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教師と子供・父母の信頼を作れ
中学生逮捕事件巡る意見
              教育を放棄する警察依存    2009年11月2日付

 下関市内で中学校の男子生徒が警察に逮捕された事件をめぐり実態と問題点、解決方向について論議が広がっている。これをめぐる市内や山口県下の教育関係者の意見を紹介する。

 校長が泣いて父母・教師の協力を求めよ   下関・元中学校教師
 問題を抱える子どもへの教育的な対応がなされる保証がないまま、学校外部などの組織に、一般的に広げるところに問題があるのではないか。なによりも必要なことは、先生とそうした子どもとの一対一の関係を築いて、その子の心の中を見通してやることだ。校長や生徒指導担当はその役割を果たさねばならない。先生と生徒の人間関係ができなければ、外からも内からも組織だった指導はできない。
 その子たちの悩みを親身になって考えてやる先生がいないのではないか。また、そうしようにも先生にその余裕がない状況がある。いよいよ困った子をどうするかというとき、その子の味方になってやる者、親代わりになってやる者がいる。
 今の子どもは少年法など法律を知っていて、ギリギリのところをスリルを楽しむようにやっている面もある。時間をかけた生身のふれあいを通して、その子の心のひっかかり、もやもやしているものをつかみ、解決していけるような関係ができなければならない。そのように本気になって対応することで、子どもも本当の心を開くようになる。
 生活とマッチした指導を通しても、子どもが今のような甘えでは厳しい社会に出ていけないことを自覚し、立ち直るには1年も2年もかかる。今頃は、ことを運ぶのが速すぎるのではないか。
 中学生は浮き沈みの大きい年代だ。親友ができたり、おしゃべりしたり、体への自信がついて大人になっていく。そのような子どもの成長過程を大事にして進めることが大切だ。ある局面では、警察と連携したり校内に入ることもあるだろう。しかし、それで安心とか、お任せするとなれば、それは教育でなくなる。卒業式には鑑別所から帰って来て、その学校から卒業するのだ。
 ああいう子たちは、行き場がない状況に置かれている。九九ができない、3桁の計算ができないということがきっかけになっていることが多い。先生でなくてもよい。友だちに教えさせるなど、小さな先生がいる。子どもたちを通した学級づくり、学校づくりが重要だ。
 学校全体のテストの成績をあげるとなると、上の子の点数をあげようとするが、下の子の基本的な読み書きの学力をつけるだけで、全体の点数は上がるものだ。そういうふうに考えない傾向もある。
 あいつらは排除した方が、みんなのためにいいという考えは、昔からあった。それでは良い学校にはならない。「学習権」が脅かされるというが、「悪い子」の学習権もある。その両者をどう統一的に発展させるかを追求することを避けて、一方を切り捨てるなら教育にはならない。
 生徒たちにも、あいつらがいるから僕らが迷惑するというふうに考えたり、あの子たちが許されるなら自分たちも少少悪さをしてもいいなどと思うようにさせてはいけない。健全な子どもたちも、ビクともしないように指導することがいる。茶髪とか服装の問題にしても、あの子たちはある意味で病気で病人食が必要な段階だというふうに、温かく見守ってやる態度が必要だ。
 問題を抱える子もみんながいっしょになって、目標を持って活動しはじめた場合、子どもたちのエネルギーはすごいものがある。遠足、運動会など、生徒が自分たちで方針、規則を決めて自分たちの力で成功させていくことなどは、多感なこの時期には非常に重要な体験になる。
 先生、生徒の関係、親との関係、地域との関係を同じ方向で築いていくことだ。そのような体制が築けても、一時はまだ悪くなるだろうが、それは前へ進むうえでの過渡的な過程だ。子どもたちの地域活動などを通した、社会的な働きかけも大事になってくる。学校への地域的な信頼が築かれることが、子どもたちの誇りと自覚につながるものだ。それまでは苦しいだろうが、その意味ではチャンスではないか。
 こういう状況に陥った校長は泣かねばならない。このように手に負えなくなっていることを教師、父兄、地域にさらけ出して、問題を共有してともに解決していく方向に踏み出せるかどうかだ。エリートと見なされている人のなかには、上から人を見下すが人前で泣くことができないタイプが少なくない。それでは生身の教育を成りたたせることはできない。

