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まるで戦争がきた様な下関
天皇視察  
              警察3000人徘徊、ヘリ空母接岸   2012年5月30日付

 天皇、皇后が宇部での植樹祭に出たあと、27〜28日にかけて下関を視察したが、下関市内の中心市街地は異様なる厳戒態勢となった。天皇が立ち寄ったのは平家滅亡の壇ノ浦合戦で敗れた安徳帝の墓参りと、水族館の魚の視察。あとは関門海峡の景色と沿道を見ただけ。これに全国から動員された警察官の数が3000人。下関の町は警察の町となった。岸壁には自衛艦最大のヘリ空母が接岸、対岸の門司港にも自衛隊のミサイル艇、保安庁の巡視艇が停泊。陸海空総動員の全国統合訓練のような観を呈した。天皇はそれほど人に恨まれていると見なしているのか、下関で米騒動のような暴動の気配があるのか、外国軍戦斗員が上陸して戦斗状態になるというのか、まるで戦争がやってきたような様相となった。この異様な厳戒態勢はいったいなにを意味しているのか、市民の大関心となっている。
 
 陸海空総動員訓練の観呈す

 市内の旅館・ホテルは前日から軒並み各県警派遣の警察関係者で埋め尽くされ、街にはパトカー、白バイ、警察官が徘徊。黒いTシャツにリュックを背負った私服警官が裏道に至るまで目を光らせ、住民が軒先に出ただけで「移動しろ」と叱りに来たり、世間話に聞き耳をたて、怪しいと見なしたらつきまとったり、下関は警察の町となって完全制圧された格好となった。
 「昭和天皇が来たときと明らかに違う」。嵐が去って、年配者の多くがかつて春帆楼に泊まっていった昭和天皇の訪問時との違いを話題にしている。この物物しさはなんだろうか? と口口に語られ、以前はもっとおとなしいものだったという。2人の警護に3000人も警察がついてくるようなことはなかった。長州の地は1人につき1500人体制もの警護をしなければ訪れることができない場所とみなされていることを印象づけた。
 1週間ほど前から、普段は排気ガスで真っ黒だった椋野トンネルのガードレールが真っ白に塗り替えられたり沿道が小綺麗になり始め、住宅には交通規制や通行ルートを知らせるチラシや提灯行列に参加するよう促すチラシが全戸配布された。前日から香川、徳島、神奈川など全国各県のナンバーをつけた機動隊車両が集結し始めただけでなく、自衛艦最大1万4000dの大型ヘリ空母「ひゅうが」があるかぽーと岸壁に初寄港。門司港にもミサイル艇が接岸した。
 今回の訪問は事前に宮内庁が視察して宿泊施設や通過ルートを采配したといわれ、裏山を抱えている春帆楼は「警備上問題がある」といって外され、代わりに海峡沿いのグランドホテルが宿泊施設に選ばれた。1億円かけて改装したことも話題にされている同ホテルは、当日は貸し切り状態。夜中も白バイがずらりと並んで待機し異様な様だったと語られる。なかでも「菊の紋がはいった白バイがあって皇宮警察の白バイが指揮しているようだった」「山口県警の白バイはサクラのマークで格が違っていた」と話題になっている。
 だれもが違和感を感じたのは3000人の警察の厳戒態勢ぶりだった。日頃は閑散とした駅前から唐戸、長府や下関インターチェンジに至る沿道には、数十b間隔で複数の警察官が待機。中心市街地は警察官の町かと思わせる変貌ぶりとなった。
 天皇の車が通る沿道には、通過する1時間以上前から年寄りたちが集まっていた。暑さを避けて公園の木陰で休んでいた年寄りたちだったが、1時間か30分以上前になると、警察がロープで囲んだ指定した場所に集められた。若い警官がマイクを持って、「○○県警から来た名前はマーちゃん、○○歳です。ボクの名前を覚えてください」「香川県に来てうどんを食べてください」などと漫談風に語りながら、「警察の指定するサークルから出ないこと」「日の丸の小旗は上に上げて振るのではなく胸の前で小さく振ること。日傘はたたむこと」と指示。「私が天皇陛下の代わりに走るので練習をしてくれ」と演習。さらに「通過後に追いかけてはいけない」「警察が指示するまで動いてはいけない」と指示していた。
 沿道を歩いていた男性の1人は、「どこに行くんですか?」と呼び止められ、サークルに入るよう指示された。「いや…歩いているだけなんだが…」と応えると「裏道を歩いてください。交通規制は歩道も含まれます」と追い払われたことを語っていた。自宅前の軒下にいても「サークルに行け」と警察官が駆け寄ってくる。交差点でストップを食らった運転者がドアを開けて道路を眺めに出ると、私服が飛んできて車のなかに押し込んでいる光景もあった。
 唐戸でも仕事場のビルの窓から道路を眺めていたら、警察官が駆け上がってきて「上から見下ろしてはいけない」「国の元首ですから」と規制していたことも大話題になっている。町内では警察が回ってきて「店の前をきれいにして、車は移動すること」「二階の窓はすべて閉めてください」とのお達しが回っていた。沿道から脚立に上って写真を撮ろうとすると叱られ、裏道に停車して荷物の積みおろしをしていた業者の車両も「早く移動しなさい」と怒られ追い払われる。あちこちで市民は叱られっぱなしの2日間だった。
 動く物体は規制され、キョロキョロしていようものなら私服警官がついてくる。怪しいと思われたら動画撮影が開始される。サークル以外には人っ子一人いてはならない体制が敷かれた。広い国道沿線の歩道は、警察のロープにかこわれたサークルの固まりがぽつんぽつんとあるだけでそのほかに一人も通行人はいない異様な状態。天皇車は下関市民が普通の格好でどう歩道を歩いているのか見ることもできずに走り去った。
 唐戸の商売人の女性は、店舗の前で通りを眺めていたら見知らぬ男性にチラチラ監視される視線を感じていた。通りまで出て見物しようと歩き始め、途中忘れ物に気付いて戻ろうとするとその男もついてくる。変質者かと思って恐怖を感じていたら、実は私服警官だった。店の前で世間話をしていても聞き耳をたてているのを見て「これはなんなのでしょうか」と思いを口にしていた。

