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窮地に追いこまれた末の70年談話
憶病風に吹かれる安倍政府
             沸騰する安保法制反対世論   2015年8月19日付

 安倍政府が14日に戦後70年の首相談話を発表し、その文面の良し悪しをめぐる論議がメディアで盛んにとりあげられている。70年前の大戦で、天皇制軍国主義が無謀なる戦争に突っ込んだ挙げ句、320万人に及ぶ日本国民の生命を犠牲にし、その侵略戦争のなかでアジアでも2000万人近い無辜の命が犠牲になった事実は、戦犯の孫の恣意によってかき消すことなどできない。談話は当初、「お詫び」「反省」「植民地支配」といった文言を盛り込まないとか、まさに戦後の歩みを覆す開き直りをやろうとして問題視され、安倍晋三がまた余計なことを口走ってアジアで孤立化したり、世界で笑いものになることをみなが危惧していた。ところが蓋を開けてみると数カ月前の鼻息の荒さはどこかへ消え、極めて欺瞞的ではあるが「反省」等等を口にせざるを得ないものとなった。この70年談話があらわしているのは、居直りが対外的に通用しないだけでなく、安保法制、TPP、原発再稼働などいまや国内矛盾が噴き上がり、世論が激変しているなかで、思い上がってきた為政者が追い詰められ、臆病風を吹かせている姿である。欺瞞的な言葉遊びの土俵の上で談話がどっちを向いたか評価する以上に、安倍晋三なりそのとり巻き勢力がやってきたこと、やろうとしていることは何か? 国民世論との力関係はどうなっているのかをつなげて見なければならない。
 
