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明朗公正な校長人事を
             下関A中学校問題 教師の指導性回復の為  2002年12月21日付

 本紙でとりあげた「下関・A中学校問題」は下関市のみならず山口県内外の教育界や父母、地域のなかで大きな反響を呼んでいる。それは子どもを自由放任で放し飼いのようにして学校を子ども天国にするのではなく、教師が親や地域のほんとうの願いと団結して指導性を発揮しなければならない、という問題であった。どこでも「人ごとではない」と受けとめられており、「その後A中学校はどうなったか」という関心とともに、全県で共通して語られている問題意識にもとづいて、この問題を考えてみたい。
 反響のなかで、ひじょうに共通して出されているのは「学校のなかだけで問題を隠ぺいする体質がいけない。問題を地域によく説明して、学校、親、教師が力を合わせなければ教育などできるわけがない」というものである。荒廃が深刻な北九州や宇部ではとくにそうである。
 さらに共通しているのは校長の対応の問題である。あれでは教師が積極的に動くことはできないし教育活動を窒息させるものだ、という批判である。それは教育委員会の校長、教員人事に問題がある、というものである。
 A中学校の問題で焦点になったのは、今年度の1学期、2年生担任のある教師が、スカート丈の指導をめぐって女子生徒が反発し、その親が学校に意見をいいに来て、H校長がその教師を親にたいして謝らせたという問題であった。そしてその教師は休職し、校長をはじめ教師の権威はがた落ちになったという問題であった。しかし休職した教師がなぜ休職したのか、その原因の解決にむいていないという評価も一致している。

 地域や教師の努力は始まる
 その後、地域は子どもの教育に積極的にかかわっていこうという動きが強まってきた。校区では、自治会長や補導員など青少年の育成にかかわるところでも話題になり、会合をもって、自分たちも地域のA中のために動いていこうとしている。関係者は「地域は燃えていますよ」とも語られている。A中学校は以前の荒れていた時期に、教師、親、地域が一丸となった努力で立てなおしていった経過があるからである。だが学校が隠ぺいしていると問題が語られている。
 地域や子どもたちから見た教師の努力も語られている。学校に来ない生徒の家を訪問したりと努力がはじまっており、生徒も表面それに反発したふりをしつつ喜んでいる。髪を染めた生徒が黒くさせられたり、ピアスをとらされたりしている。市内の生徒指導をはじめ多くの教師が、こうしたA中学校の教師の努力を応援している。だが学校全体でなく部分的な努力だと見られている。
 「PTA総会のときも、生徒指導の先生にだけ責任を押しつけておかしいと思う。校長先生は一般的な発言ばかりで、自分のことはいわない」というのが父母の見方である。問題が起きたときは、校長が責任をとらずに担当教師になすりつける体質は変わっていないと見られている。
 校長経験者のなかでは、「学校での教育はチームワークをもってあたらないとできない。そのためには、校長が若い力をのばすために全身全霊でのぞむし、教師が問題を起こせば自分の指導の効果としてみずから謝罪にいく。校長が前線にいて問題にたちむかっていくべきで、弾が飛んできたら責任を教師に転嫁して自分は真先に逃げるというのでは、教育にならない」「校長と教師間の不団結を、子どもは敏感に感じとる。教師が子どものよさを認めてやる環境は、校長が教師を認めるなかではぐくまれる」「問題が起こったとき、隠ぺいするのではなく明らかにして、教職員、父母、地域がいっしょに考えようとするべきだ。また自分の指導に弱点があったとき、それを謙虚に受けとめて、自分を改めるべきだ。それではじめて子どもの将来に責任がもてるといえる」と話されている。
 地域のなかでは、先日開かれた地域の祭りのさい、A中学校の生徒数人がタバコやビールを飲んでいたが、そばにいたH校長がなにもいわずに放置していたことに疑問が出された。「校長にA中学校の生徒ではないかと聞くと“あれは家庭が複雑だから”といい、“でもいい子なんですよ”という。いい子ならなぜ、悪いことは悪いとしからないのか」と話されている。そういう生徒たちが、学校に行かずに街で遊んでいることで、学校に連絡すると「うちの学校の子かどうか証拠がない」という対応をされたとも語られている。
 同校長を知る人をはじめとする県内の教育界では、「校長のうつわでない」というのがあからさまな評価である。最近では「不適格教師」という問題が新聞でとりあげられる。校長の場合、女性教師の屋根裏に忍びこんで捕まった度はずれたケースがあったが、教育委員会の側から「不適格校長」というのはほとんど出ない。教育委員会の校長人事、教職員人事はどんな基準でやられているのかという問題である。
 新任の場合、通常田舎の小規模校を経験させる人事が常識となっている。しかし市内の大規模校、それも生徒指導のむずかしいA中学校を生徒指導の経験もないのに最初の赴任先としたことに、疑問が出されている。H校長がどうしてそのような異例の優秀な新任校長あつかいをされているのかという疑問である。また、H校長が教職員の抗議も無視して赴任後の2年間に15人もの教師を異動させ、とくに今年度は生徒指導のベテラン教師をほとんど異動させたことが、これまでつみあげてきた地域や父母、生徒との信頼関係をいっきに崩壊させたと指摘されている。どうしてそんなごう慢なことを強引にできるのかという問題である。
 教育関係者のあからさまな意見は、校長人事に発言権をもつ当時の市教委の学校教育課長がH校長の夫だったという関係である。亭主が女房を校長にするのにかかわっていたというのである。人が認める立派な教師だったら苦情も出ないが、そうとは受けとめられなかったから、その異常さが方方で語られているのである。

 民族の未来にかかわる問題
 校長の人事の問題は、校長個人の問題ではない。数百の生徒たちの魂と切り結び、その将来とかかわって、たとえようもなく重大な責任がある。学校はその地域があり、父母たちがおり、子どもたちがいて成り立っている。教育委員会があるから学校があるのではない。
 この社会は、正しいことが正しいとしてとおらないところである。そのことは子どもたちも知っている。学校だけは、正しいことが正しいとしてとおるというのでなければ学校ではない。学校の最高の責任者である校長の人事が、なんの基準で決まっているのかわからない。すぐれた教育者であるからではなく、それ以外の要素で選ばれる。多くの教師はそのような人事の枠のなかで運命を左右される。そして子どもたちは校長のインチキから、世間のインチキをまず教えられるというのではまさに荒廃である。
 来年の教職員人事も話題になる季節となった。教職員人事とくに校長人事を明朗、公正にすることは、下関のすべての子どもたちの将来、ひいては民族の未来とかかわってきわめて重要である。

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