 営業停止や駐車禁止に 訪問場所の周囲

 訪問場所の周囲では、商店や飲食店は営業停止。赤間神宮の通り道にあたる唐戸魚市場は午前10時で閉められ、午後3時までは駐車すら禁止となった。天皇が中尾市長や関谷議長らと昼食していたという海峡メッセ前のハローデイ(スーパー)は12時から2時まで休店。不特定多数の人間を寄りつかせない策が講じられた。沿道のバイク店も表に出してはならないと規制されていた。岬之町のコンテナターミナルもトラックの出入りが制限され、運輸会社などは高速道路を止められて頭を抱えていた。国道や県道に交通規制が各所に設けられたため、市民は裏道を走り回っていた。
 小月バイパスを車で通過した市民の一人は、小野田からのお出迎えで、自衛隊小月航空隊の航空学生たちが白の制服姿でバイパスまで連隊を組んで上がってくるのを見てギョッとしていた。
 27日の夕方、宿泊所のグランドホテル裏で提灯行列をやって天皇に会う、午後6時に受付というので五時前に行くと、提灯はなくなりましたと係からいわれ、天皇の姿は見えない遠く離れたところに追いやられて憤慨していた。提灯をもらえたのは、岩国ナンバーとか市外からのバスから下りた人たちなどで、偉い人の順番に5列縦隊で並んでいたといわれる。○○神社の奥方がいたとか、提灯行列に参加するメンバーはすでに決まっていた、それならなぜ市民に提灯行列に参加できると呼びかけるのかと憤慨して語られていた。
 ある水産関係者は、「以前仙崎の漁港祭りに天皇が来たときには近くで見ることができた。今度はそれとも大違いの厳戒態勢だった」と今回の異様さを語る。
 さらに関係者の話によると、付き人が80人ほど宮内庁から来ていて、食材も持参、料理人も同行で、下関の食材を食ったわけでもなかったといわれている。安徳帝の墓参りと水族館の魚を見るだけで、3000人の警察官を全国から動員し、ヘリ空母まで来るのはあまりにも異様だというのは全市内の大話題となっている。
 この厳戒態勢は、天皇の警備のためにはまったく必要のないものである。ある経営者は下関署の何十人かで十分安全ではないかという。天皇視察にこと寄せて別の目的があると勘ぐらざるを得ない。東日本大震災のような大災害が下関で起こると予測しているのか、全国的に突出した寂れ方のため米騒動のような暴動が起きやすいところと見ているのか、外国の戦斗員が上陸して戦斗が始まりやすいのが下関と見なしているのか、ぐらいを考えなければこのような大がかりな全国統合訓練は説明がつかない。
 思い出すのは安倍総理時期に、下関港外の六連島に北朝鮮の潜水艦が来て戦斗員が上陸したという想定で島民避難訓練をやったことである。市民のなかではバカげたことと笑いものとなったが、お上の方は本気でそんなことを考えているのだろうかという疑問である。下関港は米軍艦船を入港させるためにフェンスが張られて魚釣りにも入れなくなった。沖合人工島は門で締め切られて市民が入ることもできない。そして人工島と連結して、高速道路や新幹線などと結ぶ大規模道路が出現する。米軍は、下関港を博多、長崎、鹿児島などとともに重要港湾に指定していた。
 「天皇陛下を高いところから見下ろしてはならない」というのが警備当局の市民への指示であった。戦前の不敬罪が生きているということである。しかしこの下関における異様なる全国的な統合訓練は、アメリカの下関軍港化要求に対応した色彩が強いとしか見られない。不敬罪というが天皇を使ったアメリカのキャンペーンではないかの疑問である。アメリカこそ不敬罪ではないのか。「昔は天皇、今はアメリカ」が多くの市民の実感なのだ。こうして「天皇が下関に来た」というが「戦争が下関に来た」という実感を受けている市民は少なくない。
 年寄りたちは「つくりものではなく、普段の下関市民の暮らしを見てほしかった」「寂れた裏路地も、シャッター通りも見てもらえたらよかった」「下関の魚もコメも食べてほしかった」と語る。「普通の国民の姿は見られずに警察のロープにかこわれた人たちしか見れない天皇はかわいそうだ」という人もいた。なかには、「天皇家は落ちぶれていた徳川時代から、明治維新で山口県民の世話になったのだし、せっかく下関に来たのなら東行庵の高杉の墓とか桜山神社の招魂場に行ってほしかった」という人もいた。


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