 父母と教師が情報共有した学校運営が原点  下関中学校PTA連合会会長・海原三勇
 長周新聞の記事を読んで、家庭の問題もあるだろうが、学力格差の問題、勉強についていけない子どもに対する学校教育の責任として、問題をとらえる必要があると思った。「悪い悪い」といってその子をつき放すのではなく、またどこそこの責任というのではなく、学校、家庭、地域が直結して情報を共有して対応しなくてはいけない。そういう子に対して、みんなが手を差し伸べて、支援していく体制が必要だと思う。
 教育の機会均等が失われ、塾に行けない子、勉強がわからない子がポツンと置かれている状況がある。そんな子どもにとって、わからないまま、教室にじっと座っていることはきつい。最初から学力で子どもを振り落とすのでは、子どもはいじけてしまう。ついていけないからとか、非行を理由に追い出すというのではなくその前に問題を考えていくことが必要ではないだろうか。
 お役所的に問題を見て、子どもの立場に立って見ようとしない学校では、体面ばかり考えて、まず警察ということになり、保護者から反発を食っているようだ。一方で、子どもに責任をなすりつけるのではなく、親身になって子どもに対応している学校もあるし、先生もおられる。しかし、先生ががんばっても、上に立つ管理者によってうまくいかない所もあるように聞いている。
 中学生という時期は、多感な成長期で、人生において最も大切な時期だ。20数年来、教育改革のもとで、子どもも先生の体質も変わってきたように思う。先生の指導性や、つちかってきたことが崩されてきたなかで、昔には考えられなかった「非行=警察」というような、すぐ警察におまかせする状況にまできたといえる。
 親と先生が情報を共有しあって学校運営していくのが原点だ。家庭の責任も大きいが、親の多くは学校の現状がわからず、学校とPTAの連携がうまくいっていない学校もある。中学校と小学校のあいだの風通しも良くして、連携を強めることも必要ではないか。
 子どもは国の宝だ。とくに、少子化が叫ばれる今こそ学校、家庭、地域のみんなが協力しあって、子どもをどう育てるかを考えていく必要がある。学校が閉鎖的になるのではなく、家庭と地域と情報を共有し、模索するなかでしか、打開の方向は見出せないだろう。今回のT中学校の問題を重く受けとめて、親も先生も子どもをどう育てるかを真剣にやっていく必要があると思っている。

 まっとうな生き方を教え導くのが教師の役割  宇部市小学校教師・佐藤公治 
 下関市T中学校の生徒逮捕事件について掲載した長周新聞を読ませてもらった。
 まず思ったことは、「ワルは引き算をしたら減る」と考えて学校からその生徒たちを排除して、親にも知らせないし子どもにも知らせない、秘密裏に逮捕させて施設に送っているというそのやり方自体、悪意に満ちているし、子どもの教育を司る者のやることではないということだ。それでは子どもや親、地域のなかに学校に対する不信感を煽ることにしかならない。それは親も子どももバカにして、邪魔者は消していくという、市場原理の最たるものに思える。
 宇部でも学校が荒れたとき、全校集会を開いてみんなで考えるとか、親や地域に呼びかけて中間タイムや昼休みに学校に来てもらい、見回りをしてもらうということはやってきた。ガラスが割られたときや卒業式が心配なときに、警察を呼ぶ例はあったと思う。しかしT中学校のように子どもを排除するために警察を呼ぶという例ははじめて聞く。学校を子どもや地域から切り離すこうした学警一体の生活指導をまかり通らせることは危険な方向だ。
 そしてこの中学校の教師自体も、校長に抑圧されているのではないかと思う。「校長、それは違うやろう」といって子どもを守りに行く教師はいなかったのか。教師集団が形成され、その教師集団が地域と一体となって子どもを守っていく体制がつくられていたら、そんな校長のやり方はぶっ飛ばすことができたのではないか。
 学校はだれのためのものか。それは子どものためであるし、地域のためのものだ。校長の「私のためのもの」ではない。
 今の学校では点数が評価基準になっているが、しかしT中学校の生徒の意見を見ると、生徒はそう見ていないし、ワルたちの本質面を見ている。「優しい」とか「妹の面倒をよく見ている」といっている。それを読んで救われた思いがした。子どもたちは友だちを思うのが本質面だ。それに対して校長はウソ八百をいい、彼らの立ち直るチャンスも与えていない。
 宇部でも、小学校から授業がわからず、教室を飛び出したり荒れていくというのは共通した問題だ。そして勉強ができないと敗北的になって、ゲームセンターとかエログロナンセンスとか、楽な方向に流されていく。そういう子どもたちには、刻苦奮斗して努力する、困難に負けない、少少のことで音をあげない、まちがったこととはたたかっていく――子どものなかにそういう思想をうち立てていくことが教師の役割だ。体罰はいけないというが、みんなのために行動すれば正しい、人に危害を加えればまちがっていると、体をはってでも教えないといけない。本当に子どもに向きあってなにが正しいか考えさせないといけない。
 それが、教師の使命であり、誇りだと思う。教科書を教えるだけが教師ではない。親と一緒になって、子どもたちに、なんのために生きていくのか、なんのために勉強するのかをつかませていく。展望を持てない子どもたちのなかに、この世の中を変えていこうというまっとうな生き方がうち立てられるよう援助していくのが教師だ。被爆者の方の体験談を真剣に聞いた子どもが、人民のための平和な世の中をつくっていくんだと決意し、そこから算数にも自信を持ってとりくめるようになったという例は多くある。
 教師が体をはってでも子どもを教え導かなければならない。そこを開けて通すとズルズルといく。教師の腰がなえていく。そして最後には権力に子どもを売るようになる。厳しいけど子どもに愛情をもった教師かどうか。表面は「子どものことを思っている」ように装って、裏では子どもを権力に売るというのが1番いけない。
 子どもたちのなかにリーダーをどう育てるか。志望校に入学するためには点数が少しでも多い方がいいといって、他人の失敗を喜ぶような子どもではだめだ。そんな点数第1、市場原理が、今回のような校長対応につながるのではないか。友だちに「一緒に頑張ろうね」といって勉強を教えあい励ましあう子、小さい子の面倒をよく見る子、広島に学ぶ平和の旅で育ててきたような、世のため人のために奮斗する子どもを育てないといけない。