 かき消せぬ戦争の忌まわしい記憶

 かつての戦争は日本国民のみならず、アジアにおいて2000万人余りのおびただしい犠牲を強いた。植民地を奪い合った帝国主義諸国による許しがたい蛮行であり、新興の資本主義国として中国大陸や朝鮮半島、さらにアジア諸国に攻め込んでいった日本の支配層の犯罪性とともに、沖縄戦や広島、長崎への原爆投下など殺戮の限りを尽くして日本を単独占領したアメリカについても、その犯罪性を曖昧にすることはできない。片側がファッショ=悪で、片側が反ファッショ=善であったなどというものではない。
 このなかで、あの戦争で犠牲になった人人やその家族、難儀した国民や、塗炭の苦しみを強いた他国の人民大衆に対して、日本の為政者としてどのような態度で臨まなければならないかーー。これは安倍晋三個人の思いや願望が入り込む余地などない。70年経ったからといってリセットできる代物ではないのである。過去の歴史を踏まえ、省みることによってしか、日本民族として今後どう世界の国国と対峙するのかの道筋など見えないし、人間や国家の存在や行動というのが、過去の歴史と切り離れて進むことなどあり得ないのである。
 ところが、この覆しに挑んできたのが安倍晋三をはじめとした勢力だった。「戦後レジームからの脱却」を標榜して再登板すると、かつての大陸侵略のスローガンだった「八紘一宇」を国会で賛美する者があらわれたり、70年前の大戦で敗北して葬り去られていたはずの天皇制軍国主義を正当化し、「大日本帝国は正しかった」「侵略ではなかった」と肯定することが「美しい国、ニッポン」の誇りであるというような、右傾化の思想を披露する者がとりたてられ、政府ポストやNHK経営委員といった要職に就いてきた。そしてアメリカの尻馬に乗って尖閣諸島で緊張を激化させたり、近隣諸国との間で長年にわたって築き上げてきた友好関係を台無しにしてきた。
 70年談話をめぐっても、当初は「先の大戦への“謝罪”の表現を盛り込まない」「未来志向を前面に出し、戦後の歴史に区切りをつける必要がある」「(村山談話の謝罪や反省について)同じ言葉を入れるなら談話を出す意味がない」といった発言をくり返してきた。訪米してアメリカに「ごめんなさい」をするときは英語スピーチで嬉嬉としてやる者が、アジア諸国や国民に対しては居直るという態度であった。
 しかし、とりわけ今年に入って安保法制をめぐる国民との全面対決の様相が深まり、戦争反対の世論がかつてなく盛り上がるなかで、浮き上がった権力は直接国民世論と対峙することをよぎなくされ、縛られることとなった。メディアがつくり上げた「高支持率」の虚飾に満ちた世界は暴露され、支持率17%(総選挙の得票率)という脆弱な体制のうえに暴走をくり広げてきた安倍政府は窮地に追い込まれることとなった。潮目は変わったのである。アベノミクスの化けの皮が剥がれ落ち、TPPや原発再稼働をゴリ押しし、特定秘密保護法など一連の戦争法案を強行していくのに対して、憲法学者や知識人、学生が行動に立ち上がり、全国的に戦争阻止の世論がうねりとなって拡大するなかで、訪れた沖縄でも、広島・長崎でも「帰れ!」の怒号に包囲され、国会前も包囲され、この力が燃え広がっておさまらない。新国立競技場を断念してみたり、ガス抜きをしても怒りの世論はおさまらず、脳天気な子分たちが問題発言を起こすたびに袋叩きとなった。
 力関係において国民世論が圧倒していることを為政者自身が自覚し、脅えた結果が骨抜きの70年談話であった。渦中では「閣議決定ではなく、総理大臣個人の談話にする」といい始めるなど“安倍晋三の独り言”にしようと迷走し、最終的には方方に慮って何がいいたいのかわからない官僚の作文に帰結した。これは安保法案反対の全国的な政治斗争をさらに強力なものにするなら、法案を葬り去ることが可能であること、国民の下からの決起こそが安倍政府を死に体状態に追い込んでいる最大の原動力であることを確信させている。
 70年談話そのものはアメリカにも配慮し、首脳会談を持ちたい中国や韓国にも配慮し、党内の右派勢力にも、国民世論にも配慮した産物となった。その文言で主語を抜いてみたり、「反省」や「お詫び」はこれまでの政府がいっていたと引用する形をとったり、本人が心からのべているものではないことは誰の目にも明らかである。安倍晋三の言葉だけを持って良し悪しを判断するのが如何にばかげているかは、「福島はコントロールされている」をはじめ、これまでの欺瞞的な発言の数数を見せつけられてきた国民にとっていわれなくてもわかっていることである。いっていることと逆のことをやるのは得意技で、「邦人の生命を守る」といって地球の裏側まで米軍の鉄砲玉になって出撃する安保法制が最たるものである。
 談話では「あの戦争には何ら関わりのない私たちの子や孫、その先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」とのべた。現在の安保法制を強行して米軍の戦争を肩代わりするなら、中国、韓国やアジア諸国だけでなく、今度はアフリカや中東諸国に対して、アメリカに成りかわって謝り続けなければならない宿命を背負わせるわけで、これほどバカげたことはない。というより、謝罪し続けなければならないような侵略をやったのは安倍晋三の爺さんであり、1銭5厘の赤紙で戦争に引きずり込まれた国民と戦争指導者の犯罪性を同列に置いて、誰が誰に謝罪するのか曖昧にすることなどできない。
 かつて侵略に次ぐ侵略を重ねていった日本帝国主義は、日中戦争で中国人民の抵抗にあって行き詰まり、そこから勝つ見込みなどない太平洋戦争に突っ込んでいった。南方の島島で日本兵は飢え死にや病死をくり返し、最後は米国に原爆を投げつけられ、日本列島の都市という都市が空襲で焼き払われて終戦を迎えた。戦争終結にあたっては「中国で叩きのめされた」のではなく、国体護持すなわち天皇制の存続を引き替えに米国に屈服する道を選んだのが日本の為政者たちだった。
 そして戦後は「軍部の暴走」にみな責任を転嫁し、今度は対米従属のもとで独占資本は息を吹き返し、官僚機構も大本営発表をくり返した大新聞なども丸ごと権力機構が温存され、現在に続く戦後の日本社会を形作ってきた。70年前に叩きのめされなければならなかった権力がアメリカに媚びを売ることで生きながらえ、世界でも稀に見る対米従属国家に成り下がったのである。
 地下に眠る320万人の魂に対して、2000万人もの魂に対して、反省のない「お詫び」は怒りに火をつける効果しかもたらさない。70年談話でのべている「反省」や「お詫び」に忠実であるなら、まず第一に安保法制を廃案にしなければ誰も納得しない。アメリカには卑屈で、国民やアジア諸国には居直るみっともない奴隷根性をどうにかしなければ、戦後70年との決別など何をかいわんやである。戦後70年続いている対日占領に目をつむり、この屈辱を80年、90年、100年と引き継ごうとしている者が、集団的自衛権を行使して終いには米軍の弾よけとして日本の若者の生命を駆り出すし、アメリカを喜ばせるためには国民の生命や安全をみな犠牲にしていく。この為政者の売国性こそ、70年目の8月に際して、深刻に問われなければならないものである。
 安倍晋三を退場に追い込み、対米従属構造を突き崩す斗争を全国的に強めることが待ったなしの情勢となっている。

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