮流が、文科省のパートナー、教育改革の推進者になっている。その転換が求められている。教育では、支配階級は学校に日本中の子どもを集めて犯罪的な資本主義に従う人間をつくろうとしているが、学校に来る子どもはそう思っていない。子どもは労働者や勤労人民の子弟であり、知育徳育体育を求め現在よりももっと発展した社会の担い手になりたいという願望を本質的に持っている。教師はそのどっちの立場に立って教育をするかが、そう思いたくなくてもいつも迫られている関係だ。
 社会全体を見ると、敵はまた戦争をやろうとしているし、その前に人民が食っていけなくなっている。大変なところにきているから、相当の人民世論の転換が起こっている。そこで教育がどういう役割を果たすかと見ていかないと、狭い視野からでは見えない。被爆者に「お世話になります」ではだめで、教師なのだから時代意識とともに教育についての指導性が求められる。
 「平和の旅」はいわば人民の学校だ。だから支配階級の学校で暴れる子がそこに来たらのびのびと解放される。階級性の違いだ。しかし「平和の旅」だけしていたのでは話にならない。日本中の子どもは学校に行っているし、学校が戦場なのであって、人民の立場に立つとか「平和の旅」の教訓を学校の現場でどう生かすかが勝負だ。この火花が散っている学校現場で、敵がどんな攻撃をかけているのか、それに対して子どもや父母はなにを要求しているのか、という現実に立ち向かうことだ。活路を求めながらバラバラな状態にある教師に、勤労父母や地域の戦争体験者などと団結し、反動的な攻撃とたたかって平和の担い手を育てていく、現場のここの問題を集中し統一的な見解を明らかにし、教師を団結させていく、そういう手助けをする教師の組織が機能することが求められている。教師も病気したり自殺したりするような状態であり、方向が明確であれば、子どもたちのために体を張ってたたかう機運はあると思う。

  最近も殺人事件が次次に起こっていて、いつ自分の子が人殺しになるかわからないという不安をみんな抱えていて、なんとかしなくちゃというのが親の中にもすごくある。教師と手をつないでいきたいというものがある。そこに飛び込んで、一緒にやっていったら必ず支持されると思う。
 編集部 父母や地域の人たちに集まってもらって、学校現場はこうなっているんだ、とみんなで論議する場などつくっていったら、すごい関心があると思う。その中から、父母たちと共通の立場に立って、教育をやっていく方向性が見えて、教師の運動を激励していけるのではないかと思う。
  学校のなかのありのままをいってはならないという抑圧は相当ある。守秘義務とか、またプライバシーとか「人権」などといって。
 編集部 その手口で分断していると思う。教育改革を進めるのは、マスコミをつかって「親の要求」を装って教師を締め上げる。体罰攻撃などそうだが、本当の親の要求と団結しなければ跳ね返せない。
  ちょっと前までは「家庭や地域に教育力はない」と宣伝しまくって「親はバカだ」といっていたのに、今ではコロッと変わって、バカだといっていた「親のニーズに従え」という。本当にペテンだ。マスコミがワーッと煽ってそれで締め上げてくる。冷静に、大多数の親はどう思っているかという本当の声を聞くことから始めて、打開していきたいと思う。
 司会 それではきょうはこの辺で終わります。

トップページへ戻る