 学校の実情を隠さず本音の論議で新の解決へ   防府市小学校教師・竹垣真理子
 下関市T中学校生徒逮捕事件の記事を読んで、親にも知らせないで子どもを抹殺するという校長の対応には非常に驚いた。その学校に二、三年しかいない校長の対応で子どもの一生を台なしにされるのではたまったものではないし、親や地域が怒るのは当然だと思う。それとともに、子どもの荒れ方はどこの学校も似通っておりどの学校も共通した土壌を持っていると思う。
 こうした子どもたちは、小学校の段階からはじき出されている。1、2年生では遊びのような生活科の授業で「自由」「人権」「子どもの主体性」といいながら、勉強のわからない子どもはほったらかし。動物的に荒れる子には「自閉症」とか「多動性症候群」とかの病名をつけ、集団のなかで鍛えることもなく、わがまま放題に放っておく。子どもも親も苦しんでいると思うが、こうして子どもを人間的に成長させないできたツケが、中学校にいって爆発している。
 小学校の高学年になっても、足し算引き算の四則計算ができず、そればっかりを練習させないといけない子がいる。漢字が読めなかったり、言葉の意味がさっぱりわからなかったりする子がいる。こんな状態で低学年のときからじっと教室に座っていたのかと思う。小学2年生から、毎日塾に行く子もいれば、文章を読むこと自体ができない子もおり、格差が開いている。そんな子どもを教師は放課後に残して教えようとするが、上からは「子どもを放課後に残すな」「下校時間を守らないと事件にあったらいけない」「人権問題になる」とうるさくいわれる。それでも、親に事情を話せば歓迎される。
 T中学校の教師も苦しんできたと思う。まちがった指導方向に対してたたかえないなかで、子どもを切り捨てたり売り渡したりがあったと思うが、本当に頑張ってほしい。このままではいけないと思っている教師は多いと思う。ただ、教師のなかで「この指導方向ではいけない」と自由に話せているのだろうか。
 子どもを切り捨てると校長運営は、かならず教師も切り捨てることになる。このクラスから、この学年から荒れる子が出た、不登校児が出たといわれ、教師はそれで評価され、競争させられる。「この学年は荒れている」「この学年は落ち着いている」といわれること自体が重圧になって子どもが問題を起こしてもフタをしてフタをして、そして爆発する。学校の教職員全体で担当する教師を支えるという態勢になっていない場合にそうなるし、それは教師自身の課題でもある。
 こうした問題は、小学校の教師と中学校の教師が力をあわせ、そして地域全体と力をあわせないと解決できない。私たちも20年前の「新学力観」「興味関心第1」の学習指導要領の改訂以来、生活科では「ひまわりさんが暑いから帽子をかぶせる」雨の日に水やりをしても「その子は愛情がある」というようなウソを教えてきたし、そうした学校現場の実情を隠しだてせずに親や地域の人たちに知らせるなかで、親や地域と一緒になって子どもを教育する立場に立てた。中学校の教師も本当の実情を出して、一緒に「子どもをどうするか」と本音の論議をして、真の解決に向かっていきたいと思う。
 今回のT中学校の問題は、全県・全国に大きな影響を与えると思うし、子どもの教育にとっての重大な問題提起だ。教職員組合や人民教育同盟としても、こうした現実に対応していかなければいけないと思う。

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